1-3
「近江さんたちは、なんで、光一が売人だと思ったんです?」
四六時中一緒に居るわけじゃない。けれど、幼い頃から一緒に居る俺には、光一が怪しまれる要素なんて少しもないように思えた。
何か悪い人と関わったりとか、夜遊びをしていたとか……思い付く限りの要素となりえそうなものを考えてみるが、どれも光一からはかけ離れている。
ならばなぜ、と首を傾げる俺に、近江ではなく内海が答えた。
「そうね……さっき、ARICEについて軽く説明をしたけれど……本当に、そんなものがあるかどうかすら、掴めていないのにね」
「え?」
ARICEが存在するかどうか、分かって、いない?
内海からされた告白に、俺は驚愕に顔を染めていく。
次いで近江に目を向けると、彼は仏頂面を浮かべ、内海を睨み付けていた。
「ARICEを服用し、人を殺したと名乗る人たちを調べても、その証拠が出ないのよ」
「そんなこと……」
「信じられないわよね? 私もそうよ。けれどこれは事実。ARICEとはいったい何なのか、全く分からないまま──警察内部ではもうそんなもの、都市伝説か何かじゃないかっていう扱いよ」
強張った表情で話す内海の顔色は、まるで幽霊でも見たかのようなほどに白い。
本当に存在するかどうかすら、分からない、もの?
もし、そうなら俺はそちらを信じたい──けれど、実際に、黒峰は……服用者は、居るじゃないか。
「調べても調べても、何も出てこなくて。結局、警察内でARICEについて追っているのなんて、近江くらいなんだけど……」
「──ARICEは、存在する」
どこか疲れたような内海の言葉を打ち消すかのように、強い口調で近江ははっきりと宣った。
「絶対に、その薬は存在すんだ。夢でも幻でもなく、絶対に。んな幽霊みたいなモンで、人を殺せるわけがねぇ」
妙に確信を持った、芯の通った声で断言をする近江に、俺は瞠目する。
彼の信じられる根拠が、俺にはとても理解出来なかった。
その俺の気持ちを代弁するかのように、内海がやれやれと言った態度で茶々をいれる。
「……と言った感じで、コイツは全く話を聞かないのよ。ただあるあるって言い張って、たった一人でARICEを追って」
「……うるせぇな」
「なーにがうるせぇな、よ。おかげでアンタは警察内部じゃ浮いてるじゃない。友達もろくに居ないくせに」
「うっ。ううううるせぇな!」
ARICEに対する確信──
それを持った上で、近江は言い切っている。
頬を紅潮させ、内海と軽口を叩き合う近江を盗み見ながら、俺は眇目した。
ARICEが実在するかしないか、なんて、正直どうでもよかった。
俺の平穏を、日常を壊してくれさえしなければ、赤の他人がどうなろうとしったことじゃあない。
俺の世界に、干渉さえしなければ、どうだっていいんだ。
妙に冷めた思考で、しかし本能に忠実に、深い色を宿した黒瞳で世界を──近江たちを、視る。
「ARICEが存在していても、していなくても──光一は、関係していない」
ぎゃいぎゃいと言い争いを続ける近江たちに向かい、それだけをはっきりと告げた。
刹那、静まり返る空気。
二人の視線が一身注がれ──心臓がバクバクと音をたてた。
しかし、俺は言ったことを覆すつもりはない。
「……まあ、信じる信じないは自由だっつったしな。お前がそう思うなら、いいんじゃねぇか」
ぽつり、と。どこかこうなることを解っていた、と言いたげな表情でそう零した近江は、「だがな」と強く言葉を放ち、俺へと向き合う。
鳶色の鋭い眼光に見据えられ、俺は身をすくませた。
「信じる信じないは勝手だ。だけどな、俺たちの邪魔だけはすんな。もしそんな真似をしようものなら、お前を殺すことになる」
「な……っ」
「それがお前を見逃す条件だ。いいな? 変なことはすんなよ」
強く上目線から言われ、俺は己の置かれた立場を自覚する。
光一のすぐ傍に居る俺に、わざわざ手の内を明かすようなことをしたのは、本当に予定外だったのだろう。疑いのある光一に、何かを言おうものなら、今度こそ俺は殺されるに違いない。
理性を失くした紅い瞳を思い出し、俺は肩を震わせた。
「貴方が信じないと言うのなら──ここであったことは、悪い夢だとでも思って、お家に帰りなさい」
誰にも言っちゃ駄目よ? ──すう、と頬を指先でなぞり、妖しく笑んだ内海に、俺は小さく……一度だけ、頷いた。
それからは、どうやって帰ったのか──近江が途中まで送ってくれた気もするが──全く記憶になかったが、気づいた時には俺は家の前に佇んでいた。
──ああ、帰ってきたんだ。
じんわりと胸中に広がる言い様のない感動に、自然と手足が震えてくる。
堪らず、すっかり暗い闇に落ちた景色を視界一杯に収めながら、門扉を潜り、玄関へと身を滑り込ませた。
「た、だい、ま……」
ぎこちなく発した小声を、家中へと投げる。
すると、軽快な足音とともに、母さんが奥からひょこりと顔を覗かせた。
「夕也、お帰りなさい。遅かったのね」
「光一……の家に、見舞いに行ってたから……」
「そうなの? お見舞いって……光一くん、風邪でも引いちゃったのかしら?」
「あ、ああ、そう、みたい」
幸い、顔には怪我がないためか、母さんには全く気づかれなかった。
光一が風邪をひいたという話に、心配げに表情を曇らせる母さんに見つからないように、ひっそりと息を吐き出す。
唐突に、日常に帰ってきたんだ、と。
理解すると同時に、肩から力が抜けた。
刹那。
「──夕也?」
奥の部屋から飛んできた声は、俺の表情を一瞬にして凍らせた。
「おかえり」
変わらず抑揚のない声音で、しかしどこか柔らかい雰囲気で、俺を迎える兄──十六夜。能面のように感情の切れ端すら見せない十六夜の顔を見ないように、俺は視線を床へと注いだままでいた。
「今日は十六夜も、夕飯食べていけるって。夕くんも、早く手を洗っていらっしゃい」
久々に家に息子が帰ってきて嬉しいのか、弾んだ声でそれだけを言い残すと、母さんは颯爽と台所へと姿を消していく。 それを見送り、俺も母さんの後に続こうと十六夜の横を抜けようとした。
と、
「……夕也」
腕が引かれる感覚とともに、カクン、と体が前後にぶれる。
十六夜を振り返り見れば、俺の手首を白く長い兄の指先が捕らえていた。
「何……」
「──これ、どうした?」
これ──そう示す十六夜が見つめる先にあったものは、制服の裾から覗く包帯。
瞬間、ギクリと肩を跳ねさせた。
まさか、バレるとは思っていなかった。
「こ、れは……」
「……何か、あったのか?」
つい俯いて言い淀む俺を気遣うように、十六夜は小首を傾げて優しく問う。
何の感情も映らない、作り物のような綺麗な顔。どこか一枚、壁を置いたところから見ているような、観察しているような眼差し。生まれたばかりの赤子がそうするような、純粋な問いかけ。
瞬時、そのすべてが、勘に障った。
心の奥底から、ふつふつと沸き上がる黒い思い。
何も、知らないくせに。
たったそれだけの仕草に、俺は何故か無性に腹を立てた。
「十六夜──放せ」
たった、一言。
棘も鋭さもない、妙に冷静な声をぶつける。自分でも、どこから出したのか分からない声──しかし、気分は不思議と醒めていた。
と、珍しく驚愕に顔色を染めた十六夜は、反射的に手を放した。
同時に、俺は素早くと踵を返すと十六夜に背を向け、二階への階段を上がっていく。
「夕……」
背後から十六夜が何か言いかけた気配がしたが、俺は振り返ることはなく。
十六夜だけでない、自分の身に起きたすべてを拒絶かのするように、思い切り扉を閉めた──。
□ □ □
「本当に、アイツ、なのか──?」
暗闇が室内を角までとっぷり沈める時刻。
暖色の光がカウンターテーブルに置かれた手元を照らし、グラスに注がれた紅い液体の影が揺れる店内。クラシック曲がBGMとして流れるそこは、時折空調の音が響いていた。シックな造りとなっている店の中は意外と小さく、客席が数席設けられている。
時間帯のためか──“場所”のためか──現在、埋まっている席は少なく、唯一人影があるのは、奥に位置するカウンター席だけであった。
席に深く腰をかけた男は、隣に座る人物に控えめに問う。
その声には、明らかに拭えきれない不安が、含まれていた。
「俺が、信じられねぇのか?」
男の態度に、問われた方は心外だ、と言わんばかりに口の端を歪ませた。
がりっ、と。つまみとして咀嚼していた──この店の雰囲気としては凡そ不似合いな──野菜スティックが、奥歯で音を立てた。
「そういうわけじゃねぇ……けどよ。どうも腑に落ちねぇっつうか……。第一、お前はなんであのガキが売人だと思うんだ?」
黒峰。男の唇が、微かに怒気を発する人物の名を紡ぐ。
男──近江景綱は、戸惑っていた。 黒峰が襲った青年の言葉もそうだが、瀬野光一という人物が売人という確たる証拠がない。
唯一の手がかりと言えば、黒峰の証言だけなのだ。それだけで、一高校生を売人などと……どうして、決めつけられようか。
疑念を抱いた眼差しで黒峰を射抜くと、白銀色の髪を橙色の光の下へ晒した青年は、重い口を開いた。
「…………俺が、あの悪魔の声を聞き間違えるはずがねぇ」
悪魔──。
そう語る黒峰の顔色は室内の照明のためによく伺えないが、血色の良い肌は常より白く見えた。整った眉も今は苦し気に歪んでおり、辛いのか怒りを堪えているのか──瞳がきつく閉じられており──傍目には分からなかった。
その黒峰の様子に、つい近江も口ごもる。それは普段の彼からは、とても想像出来ないような表情であった。
「くろみ……」
「言い切ってやるよ。絶対に、アイツだ」
はっきりと、言い切られた台詞。
強さを秘めた、開かれた眼。その奥に隠された激情の炎を感じ取り、近江は小さく息を飲んだ。
黒峰の信じるものとは、既に真っ当な理論などではなく、自分自身なのかもしれない、と近江は察する。
──過去が、そうさせたか。
脳裏を過った思考に、険しい顔つきを浮かべると、近江は苦々しいものを嚥下するように、一気に酒を煽った。
□ □ □
「あ、夕也、光一のやつ元気だったか?」
翌日──
傷つき、痛む身体を引き摺って登校した俺を出迎えたのは、クラスメイトの第一声である質問だった。
HR前の騒がしい教室。落ち着きなく雑談が飛び交う合間を掻い潜り、己の席へ着くなり話し掛けてきたクラスメイトに対し、俺は思わず視線を泳がせた。
「ああ、うん……」
実際は光一のところへ見舞いに行ける場合じゃなく──行けもしなかったのだが、とりあえず俺は曖昧に頷いておく。
光一は、今日も休みらしい。
その返答に、訊ねてきた友人はそうか、と微かに安堵した表情を見せた。
「今日も光一の見舞いに行くんだろ?」
「……ああ」
「あんま無理すんなよって伝えといて」
光一一人暮らしで心配だからな、と。
苦笑を口元へ乗せたクラスメイトは、それだけを言い残すと自分の机へと戻っていき。同時に、前方の扉が開き担任が姿を現した。
瞬間、それまで喧騒に包まれていた教室内は一気にしぃんと静まり返り、各々に話し込んでいた人達は蜘蛛の子を散らすようにそれぞれ席へと着いていった。
(また、見舞いに行く、か……)
当然のように掛けられた言葉が、胸中でぐるぐると黒い尾を引き渦を巻く。
今朝早く、母さんに光一の様子を看てくるように頼まれた事を思い出した。
幼なじみだからこそ、か。
行かなければいけないことは確かだ。
だが──
「…………」
本来居るべき人の姿がない机を横目で捉えながら、俺は複雑に顔を歪めた。
どこか遠くで、始業の鐘が鳴り響いた気がした──。
森都西区──
都心部に近いそこは、東区のオフィスビルなどに比べ、マーケットや住宅地が密集している。隅々まで舗装された道や地域と密着したサービスを目的としているためか、介護施設なども充実しており、東区とは全く違う活気を肌で感じることが出来る。
都会に珍しく、人と人との絆が見てとれる西区──その中を、俺は一人足を進めていった。
日が傾ぐ時刻。目に映る風景はすべて橙色に染まり、じんわりと切ない余韻を残していく。
幼子の手を引く母親や、友人と談笑しながら帰路につく女子高生たちの姿を横目に、俺は沈痛な面持ちで光一の家へと向かっていた。昨日の近江たちの言葉が、未だに耳の奥で反響し、どうしても思考を支配する。
──瀬野光一は、ARICEの売人。
あの場では信じない、と強気に返しはしたものの、実際心はぐらぐらと危うい均衡を保っていた。
果たして光一の顔を見て、いつものような態度で居られるだろうか。
道脇に植え付けられた街路樹が木陰を作り、俺の頬を暗く染める。
今更ながらに聞かなければよかった、と思う自分は本当に情けないと感じた。
キシキシと悲鳴を上げる全身。
光一を顔をあわせて、責めないという自信がないのだが──
(難しく考えても仕方ない、か……)
以前光一に夕也は難しく考えすぎる、と言われたことをふと思い出す。
ならば極力考えないようにしようと思い直し、俺は俯かせていた顔を上げた。
視点を変え、上へ向けた視界の中──不気味なほど紅く光る夕日を背景に、親と子、男と女──様々な人々が通りすぎていく。
儚いほどに強い光輝が眼球を刺激し、俺は微かに瞳を伏せると──ゆっくりと、足を進めていった。
「…………で、これはいったいどんな状況だ」
西区にあるマンション──都心では珍しく家賃の安いそこは、しかしやはり安いということだけあってか、外観は至ってシンプルであり小さいものだった。更には一階の窓ガラスが所々割れている部屋があり、セキュリティなど色々と怪しい部分が浮き彫りになるそこは、女性が一人暮らしをする際には選ばれない物件にまず挙がるだろう。
そんな、マンションの一室にて。
六畳程の広さのある部屋。その中心に位置するように置かれた折り畳み式の小さなテーブルの上には、GAME OVERと表示されたゲーム機やら空になった菓子袋などが散らかっていた。
「……とりあえず、何してるんだ、お前」
念のためにと、光一の義母から預かってきた合鍵で部屋に上がってみると、この有り様である。
ひきつる頬を隠すこともせずに、まだ口の開いていない菓子箱越しに見える──テーブルに突っ伏したままの状態である──光一の頭に、思わず話し掛けた。
「……実さんからの、お見舞いです……」
「そうか。だとして、なぜ今食べた上に遊んでいた。しかも布団の中じゃなくて」
「……暇だったので」
未だに風邪の気配を色濃く残す光一は、そう説明をしながらおもむろに顔を上げた。
そうして俺と視線がかち合うと、気まずげに乾いた笑みを漏らす。一応、意識自体ははっきりしているらしい。
「色々ツッコミたいが、一言にまとめてやる。……地中深く埋まってこい」
「ごめんなさい」
また熱が上がっただろうとか、栄養あるもの食べろとか──色々と言いたいことはあるが。
なんだろうこいつ本当に埋まってきてほしいいやむしろ埋めてやる、と心の底で殺意を芽吹かせつつ、俺は手にしていたビニール袋の中からミネラルウォーターを取り出したのだった。
──高校に上がると同時に、一人暮らしを始めた光一。その部屋には、俺は既に何十回と来たことがあった。
脱ぎ散らかされた部屋着に、乱雑に置かれたマンガや雑誌。積み重ねられたDVDケース──光一らしいと言えばらしい部屋だ。
室内を見渡し、以前訪れたときと何ら変わっていない光景に苦笑していると、洗面所からジャージに身を包んだ……お世辞にも綺麗とは言えないこの部屋の主が姿を現した。
「あー、なんか少しさっぱりしたかも」
汗をかいていた服から着替え、幾分気分が浮上したらしい光一は、そう言って頬を緩める。
見ているこちらの脱力感を誘うような、気の抜けた無防備な笑顔に向け、俺は手にしていた袋を漁りながら短く言葉を投げた。
「着替えたんなら薬飲んで寝てろ。風邪にはそれが一番だからな」
「うーい」
返答とも呻き声ともつかぬ相槌をし、解熱剤を取り出す光一へ袋の中身を手渡す。
受け取った物を見た瞬間、それまで重たそうであった瞼は開かれ、歓喜に満ちた光がその双眸の中に灯った。
「ほら、お前の好物のたまごサンド」
「うあお、ありがとうございます、夕也さんっ!」
「なんでいきなり敬語なんだ。……ってか、お前本当にたまごサンド好きだな」
「うん。もうたまごサンドと結婚したいくらいに好き、愛してる」
手にしたたまごサンドに頬擦りをしながら、光一は恍惚の笑みを浮かべる。
幼なじみ故か、光一の食の好みはよく知ってはいるが、理解は出来ないでいた。
……というか、結婚したいくらいってどんだけなんだよ。
「ハムとか、他のは食わないのか?」
「んぐ、んー? ……ハムとか他のも好きと言えば好き、だけど」
サンドイッチにかぶり付き、咀嚼しながら光一は首を傾ぐ。
暫し忙しなく頬を動かしていた光一は、やがて記憶の底から何かを引き上げたのか──波の立たない水面の如く、しかし普段と変わらぬ口調のまま──静かな声で語り始めた。
「母さんがさー、生きてた頃によく作ってくれてたんだよ、たまごサンド」
「え……」
「これがまた下っ手くそでめちゃくちゃ不味かったんだけど、はっきり言えなくてさ。初めて食べたときに俺が美味しい、って言ったのが嬉しかったのか、母さんそれからよく作るようになって」
ごくんっ。
思わぬ言葉に硬直する俺を余所に、光一の喉は上下し、気づけば彼の手中にあったたまごサンドは、あっという間に胃の中に消えていってしまっていた。
俺が用意していたミネラルウォーターで喉を潤しつつ、光一は未だ追憶の中に居るのか──まるで目の前にその時の光景が広がっているかのように、幸せそうに口元を緩ませる。
それは、どこか幼い面影を残した笑顔のように俺の瞳に映り──同時に、時々、ふとした瞬間に垣間見える光一の昔の顔だ、と頭の片隅で察した。
「もう食べられないもんだと思うと、不思議と食べたくなるもんなんだよなぁ」
「……そうか」
しみじみと、しかし不思議と悲哀さを漂わせない雰囲気で話す光一に、俺も自然と表情が柔らかくなる。
光一の言葉は、ひねくれた性格を持つ自分ですら驚くくらいに、すうっと胸に染み込んでくるものがあった。
それが一体何故なのかは分からない。だが、俺にとっては心地好いことですらあった──。
「だから、俺は決めているんだ。結婚するならたまごサンドを美味しく作れる子にするんだって!」
「結婚条件に入れるほどなのか、ってか、どんだけ好きなんだよ」
「もしくはffの裏ボス倒せる子!」
「お前本当にゲーム弱いな」
瞳を輝かせながら、高らかに小さな野望を宣言する光一に、俺はいちいちツッコミをいれていく。だが、光一はなぜか楽しそうな表情のままで。
手厳しく一言を付け加えていくものの、どこまでも光一らしいその考え方に、やがてつられて俺も噴出した。
数十分前まで悩んでいたことが馬鹿らしくなるくらいだった。
(なんだ、結局はいつも通りじゃないか)
気構える必要なんて、何一つなかった。
光一相手に、薬だとか犯罪などといったものを連想出来るはずもない。光一を責めることなど、するはずもなかった。
──だってコイツは、家族を失いながらも、こんなにも優しく生きている。
その光一に、怖れを抱くこと自体間違っていたのだと感じた。
互いに顔を見合せてひとしきり笑った後、俺はゆっくりと腰を持ち上げる。
「ほら、飯食ったんなら薬飲んでさっさと寝ろよ。溜まってる食器とか洗濯とかは、洗っておいてやるからさ」
「お、ありがと。あ、あれ、珍しく夕也が優しい! なんか泣きそうになっちゃうぞコノヤロー!」
「激しくキモいぞ。……いや、ゴミ溜まってると臭うし。次ふざけた事ぬかしたら、本気で埋めるからな」
悪ふざけをする光一にしっかりと釘を刺し、食器の溜まっているキッチンへと立つ。1DKとなっているこの部屋の造りは、玄関と平行した位置にキッチンがあり、光一の居る部屋とは垂直に面している。
横目で光一が布団に潜り込む姿を確認しつつ、腕を捲り泡立てたスポンジを手に取った。
水の流れる音と、時計の針が時間を刻む音だけが室内に響いていた。
心地の好い空気。
手元からふわりと薫る洗剤の匂いに、緩く目を細めた。
たったこれだけの動作が、穏やかな日常の一片なんだと感じる。
「夕也ー」
「んー?」
力のない、どこか気の抜けたような、光一の俺を呼ぶ声。幼い子供が甘えるときにする、それに似た声に思わず苦笑した。
しかしそれすらも、今の俺にとっては平穏の象徴でしかない。
何か足りないものでもあったのか、もしくは暇なのか。
いくつか予想を立てながら、作業する手を休めることなく、俺はその呼び掛けに応える。
友人のような、家族と過ごすときのような、不思議な感覚の時間。自分たちの他には何もない世界──そんな錯覚に陥ってしまいそうなほど和やかな空気だった。
だが。
「夕也さぁ──なんか、あった?」
ピシリ、と。
世界が、固まった気がした。
心臓が早鐘を打つ。皿を握り締める指が、震えた。
ひゅっ、と──短い音を立て、喉が鳴く。
「…………なんで?」
声が、表情が、強張ったことが、自分でも分かった。
しかし、出来るだけ内の動揺が悟られないよう、俺は必死に平静を装う。
視線が、手元から動かせない。
「んー。なんとなく?」
「なんとなく、って……」
「だって夕也、怪我してんじゃん」
捲られた服の裾から覗く、真白い包帯。
ハッ、として咄嗟にそれを片手で掴んだ。
カシャン、と。皿が指先をすり抜け、シンクに落ちる。
「これは……」
「なんか、あったんじゃねぇの?」
布団の中から届く、問いかけ。
光一の視線が、痛いくらいに肌に突き刺さる。しかし、俺はそちらを振り返れないでいた。
今、目を合わせたら、自分の意思とは関係なしに光一を責めてしまいそうだった。
だが……。
何か、何か言わなければ……っ。
無言のままでは光一が怪しむだろうと、懸命に頭を働かせた。
「転んだ、だけだ……」
そうして出てきた言葉は、散々考えたわりには説得力のない、ごく在り来たりな台詞だった。
ドクドクと全身が脈打つ。まずい、と背中を嫌な汗が流れた。
ただ転んだだけならば、あの間はないだろう。
光一に感づかれただろうかと身を固くするものの、次いで届いた声に、俺は一気に身体の力が抜けていくことを感じた。
「へぇー。……って、夕也が!? めっずらし! あの夕也が俺みたいなドジするなんて」
けらけらと笑う幼なじみに、俺は目の前が一瞬にして明るくなったような気分になる。
唇の合間から、細く長い息が漏れた。
きつく巻かれた包帯──これは、身を凍らせるほどの狂気を持った世界との、“関わり”のようなものだった。
(こんなものを、いつまでも残していたくないのに……)
あの連中が言う光一との関わりが、この傷を招いたと信じたくない。
爪先が食い込むほど包帯の上から傷を掴み、俺は顔を歪めた。
──瀬野光一は、ARICEの売人。
信じるものか。光一が、あんな世界と関わりがあるはずがない。
今、俺の前で笑っている幼なじみが、アイツらと“同じ”のはずがない。
瞼の裏に黒峰たちの姿を思い浮かべ、俺はぎりっ、と奥歯を噛み締めた。
胸中を、どす黒い感情が渦を巻いて駆け巡っていく。
憎悪、悔しさ、不安、畏怖、憤怒──。
これらの矛先を向けるのは光一ではなく、奴らなのだ。
泡のついた皿を水で流し、一枚一枚丁寧に布巾で水気を拭き取りシンク脇に重ねていく──あまり意識していないその所作の最中──俺は、排水口に吸い込まれていく泡を見つめながら、胸を焼くような、喉をつくような不安を全て消し去ろうと、“いつものように”口を開いた。
そうだ、この泡のように、すべて無くしてしまえばいい。
笑い飛ばして、欲しい。
「──光一さ、ARICEって知ってるか?」
何の脈絡もない、切り口。
光一に怪しまれることは確かだったろうが、それでも訊かずにはいられなかった。
刹那、は、と。笑い声が、止まる。
光一が、小さく息を飲んだ気配が如実に伝わってきた。
「ARICE、って……?」
それは、心情がそのまま口をついて出てしまったような、問い返しだった。
彼にしては珍しい、喉に微かな違和感を残したような声音。
瞬間、ピィンと糸を張ったかの如く、空気が刺を持った。
な、んだ……?
じわじわと内を侵食されるような感覚。全身が、汗ばんだ。
無意識のうちに呼吸が浅くなり、喉が渇く。
つう、と。頬の輪郭をなぞり、汗が、伝う。
己の五感が鋭利さを増し、瞬間、俺は今自分が本能的に警戒しているのだと、悟った。
どうして──?
ざわり、と。空気が確かな意識を持ち、その姿を変えた気がした。
平穏が、日常が、遠ざかる気配。
笑い飛ばして欲しい。
なんだよそれ、と笑って欲しい。
鼓膜の内側で薄く響く呼気を耳にしながら、以前にもこれを体感したことがある、と気づく。
自身の身体を包む空気が異質な形状を作り──それを作り出した人物へと、ゆっくりと瞳を合わせた。
紅い、紅い、夕日。
布団の上で半身を起こし、こちらへ顔を向けている光一の表情は、窓から注がれる陽の光により逆光となって窺えない。
赤く染まる室内。先刻まで心地よかった時計の針の音が、今は不気味に二人の沈黙を刻んでいた。
色素の薄い前髪が、カーテンのように光一の顔を隠している。
ビルの谷間に沈もうとしている太陽が届ける光が、部屋を、光一を、赤く染め上げていく。
その光景が、どこか現実離れして俺の目に映った。
「光、一……?」
容姿も服装も、声も。
すべて、俺の知る光一のもののはずなのに──
堪らず、キッチンから離れ、光一の傍へ歩み寄りながら、俺は“それ”を確認するように名を呼んだ。
──光一?
狭い室内。あと数歩もすれば、光一に触れられるという距離。
一歩一歩足を進める度に、俺の中に巣食う違和感が成長していくようだった。
この、感覚──これは……。
それに気づくと同時に、光一の髪に指先が触れようとした──瞬間。
「アリスって、あのおとぎ話のアリス?」
「…………は?」
あまりにも呑気な、一言。
こちらを見上げた光一は、不思議そうに瞬きを繰り返しながらそう問い、首を傾げた。
「ああ、うん、まあ……そう、だな」
「ふうん。夕也もずいぶんメルヘンチックなものを聞くんだな」
咄嗟に上手い誤魔化しが思い付かず、俺は乾いた笑みを落とすと所在なさげに手を宙にさ迷わせた。それを見て、光一も頭上にクエスチョンマークを飛ばしながらも微笑を浮かべる。
それまで存在していた緊迫感や、違和感……それらすべてが、その一言により一気に収縮し、霧散していったようだった。
(そう、だよな……光一が、アイツらと一緒なんて……)
紅い夕日により、錯覚が見えたのかもしれない。
一瞬でも光一に恐怖を覚えた己を恥じつつ、俺は深く息を吐き出した。
「夕也?」
「……うっさい、もう大人しく寝てろ」
「ちょ、ひどいっ! 話ふってきたのそっちなのに!?」
光一の頭を軽く小突き、ぶーぶーと文句を零す幼なじみに背を向ける。
──駄目だ、疲れてる。早く掃除して、家に帰ろう。
きつく瞼を閉じ、一つ深呼吸すると俺は今一度腕捲りをした。
と、
「夕也」
呼び止められた声に反射的に動きを止め、背後を振り返る。
そこには、先刻と何ら変わりのない、未だ上半身を起こしたままの、光一が、居た。
「お前、寝ろって……」
「夕也が聞いてきた質問の意味さ、知ってるって言ったらどうする?」
は。
小言を紡ごうとした唇は、縫い付けられたかの如く開いたままで固まった。
呼吸すら、忘れる。
──今、なんて?
問い返そうと光一を食い入るように見つめるも、彼はただ口元を三日月の形に型どっていた。
アーモンド型の双眸が、愉快そうに歪む。
ざわり、と。
消えた空気が鳴き、再びその片鱗を現した。
そうだ、間違いない間違いない間違いない間違いない──!
理解が追い付くとともに、顔が、恐怖にひきつっていく。
感じたことのある空気。対峙したことのある世界。
これは、間違いなく──
狂 気 。
注がれる陽の光が強くなり、物体の陰影を濃くしていく。
それに比例し、紅く照らし出された幼なじみの笑みが、より一層深さを増し──
その瞳が、紅く輝いたように見えた。
「……っ!」
込み上げてきた悲鳴を、喉元で堪える。
光一から目を逸らさず、手探りで荷物を引っ掻き集めると、素早く踵を返し、俺は玄関から飛び出したのだった。
なんで、なんでなんでなんでなんで──っ!?
「なんでだよ……!」
光一の家から逃げ出し、街中を切るように疾走する俺の思考を埋めるものは、幼なじみの笑顔と、たった一つの言葉。
『夕也が聞いてきた質問の意味さ、知ってるって言ったらどうする?』
あの瞬間、全身に駆け巡ったものは言い様のない、確かな恐怖だった。
紅い夕日の中、映し出された笑顔。肌を刺し、首元にまとわりつくような狂気。
しかし、今俺の胸中を渦巻くものは、光一への怖れなどではなかった──
──裏切られた……っ!
思い切り奥歯を噛み締め、眉をしかめる。
俺は、俺だけは、信じていたのに……っ!
道行く人たちは皆、俺を異様な目で見てくるが、それすらも振り切るように俺は夕日に染まる街をひたすら走った。
傷だらけの身体が、きしきしと悲鳴を上げる。
──夕也が聞いてきた質問の意味さ、知ってるって言ったらどうする?
鼓膜の内側で再生される言葉。
知ってる? 俺がした、質問の本当の意味を? それはつまりお前が……!
「ぜっ、は……はぁ……!」
俺の意思とは裏腹に、悲鳴に耐えかねた体は自然に足を止めた。
膝に手をつき、全身に酸素を取り入れると心臓が痛いくらい音を奏でる。
気づけば、そこは森都の駅前だった。
「な、で……だよ……」
ポタポタと地に滴り落ちる汗に混じり、眦から涙が零れ落ちていく。
裏切られた、裏切られた、裏切られた、誰よりも信じていたのに──!
胸の中は、ただその想いだけだった。
息を吸い込むごとに、身体中につけられた傷があちこち熱を放つ。
俺は、こんなに傷つけられても光一を、信じたのに、裏切らなかったのに……っ!
その行為を、気持ちを、全部、無駄にするのか……!
「庇わなきゃ、よかった……!」
庇わなきゃよかった、庇うんじゃなかった、あんな奴──!
ぽつり、と。夕方の駅前通り──大勢の人が行き交う中に、俺は情けなくその場に踞り、小さく呟いた。