1-6
通り魔が、止んだ。
いつから?
それは……。
「久長ー、じゃあなー」
「……あぁ」
掛けられる挨拶に一つ一つ返事をし、俺は昇降口を出た。気づけば、今日もまた一日が終わり……鐘は授業終了の知らせを鳴らしていた。
言い難い悲しみに包まれていたクラスの空気も、今はどうにか持ち直してきている。それがどこか健気のようにも──薄情のようにも、俺には見えた。
しかし、いつまでも引き摺っていられないことは事実だ。
生きている。人は生きている限り、時間を止めることは出来ない。
生きているからこそ、時間は続けられる。
生きているから──。
「っ」
そこまで思考を働かせ、俺はきつく奥歯を噛み締めた。
下校の空気に包まれた学校。そのグラウンドでは、いつものように運動部が各々の活動に励んでいる。
部員たちの掛け声を脳裏の片隅に響かせつつ、俺は考えを巡らせた。
昨夜の内海の言葉が蘇る。
生きている限り、続けられること。そして、光一が死んでから止んだ通り魔。
これの意味することは、一つだった。
「お、居た居た。おい、久長!」
「え?」
ふいに、前方から名を呼ばれ顔を上げる。
聞き覚えのあるそれは、出来ることならばもう会いたくない、と願っていた相手のものであり──そうして視界に捉えた人物を見るなり、俺は表情を苦々しいものへ変えた。
近江景綱。刑事と名乗り、以前俺を黒峰から救いだしてくれた男。
深みを帯びた青色が空を覆いかけ、グラウンド脇に設けられた外灯に明かりがぽつぽつと己の役割を果たし始めた頃。
清菱高校と掲げられた門柱に寄り掛かるようにして──その人物が、居た。
「んなあからさまに嫌そうな顔すんなよ。ちょっと傷つくだろ」
「……何しに来たんですか?」
「ん? おー。ちょっとばかし確認して欲しいことがあってな」
警戒心を剥き出しに問う俺に、苦笑混じりに駆け寄ってくると近江はジャケットの胸ポケットから何枚かの紙を取り出す。
相変わらず刑事らしからぬ、ラフな服装だな、と内心感想を零した。
そして近江の手に握られたものへ目を向けると、しっかりとした紙質のそれは、どうやら写真のようであった。
「……? 何ですか?」
「瀬野光一が最後に所持していた物だ。一応、確認してくれないか」
「なんで、俺が……」
疑問を口にしつつ、反射的に顔を逸らす。
もうかかわり合いにも……光一のことも考えたくはないというのに。
「お前しか、居ないんだよ」
「……っ」
「瀬野光一は高校に上がると同時に叔父夫婦と離れて一人暮らしをしてて、他に確認できる親しい人間といったら幼なじみのお前くらいだ。……嫌か?」
何かを推し測るようにこちらを見つめ、首を傾げる近江に、俺は渋々、写真に視線を落とした。
光一の服装、持ち物……確かに今となっては、俺しか分からないことも多いだろう。
衣服、財布、時計……一枚一枚に目を通していく。ほとんどが焼けてしまい、その残骸のようだがすべて見たことのある色や形のような気がした。
と、ふとそこで見覚えのある物が目に留まり、近江から写真をひったくるようにして奪う。
「どうした?」
「これ……」
訝しげな眼差しを投げてくる近江には応えず、俺はただ食い入るようにそれを見つめた。
それは、ブレスレットのようだった。
白銀の──。
脳裏を過るは、手首に巻かれた銀色に光るブレスレット。
「近、江さん」
「ん?」
「目撃された通り魔の情報って……分かりますか?」
信じたくはない、と。
願えば願うほど、真実は残酷に己の首に噛み付いてくるのだと、俺はこの後思い知らされるのだった。
「分かったぞ、これだ」
日も傾き始めた時刻。子供の姿もすっかり家の中へ消えた公園のベンチにて座り込んでいた俺は、その声に顔を上げる。
携帯でなにやら連絡をとっていたらしい近江は、手にしていたメモを見ながらこちらへ駆け寄ってきた。
「これが何か気になんのか?」
「はい、ちょっと」
近江の手からメモを受け取ると、俺は黙してそれに目を通す。
乱雑に書かれた、文字の羅列。目撃された、通り魔の特徴──それが、そこに書き出されていた。
髪の色、身長、身体的特徴。
一通り目を通し、そうして、気づく。
「………」
「久長?」
短く息を飲み込んだ俺を見て、近江が心配げに名を呼ぶ。
しかし、俺はそれには応えられなかった。
耳の奥で、内海の言葉が蘇る。
──あれだけ騒がれていた通り魔、止んじゃったわねぇ。
どくどくと心臓が早鐘を打つ。自然、強張る表情。ぎゅう、ときつく下唇を噛み締めた。
光一の死、止んだ通り魔、そして──
ぐしゃり、と。指先が震え、知らずメモの書かれた紙を握り締めた。
答えは、はじめから近くにあったのだ。
「おい、久長?」
「これ……この情報、間違いはないんですよね?」
「あ? ああ」
事件現場で目撃された、通り魔の特徴。
茶髪に、170~175㎝の痩型の男。
ああ、これが何一つ間違いでないのなら……俺が、想像している人物の影と、ぴたりと重なる。
日に透かされ、あたたかな光を放つ髪。昔は同じくらいの高さだったのに、中学に上がるなり俺より少し高くなっていった背。菓子ばかり食べていたのに、なぜか太ることはなかった身体。
ああ、全部、全部──記憶の中の彼の人と、一致したような、気がした。
「ひさな──」
「近江さん」
今一度、俺を呼ぼうとした声を遮り、近江へ向き直る。
「もう一つだけ、付き合ってもらいたい場所があるんです」
□ □ □
生活感が感じられぬほどに、小綺麗に整頓された部屋に、俺たちは立っていた。
白いカーテンが外界との世界を断つように窓にかかり、室内は濃紺の闇を徐々に受け入れようとしている。まるでどこか……人形遊びに使われるような部屋だと思えるほどに、そこは現実味がなかった。
唯一、誰かが暮らしていたと分かるものは、冷蔵庫の中に詰められた食材と、シンクに置かれた食器……そして、ハンガーにかけられたままの洋服であった。その他は本当に人が生活していたのかと疑ってしまうほどに潔癖だった。
一瞬、踏み込むことを躊躇ってしまうような部屋──そこに、俺は一歩、足を進める。
「おい、此処に何かあるのか?」
背後から届く戸惑いが滲み出た近江の声に答えることなく、俺は手当たり次第に棚や机の引き出しを開けると、中身を漁り始めた。
「なっ、おい、勝手に漁んなよ! 部屋の人間が帰ってきたらどうすんだっての!」
「……ここの部屋の人、もう長く帰ってきてないんですよね」
「あ? あぁ、確かそう言ってたっけな」
警察手帳を見せ、鍵を借りた際に大家がポツリと呟いていたことを思い出す。
この部屋の住人──真山実が、最近帰ってきていないようだ、と。
理由もろくに話さず、ただ実さんの部屋に入れてくれと、それだけを訴えた俺の言葉に従い、鍵を借りてきた近江は室内を見回しながら訳が分からないといった表情を浮かべていた。
「この部屋に、なんかあんのかぁ?」
「近江さん」
「ん?」
「光一を殺した犯人……まだ特定できていないんでしょう」
問い掛けなどではなく、断言する。
警察がどこまで掴んでいるかは分からないが、犯人を特定出来ていないことは確かだ。
「…………なんで、そう思うんだ?」
「怨恨として疑うならまずは被害者の身辺から。つい最近、光一と言い争いをして仲違いをしていた俺も疑われていたでしょう。けれど当日にアリバイがあり、証拠もない俺は当然容疑者から外れる。
他に怪しい人物が上がらないかと捜すものの、バイトや部活動などしておらず、クラスメイトとの関係も良好の光一の周囲に特に該当者は見当たらない。だから、ある一定の付き合いのあった俺のところへ来たんじゃないですか?」
チラリ、と視線を近江へ向けると、刑事らしかぬ容姿や発言を繰り返していた男は微かに動揺したように瞳を見開き──口元を綻ばせた。
「ご名答。ま、情けない話だけどな。今んとこ警察は何一つ真相を掴めちゃいねぇよ」
「……ARICEのことについて、でもですか」
ARICE──その薬の線から探していけば、また何か新たな事実が判明するのでは、と口を挟むも、近江はゆっくりと首を左右に振る。
「内海も言ってたけどな、ARICEについて探ってんのは俺一人だけだ。確証がなきゃあ、さすがに本部だって動かねぇよ」
「じゃあ、今警察は無関係な人間の犯行だと思ってるんですか」
「まあな。完璧にそうだとは思ってねぇが、その線も視野に入れてる。中には通り魔の仕業じゃねぇか、って言う奴も居るがな」
動かす手は休めることなく、苛立ち混じりにガリガリと頭を掻く近江に向かい、俺は短い言葉を投げつける。
それは確信にも似た感情から生まれた、一言であった。
「でも、近江さんはそうは思わなかった」
ピタリ。近江の動作が、不自然に止まる。
まるでその周りだけ空気が固まったような光景だった。
「たかが一般学生の言うことを聞いて、こんな他人の部屋に入るなんてこと、普通ならしませんよ」
「…………」
「近江さんは、ARICEが絡んでいると思ってるんですね」
畳み掛けるように言葉を紡げば、近江はやがて観念したように肩から息を吐き出した。
そうして、すっかり影が膜を覆った壁へと寄り掛かる。
「頭が切れるってのも考えもんだな。こっちは巻き込まねぇようにってしてたんだが」
「それならもう十分、巻き込まれてます……近江さんの考え、教えてくれませんか」
「…………」
沈黙。暫し、何かを考え込むように近江は閉口する。
闇が視界を隠そうとし、二人の間に壁を隔てようとしているようだった。
その向こうへ、俺は声を投げた。
「この部屋の人……実さんも、容疑者の一人にあがってるんでしょう」
返答こそなかったが、微かに、近江が身動いだ気配がした。
「光一が死んで、その身辺を調べたら隣人が失踪……疑うには十分な要素だ」
「…………が、確証も証拠もない」
「だから、俺には何も告げず、やりたいようにやらせてくれた」
瞼を伏せる。
指先で棚の縁をなぞれば、そこからこの部屋の主の姿が目に浮かぶようだった。
「俺の考え、だったな」
静かな声音が響く。
観念したような息を零し、近江はゆっくりと話し始めた。
「警察が瀬野光一の詳しい交遊関係が掴めない理由は、もう一つあるんだ。アイツの携帯電話が見つかっていない」
「携帯……」
「殺害現場にもろくに痕跡や手がかりがなかったしな。……しかも、丁度そんとき近くで通り魔が出たらしく、今、その通り魔の犯人を全力で追ってる」
「……身近な人、という線はどんどん薄くなってるということですね」
「まあな。一応、真山実を捜索すると同時に、瀬野光一の交遊関係をしらみ潰しに当たってはいるが……まあ、その限界もすぐに来るだろうし」
そこまで話して、近江は短く息を飲んだ。
「──俺は、やっぱりARICEが関係していると思う」
はっきりと芯の通った、声だった。
目の前が黒く染め上げられる中、それだけが静寂が包み込もうとしていた室内の空気を切る。
「まぁ、根拠なんかなくて、これは半ば俺の勘なんだが」
「だから、一人で行動を……?」
「言ったろ? ARICEについて探ってるのは俺だけだって」
言って、どこか自嘲気味の笑みを口元に浮かべると近江は宙を睨み付けた。
まるで、見えない敵を捉えるように──。
「警察と俺とじゃあ、明らかに目的や思考が違う。動くなら、俺一人しか居ない」
「……」
「瀬野光一が、あの薬と関係があると証拠があるわけじゃない。だが、俺は間違いなくARICEが関係していると、睨んでる」
それまで溜め込んでいた感情を一気に吐き出すように、息も荒く近江は続けた。
この人のこの見えない強さが羨ましいと、俺は少しだけ思った。
「じゃあ、近江さんは実さんは関係ないと思って?」
「それはまだ何とも言えないな」
「……そうですか」
瞳を逸らし、止めていた手の動きを再開させると背後から近江が笑みを含んだ声をかけてきた。
「……で、久長は何に気づいたんだ?」
「え?」
「俺にここまでさせた上に、話をさせたんだ。自分だけだんまりなんてことはないよなー?」
顔を上げ後ろを振り返り見れば、カーテン越しに注がれる月明かりの中、人の悪い笑みを見せた近江の姿が、そこにあった。
その言葉に、思わずビクリと身構える。
「さっきからなーに探してンだよ」
「…………」
「久長?」
肩越しに手元を覗き込んできた近江は、無反応の俺に、怪訝げな眼差しを向けた。
そして俺は──近江の問いに、答えられずに居た。
その時、気づいてしまったから。
「久長?」
何度目かの呼び掛け。
そこで、漸く俺は口を開く。
「無い物を、探しているんです」
「は?」
「おかしいと思いませんか? 携帯、財布、通帳、印鑑……全部置きっぱなしで、失踪するなんて」
「あ、あぁ……。確かに違和感はあるが……」
「そして、無いんです」
ぎゅう、と下唇を噛み締めた。
それは悔しさからか、憤りからか……。
脳内で飛び交う思考が、どうしても犯人を俺が信じたくはない人に、結びつける。
「死体は、焼かれていたんですよね」
自分でも驚くほどに、震えた声が口を割って出た。
ひょっとしたら、今自分は、泣き出してしまいそうな顔をしているんじゃないだろうか……。
考えたくは、ない。けれど、想像してしまった。
分かって、しまった。
近江へ振り向き、俺は静かに告げる。
「近江さん、お願いが、あるんです」