魔王国に潜入して十年。帰国目前で、次の魔王に推薦されました。
「魔王陛下、討ち取られました!!」
南方侯の居城に、一騎の早馬が駆け込んできた。
馬は泡を吹き、乗り手は泥と血にまみれていた。馬から転がり落ちるように降りた伝令は、兵士に支えられながら、なおも叫んだ。
「王都陥落! 魔王陛下は勇者との戦いに敗れ、近衛軍も壊滅! 勇者軍はすでに王城を制圧しております!」
城内が騒然となった。
伝令に詰め寄る者、その場にへたり込む者、上官を呼びに走る者。
まあ、無理もない。
なにしろ、この国で一番偉い人が死んだのである。
ちなみに、俺はというと。
(よっしゃああああ!!)
心の中で盛大に拳を突き上げていた。
もちろん、顔には出さない。
十年だ。
サンクティア王国の密命を受け、ドゥンケル魔王国へ潜入してから、実に十年。
最初の五年間は南方侯の信頼を得るために働き、ようやく腹心と呼ばれるようになった頃、魔王陛下が人間の王国を征服すると言い出した。
潜り込むのが間に合ってよかった。
心底、そう思ったものである。
もっとも、戦争など起きないに越したことはない。勝とうが負けようが、祖国に損害は出るのだから。
俺の名はルキウス。サンクティア王国の秘密工作員だ。
祖国を脅かす勢力があれば、その動向を探り、必要とあれば排除する。それが仕事である。
そして今回、その脅威が一つ消えた。
喜ばずにいられようか。
「ルキウス!」
振り返ると、南方侯が真っ青な顔で立っていた。
こめかみから伸びる一対の角を除けば、人間とさほど変わらない顔立ちだけに、血の気が引いているのがよく分かる。
「聞いたか! 陛下が、陛下が討たれたそうだ!」
「……まことに、痛ましいことでございます」
俺は沈痛な面持ちで頭を垂れた。
十年間で培った演技力の見せどころである。
「王都まで落ちたというぞ。まず、何から手をつけるべきだ?」
「領内の軍を掌握するのが先決かと存じます」
ドゥンケル魔王国には、東西南北を治める四人の大諸侯がいる。
それぞれが広大な領地と独自の軍を持ち、魔王に臣従している。いわゆる封建制だ。
魔王が死んでも、四侯の軍が消えるわけではない。
そして南方侯は、その一人だった。
「各地の将兵が独断で動く恐れがございます。軍の無断移動を禁じ、敗残兵の収容を急ぎましょう」
「王都へ向かおうとする者も出るか」
「陛下の仇討ちを唱える者もおりましょう。まずは所在と兵数を報告させるべきです」
南方侯は近くの兵士に、各軍の指揮官と街道警備の責任者を呼ぶよう命じた。
この方は、決して愚かな人ではない。ただ、少々心配性が過ぎるのである。
想定外の事態には動揺するが、部下の意見を聞き、よいと思えば採用する。人間である俺の進言も例外ではなかった。
おかげで俺は、ずいぶんと出世させてもらった。
「お前がいてくれてよかった」
「もったいないお言葉にございます」
本当に、いい領主なのだ。
俺の祖国にとって、脅威であることを除けば。
そもそも南方侯のもとへ潜り込んだのは、その領地が祖国と国境を接しているからだった。
守備兵を増やすのか、街道を整備するのか、兵糧を集めるのか。侵攻の兆候をつかむには、これ以上ない場所である。
実際、五年前に魔王が開戦を決めたときも、南方侯は最後まで反対した。
南方領では人間との交易も行われていた。
わざわざ戦を始め、その往来を断ち、自分の領地を戦場にする理由がない。
俺も軍事上の問題をいくつも指摘したが、魔王は聞く耳を持たなかった。
結果、南方領は戦火にさらされ、国境沿いの城や村を失った。
王国軍の反攻によって、いまだ戻っていない土地もある。
だからこそ、これ以上の戦争は避けたい。
少なくとも、俺としては。
その後、南方侯の名で各地へ命令を発した。
王都へ向かいたいという将軍には、まず兵糧と軍馬の数を報告するよう指示しておいた。
これで少しは静かになるだろう。
諸々の手配を終えた頃、城の奥から使いが走ってきた。
「閣下! 四侯による緊急会議の招集が!」
南方侯が俺を振り返った。
「ルキウス、お前も来てくれるな?」
「無論でございます」
俺は恭しく一礼した。
四侯がそろえば、戦争を終わらせる話も進むはずだ。
なにしろ、魔王陛下はもういない。
俺は意気揚々と、南方侯の後ろについて会議室へ向かった。
■■■
南方侯が床の魔法陣に手をかざすと、室内に三人の男の姿が浮かび上がった。
東方侯、西方侯、北方侯。
エルフの東方侯は、人間でいえば壮年ほどの顔に疲れをにじませていた。
獅子の獣人である西方侯は、挨拶も待たずに言った。
「ようやく終わったか」
白狼の獣人である北方侯が、それを訂正する。
「陛下の戦いはな。我らの戦争は、まだ終わっておらん」
できれば、まとめて終わってほしかった。
魔王国と呼ばれてはいるが、魔族だけの国ではない。
獣人もエルフも、人間も暮らしている。四侯にしても、魔族なのは南方侯だけだった。
そして、この四人はそろって開戦に反対していた。
それでも魔王は直属軍を動かした。
四侯は臣従の契約に縛られ、魔王へ直接刃を向けることができない。反対しても聞き入れられず、討って止めることもできなかった。
だから、南方侯は勇者軍を通した。
俺の進言によって。
町や村には手を出させず、魔王直属軍との戦いに向かわせる。
南方侯には領地を守る判断であり、俺には祖国の軍を王都へ送り込む仕事だった。
残る三侯も、魔王の救援には動かなかった。
おかげさまで、任務は大いに捗った。
感謝の言葉は、胸の内にしまっておく。
「王都には、まだ勇者軍がいる」
東方侯が議論を始めた。
「四侯連名で使者を送り、停戦を申し入れたい」
「異存はない。勝手に始められた戦争だ。これ以上、兵を失ってたまるか」
「南方侯はいかがか」
西方侯に続き、北方侯がこちらへ問いかけた。
南方侯は三侯を見渡して答えた。
「私も同意する。勇者軍には、撤退まで領内で争いを起こさぬよう求めたい」
「こちらの軍も動かさぬということでよいな?」
「すでに無断移動を禁じた。敗残兵の収容も進めておる」
東方侯は、使者に持たせる書状へその旨を加えると言った。
「手回しがよいな」
「ルキウスの進言だ」
三人の視線がこちらへ向いた。
俺は南方侯の一歩後ろで、黙って頭を下げた。
「勇者軍を通したのも、その者の献策だったな」
北方侯の言葉に、南方侯の声が少し明るくなる。
「うむ。人間との折衝では、実に頼りになる」
「では、今度も働いてもらうか」
東方侯が言った。
待ってください。
今、何か決まりませんでしたか。
「勇者軍には使者を送るとして、王国本国の意向も知っておきたい。魔王を討って満足するのか、さらに我らの領地まで求めるのか」
「ふむ。ルキウスなら、王国の町にも入りやすかろう」
南方侯が俺を振り返った。
「お前、冒険者として活動していたことがあったな?」
「はい。以前、王国の冒険者ギルドに籍を置いておりました」
「では、一度王国へ赴き、内情を探ってきてくれ。手段は任せる」
俺は返答する前に、頭の中で予定を組み直した。
王国への帰還。
悪くない。いや、願ってもない機会だ。
実のところ、半年前から本国との連絡が途絶えていた。
定期的に届いていた指示が止まり、こちらから連絡を試みても返事がない。
俺の所属する組織は、秘密保持のために指揮系統が厳重に分けられている。
担当の上司と連絡が取れないからといって、別の者へ気軽に問い合わせるわけにはいかなかった。
とはいえ、戦争中に人間の俺が勝手に国境を越えれば、不審を招く。
十年かけて築いた信頼を失うわけにもいかず、機会を待っていたのである。
そこへ、南方侯直々の命令だ。
人間だから帰れなかったのに、人間だから帰れることになった。
ありがたい。種族は変わっていないのだが。
「承知いたしました。王国の動向を探り、速やかにご報告いたします」
「頼んだぞ」
俺は神妙な顔で、その任を拝した。
十年ぶりの祖国だ。
少しくらい懐かしいものを食べても罰は当たるまい。
魔王は死んだ。
四侯も停戦を望んでいる。
ようやく、長かった任務に区切りがつくかもしれない。
このときの俺は、そう思っていた。
■■■
国境を越えるとき、王国の兵士に職業を尋ねられた。
「冒険者だ」
「魔王国で何をしていた?」
「雇われ仕事を少々」
兵士は通行証と俺の顔を見比べた。
「今は?」
「雇い主に頼まれて、王国の様子を見に来た」
兵士の手が止まった。
正直すぎた。
「人間の国へ帰っても大丈夫か、気にしていてな。商売を再開できるかどうか」
「ああ、そっちか」
兵士は通行証を返し、後ろの荷馬車へ向かった。
嘘は少ない方がいい。
ただし、省くところは選ばなければならない。
背後の砦には、王国の旗が立っていた。
五年前には、南方侯の紋章が掲げられていた場所だ。
閣下が取り返したがるのも分かる。
だからといって、返して差し上げるわけにはいかない。
俺は通行証をしまい、王都へ向かった。
■■■
十年ぶりの王都は、思っていたより騒がしかった。
広場には酒樽が運び込まれ、勇者をたたえる歌が流れていた。
まだ帰ってもいない英雄の像を造ろうと、寄付を募る者までいる。
気が早い。
本人が似ていないと言い出したら、どうするのだろう。
屋台で焼きたての肉を買った。
一口かじる。
この香辛料だ。
魔王国の料理も悪くないが、どうにも味つけが違う。
十年も暮らせば慣れると思っていたのに、舌は案外しつこかった。
もう一本買うか迷い、やめた。
仕事が先だ。
上司は、表向きには王宮に勤める役人だった。
俺が知っているのは、その名前と屋敷、それから連絡に使ういくつかの場所だけである。
まずは屋敷へ向かった。
門前を通り過ぎ、中の様子をうかがう。
紋章が変わっていた。
近くの店で道を尋ね、ついでに以前あの屋敷に住んでいた方はどうなったのかと聞いた。
「亡くなったよ。半年ほど前だったかね」
「亡くなった?」
「馬車の事故だそうだ。あんた、知り合いかい」
「昔、世話になったことがあって」
店主は気の毒そうに、葬儀には大勢の人が来ていたと教えてくれた。
礼を言って店を出る。
半年。
連絡が途絶えた時期と合う。
なるほど。
困った。
十年間の任務を報告する相手がいない。
帰ってよいか尋ねる相手も、給金の話をする相手も。
いや、給金はいい。
南方侯から十分にいただいている。
問題は、俺を知る者が組織の中にどれだけ残っているかだ。
王宮の門を叩き、「秘密工作員です」と名乗るわけにはいかない。
証明しようとして潜入先の話を始めれば、敵国の間者が自白したと思われかねなかった。
実際、今は敵国の偵察任務で来ている。
身分というのは、説明するほど怪しくなるものらしい。
昔使っていた連絡場所を二つ回った。
どちらにも、引き継ぎを知らせる印はない。
三つ目へ向かう途中で、尾行に気づいた。
露店の刃物を眺め、磨かれた刃に街路を映す。
男が一人、反対側の店先で足を止めた。
せっかく帰ってきたのに、もう働かなければならないのか。
俺は人通りの少ない路地へ入った。
角を二つ曲がり、軒下で待つ。
足音が近づいた。
「十年ぶりに帰ってきて、最初に買うのが肉串か」
聞き覚えのある声だった。
路地の入口に、旅装の男が立っていた。
髪は短くなり、左の眉に傷が増えていたが、人を小馬鹿にした口元は変わらない。
「お前か」
「ずいぶんな挨拶だな」
「もう一本買っておけばよかった」
男は俺の後ろを確かめ、路地へ入ってきた。
昔、一度だけ任務を共にした相手だった。
互いの持ち場を詳しく知っていたわけではない。それでも、仕事の腕と祖国への忠誠は知っている。
「帰還命令か」
「偵察命令だ」
「どこの」
「南方侯」
男の口元が動いた。
「出世したな」
「帰ってきたら上司が死んでいた。お前、何か知らないか」
通りから荷車の音が聞こえた。
男はそれが遠ざかるのを待って答えた。
「事故だ。少なくとも、俺が調べた限りではな」
「引き継ぎは?」
「お前への連絡が止まっていたなら、うまくいっていないんだろう」
他人事のように言う。
他人事だから仕方がない。
仕方がないが、腹は立つ。
「組織につなげるか」
「つなげる。だが、その前に手を貸してほしい」
嫌な言い方だった。
十年前にも聞いたことがある。
あのときは、二日で終わると言われた仕事に半月かかった。
「俺は帰国したばかりだぞ」
「ちょうどいい。王都でお前を覚えている者は少ない」
「休暇を勧める流れだろう、そこは」
男は懐から折り畳んだ紙を取り出し、俺の手に押しつけた。
「王太子殿下が狙われている」
紙を受け取る手が止まった。
広場の歌声が、ここまで届いていた。
魔王は死に、戦争は終わった。誰もがそう信じて、酒を飲んでいる。
俺は紙を懐へしまった。
「どこまで分かっている」
「実行役が王都に入った。背後にいるのは、ニヒリア帝国だ」
十年ぶりの祖国である。
懐かしい相手に会い、懐かしい味を楽しみ、少しばかり休めると思っていた。
どうやら、肉串一本で終わりらしい。
■■■
連れていかれたのは、宿屋の二階だった。
男は寝台の下から鞄を引き出した。
中に着替えはなく、書類と短剣が詰まっている。
旅支度の趣味も変わっていない。
「まず、これを見ろ」
卓上に広げられた地図には、王宮から神殿へ続く道に赤い線が引かれていた。
「明後日、王太子殿下が戦勝の奉告に出る」
「中止させればいい」
「それは上に伝えた。俺たちは実行役を追う」
仕事の分担は明快だった。
中止になっても、暗殺者が王都から消えるわけではない。
俺は渡された紙を開いた。
二人の男の人相と宿の名、それから帝国で使われている偽名が記されていた。
「よく帝国の人間だと分かったな」
「向こうで見た顔だ」
「お前、帝国にいたのか」
「今はここにいる」
相変わらず、仕事の話になると愛想がない。
俺も南方侯のもとで何をしてきたか、全部話すつもりはないので、お互いさまである。
「二人を捕らえるだけでは駄目なのか」
「連絡役がいる。指示と金を運んでいる」
「そいつも押さえたいわけか」
相棒は宿の裏手を指した。
「今夜、来る」
■■■
連絡役は、日が落ちてから現れた。
灰色の外套をまとった、小柄な男だった。
宿の表には回らず、裏口から中へ入っていく。
向かいの空き部屋から、その姿を見送った。
「知っている顔か」
相棒に尋ねられ、俺は首を振った。
見覚えはない。
だが、歩き方に妙なところがあった。
左足を引きずっているのに、段差を越えるときには、そちらへ平気で体重をかけている。
「あの足、怪我じゃないな」
「何か隠しているか」
「長い物を脚に沿わせている。剣か、書類筒か」
相棒は裏口へ目を戻した。
「出てから分かる」
俺たちは別々に部屋を出た。
連絡役が宿を離れたのは、半刻ほど後だった。
俺は先に通りへ出て酔客の一団に紛れ、相棒が男の後ろにつく。
男は二度道を変え、店の窓に背後を映した。
警戒はしているが、尾行を見つけた様子はない。
橋を渡ったところで、相棒が男の外套を踏んだ。
留め具が外れ、布が肩から滑る。
振り返った腕を相棒が取り、俺は正面へ回った。
男が口を開く前に、腹へ拳を入れる。
膝が折れたところを支え、橋の下へ運んだ。
通りからは、酔いつぶれた友人を介抱しているように見えただろう。
戦勝祝いの最中だ。酔っ払いには事欠かない。
「右の袖」
俺が告げると、相棒は男の手首から細い刃を抜き取った。
左脚に隠してあったのは、書類筒だった。
■■■
宿へ戻り、男を椅子に縛った。
相棒が荷物を調べる間、俺は書類筒を開けた。
中には二通の書状が入っていた。
一通は、実行役への指示書。
王太子の移動経路と警備の人数、それぞれの配置が記されている。
もう一通は、帝国側への連絡だった。
《勇者軍の帰還を遅らせる。停戦協議の間に決行されたし》
署名も紋章もない。
俺は書状を相棒へ渡した。
「魔王国にも、帝国の協力者がいるようだな」
「交渉を長引かせられる立場の者か」
「あるいは、そういう者に取り入っているかだ」
相棒は書状を読み直し、実行役の指示書と並べた。
魔王を討って、ようやく停戦に向かうところだった。
その裏で、次の戦争の支度をしている者がいる。
余計な仕事を増やしてくれる。
「そちらは俺が戻ってから探る。まずは殿下だ」
「実行役を押さえるぞ」
「ああ。こいつの帰りが遅いと気づかれる前に」
俺は書類筒を閉じた。
二人の実行役は、夜明け前に捕らえた。
宿の主人を装って扉を開けさせ、一人目を相棒が押さえる。
寝台から起き上がった二人目は、俺が床へ伏せさせた。
鞄から出てきたのは、王宮の衛兵の上着だった。
明後日には、これを着て殿下をお迎えするつもりだったらしい。
お勤めに出る前で何よりだ。
三人を引き渡して宿へ戻ると、相棒がようやく椅子に座った。
「組織への連絡はついた。お前の件も引き継がせる」
「助かる。今度の上司には、長生きしていただきたいな」
相棒は紙へ店の名と合言葉を書き、俺へ差し出した。
「次からは、ここへ連絡しろ」
「停戦については?」
「本国も応じる意向だ。中央を抱え続ける気はないらしい」
四侯の領地を越えた先にある王都を、いつまでも守ってはいられない。
戦争を終え、賠償を得て兵を帰す。祖国にとっても、それがよい。
「魔王国側の協力者をつかんだら知らせる」
「一人で無理をするなよ」
「十年間、ほとんど一人だったんだが」
相棒は少し考え、言い直した。
「今度は知らせろ」
俺は連絡先を覚え、紙を火にくべた。
■■■
「よく戻った!」
南方侯は、俺の顔を見るなり執務机から立ち上がった。
机には書状と地図が積まれている。
俺が留守にしていた間も、仕事は順調に増えていたらしい。
「王国はどうだ」
「停戦に応じる意向です。勇者軍を引き揚げさせたいと考えております」
「そうか!」
閣下の声が弾んだ。
俺は続けて、王都の様子と王国側で聞いた話を報告した。
戦勝に沸いてはいるが、四侯の領地へ攻め込む支度は見られない。
中央からの撤退は、賠償などの条件が整えば可能だろう。
南方侯は書記を呼び、俺の報告をほかの三侯へ送るよう命じた。
「こちらも、勇者軍との協議は始めておる。ただ、向こうも本国の返答待ちでな」
「では、話は進めやすくなるかと」
「うむ。お前を行かせて正解だった」
閣下は机上の地図を俺へ向けた。
中央の街道に、勇者軍の位置が記されている。
「撤退が決まったら、通過する町にも知らせねばならん。兵が戻ってくるとなれば、住民も不安になろう」
「往路と同じく宿営地を定めましょう。食糧の売買も、窓口を設けた方が混乱せずに済みます」
「その手配も頼む。お前なら、向こうの者とも話が通じる」
帰ったばかりだが、仕事には歓迎されているようだ。
「ところで、王国では何か騒ぎがあったのか」
地図を片づけながら、南方侯が尋ねた。
「騒ぎ、と申しますと」
「王太子が狙われたとか。妙な噂が入ってきておる」
「私も耳にしました。実行役は捕らえられたそうです」
閣下は地図を巻き、棚へ戻した。
「物騒なことだ。戦争が終わろうというのに」
「まことに」
「王太子は無事なのだな」
「はい。王国の政務にも、支障はないようです」
南方侯は次の書状を取り上げた。
「では、こちらも停戦の支度を進めるとしよう」
俺は一礼し、執務室を辞した。
■■■
自分の部屋へ戻ると、留守中の報告が山になっていた。
王国で一晩働き、帰ってきたらこの有様である。
祖国も潜入先も、人使いが荒い。
軍からの報告を先に読む。
兵の移動はなく、敗残兵の収容も進んでいる。
夕刻には、各軍の指揮官を集めた。
「勇者軍との停戦協議が進んでいる。命令があるまでは、今の配置を維持してくれ」
「王国軍が戻ってきた場合は?」
「撤退のための通過なら、こちらから手を出すな。宿営地と経路は、決まり次第知らせる」
地図を囲んだ指揮官たちが、持ち場を確かめる。
十年も働けば、顔ぶれも覚える。
誰に何を任せればよいかも、誰が命令を曲げて解釈するかも。
「独断で戦を始めるなよ。手柄が欲しければ、兵を一人も欠かさず帰してやれ」
一人が苦笑した。
心当たりはあったらしい。
その後は勇者軍との協議の記録を読み、三侯へ送る報告を整えた。
王国で手に入れた話も、こちらで必要になる話もある。
全てを同じ書状に書くわけにはいかない。
そこが、俺の仕事の面倒なところだった。
■■■
二度目の四侯会議は、その翌日に開かれた。
俺は前回と同じく、南方侯の一歩後ろに控えた。
魔法陣の光の向こうで、東方侯が書状を広げる。
「王国本国も、停戦に応じる意向とのことだ。勇者軍からも、条件を詰めたいと返答が来ている」
西方侯が、待ちかねたように言った。
「金で兵を帰せるなら、その方がよい。王都を取り返すために王都を焼いては、何をしているのか分からん」
「額については交渉が要る。だが、王国も中央を抱え続けたいわけではないようだ」
北方侯の言葉を聞き、俺は胸の内で帰路の日数を数えた。
賠償の額が決まり、勇者軍が引き揚げる。
国境が落ち着けば、長かった仕事にも区切りがつく。
できれば、冬になる前に帰りたい。
「では、使節に条件交渉を進めさせよう」
「待ってくれ」
南方侯の声に、俺は帰路の計算をやめた。
「中央は返されるとして、私の領土はどうなる」
「王国が押さえている国境沿いの土地か。先方は、今回の撤退とは別の問題として扱うつもりだ」
北方侯が答えると、南方侯は身を乗り出した。
「それでは困る」
「交渉は続けられる。だが、まずは戦を止めねばなるまい」
「そなたらとは違い、私の領土は人間に奪われている」
三侯が黙った。
南方侯は机上の地図へ手を置いた。
そこに記された国境線は、五年前とは違っている。
「私も開戦には反対した。だが、陛下は兵を動かし、私の土地が戦場になった。城を失い、村を失い、そのうえ賠償を払って終われというのか」
「それは分かっておる」
東方侯が答えた。
「だからこそ、これ以上の損害を避けたい。奪還のために戦を続け、残った領地まで失えばどうする」
「取り戻す手立てがないとは限らん」
俺は南方侯の隣へ進んだ。
「ニヒリア帝国のことでございますか」
閣下の手が、地図の上で止まった。
三侯の視線が俺へ向く。
俺は南方侯に向き直り、返答を待った。
「……何の話だ」
「閣下が勇者軍の撤退を引き留めておられると知り、留守中の往来を調べました。こちらへ出入りしている商人の一人が、帝国の連絡役でございます」
俺は懐から、折り畳んだ紙を取り出した。
城への出入りの記録に残っていた名を、机上へ示す。
「停戦協議の間に、帝国が王国へ兵を向ける。そのために勇者軍を引き留めておられるのではありませんか」
西方侯が椅子から身を起こした。
「南方侯。まことか」
南方侯は答えず、俺を見ていた。
「ルキウス。お前は……」
「王国は、王太子殿下の暗殺未遂を受けて警戒を強めております。今から帝国が動いても、奇襲にはなりません」
「それでも、帝国が動けば」
「その保証を、得ておられますか」
返答はなかった。
「閣下の兵には、現在の配置を維持させております。勇者軍も健在です。ここで再戦すれば、今度こそ南方領が両軍の戦場になります」
「私に、土地を諦めろというのか」
「帝国の都合で、残った土地まで賭けるべきではないと申し上げております」
東方侯が、南方侯へ呼びかけた。
「帝国との約定を、我らにも明かしてもらおう。貴公の領土の話で済む段階ではない」
俺は南方侯の隣で、判断を待った。
祖国の工作員として告発したのではない。
主君の危険な計画を知り、諸侯の前で諫めた。
どうか、そのように受け取っていただきたい。
十年間の勤務態度には、それなりの自信がある。
■■■
南方侯は、しばらく黙っていた。
やがて、机の引き出しから鍵を取り出した。
「奥の箱だ。帝国からの書状が入っている」
俺は鍵を受け取り、執務机の脇にある箱を開けた。
数通の書状を取り出し、三侯の前で読み上げる。
帝国が王国へ兵を向ける。
南方侯は停戦協議を引き延ばし、勇者軍の帰還を遅らせる。
王太子の暗殺は、その攻撃に先立って行われる手はずだった。
「王国の次は、帝国と国境を接するつもりか」
北方侯が尋ねた。
「その帝国が、貴公の土地を返した後、おとなしく引き揚げる保証はあるのか」
「王国が占領を続ける保証なら、すでにある」
南方侯は即座に答えた。
北方侯も、それには反論しなかった。
「この状況で軍を動かすことには、同意できん」
東方侯が話を引き取った。
「停戦協議は続ける。帝国との話は打ち切ってもらおう」
「我らは、次の戦争を始めるために陛下を見送ったのではないぞ」
西方侯の言葉に、南方侯は地図へ目を落とした。
三対一。
しかも、肝心の軍を動かす指揮官たちは、俺の指示を待っている。
「……今は、兵を動かさぬ」
返ってきたのは、それだけだった。
■■■
会議を終えると、南方侯は俺に言った。
「二人で話すことも、できたはずだ」
「閣下が思いとどまられなければ、私には止められません」
「お前なら、勝てる策を考えると思っていた」
閣下の指が、地図の国境線をなぞった。
「停戦したところで、私の土地は戻らん」
「交渉は続けます」
「何年かけてだ。その間も、あそこでは王国の旗が翻る」
俺は答えなかった。
「帝国には、私から話す。使者が来たら通せ」
「承知いたしました」
閣下は、まだ諦めていない。
十年仕えた。
それくらいは分かる。
■■■
帝国の使者が訪れたのは、三日後だった。
商人を装った男を、南方侯は応接室で迎えた。
俺もその傍らに控える。
「勇者軍の撤退が始まると伺いましたが」
使者は挨拶を終えるなり切り出した。
「まだ決まってはおらん。だが、三侯は停戦を進めるつもりだ」
「閣下のお考えは?」
「そちらこそ、今後どう動く。王太子の暗殺は失敗したのであろう」
使者の目が、俺へ向いた。
南方侯は退席を命じなかった。
「この者は承知している」
「……では、すでにお話しになったのですね」
使者は鞄へ手を入れた。
次の瞬間、南方侯の喉に細い針が突き立った。
椅子が倒れる。
俺は剣を抜き、卓越しに身を伸ばしてきた男の胸を貫いた。
使者が床へ崩れたところで、扉を開く。
「医師を! 閣下が襲われた!」
兵が駆け込んできた。
俺は南方侯の傍らへ膝をつき、その体を支えた。
閣下の口が動いたが、言葉にはならなかった。
医師が到着したときには、もう息はなかった。
■■■
帝国の使者に南方侯が殺された。
城内は騒然となったが、軍は動かなかった。
各指揮官へ、持ち場を守るよう命じる。報復を叫ぶ者には、閣下の葬儀を敵軍に囲まれて行いたいのかと尋ねた。
ひとまず、静かになった。
三侯からは、後継者が決まるまで南方領を取りまとめるよう命じられた。
望むところである。
次の領主が余計なことを考える前に、停戦をまとめてしまえばいい。
夜になって部屋へ戻ると、相棒から返書が届いていた。
《帝国側へ伝わったことを確認した》
南方侯が密約を三侯に明かした。
証拠の書状を携え、王国との停戦交渉に臨もうとしている。
そう知らせてもらった。
帝国は、こちらの誘導通りに口封じの使者を送り込んできた。
あとは、その仕事を邪魔しなければよかった。
うまくいった。
主君の仇を討った腹心を、疑う者はいない。
十年間、世話になった方だ。
だが、祖国の王太子を殺そうとした以上、生かしてはおけなかった。
返書を火へ落とし、机に向かう。
三侯への報告。
南方軍への指示。
勇者軍へ送る、協議再開の書状。
主君を失った腹心には、悲しむ暇もない。
まことに、都合のよいことだった。
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停戦協議は、南方侯が亡くなってからの方が早く進んだ。
三侯の承認を得て、俺が使節を率いた。
相手は祖国の軍である。何を欲しがり、何を嫌がるかは、よく知っていた。
とはいえ、言い値で承知するわけにはいかない。
魔王国の金を預かっている以上、働きぶりを疑われては困る。
賠償額を削り、支払いを分け、勇者軍の撤退日を決めた。
王国側にも、これ以上兵を国外へ置いておきたくない事情がある。
最後の書状に双方が署名したときには、三侯から預かった額を下回っていた。
祖国にも不足はない。
潜入先にも損はさせない。
我ながら、よい仕事だった。
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勇者軍の最後尾が国境を越えるのを、砦の上から見送った。
長い隊列の先には、祖国がある。
馬を走らせれば、夕方にはあちらの町で飯が食えるだろう。
「ルキウス様」
振り返ると、南方軍の指揮官が立っていた。
「全軍、予定どおり通過しました」
「ご苦労。こちらの兵も、順に持ち場へ戻してくれ」
「承知しました。これで、ようやく終わりますな」
俺は国境の向こうへ目を戻した。
「ああ。終わりだ」
魔王は死んだ。
帝国の暗殺計画は潰れ、南方侯もいない。
王国へ攻め込もうとしていた軍は動かず、停戦も成立した。
あとは、預かった仕事を次の南方侯へ渡すだけである。
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城へ戻って数日後、三侯から呼び出しを受けた。
俺は南方侯の席の傍らに立ち、一礼した。
「勇者軍の撤退は完了いたしました。南方軍も通常の配置へ戻しております」
「南方侯を失った影響は、どうだ」
北方侯の問いに、用意していた報告を返す。
「各指揮官は命令を守り、滞りなく任務を果たしております。新たな南方侯が決まれば、問題なくお引き渡しできるでしょう」
軍を勝手に動かす者はいない。
引き継ぐべき仕事も整理した。
あとは、受け取ってくださる方を待つだけだ。
「まるで、身を引くような言い方だな」
俺は、いささか驚いた顔を作った。
「そのつもりでおりましたが」
「ほう。なぜだ」
「前任の側近が軍に口を出し続けては、新たな閣下もお働きになりにくいでしょう」
北方侯は答えず、先を促すように俺を見た。
「誰の指示を仰ぐべきか、兵たちを迷わせるわけにもまいりません。引き継ぎを終えた後は身を引き、故郷へ戻らせていただければと存じます」
どうだ。
新しい領主への配慮として、申し分ないはずだ。
西方侯が低く笑った。
「そこまで考えておったか」
「南方侯には、長くお世話になりましたので」
最後まで忠実に。
そう見せるためなら、言葉はいくらでも選べる。
「確かに、貴殿をそのまま残せば、新たな南方侯も気を遣おう」
東方侯の言葉に、俺は内心で拳を握った。
よし。
話が通じる。
「だが、故郷へ戻るというのは待ってもらいたい」
握った拳を、そっとほどいた。
「……何か、まだ不手際がございましたでしょうか」
「逆だ。貴殿には、別の役目を頼みたい」
俺は三侯を見渡した。
北方侯が言った。
「次の魔王を、誰にするかという話だ」
なるほど。
その選定が終わるまでは、南方領を預かっていろということか。
「我らの誰かが即位すれば、力が一方へ偏る。かといって、また戦争を始めるような者を据える気はない」
西方侯の言葉には、全面的に賛成である。
「王国と交渉でき、我らの事情も分かる者がよい。軍をまとめ、種族を問わず人を使える者だ」
ずいぶんと注文が多い。
……なぜ、三人とも俺を見ている。
「貴殿は、南方侯の計画を止めた」
東方侯の声に、俺は顔を上げた。
「主君亡き後も軍を乱さず、停戦をまとめ、王都を取り戻した。そのうえ、得た権限に執着せず、次の者へ譲ろうとしている」
待ってほしい。
今のは、帰るための話だった。
「私は、閣下に仕える者として務めを果たしたにすぎません」
「十分だ。我らは、その働きを見ている」
「しかし、私は人間でございます」
西方侯が、当然のように答えた。
「知っておる」
そうでしょうね。
そこは、一度も隠していない。
隠しているのは、別のことだ。
「先代は魔族だったが、その前は獣人だ。貴殿が人間であることに、我らは異論を持たぬ」
東方侯は、もう話が済んだような顔をしていた。
俺は王国の秘密工作員である。
祖国への脅威を取り除き、潜入先に正体を悟られぬよう、忠実な腹心として働いてきた。
ようやく、その役目を終えられるはずだった。
東方侯が、厳かに告げた。
「次代の魔王には、貴殿こそふさわしい」
(えぇ~、マジかよ……)
END
某スパイドラマの影響で、二重スパイものを書きたくなって生まれたお話です。
潜入先で頑張りすぎた工作員の、ままならない出世話になりました。
お楽しみいただけたら嬉しいです。




