1-4
厚く重圧感のある鉛色の雲が、空を覆う。
分厚いコンクリートに囲まれた屋内から臨めるそれは、自分の居る場所も相俟ってか、鉄の箱の蓋のようにも見えた。
──狭い世界、とは己の身分もだけでなく、建造物の造りもそうなっているのではないだろうか。
脳内の片隅でふっ、とそんなことを考えつつ、設計通りの造りとなっている長方形の箱が連なったような廊下を、足を進めていく。
朝方特有のつん、と鼻をつく澄んだ空気に混じり、グラウンドからは運動部の掛け声が時折響いてきた。
登校してくる生徒たちの足音や談笑が溶け合う、清菱高校、二階廊下。
すれ違う友人たちと軽く挨拶と軽口を交わしつつ、俺──久長夕也は教室へと向かっていた。
「久長ー、おはよー」
「あ、おはよう」
「相変わらず眠そうだな、低血圧め」
「うるせぇよ」
低血圧、と揶揄された重たい瞼を懸命に持ち上げ、微笑しながら2-5と掲げられたプレートの部屋の扉を開いた。
空がうっすらとした暗さを運ぶ室内は蛍光灯が点されており、足を踏み入れるや否や、人工的な光が眼球を刺激する。それに少々不機嫌になりつつも、俺は己の席へと足を進めた。
「夕也、はよー」
「おはよ」
中身の少ない鞄を机脇に引っ掛け、椅子に腰を下ろす。
窓際に位置する己の席は、冬場は晴れていないとなかなかに特等席とも言い切れない場所だった。
クラスメイトと会話をするでもなく、席に着くなり俺は頬杖をつき、ぼんやりと窓の外を眺める。
今日は天気予報に目を通してこなかったが、この分だと雨が降るだろう。
肌から感じとれる湿気や、鼻腔をつく匂いから、予想をつける。
と、その後方で、一際楽しげな声が上がった。
「光一、はよ」
「おー、おはよ」
「お前風邪長かったね、いやぁ、俺はてっきりお前が例の通り魔にでもやられたのかと思っちゃったよ」
「光一君、どんくさいから」
「ちょ、それ心配じゃなくね? ただ俺のこと貶してるだけじゃね!?」
「今さらすぎるだろ」
ひでぇ! と光一が叫ぶと同時に、周囲から笑い声が零れ落ちた。
そうしてその会話に触発されたかのように、クラスの其処らかしこから「そういえば通り魔っていやぁ、また西区で出たんだってな」、「警察も一体何してるんだよ」などと声が囁かれ始める。
辺りを包むざわめきをBGMに、俺はそれらに混じることなく、ただ一人、外を眺めていた。
あれ以来、俺と光一は口を聞いていない。
──俺が光一の家から逃げ出してから、一週間が経っていた。
体のあちらこちらについていた傷から放たれていた熱も、もう大分引いてきていた。
それに伴い、だんだんと頭は冷静になっていき、心は凍りついていく。
ずっと、信じていたのに……。
光一のことは、誰よりも分かっていたつもりだった。
それこそ、光一を引き取った叔父さん夫婦よりも。ずっと、幼い頃から傍に居たのだから。
否、分かってはいなくとも、信じていた。
光一は、誰かを傷つけるような人間ではないと。
だからこそ、衝撃は大きかったのだ。
紅い陽光に映し出された光一の笑み、狂気が滲み出た、表情。全身に針を刺したような、微動だにも出来ない威圧感。身体中に戦慄を走らせる空気。
それらはすべて、アイツらと同じだった。
今まで自分に向けられていた笑顔も、言葉も、すべては偽りで──
光一は、俺を傷つけたアイツらと“同じ”ものなのかと悟った瞬間、畏怖や落胆にも似た感情の中に、吐き気がするほどの虫酸が走った。
──犯罪者。
近江にも、警察にも光一のことを連絡などしていない。
幼なじみだから、という感情からの情けではない。
ただ、俺はもう関わり合いになりたくなかった。
黒峰にも、近江にも──光一、にも。
「…………」
出来るだけ光一との接触を避け、視界にすらいれないようにして一週間。
それまで一緒に居た俺と光一が急に会話すらしなくなったのだ。さすがに、その異変に気づいたクラスメイトたちは何かあったのか、と心配そうに訊ねて来たが、本当のことを言えるはずもない。
俺はただ曖昧に「何でもない」と返していたが、光一がなんと答えて居るのかは知らなかった。
知りたくも、なかった。
「じゃあなー、久長」
「ああ」
HR終了後、挨拶をしてくるクラスメイトと別れ、俺は一人席を立った。
光一とともに帰らなくなってから、一週間。はじめは隣に誰かが居ない現実に違和感を感じたものの、今ではすっかりと慣れた。
厚い雲が漆黒を帯び始め、暗闇が景色にその存在を浸していく。
今にも泣き出しそうな空は、しかし幸いにも未だ一粒の涙も零してはいなかった。万が一、雨が降りだしたとしても常に鞄の中に折り畳み傘が入れてあるから大丈夫だろう。
(……そういや、新刊もう出てんだっけ。本屋にでも寄ってくかな)
特に部活に所属していない俺は、早めに家に帰宅しても時間を持て余すだけだった。
好きな本の最新刊が発売されていることを思い出し、俺は携帯のディスプレイに表示された時間を確認しながら、駅前に新しくオープンされた書店へと足を進めていく。
と、
「あー、夕ちゃん発見!」
昇降口を抜け、校門に差し掛かったあたりにて──
背後から届いたその声に、俺は反射的に顔を歪めた。
そうして、恐る恐る後ろを振り返る。
「ヤッホー、夕ちゃん! 待ちくたびれたよぉ」
「み、実さん……」
嫌、な、予、感、的、中。
糸目と称される眼を更に細め、嬉しそうに頬を緩める真山実の姿に、俺はひくりと口元をひきつらせた。
門柱の影に隠れるようにして、こちらに大きく手を振ってくる実さん──
その隣には、光一の姿が在った。
光一の肩を掴みながら傍に歩み寄ってくる実さんに、俺はつい後退りしてしまう。
「み、実さん……なんで此処に……」
どことなく実さんが来た理由を察しつつも、つい問うてしまう。
実さんと会うのは、あのゲームセンター巡りを逃れて以来だ。
冷や汗をだらだらと流す俺を見据えながら、実さんはにやりと口角を持ち上げた。
「そりゃもう決まってるでしょー? 前に出来なかった二十四時間耐久カラオケ! 付き合ってもらうよー」
「き、拒否権は……」
「先輩命令っ!」
尚も言い募ろうとした言葉をきっぱりと切り捨てられ、俺は諦めたように肩を落とす。
そうしてふと実さんの隣に視線を移すと、光一と目が合った。
久しぶりに見た光一は、俺と目が合うと苦い笑みを浮かべた……。
□ □ □
重く腹の底にのし掛かるような音が反響する店内──駅前カラオケ店。
本日が平日ということもあってか、若者の利用者は少ないらしいが幾つもある部屋からは、時折扉の合間を縫って誰かの歌声が漏れ聞こえてくる。立地的条件から予測すると、休日なら盛況に違いないだろう。
薄暗い照明が微かに照らす室内。人数が人数のため、狭い部屋をあてられたが騒ぐには十分の広さのである部屋──そこでは、先刻からギャルゲーに使われているらしい曲を実さんが一心不乱に熱唱していた。
「しゅらちゃん萌えぇえぇ! さあ、光ちゃんもテンション上げて叫ぼうぜ!」
「は? え、いや、しゅらちゃんて誰?」
「ああああん、どうしよう夕ちゃん、しゅらたんと結婚したくて現実がつらい」
「戻ってきてください、実さん」
曲が終わり、息も荒くマイクを置く実さんに辛辣に返し、ジュースの注がれたコップを手渡す。
それをありがとう、と言ってから受け取ると、実さんは一息に飲み干した。
「はぁ、もうしゅらちゃん本っ当に可愛い。ちゅうしたい」
「重症だ……」
「分かってない! 夕ちゃんも光ちゃんも、しゅらちゃんの魅力を全っ然分かってない! 強気に見せかけて意外とピュアな幼なじみキャラの破壊力を知らないだろ!」
「知りたくもないです」
はぁ。
普段はおちゃらけた口調の実さんが、感情的に熱弁を振るう。これは暫く逃げられないな、と堪らず溜め息を吐くと、実さんを挟んだ一つ隣から同じように吐息が聞こえてきた。
え、と顔を上げてそちらを見ると、同様に光一も俺へ瞳を向けてくる。ぱっ、と視線が宙でかち合うと、俺は勢いよく顔を逸らした。
一瞬間、流れる気まずい空気。しかし、それは俺と光一との間だけであった。
テンポの良い曲調が、俺と光一の間に走った沈黙を打ち破っていく。
同時に、マイクを手に取った実さんの歌声が室内に反響していった。
もう何曲目になるのかすら分からない、実さんの一人リサイタル──延々と続くギャルゲー、アニソンメドレー──に俺は内心既に辟易としていた。
ただでさえ、もう顔もあわせたくない光一と同じ空間に居るのだ。帰りたいという気持ちは軽くメーターを振り切っていた。
せめてあまり近づかないようにと、光一との間に実さんを挟み、俺は比較的出入口に近い場所に腰かけていたのだが──
「あ。もうドリンクないや。夕ちゃん、一緒に取りに行こー」
「はぁ!? なんで俺が……」
「だぁって、夕ちゃんのも光ちゃんのもないじゃん。ついでについでに。あ、光ちゃんは残って荷物見ててねー」
「え、あ、はい……」
出入口に近い位置に居たことが災いしたのか。
呆然として頷く光一を尻目に、実さんに急かされて立ち上がった俺は、半ば引き摺られるようにして部屋を後にしたのだった──。
電灯が切れかけている蛍光灯が、チカチカと放つ合図が眼球を刺激する。
室内での熱気や騒音が嘘のように、廊下はしぃんと静まり返っており、まるで別世界に迷い込んだかのような感覚だった。
いつの間に三人分のコップを持ってきていたというのか。
ドリンクバーと英字で掲げられたプレートの下まで来ると、丁寧にも片手でコップを持っていたらしい実さんは、そこで漸く俺を解放した。
平日のため、今日は客も少ないらしい。ドリンクバーの辺りには人の気配がなく、奥に居るのか、受付にも店員の姿がなかった。
「夕ちゃん次なに飲みたいー?」
「別に、なんでも……」
「じゃあミックスしちゃえー」
「じ、自分でいれますっ!」
実さんの発言に慌て、ひったくるようにして自分のコップを奪うと、俺は肩から息を吐き出す。
あ、危ない……。この人なら本当にやりかねないから……。
警戒する俺の反応がつまらないのか、実さんは唇を尖らせると拗ねたような表情を見せた。
「ちぇー。ならいいよぉ。自分のミックスするからさぁ」
「ええ、もうぜひ、そうして下さい」
「つれないなぁ。あ、夕ちゃん、光ちゃんのいれてあげてねー」
「え……」
手際よく自分のコップに飲み物を注いでいく実さんの口から紡がれた名に、俺は思い切り顔を歪めた。
しかし、実さんにはそんな俺の呻き声が聞こえなかったのか、一度もこちらを振り返ることなく鼻歌混じりに準備をしていく。
(ああったくもう、適当に入れるか)
内心投げやりな心境になりつつ、俺は適当に飲み物を選ぶと手早く光一のコップへと注いだ。
そうしてボタンを長押ししている俺の後ろで、一足早く飲み物のミックスを終えたらしい実さんが壁に寄りかかり、ストローで中身を掻き回し始める。
カラコロ、と氷の揺れる音がした。
「コーラとメロンソーダとオレンジジュースのミックスってヤバいかなぁ? 俺としゅらちゃんの好きな飲み物を混ぜたんだけど」
「炭酸が主じゃないですか。そりゃヤバいだろ」
「えー。だって好きなんだよー」
シャラ。実さんの腕につけられたブレスレットが、静かに鳴く。
まるで子供のように拗ねた口ぶりと態度で、実さんはドリンクに口をつけると、そこで一息吐いた。
後方から小さく上がる「不味い」という声に何の反応も示さず、俺はコップを満たしていく澄んだ色の液体をただじいっと眺めていた。もうこのくらいの量でいいかな、とボタンから指を離す──
と、
「夕ちゃん、俺はねー、しゅらちゃんがもう大っ好きなんだよー」
「それは知ってま──」
「夕ちゃんはさー……光ちゃんのこと、嫌い?」
ピタリ。ボタンから離し掛けた指が、空中で止まる。
双眸が大きく見開かれ、表情が、固まった。
「え……?」
どくん、と一つ心臓が大きく跳ねる。
あまりに、核心を突かれた問いだった。
気づかれた?
別段隠すつもりもなかったのだが、先刻までの実さんの様子からは、俺たちの関係を気にした風も見られなかった。……はず、なのに。
「……いきなり、どうしたんですか?」
後ろをまともに振り返れぬまま、強張った声で訊ね返す。一方、そんな困惑している俺の心境を知ってか知らずか、実さんは「んー」と唸ると、喉に何か違和感を残したような声色でぼそぼそと話し始めた。
「だぁってさぁ、夕ちゃんも光ちゃんも、さっきから俺とばっか話して、お互い口きいてないじゃん」
「う……」
「どことなく二人ともギスギスした雰囲気だしぃー? 目も、合わせたりしないしさ……」
がじり。
実さんが歯を立てたストローが、小さな悲鳴を上げた。
「なぁんか、あったのかなーって」
「…………」
咎めるでもなく、問い質すでもない。静かな、柔らかい声音。
それが余計に、俺の喉を詰まらせた。
「喧嘩とか、しちゃった?」
「そ、れは……」
なんと、説明をすればいいのだろうか──。
思わず言い淀み、目を泳がせる。コップを握る手が、震えた。
不自然に口を閉ざした俺をどう思ったのか、実さんは暫し舌先でストローを遊ばせると、やがてゆっくりと言葉を吐き出した。
空調のきいた廊下。今にも消えてしまいそうな照明。無音とまではいかないが、どこまでも静かな景色。遠くから鳴り響く流行の曲が、今はどこか場違いのように感じられた。
それらすべての雰囲気を壊さない、目には見えない何かに浸透するような声で、実さんは語り始める。
「俺はねぇ、夕ちゃんと光ちゃんが好きだよ?」
「実さん……」
「そりゃあもちろん、ぜっーたいずぅっと仲良く、なんて無理な話だとは思うよ? 人間なんだし。誰しも嫌なところだってあるだろうし。それで傷つくときもあるけど。でもさぁ……」
そこで一旦言葉を切ると、実さんは伏せていた瞼を持ち上げ、瞳を俺へと固定した。
「それでお別れーなんて寂しくない? 長年一緒に居た幼なじみなのにさ」
「でも……」
「光ちゃんねぇ、寂しそうだったよ」
「っ……!」
実さんから告げられた思わぬ台詞に、俺は短く息を飲む。
脳裏を過るは、目が合う度に向けられる、光一の困ったような笑顔だった。
「あの光ちゃんが珍しく元気ないなぁって思って声かけてみたら、光ちゃんは「なんでもない」、なんて言うし」
「……」
「喧嘩しちゃった理由とか、俺は分かんないけどさ……出来れば、二人には仲直りしてもらいたいかなぁ、ってさ。まぁ、言いたいことはそれだけなんだけれども」
独白染みた言葉を吐露すると、実さんは手にしていたコップの中身を一気に煽った。
不可思議な色をした液体が口内に吸い込まれていき、実さんの喉が上下する。同時に、「やっぱ不味っ」と、率直で苦し気な感想が俺の耳を打った。
「ぷはっ……うぇえぇ、不味い」
「うん……まずい、ですよね……」
「うん……まっずいね……」
カラン、と。
実さんの手中にある、透明な容器の中に残された氷が、悲しげに鳴いた。
勝手なことを言わないで下さい、や。もうアイツと友達で居るなんて無理なんです、や──返そうと思えば、いくらでも理由をつけて返せたはずだった。
──けれど。
「夕ちゃんと光ちゃんが喧嘩したままだと、俺も寂しいよ」
細められた眼に、歪められた口元。
確かに、こんな状態の俺達の傍に居たところで誰もいい気分にはならないだろう。
ひょっとして、クラスメイト達も実さんと同じような気持ちだったのだろうか。
俺が光一を避けはじめてから、何かと声をかけてきてくれていた友人達の姿を思い出す。
すると、少しだけ、切なくなった。
「……俺、先に部屋に戻ってます」
二人分のコップを手に持ち、俺は実さんに背を向け足を進めていく。
それだけで何かを悟ったらしい実さんは、小さく笑みを漏らすと「うん」と相槌を打ってから空の容器を掲げた。
「俺は今度は失敗しないよーに、ゆっくり選んでミックスしてから行くよぉ」
「いや、ミックスはもうやめて下さい……」
一度だけ実さんを振り返り、俺は苦笑を浮かべると、彼の二度目の挑戦を止めたのだった……。
中心に硝子の入れられた扉が、キィ、と甲高い音をたてる。
濃紺の闇が四隅に息づく室内は、カラオケ機器から零れ落ちる唯一の明かりが、ぼんやりとした輪郭を型どっていた。
その中へ、一歩、足を踏み入れる。
どこかぼう、とした表情で画面を眺めていた光一は、戸の開く音に気づくとハッ、としてこちらへ視線を向けてきた。
「あ……」
「……」
何かを言いかけ、口を開きかけた光一から顔を背け、俺はテーブルの上へ二つコップを乗せる。
それを視界に入れた光一が、反射的に慌てて小さく頭を下げた。
「……サンキュ」
「ん……」
礼に短く頷き返してから、俺は光一の隣に腰を下ろす。
と、光一は少し驚いたように微かに身動いだ。
「…………」
「…………」
──無言。
いつもならば、光一が沈黙に耐えきれずに声をあげるはずが、今はそれもない。
どうするか……。特に考えもなく行動した俺は、一人頭を悩ませていた。
そもそも、光一と二人きりになって今さら何の話をしろと言うのだろう。
実さんの話にほだされて来てしまった感が否めないのだが──しかし、俺には俺の考えがある、と思い直した。
そして、ゆっくりと口を開く。
「なんか……久しぶり、だな……こうやって顔合わせるのが」
「ん? ……うん」
「俺が避けてた理由は……分かってる、だろ?」
暈しもせず、誤魔化すこともせず、あえて核心を突いた。
それはひょっとしたら、まだ心のどこかで光一を信じていた部分もあったからかもしれない。
冗談だよ、と。
いつものように笑って、嘘だよと口にして欲しかったのかもしれない。
だが──。
「うん、分かってる」
光一から放たれたものは、“肯定”であった。
分かっていた、はずだった。
もし、光一のあの言葉が嘘か何かだったのなら、俺が避けていた時点で否定をしていたはずだと。
分かっていた、のに……。
「な、んで……、なんで、なんだよ……」
胸の奥底からふつふつと込み上げてくる感情に、俺の声は自然と険しいものになってくる。
神経質そうに前髪を掻き上げると、指の合間から覗く光景が、歪んで見えた。
薄い水の幕が、俺の眼球を包んでいた。
「光一……俺は、せめて、みんなの前では、前みたいに……していたいって、思ってる……」
「…………」
「でも、もう……お前の何を信じて、話せばいいのか……笑えばいいのか、分からない」
──犯罪者。
そう分かっても、今こうして二人きりの空間に居られる理由は、やはり昔から積み上げてきた関係があるからなのだろう。
だが、それすらも信じられなくなったとしたら、俺はどうすればいい……? 今までが、全部、嘘なのだったなら……。
「なんで……光一……なんで、お前が犯罪になんか、手を染めたんだよ」
「……夕也」
「なんか……どうしようもない理由とか、あったのか? でも、だからって、こんなことしたって、何の意味もないんだぞ……!?」
胸中を渦巻く激情の炎に焼かれ、段々と荒くなる口調。
俺の知る光一なら、自ら進んで犯罪に手を染めるはずがない。
何か、何かしら大切な理由があったのかもしれない。
もしそうなら、俺はまだ光一を信じられる──。
俺の知る、光一のままだから。
「お前が、している事で、苦しんでいる人だって、居るんだ……、それが分からないほど子供じゃあないだろ……?」
狂気を内に潜めた人間。
あれを生み出した物に、光一が少しでも関係していたと思うと、ゾッとした。
──戻ってきて、欲しい。
理由があるなら、聞く。
何か困っていることがあるのなら、俺は力になりたい。
俺は、光一に、戻ってきて欲しかった。
心配をしてくれた実さん、クラスメイト達──皆も、以前の俺達を望んでいるはずだ。
だから、こそ。
俺はあえて、厳しい言葉をぶつけようと思った。
「犯罪者になったって、誰かを傷つけるだけだ……! ARICEだかなんだか知らないけど、あんなものに、お前が囚われることなんて、ないだろ……!」
「……夕也」
「なにか……理由があるなら、力になる。でも、どんな理由があるにしたって、今の、お前のやり方は、間違えてる……っ!」
感情が昂るままに、俺は言葉を投げつける。
言いたいことが上手くまとまらない。
ただ、一つ願うことは──俺は、あの狂った世界と光一とを、引き離したかった。
赤い瞳、向けられる殺意、黒峰──いつ、どこで、誰に殺されるかもわからない世界。死を間近に感じる場所。
その中に、光一を、置いておきたくなんてなかった。
だが──。
「夕也」
「光一……」
はっきりとした声音で、名を呼ばれる。
ハッ、としてそちらへと目を向け──俺は、身を強張らせた。
冷たい、双眸。
今まで光一から向けられたことのない、明らかな嫌悪感を秘めた眼差し。
次いで告げられた言葉に、俺は頭から冷水を浴びせられたような衝撃を受けた。
「──なんで、お前にそんなこと言われなきゃならないんだよ」
「光、一……?」
ひどく、冷めた声。
だが、そこには明らかに、俺に対する苛立ちが込められていた。
「何か理由があるなら力になる? どうせ大したことも出来ないくせに、言うことだけは昔から立派だよなぁ」
は、と短く息を吐き出し、光一は口端を歪ませる。
それはいかにも、この会話すら馬鹿らしい、と言いたげな表情だった。
「第一、俺の意思でしてることだったらどうするんだよ? また軽蔑して離れるのか? 夕也は昔っからそうだな。いつだって自分の保身のことしか考えていなくて、自分勝手でさぁ……」
畳み掛けるようにつらつらと紡がれていく言葉たちに、俺は喉をひきつらせる。
今までに見たこともないような、光一。
これが、本当の光一? 光一の、本心──?
ずっと、こんなことを考えていた……?
「ああ、でもな、なんで夕也が俺に対してそう言うのか……俺は知ってるし、分かってる」
「え……?」
目線を合わせるように屈むと、光一は俺に対してにこりと、笑んだ。
──それは、どこか嘲りを含んだ笑みだった。
「自分の兄にコンプレックスがある夕也は、見下せる人間が──“可哀想”な俺が、居なくなるのが嫌なんだろ?」
「そんなこと……っ!」
「今さら嘘なんかつくなよ。何でも完璧にこなせる十六夜さんに対して、誰からの羨望も注がれない、興味も抱かれない、ただ、比べられる“可哀想”な夕也が……っ! 唯一見下せる相手が、家族もいない“可哀想”な俺しか居ないから、ずっと傍に居たくせにっ!!」
「──っ、黙れ!」
バシャンッ! 奥歯を噛み締め、激情に流されるまま横に置かれていたコップを手に掴み、その中身を光一へ浴びせた。
ポタリ、と色素の薄い光一の髪から、水滴が滴り落ちる。氷が、悲鳴を上げて床に叩きつけられた。
はぁ、はぁと荒い息遣いだけが室内に満たされる。
俺の中でずっと隠していた何かの琴線に、触れた気がした。
「ふざけんなよっ、俺は、お前を守るために、殺されかけたり、したんだぞっ!? 最後まで、お前を、信じていたのに……っ! 裏切ったのは、お前の方だろ! 最低なことして……人間の屑にまで、成り下がったくせにっ! ああ、そんなお前を守ろうとした俺が馬鹿だったよ!!」
どろどろとした感情が、溢れ出す。押さえられない衝動が、喉を突いて黒い激情を吐き出させた。
胸の中を焼きつく憤怒の炎が、正常な思考を奪っていく。
「何が守ろうとした、だよ。まあ、言うのは勝手だよな。その時はそんな気がなくても、後からどうとでも言えるし」
「……うるさい」
「結局は、自分の自己満足のくせして」
「うるさいっ、うるさいうるさいうるさい、煩いっ!」
黙れ黙れ黙れ黙れ──!
今すぐにその口を閉ざしてやりたくて、俺は光一の声を遮るようにテーブルに拳を叩きつける。
しかし、光一はそれに少しも臆した様子も見せずに、ただ淡々と呟いた。
「──偽善者」
かあっ、と一気に頭に血が上った。
眦が裂けんばかりに双眸を見開くと、俺は光一の頬を思い切り殴りつける。
「消えろ、消えろ消えろ消えろ消えろ……っ! お前なんか、俺の前から消えちまえっ!!」
冷静な光一の声が、俺の神経を更に逆撫でした。
罵声を浴びせ、音を立てて椅子から立ち上がると、俺は脇目も振らずに部屋から飛び出す。
背後から光一の「ガキかよ」という呆れたような言葉が聞こえた気がしたが、俺が後ろを振り返ることはなかった。
それが、俺──久長夕也と、瀬野光一が交わした最後の会話であった。
□ □ □
光一と初めて出会ったときのことは、あまりよく覚えていない。
ただ、光一を引き取った叔父夫婦と知り合いであり、転校してきた学校が同じだった──それだけの、接点だった。
(でも本当に、それだけだな)
同じ学校、同じクラス。だがそれも、会話すらなくなればあっという間に切れる関係だった。
時間が経つにつれ、俺の中から光一の存在はどんどんと薄れていき──教室でも互いに話すどころか、視線すら合わせない俺たちを、周囲も徐々に受け入れ始めていた頃だった。
家の電話がけたたましい音ともに、その知らせを運んできたのは。
──呼び出し音が家中に鳴り響く。その日、自宅のリビングで寛いでいた俺は、玄関脇に置かれた電話を母親が取る気配を遠くで感じつつ、手元の雑誌に意識を向けていた。
特に、気にも留めていなかったのだ。
しかし、それを打ち破ったものは、慌ただしい足音と母親の悲鳴に近いような叫び声だった。
「ゆ、夕也、夕也っ!」
「わっ、どうしたの? 母さん」
血相を変え、部屋に飛び込んできた母親は、蒼白い顔色のまま俺を見るなり体を震わせる。
その尋常じゃない様子に、俺も一体何事か、と瞳を見開いた。
「母さん……?」
「ゆ、夕也……」
「うん?」
母親の傍に駆け寄り、一先ずは落ち着かせるように背中を撫でる。
しかし震えが収まることはなく、母親は片手で口元を覆うと、荒い息の合間からただ、俺の名だけを何度も呼んだ。
カチコチ、と棚の上に置かれた時計が、針を動かしていく。窓外に平等に降り注ぐ陽光は、美しい輝きをその全てに与えているというのに、室内は不思議と暗いように感じた。
横顔から窺える母親の頬は白く、まるで血の気が抜き取られてしまったかのようだった。
一体、どうしたのだろうか。
たった一本の電話で、母親がこんなに取り乱すなど、といぶかしんでいると、やがて彼女はぽつりと一言、言葉を吐いた。
「光、一君が、死んだって……」
「え……?」
秋の彩りがすっかりと世界を包み込んだ、ある日のことだった──。