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URL  作者: 和まと
第一章
3/10

1-2


 □ □ □


 ひっ、く……ぅ、えっ……。

 誰かの泣く声──しゃくりあげる声が脳内に反響する。

 何だ、と瞼を上げると、光輝く太陽が地平線の彼方に身を隠そうとしている風景が見えた。

 次いで、夕日に赤く照らし出される遊具たちが目にとまる。寂しげに微かに揺れるブランコ。錆びついた滑り台。斜めの姿勢で誰かを待つシーソー。

 公園だ。

 朧気な記憶の海から呼び出されたのは、ひどく懐かしい想い。同時に感じる、これは夢だという意識。

 懐かしい。そういえば、昔ここでよく遊んでいた。

 人の気配のないその場所に、俺は立っていた。 なんで、ここに──?

 冷静に考える間すらなく、足は俺の意思に反して一人でに動き出す。

 待て、どこに行く?

 止まれ、と頭で命令を出しているはずが、歩みは止まらない。

 まるで己の体じゃないような感覚に困惑していると、ふいに何かの音が聞こえた。

 ?

 小さく、断続的に届く音。その音に近づくにつれ、それはだんだんはっきりと耳に響いた──それは、声だった。

 ずずっ、と鼻を啜る音。喉の奥から漏れる苦し気な声。酸素が足りず、噎せ返る音。

 遊具より少し離れた位置にある、電車を模した建造物。屋根もあり椅子なども設置されているそこは、昼間は母親たちが子を見守ったりするために使用するのであろう。

 その中から、声は響いていた。

 思い出した──。

 はっ、と息を飲むと、グニャリと目の前の景色が歪んだ気がした。現実と記憶が混合する──。

 錆び付いた遊具。誰もいない公園。泣き声。夕日。

 気づけば、俺の目線は低くなり、歩幅も小さくなっていた。しかしそれらに動じることなく、俺はその足で前へ進む。

 そうだ、俺は捜しに来たんだ。

 前方と後方にある、扉のないぽっかりと開いた口。

 ひょこりと顔を覗かせてみると、窓ガラス越しに注がれる紅に、染まる小さな背中が見えた。

 床に座り込み、膝に顔を埋めるようにして、震える子ども。

 ああ、やっと見つけた。

「コウ」

 声変わりすらまだな、幼子特有の高い声で彼を呼ぶ。

 途端、それまで震えていた肩がぴくりと跳ね上がり──幼い光一が、こちらを振り返った。

 涙と鼻水で汚れた顔。驚いて見開かれた赤く腫れぼったい目。ぐしゃぐしゃに歪んだ表情。上手く呼吸が出来ずに上下する肩。

「ユ、ウ……」

 掠れた、声。

 今まで見たこともないくらいの弱々しい光一の姿に、俺は内心面食らった。

 光一は、アホでいつもふざけてて、いつも、笑ってるイメージが、ある、から。

「お、前……なんで、泣い、て……」

 言いかけて、止まる。

 “なんで”──?

 そんなこと、聞かなくても分かるじゃないか。

 光一は、家族を失ったばかりなんだから。悲しくないはずがない。

 寂しくないはずが、ない。

「……」

 かける言葉を見失い、口を閉ざした俺を見て、どう感じたのか──

 乱暴に涙をぬぐい、光一は照れたように八重歯を見せて笑うと、ゆっくりと立ち上がった。

「……ユウ、タイミングが絶妙すぎる。泣き顔目撃されちゃったよ」

 いつものような、軽口だった。

 はにかんだような笑みを浮かべた光一は、俺の前で一つ大きく伸びをすると、片手で目元を押さえる。

「うあー、目が痛い。超痛い。目がぁあぁ」

 ふざけ半分痛みに唸りつつ「俺、目を冷やしてから行くから、先に行ってていいよ」と。

 いつものように微笑みながら告げる光一に、俺は首を左右に振る。

「ユ……」

「コウ……帰ろう」

 名前を呼ぼうとした光一を制して、俺は呟いた。

「帰ろう……」

 もう日も沈む。

 帰らなきゃ、母さんたちが心配するだろう。

 漆黒を纏った闇が追い付く前に、帰らなくては。

 真っ直ぐに見つめると、光一は一瞬虚を突かれたような表情をし──

 次いで、悲しげに微笑んだ。

「どこに?」


 どこに、帰るの?


 □ □ □


 光一──。

 白く微睡んだ意識が、ゆっくりと底から浮上する気配がした。それに導かれるように、俺は重い瞼をゆるゆると持ち上げる。

 夢、か……。

 輪郭がはっきり捉えられず、ぼやける視界。

 その中に、夢の残像を見た気がした。

 家族をなくし、まだ叔父さん夫婦に引き取られたばかりの頃の光一。

 帰りたい場所を失ってしまった光一が、一人で泣いていて──思えば、泣いている光一の姿を見たのはあれが初めてで、最後だった気がする。

「ん……」

 僅かに、身動ぐ。

 暫し追憶に想いを馳せ、ぼんやりとしていると、だんだんと頭が覚醒してきた。

 そうして、気づく。

 横たえられた体にかけられた、真白い毛布。硬いベッド。眼球を刺す目映い光。

 真っ白に染め上げられた天井に、己の存在を誇示するかの如くその役目を果たしている蛍光灯。

(ここは──?)

 じわじわと五感が戻ってくる気配とともに、ふと鼻腔を擽る甘い薫りに気づいた。

「あら、目が覚めた?」

 突如、頭上から降ってきた声。

 はっ、として双眼をそちらへ向けると、白衣を纏った女性がすぐ傍に佇んでいた。

 ウェーブがかった長い黒髪が細い輪郭をなぞり、白い頬に陰影をつけている。赤い紅に彩られた唇が、俺と目が合うとその淫靡さを増すようにゆるく弧を描いた。長い睫毛に縁取られた鋭い瞳が、細められる。

 思わず見惚れてしまうほどの、美女が、そこに居た。

「あ、の……」

「ああ、そのままで大丈夫よ。しばらく横になってなさい」

 状況が掴めず、咄嗟に起き上がろうとし、しかし次の瞬間、全身に走る刺すような痛みに思わず顔をしかめる。

 ふと己の体に視線を落とすと、腕や足、至るところに包帯が巻かれていた。

(そうだ、俺……)

 傷だらけの体。微かに口内に残る鉄錆と胃酸の味。

 キシキシと痛みと熱を放つ全身が、俺の身にあった出来事が夢などではないということを教えてくれた。

 ──あの、通り魔との対峙。

 夢でも幻でもなかった。

 じっとり、と手の平が汗をかいてくる。

 遅れて、足や肩も震えてきた。

 思わず自身を掻き抱くように腕を交差させると、隣に佇んでいた女が静かに口を開いた。

「そんなに怯えなくても平気よ。ここにはもう、怖いものなんてないわ」

「え……?」

 言われ、辺りを見回せば小さな部屋に並行するようにしていくつかのベッドが置かれていた。そして、そのベッドを守るようにして天井から下げられたクリーム色のカーテン。

 壁際に設置された棚に、飾られた中身のない花瓶。無駄なものは一つもない、白を基調とした清潔感の漂う室内に、微かに香る消毒液の薫り。

(病、院……?)

 そこは、病室のようであった。

 通り魔に襲われ、気絶してしまった俺は、病院へ運ばれたらしい。

 ベッド脇に立つ女へ目を向ければ、引き締まった肉体の上に纏った白衣に、首に掛けられた聴診器が見える。

 ……女医、なのか?

 心中首を傾ぐ俺に気づいたのか、女は悪戯っぽい笑みを浮かべると、顔を覗き込んでくる。

「私は内海響子(うちみ きょうこ)。お医者さん、よ。気絶していた貴方を診たの。幸い打撲傷だけで、内臓は何ともなかったわ。よかったわね」

「あ、そう、なんですか……」

 至近距離で囁かれ、つい頬を赤らめ、視線を逸らす。

 助かった、という安堵はあるが、この美人女医に気絶している間に診察をされていたと思うとどこか気恥ずかしいものがあった。

 羞恥心から顔を上げられないでいると、そんな俺の様子に、医者──内海は一層口元の笑みを深くした。

「ふふ、可愛い反応。照れなくてもいいのに」

「え、いや、あの」

 さらり、と額にかかっていた前髪を透かれ、ゆっくりと輪郭を撫でられる。

 壊れ物を扱うような優しい手つきに、皮膚の上を這う指先──触れられた部分からぞくぞくと背筋を得体の知れない感覚が走った。

 幼い純粋さを込めたような、大人の情事時の熱を秘めたようにも見える不思議な光を宿した双眸が、見下ろしてくる。

 ──あ、れ、何、この、展開……。

 長い爪先がつ、と頬をなぞる。内海から薫る甘い匂いが鼻腔から脳内へ侵攻し、正常な思考を奪っていく。

 耳元へ寄せられた唇から、熱い吐息が鼓膜へ注がれた。

「……っ」

 ぞくり、と身体の芯が打ち震える。

 堪らずぎゅうと目を閉じて半身を捩ると、刹那、バンッ、と圧縮された空気が割れたような音が室内に響き渡った。

「内海っ!」

 はっ、と我に返り、音の発信源を見ると、荒々しく扉を開け、ずかずかと部屋に足を進めてくる短髪の男が目に入る。

 一瞬にしてそれまで周囲を包んでいた艶やかな空気は霧散し、俺はただ目を白黒させて呆気にとられていた。

「……まったく」

 唸るように名を呼ぶ、その無遠慮な侵入者を捉えるや否や、内海は俺から離れ、秀麗な顔つきを歪めると小さく舌を打った。

 そして、

「ノックくらいしてくれないかしら? 相変わらず空気の読めない男だこと」

 俺に囁いていたときとは明らかに違う、刺のある声音で侵入者を迎える。

 どうやら、二人は知り合いらしい。

 その言葉に、迎えられた男は途端ひくり、と頬をひきつらせ──次いで鋭い目付きで内海を睨みつけると、犬歯を剥き出しにして叫んだ。

「まぁたテメェは性懲りもなく、患者食おうとしやがったな、この性悪女!」

「自分の患者をどうこうしようと、私の勝手じゃあなくて?」

 男からふい、と顔を逸らし、髪を掻き上げる内海の仕草は、さながらどこかの女王のような高圧的な雰囲気を醸し出している。

 会話の応酬のみを耳にすると、開き直っただけ、ともとれるのだが。

 ……と言うより、え、“食おうとしていた”って……。

 二人のやり取りを目にしつつ、俺は一人顔を青ざめさせた。

 俺、食べられかけて、いたのか……。

「人のやり方にいちいちケチつけないでくれる?」

「そりゃあ俺だって口は挟みたくねぇけどな、手ぇ出すんならまだそこらの社会人にしろ! ガキに手ぇ出してんじゃねえよこのショタコン!」

 顔面蒼白になる俺をよそに、頭上を飛び交う罵声。

 突如室内に乗り込んできた男の言葉を、それまで素知らぬといった表情で聞き流していた内海は、最後に付け加えられた──“ショタコン”という単語に、形のいい眉を吊り上げた。

「……言ったわね? 未成年好きで何が悪いのよ。というか、あんたにだけは言われたくないわ、ロリコン」

 氷のような冷たさを孕んだ眼差しが男を射抜く。

 ロリコン、と称された男は内海の気迫に一瞬グッ、と息を詰まらせるも、直ぐ様負けじと口を開いた。

「うぅーちぃーみぃー? 俺はロリコンじゃねぇって何回言ったらわかんだよ、こぉの狐女!」

「言ってくれるじゃない、そもそもあんたがこの坊やをここへ連れて来たんでしょう? 私に預けるイコールこうなることくらい分かるじゃない、狸男」

「仕方ねぇだろ、いきなりのことで此処しか思い付かなかったんだよ」

「なら受け入れて目くらい瞑りなさいよ」

「出来るか阿呆!」

 毒舌混じりの口論が続き、二人の熱も自然とヒートアップしてくる。

 その中に出てきた発言に、俺の思考の端はそちらへ引かれた。

 ──『あんたがこの坊やを連れて来た』

 同時に、朧気な記憶の隅から再生される、意識が飛ぶ寸前に聞こえた声。

『やめろ、黒峰──!!』

 あ。

 つい口を半開きにし、間抜け面のまま、男を食い入るように見つめる。

 短く切り揃えられた前髪の下から覗く鋭い双眸は、内海を視線だけで射殺すのではないかと思われるほどの眼光を放っていた。

 なまじ容姿が整っているだけに、その迫力は凄まじいものがある。

 二人から放たれる気迫に、一瞬、話しかけることを躊躇われるものがあったが、しかしこうしても居られない、と俺は意を決しておずおずと口を挟んだ。

「あの……」

「あ?」

「なぁに?」

 怪訝げな眼差しと、柔らかく優しげな声。

 あまりにも対照的な二つの返事が向けられ、一度ドキリと心臓を跳ねさせるものの、俺はゆったりとした動作で身を起こし、二人──男を、見上げた。

「あ、なたが……俺を、助けてくれたんですか……?」

 恐る恐る、訊ねる。

 内海に向けられている怒気が俺に矛先を変えないかと内心ひやひやしたが、それでも、聞かねばならなかった。

 と、男の眉間に刻まれていた深い皺がとれた瞬間、それは杞憂だと悟る。

 そうして、頭が一度縦に振られた。

「ああ」

 ──肯定。

 頷かれた瞬間、じんわりと胸元が熱くなり、その熱が目元に移ったかのように涙腺が弛んだ。

 助かった。助けてくれた。

 鼻の奥がつん、と痛くなり、頬が紅潮してくる。くしゃり、と顔が歪んだ。

 命懸けの、善意。

 あの、暗い道から、俺を救ってくれた。

 全身に残された未だに痛む傷が、あの凄惨さを語っているようだった。

 本当に、死にかけていたんだ──。

 改めて実感し、肝が冷える。

 そして、その中を、彼は助けてくれた。

 ただその事実だけが、温かく俺を包み込んだ。

「……ありが、とう、ございます……」

 鼻声になりながら、つっかえつっかえそれだけを伝える。

 嬉しい、助かった、ありがとう。

 言い尽くせないほどの感謝の気持ちが、胸の奥から溢れ出す。

 情けないほど震える声で話す俺を尻目に、男は腕を組みながら──さながら、どこかの王のように偉そうな立ち振舞いで──ふふん、と鼻を鳴らした。

「そういや、自己紹介がまだだったな。俺は近江景綱(おうみ かげつな)だ。俺に感謝と敬意を表して、気軽に近様(おうさま)って呼んでも──」

「こいつのことは気軽に下僕とでも呼んであげてね。あと、お礼なんていいのよ。これでもこいつ、一応刑事なんだから。市民を守るのは当然」

「ちょ、うぅぅちぃぃみぃぃ!」

 あまりにもぞんざいな内海の紹介に、男──近江景綱は悲鳴をあげる。

 つられて、俺も顔をあげた。

「刑事……?」

「ええ」

「お前が紹介するなっての」

 俺の問い掛けに頷く内海に対し、ツッコミを入れる近江へ信じられない、といった視線を投げる。

 若々しく、整った顔立ちに、スーツなどといった堅苦しい服装ではなく、長袖のTシャツにコート、ジーンズといった比較的ラフな格好である近江は、とてもではないが刑事といった職業に就いているようには一見しては見えなかった。

 自分よりは年上とは態度や雰囲気から感じていたが、せいぜい大学生くらいだと思っていたのに……。

 そんな俺の心情を読み取ったのか、内海は微笑を口元に乗せると喉で小さく笑った。

「まあ、外見は若く見えるわよねぇ、こいつ。もうすぐ三十五だっていうのに」

「まだ三十二だっつの」

「似たようなもんでしょ」

 軽口を叩きあいつつ、「三十五と三十二じゃあまた意味が違ってくる」と唇を尖らせながら反論する近江の姿──外見だけでなく言動も含め──は、確かに三十代前半の男性とは思えないほどだ。

 しかし、もしこの人が助けてくれなかったら、俺は今ここに居なかったのかもしれない──その事実だけは、変わらなかった。

 いくら、とても刑事には見えないとして、も……。

「刑、事……?」

「? おう」

 思考回路が正常な動きをせず、一端止まる。

 刑事。警察。公務員。

 外界から得た情報から、俺の脳内はそれを必死に整理しようとフルスピードで回転していた。

 そうして、ハッと気づく。

「お、近江さん!」

「んぁ?」

「あ、の、あの、通り魔は捕まった、んですか!?」

 薄暗い道。白銀の髪。赤い二つの眸。圧倒的な、力。

 一つ一つの出来事を思い出すだけで、今でも体が震えてくる。

 ──通り魔。

 もうすでに何人もの人を殺めている、男。

 半ば興奮気味にそう捲し立てて問えば、次の瞬間、近江はきょとんとした顔つきになった。

「通り魔? 誰が?」

 ──は?

 まるで何の事だか見当がつかない、といった近江の反応に、俺は目が点になる。

「誰、って……通り魔ですよ! もう何人も殺傷してる……!」

「え、だから、誰が?」

「俺を襲っていた男です! あいつが通り魔ですよ!」

 全身がずきずきと痛み、息が切れる中、必死に訴えた。表情が歪み、堪らず奥歯を噛み締める。だが、そんなことには構っていられなかった。

 アイツは、光一を捜している。

 もし、捕まえていないのなら、光一が危ない。

 チリチリと胸を焦がす焦燥感を抱きつつ、すがるように近江を見上げ──違和感に、気づいた。

 シィンと耳鳴りがしそうなほどの静寂。

 それまでの俺の言葉が、すべて水泡へ帰したような感覚。


 なんだ?


 ぞわぞわと背筋を何かが這うような、嫌な気分が俺を襲う。

 近江と内海は、何も発しない。

 静寂だけが、俺を囲う。

 そうだ、何か、忘れていないか。

 曖昧な記憶の断片から、欠けている“何か”を探し──そして。

『やめろ、黒峰──!!』

 うっすらと蘇る、台詞(それ)──。

 黒峰(くろみね)

 そうだ、近江は、男を、そう呼んでいたじゃ、ないか。

 ゾクリ、と背が凍りついた。

「通り魔、ねぇ……」

 近江がくつくつと喉で笑う。

 鋭さを帯びた眦が、すうと細められ──ざわり、と。彼を纏う空気が、変わった気がした。

「残念だが、お前が捕まえて欲しいあの男は、通り魔なんかじゃねぇよ」

「え……」

 ──通り魔じゃ、ない。

 近江から告げられた真実に、驚愕から瞳を見開く。

 アイツが、通り魔じゃ、ない?

「お前が通り魔って思ってる奴と俺は、ちょっとした知り合いでな。アイツが通り魔じゃないことは俺が保証してやる」

 手慣れた手つきで煙草を取り出し、火を付ける近江を、内海が無言で睨み付ける。

 しかし近江は大して意に介した様子もなく、肺を煙で満たすとこちらを振り向いた。配慮などといった概念は、彼にはないらしい。

 そうして、指先で煙草を挟むと口元から外し、唇をゆるく弧に描く。

「それより、俺もお前に聞きたいことがある」

 戸惑いを前面に出す俺に、近江は笑みを深めると上から顔を覗き込んできた。

 芯から冷えるような、冷酷な光を灯した二つの眸が見下ろしてくる。

「瀬野光一と、どういう関係だ──?」

 どくんっ。

 心臓が、嫌な音をたてた。


 ──瀬野、光一。


 それは、紛れもない、俺の幼なじみの名前だった。

「な、んで……」

 なんで、光一の名前を──?

 俺は口にしていないはずだ、と怪訝げな目付きで近江を見上げると、それを感じ取ったらしい彼はふ、と息で笑った。

「まあ、ちょっとしたルートでな。調べんのには一苦労したが」

 どくんどくんどくん。

 心臓が早鐘を打つ。それに比例して全身が震え、喉がからからに渇いてきた。

 信じられない、といった表情を浮かべ、俺は近江を見つめる。

 刑事。そう、この人は刑事のはずなのに、なぜだろう。

 嫌な、気配がした。

「ちょっと、あんまりいじめちゃダメよ」

「ああ? いじめてねぇよ。ただの質問だろうが」

「どこが。すっかり怯えちゃってるじゃない」

 可哀想に──そう言って内海は俺を背後から抱き締めると、細い指で髪を撫でてくれる。

 幼子をあやすようなその仕草はひどく優しいものだったが、俺の胸の中を渦巻く黒い靄は晴れない。

 この人たちは、いったい──

「……なんなん、ですか……」

 ぽつり、と。それまで溜め込んでいた気持ちが、口を割って零れ落ちる。

 納得できない。なんで、なんでなんで。

 じくじくと傷口が熱を持ったように痛む身体。俺自身に向けられる、敵意の視線。一方的な暴力。

 すべてに納得が出来なく、それらに後押しされるように俺は一気に疑問や憤りを吐露した。

「あんた達は、いったいなんなんですか……なんで、俺に、光一に、何の用があるっていうんだよ……っ! なんで、俺は殴られたりして……こんな目に、遭わなきゃいけないんだ!」

 ふざけるなよ……──!

 見開かれた眼の端から、涙が頬を伝った。

 それが恐怖からなのか、悔しさからなのかは、分からないが──先刻から一つだけ感じる──自分が、今まで経験したことのない、得体の知れない所へ踏み込んでしまったことは、確かだと思った。

 怖い。怖い怖い怖い怖い……っ!

 俺は、どうすればいいんだ?

 白い室内。病室なら当然の、白に塗り固められたそこが、今は俺の中の恐怖心を増長するだけの存在になっている。

 逃げ場がないと、ただ、感じた。

 鼻を鳴らしながらぐずついていると、ふいに背後で小さな笑い声が漏れる。

「ふふ、可愛い。大丈夫よ……泣いたりしないで?」

 甘い声音が鼓膜を揺るがしたかと思えば、次の瞬間、内海の唇が俺のうなじを食んだ。

「っ!」

「内海!」

「あら、アンタが泣かせるからいけないんじゃない」

 突然のことにビクリ、と肩をすくませる俺の顎をなぞりつつ、内海はうっとりとした瞳を細めながら意地の悪い笑顔を浮かべた。

 内海を咎めた近江はその言葉に小さく舌を鳴らすと、乱暴に煙草を消し、バツが悪そうにふいとそっぽを向く。

「……悪かったよ、ったく。説明すりゃあいいんだろ」

 ガリガリと頭を掻きながら俺を横目で捉えると、近江はどこか観念したように吐息した。

 そこには、先刻までの刺すような緊迫感はなく。突如として和らいだ空気に、目尻に浮かべた涙を拭うこともせず、俺はただ呆気にとられていた。

「だからはじめに言ったのに。この子は“違う”って」

「……まあ、どっちにしろ聞くつもりだったからいいんだよ」

「……強がりね」

 すぐ目前で、話の見えないやり取りが交わされる。内容からして俺自身のことだとは感じ取れたが、泣きじゃくり酸素の足りない脳内では上手く考えられなかった。

 ただ、一つだけ聞き取れたことは、説明という単語だけ。

「ま、そりゃあ確かにろくな説明もされずに上から言われたって分かるわけねぇわな。逆ギレもするわ……特にお前は、黒峰に襲われてるわけだしよ」

 やれやれ、と心底疲れたような面持ちで、近江は己自身に納得させるように呟く。

 やがて軽く瞳を伏せると、ベッド脇に設けられたパイプ椅子に腰掛け、ゆったりとした体勢を作った。

 そして、静かに語り出す。

「今から、なんでお前が襲われたのか……説明してやるが、これから話す事は、実際まだ未確認──推測の域の話だ。だから、どこからどこまで信じるかはお前自身。すべて信じるもよし、信じないもよし」

「いったい、何を……」

 あまりにぶっきらぼうな口調に、いったい何を話し出すつもりかと、俺は戸惑いがちに口を挟むが、近江は片手でそれを制すると「はじめに言っておく」と付け加えた。

「俺がこれを話すことにより、お前がこの先どうなろうと……どんな行動をとろうと、一切責任を取るつもりはない──それでも、聞くか?」

 最終警告、のようだった。

 どこか人を試すような視線を俺に向け、近江は重苦しい口調で問う。

 聞くか、聞かないか。

 そんなもの、決まっていた。

 ここまで巻き込まれておいて、未消化のままで居られるわけがない。

 光一も、何かかしらに関わっているのだろう。

 近江があの男と関係がある以上、疑わしいことに変わりはないのだが──しかし、近江はアイツとはどこか違うと思った。

 話も通じ、何より──俺を、助けてくれた。

 聞きたい。

 やけに真剣な──しかしどこか切なさを孕んだ近江の表情が気にかかったが……。

 その質問に──俺は、一度だけ頷いた。



「──回りくどく言っても仕方ねぇな」

 そう切り出して、近江は一度息を飲むと再び同じ問いを投げてくる。

「単刀直入に聞く。お前、瀬野光一とはどんな関係だ?」

「ど、んな関係って……」

 光一とは、家族ぐるみの付き合いで。幼なじみであり友人だ。それ以上も、以下の関係も、何もない。

 以前からこの人たちは光一について何かと訊いてくるが、それが一体何なんだ、と。

 質問に答え、訝しげに眉をしかめる俺に、近江は「そうか」と小さく相槌を打った。

「なら、ARICE(アリス)って薬。知ってるか──?」

「アリス……?」

 近江から発せられた言葉に、俺は首を傾ぐ。

 そんな名前の薬、聞いたことも見たこともない。名称から連想されるは、お伽噺の主人公くらいだ。

「そうか……。知らないならいいんだけどよ。俺たちがお前に接触したのは、そのARICEって薬が目的だ」

「目、的?」

 あまりに物々しい言い回しに、つい身構えると近江は「説明すると、長くなるんだけどな」と前置きをしてから話し出した。

「俺も──警察も、詳しいところまでは分かってねぇんだが、ARICEっつう薬は、分かりやすく言うなら殺人衝動促進剤だ」

「殺人衝動促進、剤?」

 一気に毒を持ったもう一つの名に、俺は驚愕から瞳を見開く。

 人を、殺す、衝動? って、いったい……。

「他の薬とは少し違ぇみてぇなんだが……幻覚も幻聴もない。ただ、ある一定の感情──例えば、怒りなら、怒りの感情が昂っただけで殺人衝動が起こる」

「はぁ?」

 まるで、現実味のない内容だった。

 しかし淡々と語る近江の面持ちはひどく真剣なもので、とても冗談などとは思えず──俺はさらに困惑する。

 殺人衝動?

 繋がれた単語から意味は理解出来るが……いまいち、よく全貌が見えない。

 感情が昂って人を殺すって……カッとなって殺してしまう、という話は、確かに聞いたことがあるが。

 頭を痛め悩む俺の心情を悟ったのか。それまで壁に身を寄りかからせ、黙して俺たちの会話に耳を傾けていた内海が、静かに口を開いた。

「脳内麻薬、というものを知っているかしら。ドーパミンやオピオイド──外部の物質ではなく、脳内で自然に分泌される麻薬。恋の感情の感覚も、これらが影響しているのよ」

「それが、いったい……?」

「ARICEは脳内のこれらに影響を及ぼすモノ──倫理概念を喪失させ、恐怖や良心、正常な思考回路を奪う。

 依存性はなく、普段はその影響がないけれど、ある一定の感情が昂り、ハイな状態になるとこの薬の作用が表れ、一時的狂暴的になり、人を殺すことも厭わなくなる。それが身内だろうと他人だろうと……と、ここまでが今までの調べで分かっていること」

 にっこり。語る内容の重みを少しも感じさせない微笑みを向け、そう締め括る内海に続き、近江が再度話を引き継いだ。

「今その薬が、森都に流れている」

「な……っ」

「自分の意思でARICEに手を出す奴も居れば、そうとは知らずに服用する奴も居る」

「近江は、その薬の出所を探しているのよ」

 医者である内海に説明されたからか、それとも漸く話が理解出来てきたからか──瞬く間にして現実感が沸いてきた俺は、近江の言葉に青ざめる。

 まさかそんな薬が身近に流れているなんて、知りもしなかった。

 紡がれていく現実(いま)の姿に、俺は畏怖よりも呆気にとられた、といった気持ちのほうが強かった。

 自分が今まで知る由もなかったものが、そこには広がっている。

 テレビや新聞などではよくこういった事件があると知識では得ていたが。実際、己の耳で直接聞くことになるとは、思いもしなかった。

(しかも、俺自身が巻き込まれるなんて──)

 俯き、微かに熱を持つ傷口に包帯の上から触れ、思わず短く息を吐く。

 自分の身に降りかかったことが未だ信じられず──そこで漸く、ハッ、と気づいた。

 そもそも俺が、巻き込まれた理由は──

「──お前の友人、瀬野光一には、そのARICEの売人の疑いがかかってんだよ」

 一瞬、躊躇った後──気まずげに近江から告げられたものに、俺は弾かれたように顔を上げる。

 光一、に、密売の疑い……?

 何を言われたのか判断に遅れ、思考が──呼吸すら、停止した。

「光一、が……」

「製造元、そして薬を流すルート。今まで掴めてなかったんだけど、な……今回、それが見えてきた」

 その中に浮かび上がった人物が、光一だと、言うのだろうか。

 あの、俺の幼なじみの、光一だと──。

 数拍間を置き、言われた意味を理解すると、俺は堪らず噴出した。

「あ、はは……、あり得ない、あり得ないですよ! だって、光一はただの高校生で、ただのバカで、考えていることなんて単純で……犯罪なんかに手を染められるような奴なんかじゃ……!」

 そうだ。

 光一は、何をするにも自由奔放なところがあるけれど、誰かを傷つけて生きていけることが出来るほど器用な人間じゃあない。

 薬の密売? そんなことをしながら、俺の前で笑っていられるほど光一は嘘をつくのが上手くないんだよ──。

「だから……っ」

「信じるも信じないも、お前の勝手だって言っただろ」

 突き放すような近江の言い方に、俺はぐっ、と言葉を飲む。

 まるでそれは、内心動揺し、近江の話を信じかけた俺を見透かしているように聞こえた。

 ただ、近江から質問されただけなら、俺もただの笑い話だと聞き流せただろう。

 だが、実際にそれを信じて俺に危害を加えた“アイツ”が、居る。

 一概に、ただの笑い話だと流せるものでもなかった。

 ──冗談じゃない。

 出会って数時間も経っていない人間と、昔から知っている幼なじみを信頼の秤にかけるほど、俺は馬鹿じゃない。

「助けてくれたことには、感謝します……けど、俺はアンタの話を……アンタを、信じられない」

 近江は、確かにあの男とは、違う。

 けれど、その存在が怪しいことには変わりなかった。

 僅かに鉄錆の味が残る口内。ぎっ、と奥歯を噛み締め、俺は視線を自分の手の甲に落とす。

 服の裾から覗く、包帯。俺をこんな状態にした人間と関わりのある人物なんだ、近江は──

 言い様のない気持ちが胸に込み上げ、思わずくしゃりと顔を歪める。

 と、

「ふふ……まあ、信じられなくても当然よね」

 口元に手を当て、突然そう発した内海は、くすくすと笑い声を上げ、近江を見つめるとより一層その笑みを深めた。

「刑事、なんて言っても所詮コイツは“普通”の刑事じゃないもの」

「え?」

「あら、分からない? 普通の刑事なら、まず“此処”には来ないと思うんだけれど」

 “此処”──。

 耳にした瞬間、ざわり、と俺の心がざわついた。

 真白く塗られた室内。消毒薬の薫る棚、滑らかな肌触りのシーツ。窓のない、部屋。

 まるで“病院のような”場所だと、感じていた。

 だが──


 ここ、は、どこだ?


 チクチクと首の裏を刺されるような緊張感。全身にかかる圧迫感。

 ここは、病院のような、場所なのに──俺の日常とはかけ離れた、世界に迷い込んでしまったような──違和感。

 先刻までとは、空気が、変わった気がした。

 じっとり。背中が、汗に濡れる。

 ざわざわと心の中を揺らす得体の知れない不安に耐えるように、ぎゅっ、とシーツの上で握り拳を作る──と、それを解消するかのように、甘く柔らかい声が答えを囁いた。

「此処はね、私の診療所。裏では非合法な方法で、“訳あり”の方を診たりする、一般人には分からない、内緒の場所。だからこそ、“普通”の刑事なんて来ないの」

「普、通……?」

「だって、謂わば此処は“金次第で、どんな人間でも”診る場所。“普通の神経を持った”刑事なら、まず来ないんじゃなくて?」

 言い、不思議そうにこてん、と首を傾げる内海は、近江へ視線を移すと口端を上げる。

 その内海の仕草に、近江は面白くなさそうに眉根を寄せると、眼孔を鋭くした。

近江(コイツ)は刑事だけれど、片足はもう、犯罪の道に突っ込んでる──ふふ、勿論、それを言うなら患者の生死を弄ぶ私もだけれど、ね?」

 紅い唇が、三日月の形を描く。

 いかにも楽しげに──世間話でもするかの如く話す内海に、俺はゾクリ、と背筋を凍らせた。

 普通、の、神経──そして、普通、じゃない、神経。でも、この人たちにとっては、これが普通、で。

 一般人と、犯罪者。

 その差が今、垣間見えた気がした。

「私も色々と好き勝手しているけれど、近江に見逃してもらっているし……」

「内海、あんまり余計なこと言ってんじゃねぇよ」

「あら、ごめんなさい」

 近江に注意され、軽く肩を竦めた内海は、子供のようにあどけない笑顔を見せると、でもね、と俺へ向き合う。

「こんな近江たちの言うことだから、貴方のお友達のこと、信憑性はあると思うのだけれど」

 優しく告げられた言葉に、刹那、俺は内海を思い切り睨み付けた。

「信じるか信じないかは、貴方自身が決めること──近江が言った通り、この話はまだ不確かなもの。ただ、何も情報がないままお友達の傍に居るのは、少し危ないじゃない」

「……その情報で、俺の光一に対する見方が変わったとしても……?」

「だから、始めに言ったでしょう? 一切責任は持たないって」

 悪戯に、惑わされている気分だった。

 今までの日常を、引っ掻き回され、乱され、──壊されていくような。

 光一が、犯罪者? 薬の売人?

 だから、俺は襲われた──?

 ひくり、と喉がひきつった。

 分からない。

 頭の中を、様々な感情がぐるぐると渦巻く。

 近江たちの話を、信じてはいない。いないのだが、分からないことが多すぎた。

 今は怖くも痛くもないはずなのに、俺の目頭はじんわりと熱くなってくる。

 胸が、ひどく苦しかった。

「なぁにがいじめるな、だよ。いじめっ子は俺じゃなくて、お前じゃねぇか」

「あら、だってつい意地悪したくなっちゃうんだもの」

 一人混乱から身体を強張らせる俺を尻目に、楽しげに会話をする二人は──外見からは受け取れないが、明らかに他とは違う──異常さを内に、狂気を住まわせていた。

 唐突に、この人たちは違う、と悟る。

 同じ言葉を発し、同じ人間であるのに……確かに、“なにか”が違うと察した。

 なにかが、違う。欠落している。

 それは、以前感じたことのある、気配だった──

「──怖いか?」

 無意識のうちに、浅くなる呼吸。汗をかく手のひら。

 近江たちに対し、恐怖を抱いていることは明らかだった。

 身動ぎ一つせず、否、出来ずに怯える俺を捉えた近江は、控えめにそう訊ねる。

 だが、俺は──嘘も真実(ほんね)も──口にしたくなく、ふいと顔を逸らした。

 たったそれだけの所作にも関わらず、バクバクと激しくなる鼓動。出来るだけ、近江と内海とは対峙していたくなかった。

 ──帰りたい。

 無性に、そんな気持ちに駆られる。

 心の底から湧く願望に、喉元を突く悲鳴を必死に堪えていると──俺の態度から何かを読み取ったらしい近江が、ぽつりと小さな声を零した。

「……本来なら、お前に言うつもりはなかった」

「え?」

「俺がこれを話すのは、アイツに──黒峰に、お前が、襲われたからだ」

 病院独特の鼻をつく匂いが脳内を揺らし、俺の神経を現実へと引き戻す。

 思わぬ近江の言葉に戸惑いを隠せずに居ると、視線の先に在った男の表情は忌々しい、とでも言いたげなものへと変貌していった。

「そもそも、黒峰のやつが勝手に動かなけりゃこんなことにはならなかったんだってのに……」

「今さらそれを言ったところで、仕方ないんじゃない?」

「だけどなぁ」

 黒峰──近江から紡がれる男の名に、俺は体を震わせる。

 俺が、奴に襲われなかったら、日常が壊れることもなかった、ということだろうか──

「あの、アイツ──黒峰って、いったい何なんですか?」

 気づけば、俺の口は勝手に問いかけていた。

 そう、そもそもの始まりは、黒峰だ。

 黒峰との出会いが、俺の日常を狂わせた。

 アイツは、いったい“何”だ──?

 真っ直ぐに近江を見据え疑問を投げると、狂気を潜めた男は一度顔を曇らせ──静かに、語った。

「──黒峰は、ARICEの服用者だ」

 ドクン、と。

 心臓が、一つ跳ねる。

 ARICE、服用者──殺人衝動の発作を、内に秘めた人物。

 黒峰、が……。

「黒峰は……昔、ある事件でARICEを打たれて以来、怒りの感情が昂ると殺人衝動が起こるようになってな……。だからか、それからは人とは関ろうともしないで、ただ、ARICEの製造元、売人──関わりあるすべてを恨んでいる」

 だから。

 黒峰は、光一と関わりのある俺を、襲い──殺しかけたというのか?

 光一が、売人と決まったわけでもいないのに。

 近江の話を聞き、俺は知らずぐっ、ときつく奥歯を噛み締める。

「黒峰はね、裏社会でも有名な人物で、近づこうとする人間はなかなか居ないの。狂暴性や危険性──ARICEを服用していることを差し引いても、手がつけられないウサギさん」

「ウサギ?」

「ARICE服用者の特徴よ。感情が昂り、殺人衝動が起きたとき、目が赤く充血するの。黒峰の白い髪にその赤い目から、ウサギって呼ばれているのよ」

 随分と肉食系のウサギだけれどね、と声を殺して笑う内海に、俺は何も返せずに居た。

 ARICE服用者──それが、近江とは違う、黒峰に感じた違和感なんだろうか。

 ARICEに関わるすべてを憎んで、壊そうとして──

 そういえば、なぜ、光一に目をつけたんだ?

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