1-1
例え何があろうと、必ず己が作り出した日常は訪れる。
そう、いかに命の危険に晒された事実があったにしても、朝はやって来て学校は始まるのだ。
──憂鬱という字に体を与えたとしたなら、正しく今の自分のような姿になるんじゃないだろうか……。
重い足取りで校門をくぐる俺の表情は暗く、この世の全ての不幸を背負ったかのように窶れきっている。
周囲の人々はこの俺の姿を見るなりそそくさと離れていくが、唯一──その背に、現在の心境とは対照的な、底抜けに明るい声がかけられた。
「おっはよー、夕也! どしたー、朝から暗いぞ?」
こてり、と。燦々と降り注ぐ陽光を受けながら、奇妙なものでも見るような目付きで小さく首を傾げる光一に、俺は重い溜め息を返す。
月曜日の朝から、こんなにも高いテンションで登校出来るほうが、よほど不思議だと思う。
特に、あんなことがあったばかりだというのに──
「……光一は、あれから何もなかった?」
「ん? おー。別に普通に過ごしてたけど。てか、あんな暗闇ん中で、顔なんかわかんねぇって」
あれから──俺が、例の通り魔と接触してから二日経った。
結局あの後、とてもじゃないが遊ぶという気分にもなれず、しかし家にも戻りたくないと言う俺の我が儘を聞き入れてくれた光一は、自分の家へと招いてくれた。
おかげで大分気分は落ち着いたものの、日曜日に家に戻った後も、俺は自室に一日中篭っていたのだが……。
(こいつの楽観的なところが少し……いやかなり羨ましい……)
昨日はスーパーの特売日で、おばちゃん達と取り合いになってさー、と。
あっけらかんとした調子でけらけらと笑う光一に、俺は再び溜め息を吐き出しつつ、額を押さえた。
警察には、通り魔と出会ったことは話していない。
とてもではないが気持ちにそんな余裕はなかった上に、下手に連絡をして犯人から恨みを買うようなこともしたくなかった。
まあ確かに光一の言うとおり、あの暗闇の中では互いの顔など満足に見えず、警察にいったところでろくな情報など提供出来ないだろうし──あちらもまた、俺たちの顔など分からなかっただろう。
(だからと言って、こうも簡単に思考を切り替えられるか……?)
光一は、犯人と接触した時間が短いというのもあるかもしれないが……。
──俺は、殺されかけたんだ。
濃紺が彩る狭い道。
コンクリートに包まれたビルを挟んだ方から聞こえる、人々の喧騒。
街の気配。
活気溢れる街の匂いを感じながら、薄闇の中出会ったのは白銀の髪、赤い目。
地に伏した男たち。
鉄錆の薫り。
振り下ろされた、鉄パイプ。
「……っ」
全身を刺すように当てられた殺気を思い出し、思わず身震いする。
こわい。
あいつは、あの瞬間“本気だったのだ”。
本気で、俺を──
「夕也?」
「……あ」
気遣わしげに顔を覗き込んできた光一を視界に入れ、俺はハッ、と我に返る。
「大丈夫か? なんか、顔色悪いぞ」
「あ、あ……大丈夫」
心配そうに表情を曇らせる光一に、無理やり笑顔を向けた。
これ以上心配をかけたくないという思いからの笑みだったが、光一の表情は戻らず──厳しい顔つきになる。
瞬間、ああミスった、と悟った。
「よし、夕也!」
「こ、光一……?」
何かを思い付いたかのように手を叩く光一に、俺は恐る恐る声をかける。
前髪の合間から見えた光一の目は、幼い子供を彷彿とさせるような輝きを放っていた。
こんな目をする時の光一は、ろくな事を口にしないと、長い付き合いの俺の勘が告げている。
「学校終わったら、遊びに行こう」
──そして、その予感は必ず当たるのだ。
「ちょ、おい、光一」
「んー?」
「俺、帰りたいんだけど……」
まるでオレンジジュースを浸したかのような橙色に染まる街中。
各々に帰路や寄り道など、様々な目的を持って足を進める人混みの中を、光一は縫うように掻き分けていく。
その後ろを付いていきながら、俺は前を行く背に声をかけた。
「まあまあ、俺が奢るって言ってんだし。少し付き合ってくれって」
「うう……」
駅前の噴水広場を横切ると、商店街のアーケードへ入っていく。
先を歩く光一は、ふんふんと今にも鼻歌を歌いそうなほどに機嫌がいいようだ。
対し、俺は終始落ち着きなく周囲に視線を巡らせていた。
先日の青年の殺気が、未だに体に残っていて剥がれ落ちない。
今にも再びあの殺気が飛んでくるのではないか、と人の群れに紛れながら、俺は青年の影に怯えていた。
自意識過剰(自分でも自覚はある)ともいえるくらいの俺の態度やしかし追い付いてこない気持ちに、気づいているんだろう──
普段からは絶対に考えられない光一の行動に、俺は申し訳ない思いを抱えながら奢ってもらったハンバーガーを、一口かじった。
ピエロを彷彿させるような格好をした人形が佇む横に設置されたベンチに、二人腰掛ける。
目の前を行き交う人の波を見つめながら、ふいに光一がぽつりと呟いた。
「華の男子高校生が二人並んでハンバーガー頬張る姿って、端から見たらかなりシュールだよなぁ」
「それ、口にしたら更に虚しくなるって考えなかったのか」
「言ってから気づきました」
……こいつは、何というか相変わらずだな。
どこまでもマイペースを貫く光一に、俺も一瞬ふっ、と気が緩む。
「自分で華って言ってる時点でアウトだな。ナルシストの気がある。まだまだ彼女は出来そうにないと見た」
「冷静に言葉で俺を追い詰めるのはやめて! ちょっと泣きそうだよ! 見ないで、そんな未来!」
うわぁ、と大袈裟に泣き真似をする光一に、俺もつい口元を綻ばせた。
いつものような軽口を叩いていると、自然と俺の気持ちも浮上してくる。
こんな些細なやり取りが、なぜかひどく久しいもののように感じられた。
「ううう、夕くんたら手厳しい……光ちゃん泣いちゃうから」
「夕くんて言うな。泣きたかったら泣けばいいだろ。その代わり、街中に一人置いていってやる」
「いやいや鬼畜すぎるだろ、その扱い! あれ? 俺たち友達だよね?」
「……そうだな。ものすごく距離感のある友達だったな」
「過去形!?」
他愛のないやり取りを繰り返しながら、泣き真似をする光一の隣でハンバーガーを咀嚼する。
光一が「夕也、捨てないでぇえぇ!」と叫ぶ度に通行人の痛い視線が突き刺さり──俺は無言のまま、問答無用でその頭を思い切り殴った。
「いだっ!」
「紛らわしいことを往来で言うな、ばか! 見ろ、周りから白い目で見られて……」
「まあまあ、それだけ仲がいいってことなんじゃないかなぁ」
「──え?」
突然ふって湧いた第三者の声に、俺と光一の声がハモる。
はっ、として背後を振り返ると、ベンチの背凭れに肘を乗せこちらを眺めながらニコニコと笑う男性の姿が在った。
短い金糸の髪に、細められた琥珀色の瞳。グレーのカットソーから覗く、彼を特徴付けるシルバーブレスレット。
見覚えのある人物の思わぬ出現に、俺は反射的にビクリと肩を揺らした。
「み、実さん……」
「久しぶりぃ」
やぁ、と呑気に片手を上げて挨拶をする男──実さんは、ベンチの背凭れに両肘をつき、面白いものでも眺めるように俺たちを見下ろしている。
……何やらかなりいたたまれないものを感じるのだが。
今までのやり取りを知り合いに見られていたかと思うと、俺は自然と頬が紅潮してくる──に対し、隣に腰かけている幼なじみはそうではないのか。あっけらかんとした態度で素直に己の心境を口にした。
「珍しいですね、実さんと街中で会うなんて」
俺との小芝居から一変、素早く身を整えた光一はそう言って実さんへと向き直る。
光一の住むマンションの隣の部屋に住む大学生──真山実は、年齢も近いということがあってか身寄りのない光一を何かと気にかけてくれている人物の一人だ。
隣部屋ということもあり、光一の家へ遊びに行った際、俺も何度か実さんと顔を合わせたことがある。
親しい間柄ではあるが、光一の言葉通りこうして外で会うことは無かったため、何だか今のこの状況が新鮮に感じられた。
変に間延びした声で「そうだねぇ」と相槌を打つ実さんに、光一はどこか人の悪い笑みを浮かべ──ベンチの背凭れにかけられている腕を肘で小突いた。
「あれでしょあれでしょ、例の如く懲りずにナンパでしょ? まーた失敗したんすか、この糸目先輩!」
「……。光ちゃんの気持ちはよぉく分かったよ。そろそろあの世が見たいんだね? そうなんだね?」
「ぎゃあああ! ギブギブギブ! 絞まってる絞まってますううう!」
糸目──そう称された双眸を更に細め、実さんは光一にヘッドロックをかける。
「さすがです、実さん。そのまま華麗にバックドロップも決めちゃってください」
「オーケー! 俺の美しい技をその目に焼きつけときな!」
「あれ、ちょっと何これ軽く死亡フラグ? 死亡フラグううう!?」
密かな実さんのコンプレックスを刺激した光一を、助けるはずもなく。
綺麗に地に沈められていく友人を見つめながら、俺は心中で合掌したのだった──。
「……で、実さんはこんなところで一体どうしたんですか?」
「んー? あ、そうそう。ナンパしようかなってその辺彷徨いてたんだけど、光ちゃんと夕ちゃんが居るの見えて、ちょっかいかけに来たんだった」
まさしく光一の指摘した通りの実さんの行動に、俺は思わず乾いた笑みを零す。
きっと、ナンパをしようとしていたのではなく、ナンパをした後だったのだろうということは、沈められた光一を見れば察しがついた。
「で、夕ちゃんたちはこんなとこで何してんの?」
「あー……よ、寄り道?」
「男二人でか……。わ、侘しいねぇ……」
つい言葉を濁した俺に、実さんは憐れむような眼差しを送ってくる。
……というより、ナンパを失敗したあなたにだけは言われたくないのだが。
「ああ、じゃあ八つ当たり半分で沈めちゃった光ちゃんには悪いことしたなぁ」
「やっぱり八つ当たりですか」
「あっはっはー。もちのろんさ」
あっけらかんとした態度で「ゴメンねぇ」と光一に平謝りする実さんは、それはそれはいい笑顔を浮かべていた。
(……この人と関わりを持っていることが、今更ながら不思議に思えてきた)
光一とはまた違うゴーイングマイウェイを、地で行く人らしい。
自然と寄ってくる眉間の皺を指先で揉み解していると、ふと視線を感じ、目線を上げた。光一からこちらへ顔を向けていた実さんは、俺と目が合うとにこりと微笑み──
その長い指先で、俺の額を弾いた。
「いだっ!?」
「今もっのすっごく失礼なこと考えてたでしょ?」
「い、いやぁ、そんなことは……」
「夕ちゃんはすぐ顔に出るから分かるよ」
デコピンをした指を左右に振り、どこか勝ち誇ったように実さんはそう告げる。
これはひょっとすると光一の二の舞フラグだろうか、と脳裏を過る思考に俺は頬をひきつらせるも、実さんは一つ大きく伸びをすると、くるりと身を翻した。
「さてさて。そんな失礼な夕ちゃん達には俺に付き合ってもらおうかなぁ」
「へ?」
「二十四時間耐久カラオケ……といきたいところだけど、明日も学校あるだろうし、今日はゲーセンで俺の嫁ゲット巡りで許してあげよう」
近場にあるゲームセンターの方向を指差しながら話す実さんに、俺は内心冷や汗を垂らす。
ヤバい。このままでは本当にUFOキャッチャーで彼の語る嫁とやらのキャラクターが取れるまで付き合わされることになるだろう。そして、嫁への熱いパトス──基、彼の見解する萌えとやらを懇切丁寧に語り尽くされるに違いない。
そうなった実さんは手に負えなくなる。
それだけはなんとしても避けなくては。
「ああっ、実さん! あちらに巨乳のロリ顔なお姉さんが、ミニスカに絶対領域の足を晒しながら喫茶店の前でガラの悪い男に絡まれてますぅ!」
「何ぃっ!? ちょ、それなんてギャルゲーフラグ?」
「巨乳ロリを助ける糸目……今ならまだフラグ立てに間に合いますよ!」
「それはすぐに助けなくては! 待っててマイ子猫ちゃーん!」
レッツゴーレッツゴー俺! そう掛け声をかけて走り出した実さんの背は、いっそ美しいほどに輝いていた……。
勿論、そんなお姉さんや男は居ないにも関わらず──指した方向へ消えていった実さんを見送った後、俺はひっそりと溜め息を吐き出した。
「……結局何だったんだ、あの人」
まるで嵐が去ったようだ。
実さんが人混みの向こうへと掻き消えたことを確認すると、ベンチ脇に置かれた鞄を手に取り、倒れ伏したままである光一を起こすため、俺は両足で思い切り踏みつけたのだった──
「容赦ない、本当に容赦ないよ、あの人!」
「いや、あれは100%光一が悪い」
いつものように二人肩を並べ駅へと向かう帰り道にて、光一は実さんを思い出しながら悔しげに歯噛みをする。
だが、光一にも全く非はないとは言い切れないため、俺が返す言葉はひどく素っ気ないものだ。
「夕也冷たい! ひどいわ、もう私に対する愛なんて冷めてしまったのね! 光一泣いちゃうんだから!」
「もう一度地に沈められたいなら、喜んでやってやるよ」
「ごめんなさいすみませんもう言いません」
見事に復活を果たしたとはいえ、さすがにもう一度技をかけられる気力も度胸もないらしい光一は、握りしめられた俺の拳を見るなり思い切り頬をひきつらせる。
その反応に俺は全く、と小さく息を吐き出すと注意深く周囲を見渡した。
「とにかく、実さんが戻ってくる前になんとか帰るぞ。バレたら今度はさっきの比じゃないくらいの仕打ちをされる」
「ういういさー! ま、実さんなら大丈夫だって! 糸目だし! バレなきゃいいんだし」
「糸目は関係ない……なんか、お前と居るとホントに肩の力が抜けるよ」
「あはははは、ならよかった」
まるで緊張感のない光一の笑顔に、俺は一気に脱力する。
実さんに見つかりでもしたら、今度こそ本当に二十四時間耐久カラオケにでもなりそうだというのに。
一人頭を痛めている俺の隣で、ふいに光一が小さな笑い声を零した。
「? なんだよ」
「いや、少しは気分が晴れたかなぁって」
「は……」
にこにこ──否、にやにやとした表現に近い笑みを口元に浮かべた光一は、俺を見つめて微かに瞳を伏せた。
それは、どこか悪戯が成功したような子供が見せる笑顔に似ていて。
俺は数時間前の自分の言動を思い出すと、片手で顔を覆った。
胸の中にあったしこりのような不安は、いつのまにか掻き消えていた。
「……まあ、晴れた、かな」
「そっか」
「でもなんかよく知らないが、それをお前に言うのは無性に腹がたつ」
「ええええええ」
残念そうな声を発する光一に聞こえるように盛大に舌打ちをし、ふいと顔を逸らす。そこには私欲も悪意も含まれていない、真っ直ぐに向けられる優しさだった──。
「ちょ、なんで、そこは普通感動とかしたりするとこじゃないですかね!?」
「……こんなとき、どんな顔をすればいいか分からないの」
「素直に笑えばいいと思うよおお!?」
俺と違い、素直な性格の光一なら、礼を言うことも簡単かもしれないが──。元来のひねくれた性格と羞恥心が邪魔をして、俺はとてもではないが光一の望むような返答は出来そうになかった。
確かに、まとわりつくような不安は消え、つい先ほどまですっかりと忘れてしまっていたほどだった。
しかし面と向かって礼を言うにはどこか照れ臭く、つい顔を逸らし──そこでふと、もしかして実さんも気遣ってくれていたのだろうかと考える。
珍しく遊びに粘った糸目の先輩の姿が、俺の脳裏に蘇るが──
(いや、さすがにそれはないか)
その可能性は、直ぐ様否定した。
あれは、ただ遊びに誘いたかっただけだ、絶対に…………まあ、でも。
「ううう、夕也のいけず! 冷血野郎!」
「こーういーちくぅーんー? その喧嘩喜んで買ってやろう」
「ぎゃああああ! すんませんでしたああああ!」
普段通りのふざけた和やかな空気。
なんだ、結局はいつも通りじゃないか──。
光一に技をかけながら、俺は今日は半殺しで勘弁してやろうと思った。
□ □ □
「俺は神に愛されているんだと思う」
まとまりのない喧騒が包む教室内。
次限が体育のため、各々が席で乱雑に制服を脱ぎ捨て堂々と着替える男子校特有の光景を尻目に、真正面に座る幼なじみ──光一は、おもむろにそんなことを口にした。
「なにそれよかったね」
「棒、読、み、す、ぎ、る! もう少し興味持とうよ! プリーズユアラブ!」
「直訳もしたくない下手くそな英語をありがとう」
またバカを言い始めたよこいつ、と。白い目で光一を見やりながら、俺はジャージに腕を通す。
只でさえ露出された肌を刺す冷気に顔をしかめるような陽気だ。寒い光一の話など聞く気もおきない。
未だ騒ぐ幼なじみの存在を出来るだけ視界にいれないようにしつつ、手早く準備を進めていった。
「く、クールすぎる……クールすぎるぜ夕也。……涙が出るくらいに冷たいんだぜ」
「俺は何も聞こえない何も見えない」
「全力でシカト!?」
「シカトです」
寒色である濃紺のジャージに身を包むと、俺はそこで漸く光一へと視線を注いだ。
若干崩した制服を着込んだままである光一は、俺の眼差しに一度閉口すると、ん? と問うように首を傾ぐ。
「……体調悪いんだから、大人しくしてろよ」
僅かに紅潮した頬に、荒い息遣い。自覚がないのだろう。いつもよりも高く感じる光一のテンションは、体調不良からくるものらしい。
周囲が帰れという中、微熱だから、と決して早退をしようとしない光一に対し、せめて体育は見学しろと俺は注意した。
ふざけているように見え、根は真面目な光一は誰かが目を光らせていないとすぐに無理をする癖がある。友人としては、こんなときくらい安静にしていてもらいたいのだが──
思考に一人頭を痛めていると、何故か頭痛の原因である人物はふいに嬉しそうに顔を綻ばせた。
「なに笑って……」
「それなんだ、俺が言いたかったのは!」
「は?」
「俺さ、朝から熱があるだろ?」
「だな」
「んでさ、頭がボーッとするなぁとか考えてたら、マンションの階段から盛大に落ちちゃってさ。そりゃもうゴロゴローと思いっ切り!」
「……。よく、学校に来れたな」
嬉々として語られる光一の不幸話に、俺は一瞬言葉が出なかった。
大丈夫だったのか、と心配が胸中を過ったが、この様子なら幸い無傷だったのだろう。
思わず安堵する俺の目の前で、光一はゆっくりと頭を縦に振った。
無傷だからこその「神に愛されている」発言だと思ったのだが──
「うん。幸い、重い打撲みたいので済んだ」
「病院行けぇえ!」
幸い、でも、神に愛されてもいない。
青く鬱血した右腕を晒しながら、にっこりと笑う光一の額目掛け、俺は拳を振るった。
グラウンドを吹き抜ける風の冷たさに、眉をひそめる。鉛色をした厚い雲が頭上を覆い、重い気持ちを更に沈めていった。
背後に佇む校舎にかかる影が、不思議と物寂しい雰囲気を漂わせている。
それは、いつも傍に居る煩い存在がいない今の俺の心境を表しているかのようだった。
授業開始のチャイムと同時に担当教師の指示に従い、準備運動の後にトラックを走るクラスメイトに混じり並走していると、ふいに背に声がかけられた。
「なあ、夕也。光一のやつ、病院に行ったんだって?」
「ああ……熱がある上に怪我してたから。先生に言って、病院に連れてってもらった」
「またか……。光一もついてないな」
そう呟いたクラスメイトは、思わずといった風に表情を歪めた。
その言葉に同意するように、俺も小さく吐息する。
──光一の怪我は、すでに日常茶飯事ともいえるものだった。
好奇心にまかせあちこちを歩き回り、一つのことに夢中になっては注意力が散漫し、怪我をしている。
瀬野光一という人間を一言で表するなら、まさしく『アホ』であった。
よく端から見る人には、光一が俺の面倒を見ているように感じるらしいが、実際は俺のほうが光一の面倒を見ている。
(昔も、よく出歩いては迷子になってたっけ)
その度に俺が捜しに行き、そうして俺も迷子になるという二次被害みたいなものが発生していた。
結局、十六夜や母さん逹が迎えに来てくれたのだが。
──ああ、でもあの頃は仕方なかったのかもしれない。
一定のリズムで揺れる視界の中、目前に映るクラスメイト逹の背に、幼い時の光一の姿を重ねる。
いつも一人でどこかに行ってしまう光一を、捜すことは俺の役目にもなっていた。
光一を引き取った叔父さん夫婦と俺の家族は交流があり──何より、光一と俺自身の仲もよかったからだ。光一を捜すことは、頭で考えるより先に体が動いていたといったほうが正しいかもしれない。
しかし、光一は学校裏の森の中や、橋の下やらと──予想外の場所を出歩いたりしていたため、小学生だった俺が捜し出すのは容易なことではなかった。
それでも何とか捜し出すと、光一は決まって微かに赤く腫れた目で俺を見つめ、はにかんだように笑うのだ。──泣いていたのだろうということは、子供ながらもすぐに想像できた。
その時は、光一は叔父さん夫婦の前では泣けないから、一人泣ける場所を探しては泣いているのだと思っていた。
(でも、本当は……)
瞳を伏せた刹那、ジャリ、とスニーカーの底が土を噛み、皆が動きを止める気配に、はっと我に返る。
「久長ー、ぼんやりするなー」
「あ、はい」
体育教師に考え事を指摘され、軽く首を竦めると、俺も皆の後に続き列へと並ぶ。
追憶の影は教師の号令により霧散し、俺の脳内も一気に現実へと引き戻された。
一日とは、こんなにゆっくりと時間が流れるものだっただろうか。
授業終了の鐘と同時に生徒逹が席を立ち、部活や帰路につく姿を視界の端に入れながら、俺も机脇にかけられた鞄を手に取る。
今日は不思議と、いつもよりも授業が長く感じた。──それは内心、早く終われと願っていたことも原因の一つかもしれないが。
「夕也、光一のとこに見舞いに行くのか?」
「ああ、一応様子を見に行こうかと」
「そっか。俺、部活があるから行けないけど、お大事にって伝えといて」
「了解」
すっかり俺と光一は二人でセット、のようなイメージがあるらしい同級生は、俺にそう声をかけると足早に教室を後にしていった。
別に四六時中一緒に居るわけではないのだが、幼なじみとなるとやはり一番仲が良いという印象が先にくるらしい。まあ実際、そうなのだが。
高校でも光一のお守りか、と内心溜め息を吐き出しつつ、しかし帰宅部であり放課後特に予定のない俺は、早退した幼なじみの自宅へと足を進めるのだった──
(果物とか……何か消化のいい物買っていけばいいか)
熱がある上に利き腕を怪我した光一でも食べられるような物を脳内でピックアップしつつ、駅の方角へと向かう。
我ながら健気なことだと思う。これは光一が復活したら、焼き肉でも奢ってもらわないとな、と腹で冗談めかしたことを考えつつ、駅前の商店街へと足を踏み入れた。
夕方特有の賑わいを見せる店々の間を歩き回り、商品を物色する。俺は料理が出来ないため、買っていくとなると出来物になってしまうがこの際仕方ないだろう。
さすがに、弱った光一に俺が作った物を食べさせる気にはなれない。
──自分で言うのもなんだが、俺の料理は常識の範疇を軽く越えているらしく……いわば、クソ不味い、らしい。
昔、調理実習の授業でひどく教師に怒られた記憶が瞼の裏に蘇り、店先でつい苦笑を零す。
過去の記憶に想いを馳せ、無意識に足を止めていると、ふいに背後を通った女子逹の会話が耳に飛び込んできた。
「ねぇねぇ、さっきすれ違った男の人さ、かっこよくなかった?」
「うん。モデルか何かかなぁ。背もかなり高かったよね」
モデル──?
こんな片田舎に、そんな職業柄の人が果たして来るのだろうか。
彼女逹の唇から落とされた単語に、ふと興味を引かれ、背後を振り返ろうと半身を逸らした。
刹那。
──突然、視界一杯に真白い手が映り込んだかと思えば、次の瞬間、それは俺の口を塞いだ。
「!?」
「よォ」
驚愕に悲鳴をあげる間もなく、ぐっ、と長い指先が頬に食い込み、一瞬息が詰まる。
どんっ、と後頭部が何かにぶつける気配がし、俺は背後に居る人間に押さえ込まれているのだと咄嗟に理解した。
いきなりのことに対処出来ず、一人目を白黒させている俺の頭上から、やけに落ち着いた声が鼓膜を打ち──瞬間、どくりと心臓が一つ嫌な音を立てた。
こ の 声──。
どくどくと早鐘を鳴らす心臓に急かされるかのように、ゆっくりと頭を持ち上げる。
上手く呼吸が出来ない状態のまま、真上に眼球を動かし──俺の体は、硬直した。
「数日ぶりだな」
視線の先に広がる、白銀の髪。逆光により縁取られる、細い輪郭。形のいい唇の端を持ち上げ、俺を見下ろすその顔立ちには、見覚えがあった。
『あいつが、通り魔だ』
鼓膜の内側で、光一の声が再生された。
──通り魔。
血塗れで倒れ伏していた人たちの中、一人佇んでいた人物。鉄パイプを振り上げ、俺を襲おうとした──数日前に対峙した男が、確かにそこに、居た。
「──っ!」
理解すると同時に、一気に全身を言い様のない恐怖が駆け抜ける。
なんで、どうして。どうして、此処に。
歯の根が噛み合わず、口内でガチガチと音を鳴らす中、脳内をまとまりのない疑問が飛び交った。
男の触れている指先が異様に冷たく感じ、そこから伝染したかの如く足も震えだす。
「そう怯えるな。聞きたいことを聞いたら、解放してやるよ」
緊迫した空気を宥めるかのように僅かに声音を和らげると、男の漆黒の双眸が周囲へ向けられる。
周りからは俺たちは知り合いのようにでも見えるのか、人々は一度興味本意に視線を投げるだけで、特に気にすることもなく各々に足を進めていってしまう。
誰も、俺の異常な状況に気づいてはいないようだった。
「ここじゃあさすがに人目につくな。場所変えるか」
暫し周りを探るように動かしていた瞳を細め、男は舌打ちを落とす。
駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ! 逃げなくては……っ!
しかし思いに反し、俺の体は石のように固まり、動いてはくれない。
大声を出して叫ぼうにも、男の指先が死神の鎌のように俺の首筋に添えられており、それが「助けを呼ぶなら、すぐにでも殺す」と脅しているようだった。
否、実際そうなのだろう。男から漂う空気は、俺に対する明らかな敵意を孕んでいる。
腕を掴まれ、思い切り引かれるも、俺は恐怖からまともな反抗すら出来ないでいた──。
商店街の喧騒から離れた位置に存在する路地。放置されたままになっている錆び付いた自転車の横を通り抜け、更に奥へと入っていく。
そうして人の目につかない場所へと来ると、男は俺の胸ぐらを掴み、古びたコンクリートの塀へと乱暴に叩きつけた。
「が……っ!」
背筋に走る衝撃に、息を詰まらせ表情を歪める。
後頭部がずきずきと鈍痛を発し、思わず目を眇めた。
そうしてこれからされる事を予想して、体が小刻みに震え、指先が冷たくなっていく。
──先日の仕返しか、口封じのために殺されるか。
どちらにしよ、俺に降りかかるは一方的な暴力だ。
想像して、俺は一気に顔が青ざめる。
嫌だ。嫌だ嫌だ嫌だ! 怖い怖い助けて。
今になって漸く回ってきた思考回路に、判断能力。しかし、必死に眼球を動かし、辺りを見回すも俺たち以外の人の気配はない。
──どうする?
懸命に何か案はないかと考えるが、先刻の人通りの中だったならまだしも、今逃げ出せるとは考えられなかった。
「逃げようなんて思うなよ」
まるで考えを見透かしたかのように告げられた男の言葉に、俺は肩を跳ねさせる。
まずい、と思い顔を俯かせると漆黒の双眸が俺の瞳を覗き込んだ。
漆黒──そこには、数日前の殺意を孕んだ紅の色はなかった。しかし、獰猛な肉食獣のような鋭さや敵意は明らかに秘められており、俺は身を固くする。
心臓を、鷲掴みにされたかのような感覚だった。
男は暫し様子を窺うように俺に視線を這わし──やがて何もする気がないと判断したのか、小さく口を開くと静かに問い掛けてきた。
「アイツは、一緒じゃあねェんだな」
──アイツ?
男の質問に、俺は顔をしかめる。
俺が理解していないことを察すると、男は苛立たしげに一つ舌打ちをし、続けた。
「お前と、逃げた奴だ」
刹那、薄暗い路地の道を走り、俺を助けてくれた幼なじみの姿が記憶の海から呼び起こされた──。
光一──。
男が示しているのは、間違いなく光一のことだ。
こいつは、俺だけじゃなく光一も狙っている──?
驚愕から瞳を見開く俺の目の前で、男は薄い笑みを浮かべる。
「勘違いするな。俺が用があるのはテメェじゃなく、あの野郎だ」
光一、に?
俺に何かをするわけではないと察すると、思わずほっと安堵する。
次いで、一体なんで、と疑問が胸に込み上げてきた。
目撃者の口を封じたいなら、俺も狙われるはずだ。
なんで、光一だけを──。
「アイツの名前。吐いたら離してやるよ」
口元を弧に描いたまま、男は片手でぐぐっ、と俺の首元を締め上げる。
息苦しさのあまりに男の手首を掴むと、細やかな抵抗とばかりに爪を立てた。
この男が光一に一体何の用があるかは分からないが、少なくとも仲良く話をしようなどといった類ではないことは確かだ。
(光一、の、名前……)
言えば、解放してくれるという。この痛みや、恐怖から。だが、友人を売るようなことをしろというのか。
制服の襟を締め上げられる力が更に強まり、目の前が霞んでくる。
息苦しさから、生理的な涙が零れ落ち、頬を伝った。
閉じられた唇が、死の足音を近づけている。その事実が、俺の理性を奪っていく。
言ってしまえば、解放される。楽になる。
言わなきゃ、殺される。
──嫌だ。
(死にたく、ない)
俺は、まだ死にたくない。
死にたくない死にたくない死にたくない死にたくなんか、ない──!
ふー、と荒い呼気だけがこの場に響く中、俺はゆっくりと口を開く。
それを捉えた男が、締める腕の力を僅かに緩めた。
そうだ、言ってしまえば、楽になる。
この男の目的が何か知らない今なら、言ってしまったとしても、罪悪感に駆られることもないじゃないか。
光一に危害を加えるかだって、まだ分からない。
名前くらい、言ってしまったって──
まるでそれが正しい事だとでも言うかのように、俺はゆっくりと唇を開いた。
「ぁ……」
声に出そうと瞳をうっすらと見開いた瞬間、ふっ、と瞼の裏に幼い光一の泣き顔が蘇る。
ぐしゃぐしゃに歪められた表情。苦しそうな声。
刹那、俺の声帯は機能を停止した。
──光一。
「……おい?」
喉をひきつらせ、不自然に動きを止めた俺に男は怪訝げな視線を向ける。
男は何の反応も示さない俺を窺うように顔を覗き込み──
瞬間、その白い頬に赤い線が走った。
「っ!」
男は反射的に険しい表情を作ると、咄嗟に俺の首元から手を離す。
俺は背後によろめきながら思い切り咳き込むと、押さえつけられていた首を片手で撫でた。──その指の爪先から、赤い液体が滴り落ちる。
「テメェ……ッ」
引っ掛かれた。
俺の抵抗に激怒したらしい男の眼光が、鋭利さを増す。
先刻よりも一層低くなった声音に、俺は内心ヤバい、と冷や汗をかいた。
今さらながら、自分のした行動に後悔する。
「あ、の……なんで光……その、アイツに、用が……?」
しどろもどろになりつつ、俺は必死に自分の行いを誤魔化そうと糸口を探す。
どう考えても、この男の危険性は明らかだ。
何とか気を逸らし、逃げるタイミングはないかと周囲に神経を集中させる。
と、
「──テメェも、……アイツの仲間なのか?」
ぽつり、と。
男の口から落とされたどこか諦めたような言葉に、俺がえっ、と顔を上げ──ようとした時だった。
「!?」
すぐ目の鼻の先に迫った手が、再び俺の首を捕らえる。
同時に、俺の体は上方に持ち上げられ、かはっ、と短い吐息が唇から漏れた。
苦しい……っ!
じたばたと懸命に手足をばたつかせるも、男には少しの抵抗にもなっていないようだった。
「──吐け」
有無を言わせない声が、耳を打つ。
ぐっ、と首に長い指が食い込んだ。一気に熱が頭に集まる。顔が真っ赤に染まっていく気配が分かった。
痛い苦しい熱い!
思考はその言葉だけに埋め尽くされる。ドクドクと脈打つ心臓が、悲鳴をあげているようだった。
ふいに、ぎらぎらとした光を宿した双眸が、下から覗き込んだ。
男から放たれる殺気が、全身に突き刺さる。
その気に当てられ、俺はひっ、と短い悲鳴を上げ動きを止めた。
「吐かねぇンなら──」
殺す。
音にならない言葉の続きを、空気で感じ取った。
ぎりっ、と男の指先が首筋に食い込む。
気管が圧迫され、俺は上手く呼吸が出来ず、金魚のように口をパクパクと開閉させた。
本気──
この男は、本気だ。
人の生死をその手に握っているというのに、男の冷静な声が俺の鼓膜を冷ややかに打ち付ける。
こいつは、俺を殺すことに何の感情も抱いていない。躊躇いも、恐怖も、哀れみすらも──。
──怖い!
苦しさからだけではない目尻に溜まった涙が、音もなく頬を伝う。
まるでその反応を楽しむかのように、男は眼を細め口元に嘲りの笑みを浮かべると──指先に込めていた力を抜き、俺を放した。
「……っ!」
突如肺に戻ってくる息が、全身を駆け巡る。背後の壁づたいにずるずるとその場に崩れ落ちると、俺は思い切り噎せ込んだ。
「ゲホッ、ゴホッ……!」
「で、言う気になったかよ?」
ぐい、と前髪を引っ張られ、無理矢理上を向かされる。うっすらと瞳を開くと、嘲笑し、俺を見下ろす男の顔が見えた。
遊んでいる──。
それは明らかに、俺の苦しむ姿を見て楽しんでいる目だった。
屈辱と痛みから、表情が歪んでいく。
なんで、俺がこんな目に遭わなくちゃいけない──?
悔しさから、プライドが恐怖を上回り半ば意地で首を左右に振る。
誰が、お前に言ってやるものか……!
奥歯を噛み締め下から睨み上げると、男の額に血管が浮かぶのが見てとれた。両眼が充血し、紅く染まっていく。きつく引き結ばれた唇の端が、思い切り歪んだ。
まずい──。
そう悟った瞬間には、すでに男の拳が俺の頬を捉えていた。
がんっ、と鈍い音と激しい衝撃とともに、俺の体は横に飛ぶ。
「っぅ!」
横向きにその場に転がされ、クラクラと視界が揺れる中、俺はそこで漸く自分が殴られたのだと気づいた。
「げ、ほっ……ぐ、ぅっ……」
じんじんと痛む鼻先、半身。ぬるりとした液体が口内に流れ込み、鉄錆の味を舌先に広げる。鼻から流れ出る真っ赤な血を目にした瞬間、目の前が霞んでいくようだった。
──血。
自分から流したそれに、無意識に全身を驚愕とショックが襲う。
そうして、ただ感じる。
男から受けた暴力が、痛い。自分に危害を加える男が、怖い。
「……あ、ぁ……」
手足を動かし、情けなく這いずりながら男と距離を置こうとするも、次いで畳み掛けるように俺の鳩尾に蹴りが飛んでくる。
爪先が皮膚を抉るように食い込み、一瞬息が止まった。
「ぐ、ぅっ!」
反射的に両腕で腹を抱え込み、体を丸める。胃の中の物が喉元にまで込み上げてきた。
必死に歯を噛み締め嘔吐感を堪えていると、その間すら許さないように男の暴力が降り注ぐ。
体勢を整えようと頭を上げようとする度に、男の拳や足がそれを崩していった。
殴る、殴る、殴る、蹴る、蹴る、蹴る──。
腕や足を殴られ踏みつけられ。
圧倒的な力で上から潰され、数分も経たないうちに俺はただ体を丸めてうわ言の如く何度も「ごめんなさい」と繰り返していた。
「ぐっ……うぇ! あぐ、ぁ……ごめ、なさ……」
「…………」
「い、う……いう、から……ぁっ!」
許しを乞いながら口を開くと、唇の端から唾液や嘔吐物が零れ落ちる。
涙で汚れた視界のまま男を見上げると、それまで無感動の色を宿していた赤い瞳が、ふいに大きく見開かれた。
と、
「やめろ、黒峰──!!」
黒峰──。
暗い脇道に、突然上がった緊迫した声。
(だれ……?)
その制止の声に、視線の先に居た男の肩がピクリと揺れ反応し──。
遠くから近づいてくる足音が鼓膜を打ったのを最後に、俺の意識は暗転した。