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魔王国に潜入して十年。帰国目前で、次の魔王に推薦されました。

作者: 小笠原ゆか
掲載日:2026/10/20

「魔王陛下、討ち取られました!!」


南方侯の居城に、一騎の早馬が駆け込んできた。


馬は泡を吹き、乗り手は泥と血にまみれていた。馬から転がり落ちるように降りた伝令は、兵士に支えられながら、なおも叫んだ。


「王都陥落! 魔王陛下は勇者との戦いに敗れ、近衛軍も壊滅! 勇者軍はすでに王城を制圧しております!」


城内が騒然となった。

伝令に詰め寄る者、その場にへたり込む者、上官を呼びに走る者。


まあ、無理もない。

なにしろ、この国で一番偉い人が死んだのである。


ちなみに、俺はというと。


(よっしゃああああ!!)


心の中で盛大に拳を突き上げていた。

もちろん、顔には出さない。


十年だ。

サンクティア王国の密命を受け、ドゥンケル魔王国へ潜入してから、実に十年。


最初の五年間は南方侯の信頼を得るために働き、ようやく腹心と呼ばれるようになった頃、魔王陛下が人間の王国を征服すると言い出した。


潜り込むのが間に合ってよかった。

心底、そう思ったものである。


もっとも、戦争など起きないに越したことはない。勝とうが負けようが、祖国に損害は出るのだから。


俺の名はルキウス。サンクティア王国の秘密工作員だ。

祖国を脅かす勢力があれば、その動向を探り、必要とあれば排除する。それが仕事である。


そして今回、その脅威が一つ消えた。

喜ばずにいられようか。


「ルキウス!」


振り返ると、南方侯が真っ青な顔で立っていた。

こめかみから伸びる一対の角を除けば、人間とさほど変わらない顔立ちだけに、血の気が引いているのがよく分かる。


「聞いたか! 陛下が、陛下が討たれたそうだ!」

「……まことに、痛ましいことでございます」


俺は沈痛な面持ちで頭を垂れた。

十年間で培った演技力の見せどころである。


「王都まで落ちたというぞ。まず、何から手をつけるべきだ?」

「領内の軍を掌握するのが先決かと存じます」


ドゥンケル魔王国には、東西南北を治める四人の大諸侯がいる。

それぞれが広大な領地と独自の軍を持ち、魔王に臣従している。いわゆる封建制だ。


魔王が死んでも、四侯の軍が消えるわけではない。

そして南方侯は、その一人だった。


「各地の将兵が独断で動く恐れがございます。軍の無断移動を禁じ、敗残兵の収容を急ぎましょう」

「王都へ向かおうとする者も出るか」

「陛下の仇討ちを唱える者もおりましょう。まずは所在と兵数を報告させるべきです」


南方侯は近くの兵士に、各軍の指揮官と街道警備の責任者を呼ぶよう命じた。


この方は、決して愚かな人ではない。ただ、少々心配性が過ぎるのである。

想定外の事態には動揺するが、部下の意見を聞き、よいと思えば採用する。人間である俺の進言も例外ではなかった。


おかげで俺は、ずいぶんと出世させてもらった。


「お前がいてくれてよかった」

「もったいないお言葉にございます」


本当に、いい領主なのだ。

俺の祖国にとって、脅威であることを除けば。


そもそも南方侯のもとへ潜り込んだのは、その領地が祖国と国境を接しているからだった。

守備兵を増やすのか、街道を整備するのか、兵糧を集めるのか。侵攻の兆候をつかむには、これ以上ない場所である。


実際、五年前に魔王が開戦を決めたときも、南方侯は最後まで反対した。


南方領では人間との交易も行われていた。

わざわざ戦を始め、その往来を断ち、自分の領地を戦場にする理由がない。


俺も軍事上の問題をいくつも指摘したが、魔王は聞く耳を持たなかった。


結果、南方領は戦火にさらされ、国境沿いの城や村を失った。

王国軍の反攻によって、いまだ戻っていない土地もある。


だからこそ、これ以上の戦争は避けたい。

少なくとも、俺としては。


その後、南方侯の名で各地へ命令を発した。

王都へ向かいたいという将軍には、まず兵糧と軍馬の数を報告するよう指示しておいた。


これで少しは静かになるだろう。


諸々の手配を終えた頃、城の奥から使いが走ってきた。


「閣下! 四侯による緊急会議の招集が!」


南方侯が俺を振り返った。


「ルキウス、お前も来てくれるな?」

「無論でございます」


俺は恭しく一礼した。


四侯がそろえば、戦争を終わらせる話も進むはずだ。

なにしろ、魔王陛下はもういない。


俺は意気揚々と、南方侯の後ろについて会議室へ向かった。



■■■



南方侯が床の魔法陣に手をかざすと、室内に三人の男の姿が浮かび上がった。


東方侯、西方侯、北方侯。


エルフの東方侯は、人間でいえば壮年ほどの顔に疲れをにじませていた。

獅子の獣人である西方侯は、挨拶も待たずに言った。


「ようやく終わったか」


白狼の獣人である北方侯が、それを訂正する。


「陛下の戦いはな。我らの戦争は、まだ終わっておらん」


できれば、まとめて終わってほしかった。


魔王国と呼ばれてはいるが、魔族だけの国ではない。

獣人もエルフも、人間も暮らしている。四侯にしても、魔族なのは南方侯だけだった。


そして、この四人はそろって開戦に反対していた。


それでも魔王は直属軍を動かした。

四侯は臣従の契約に縛られ、魔王へ直接刃を向けることができない。反対しても聞き入れられず、討って止めることもできなかった。


だから、南方侯は勇者軍を通した。

俺の進言によって。


町や村には手を出させず、魔王直属軍との戦いに向かわせる。

南方侯には領地を守る判断であり、俺には祖国の軍を王都へ送り込む仕事だった。


残る三侯も、魔王の救援には動かなかった。


おかげさまで、任務は大いに捗った。

感謝の言葉は、胸の内にしまっておく。


「王都には、まだ勇者軍がいる」


東方侯が議論を始めた。


「四侯連名で使者を送り、停戦を申し入れたい」

「異存はない。勝手に始められた戦争だ。これ以上、兵を失ってたまるか」

「南方侯はいかがか」


西方侯に続き、北方侯がこちらへ問いかけた。

南方侯は三侯を見渡して答えた。


「私も同意する。勇者軍には、撤退まで領内で争いを起こさぬよう求めたい」

「こちらの軍も動かさぬということでよいな?」

「すでに無断移動を禁じた。敗残兵の収容も進めておる」


東方侯は、使者に持たせる書状へその旨を加えると言った。


「手回しがよいな」

「ルキウスの進言だ」


三人の視線がこちらへ向いた。

俺は南方侯の一歩後ろで、黙って頭を下げた。


「勇者軍を通したのも、その者の献策だったな」


北方侯の言葉に、南方侯の声が少し明るくなる。


「うむ。人間との折衝では、実に頼りになる」

「では、今度も働いてもらうか」


東方侯が言った。


待ってください。

今、何か決まりませんでしたか。


「勇者軍には使者を送るとして、王国本国の意向も知っておきたい。魔王を討って満足するのか、さらに我らの領地まで求めるのか」

「ふむ。ルキウスなら、王国の町にも入りやすかろう」


南方侯が俺を振り返った。


「お前、冒険者として活動していたことがあったな?」

「はい。以前、王国の冒険者ギルドに籍を置いておりました」

「では、一度王国へ赴き、内情を探ってきてくれ。手段は任せる」


俺は返答する前に、頭の中で予定を組み直した。


王国への帰還。

悪くない。いや、願ってもない機会だ。


実のところ、半年前から本国との連絡が途絶えていた。

定期的に届いていた指示が止まり、こちらから連絡を試みても返事がない。


俺の所属する組織は、秘密保持のために指揮系統が厳重に分けられている。

担当の上司と連絡が取れないからといって、別の者へ気軽に問い合わせるわけにはいかなかった。


とはいえ、戦争中に人間の俺が勝手に国境を越えれば、不審を招く。

十年かけて築いた信頼を失うわけにもいかず、機会を待っていたのである。


そこへ、南方侯直々の命令だ。


人間だから帰れなかったのに、人間だから帰れることになった。

ありがたい。種族は変わっていないのだが。


「承知いたしました。王国の動向を探り、速やかにご報告いたします」

「頼んだぞ」


俺は神妙な顔で、その任を拝した。


十年ぶりの祖国だ。

少しくらい懐かしいものを食べても罰は当たるまい。


魔王は死んだ。

四侯も停戦を望んでいる。


ようやく、長かった任務に区切りがつくかもしれない。


このときの俺は、そう思っていた。



■■■




国境を越えるとき、王国の兵士に職業を尋ねられた。


「冒険者だ」

「魔王国で何をしていた?」

「雇われ仕事を少々」


兵士は通行証と俺の顔を見比べた。


「今は?」

「雇い主に頼まれて、王国の様子を見に来た」


兵士の手が止まった。


正直すぎた。


「人間の国へ帰っても大丈夫か、気にしていてな。商売を再開できるかどうか」

「ああ、そっちか」


兵士は通行証を返し、後ろの荷馬車へ向かった。


嘘は少ない方がいい。

ただし、省くところは選ばなければならない。


背後の砦には、王国の旗が立っていた。

五年前には、南方侯の紋章が掲げられていた場所だ。


閣下が取り返したがるのも分かる。

だからといって、返して差し上げるわけにはいかない。


俺は通行証をしまい、王都へ向かった。



■■■




十年ぶりの王都は、思っていたより騒がしかった。


広場には酒樽が運び込まれ、勇者をたたえる歌が流れていた。

まだ帰ってもいない英雄の像を造ろうと、寄付を募る者までいる。


気が早い。

本人が似ていないと言い出したら、どうするのだろう。


屋台で焼きたての肉を買った。


一口かじる。

この香辛料だ。


魔王国の料理も悪くないが、どうにも味つけが違う。

十年も暮らせば慣れると思っていたのに、舌は案外しつこかった。


もう一本買うか迷い、やめた。


仕事が先だ。


上司は、表向きには王宮に勤める役人だった。

俺が知っているのは、その名前と屋敷、それから連絡に使ういくつかの場所だけである。


まずは屋敷へ向かった。

門前を通り過ぎ、中の様子をうかがう。


紋章が変わっていた。


近くの店で道を尋ね、ついでに以前あの屋敷に住んでいた方はどうなったのかと聞いた。


「亡くなったよ。半年ほど前だったかね」

「亡くなった?」

「馬車の事故だそうだ。あんた、知り合いかい」

「昔、世話になったことがあって」


店主は気の毒そうに、葬儀には大勢の人が来ていたと教えてくれた。


礼を言って店を出る。


半年。

連絡が途絶えた時期と合う。


なるほど。


困った。


十年間の任務を報告する相手がいない。

帰ってよいか尋ねる相手も、給金の話をする相手も。


いや、給金はいい。

南方侯から十分にいただいている。


問題は、俺を知る者が組織の中にどれだけ残っているかだ。


王宮の門を叩き、「秘密工作員です」と名乗るわけにはいかない。

証明しようとして潜入先の話を始めれば、敵国の間者が自白したと思われかねなかった。


実際、今は敵国の偵察任務で来ている。


身分というのは、説明するほど怪しくなるものらしい。


昔使っていた連絡場所を二つ回った。

どちらにも、引き継ぎを知らせる印はない。


三つ目へ向かう途中で、尾行に気づいた。


露店の刃物を眺め、磨かれた刃に街路を映す。

男が一人、反対側の店先で足を止めた。


せっかく帰ってきたのに、もう働かなければならないのか。


俺は人通りの少ない路地へ入った。

角を二つ曲がり、軒下で待つ。


足音が近づいた。


「十年ぶりに帰ってきて、最初に買うのが肉串か」


聞き覚えのある声だった。


路地の入口に、旅装の男が立っていた。

髪は短くなり、左の眉に傷が増えていたが、人を小馬鹿にした口元は変わらない。


「お前か」

「ずいぶんな挨拶だな」

「もう一本買っておけばよかった」


男は俺の後ろを確かめ、路地へ入ってきた。


昔、一度だけ任務を共にした相手だった。

互いの持ち場を詳しく知っていたわけではない。それでも、仕事の腕と祖国への忠誠は知っている。


「帰還命令か」

「偵察命令だ」

「どこの」

「南方侯」


男の口元が動いた。


「出世したな」

「帰ってきたら上司が死んでいた。お前、何か知らないか」


通りから荷車の音が聞こえた。

男はそれが遠ざかるのを待って答えた。


「事故だ。少なくとも、俺が調べた限りではな」

「引き継ぎは?」

「お前への連絡が止まっていたなら、うまくいっていないんだろう」


他人事のように言う。


他人事だから仕方がない。

仕方がないが、腹は立つ。


「組織につなげるか」

「つなげる。だが、その前に手を貸してほしい」


嫌な言い方だった。


十年前にも聞いたことがある。

あのときは、二日で終わると言われた仕事に半月かかった。


「俺は帰国したばかりだぞ」

「ちょうどいい。王都でお前を覚えている者は少ない」

「休暇を勧める流れだろう、そこは」


男は懐から折り畳んだ紙を取り出し、俺の手に押しつけた。


「王太子殿下が狙われている」


紙を受け取る手が止まった。


広場の歌声が、ここまで届いていた。

魔王は死に、戦争は終わった。誰もがそう信じて、酒を飲んでいる。


俺は紙を懐へしまった。


「どこまで分かっている」

「実行役が王都に入った。背後にいるのは、ニヒリア帝国だ」


十年ぶりの祖国である。


懐かしい相手に会い、懐かしい味を楽しみ、少しばかり休めると思っていた。


どうやら、肉串一本で終わりらしい。



■■■



連れていかれたのは、宿屋の二階だった。


男は寝台の下から鞄を引き出した。

中に着替えはなく、書類と短剣が詰まっている。


旅支度の趣味も変わっていない。


「まず、これを見ろ」


卓上に広げられた地図には、王宮から神殿へ続く道に赤い線が引かれていた。


「明後日、王太子殿下が戦勝の奉告に出る」

「中止させればいい」

「それは上に伝えた。俺たちは実行役を追う」


仕事の分担は明快だった。

中止になっても、暗殺者が王都から消えるわけではない。


俺は渡された紙を開いた。

二人の男の人相と宿の名、それから帝国で使われている偽名が記されていた。


「よく帝国の人間だと分かったな」

「向こうで見た顔だ」

「お前、帝国にいたのか」

「今はここにいる」


相変わらず、仕事の話になると愛想がない。

俺も南方侯のもとで何をしてきたか、全部話すつもりはないので、お互いさまである。


「二人を捕らえるだけでは駄目なのか」

「連絡役がいる。指示と金を運んでいる」

「そいつも押さえたいわけか」


相棒は宿の裏手を指した。


「今夜、来る」



■■■



連絡役は、日が落ちてから現れた。


灰色の外套をまとった、小柄な男だった。

宿の表には回らず、裏口から中へ入っていく。


向かいの空き部屋から、その姿を見送った。


「知っている顔か」


相棒に尋ねられ、俺は首を振った。


見覚えはない。

だが、歩き方に妙なところがあった。


左足を引きずっているのに、段差を越えるときには、そちらへ平気で体重をかけている。


「あの足、怪我じゃないな」

「何か隠しているか」

「長い物を脚に沿わせている。剣か、書類筒か」


相棒は裏口へ目を戻した。


「出てから分かる」


俺たちは別々に部屋を出た。


連絡役が宿を離れたのは、半刻ほど後だった。

俺は先に通りへ出て酔客の一団に紛れ、相棒が男の後ろにつく。


男は二度道を変え、店の窓に背後を映した。

警戒はしているが、尾行を見つけた様子はない。


橋を渡ったところで、相棒が男の外套を踏んだ。


留め具が外れ、布が肩から滑る。

振り返った腕を相棒が取り、俺は正面へ回った。


男が口を開く前に、腹へ拳を入れる。

膝が折れたところを支え、橋の下へ運んだ。


通りからは、酔いつぶれた友人を介抱しているように見えただろう。

戦勝祝いの最中だ。酔っ払いには事欠かない。


「右の袖」


俺が告げると、相棒は男の手首から細い刃を抜き取った。


左脚に隠してあったのは、書類筒だった。



■■■



宿へ戻り、男を椅子に縛った。


相棒が荷物を調べる間、俺は書類筒を開けた。

中には二通の書状が入っていた。


一通は、実行役への指示書。

王太子の移動経路と警備の人数、それぞれの配置が記されている。


もう一通は、帝国側への連絡だった。


《勇者軍の帰還を遅らせる。停戦協議の間に決行されたし》


署名も紋章もない。

俺は書状を相棒へ渡した。


「魔王国にも、帝国の協力者がいるようだな」

「交渉を長引かせられる立場の者か」

「あるいは、そういう者に取り入っているかだ」


相棒は書状を読み直し、実行役の指示書と並べた。


魔王を討って、ようやく停戦に向かうところだった。

その裏で、次の戦争の支度をしている者がいる。


余計な仕事を増やしてくれる。


「そちらは俺が戻ってから探る。まずは殿下だ」

「実行役を押さえるぞ」

「ああ。こいつの帰りが遅いと気づかれる前に」


俺は書類筒を閉じた。


二人の実行役は、夜明け前に捕らえた。


宿の主人を装って扉を開けさせ、一人目を相棒が押さえる。

寝台から起き上がった二人目は、俺が床へ伏せさせた。


鞄から出てきたのは、王宮の衛兵の上着だった。

明後日には、これを着て殿下をお迎えするつもりだったらしい。


お勤めに出る前で何よりだ。


三人を引き渡して宿へ戻ると、相棒がようやく椅子に座った。


「組織への連絡はついた。お前の件も引き継がせる」

「助かる。今度の上司には、長生きしていただきたいな」


相棒は紙へ店の名と合言葉を書き、俺へ差し出した。


「次からは、ここへ連絡しろ」

「停戦については?」

「本国も応じる意向だ。中央を抱え続ける気はないらしい」


四侯の領地を越えた先にある王都を、いつまでも守ってはいられない。

戦争を終え、賠償を得て兵を帰す。祖国にとっても、それがよい。


「魔王国側の協力者をつかんだら知らせる」

「一人で無理をするなよ」

「十年間、ほとんど一人だったんだが」


相棒は少し考え、言い直した。


「今度は知らせろ」


俺は連絡先を覚え、紙を火にくべた。



■■■



「よく戻った!」


南方侯は、俺の顔を見るなり執務机から立ち上がった。


机には書状と地図が積まれている。

俺が留守にしていた間も、仕事は順調に増えていたらしい。


「王国はどうだ」

「停戦に応じる意向です。勇者軍を引き揚げさせたいと考えております」

「そうか!」


閣下の声が弾んだ。


俺は続けて、王都の様子と王国側で聞いた話を報告した。

戦勝に沸いてはいるが、四侯の領地へ攻め込む支度は見られない。

中央からの撤退は、賠償などの条件が整えば可能だろう。


南方侯は書記を呼び、俺の報告をほかの三侯へ送るよう命じた。


「こちらも、勇者軍との協議は始めておる。ただ、向こうも本国の返答待ちでな」

「では、話は進めやすくなるかと」

「うむ。お前を行かせて正解だった」


閣下は机上の地図を俺へ向けた。

中央の街道に、勇者軍の位置が記されている。


「撤退が決まったら、通過する町にも知らせねばならん。兵が戻ってくるとなれば、住民も不安になろう」

「往路と同じく宿営地を定めましょう。食糧の売買も、窓口を設けた方が混乱せずに済みます」

「その手配も頼む。お前なら、向こうの者とも話が通じる」


帰ったばかりだが、仕事には歓迎されているようだ。


「ところで、王国では何か騒ぎがあったのか」


地図を片づけながら、南方侯が尋ねた。


「騒ぎ、と申しますと」

「王太子が狙われたとか。妙な噂が入ってきておる」

「私も耳にしました。実行役は捕らえられたそうです」


閣下は地図を巻き、棚へ戻した。


「物騒なことだ。戦争が終わろうというのに」

「まことに」

「王太子は無事なのだな」

「はい。王国の政務にも、支障はないようです」


南方侯は次の書状を取り上げた。


「では、こちらも停戦の支度を進めるとしよう」


俺は一礼し、執務室を辞した。



■■■



自分の部屋へ戻ると、留守中の報告が山になっていた。


王国で一晩働き、帰ってきたらこの有様である。

祖国も潜入先も、人使いが荒い。


軍からの報告を先に読む。

兵の移動はなく、敗残兵の収容も進んでいる。


夕刻には、各軍の指揮官を集めた。


「勇者軍との停戦協議が進んでいる。命令があるまでは、今の配置を維持してくれ」

「王国軍が戻ってきた場合は?」

「撤退のための通過なら、こちらから手を出すな。宿営地と経路は、決まり次第知らせる」


地図を囲んだ指揮官たちが、持ち場を確かめる。


十年も働けば、顔ぶれも覚える。

誰に何を任せればよいかも、誰が命令を曲げて解釈するかも。


「独断で戦を始めるなよ。手柄が欲しければ、兵を一人も欠かさず帰してやれ」


一人が苦笑した。

心当たりはあったらしい。


その後は勇者軍との協議の記録を読み、三侯へ送る報告を整えた。


王国で手に入れた話も、こちらで必要になる話もある。

全てを同じ書状に書くわけにはいかない。


そこが、俺の仕事の面倒なところだった。



■■■



二度目の四侯会議は、その翌日に開かれた。


俺は前回と同じく、南方侯の一歩後ろに控えた。

魔法陣の光の向こうで、東方侯が書状を広げる。


「王国本国も、停戦に応じる意向とのことだ。勇者軍からも、条件を詰めたいと返答が来ている」


西方侯が、待ちかねたように言った。


「金で兵を帰せるなら、その方がよい。王都を取り返すために王都を焼いては、何をしているのか分からん」

「額については交渉が要る。だが、王国も中央を抱え続けたいわけではないようだ」


北方侯の言葉を聞き、俺は胸の内で帰路の日数を数えた。


賠償の額が決まり、勇者軍が引き揚げる。

国境が落ち着けば、長かった仕事にも区切りがつく。


できれば、冬になる前に帰りたい。


「では、使節に条件交渉を進めさせよう」

「待ってくれ」


南方侯の声に、俺は帰路の計算をやめた。


「中央は返されるとして、私の領土はどうなる」

「王国が押さえている国境沿いの土地か。先方は、今回の撤退とは別の問題として扱うつもりだ」


北方侯が答えると、南方侯は身を乗り出した。


「それでは困る」

「交渉は続けられる。だが、まずは戦を止めねばなるまい」

「そなたらとは違い、私の領土は人間に奪われている」


三侯が黙った。


南方侯は机上の地図へ手を置いた。

そこに記された国境線は、五年前とは違っている。


「私も開戦には反対した。だが、陛下は兵を動かし、私の土地が戦場になった。城を失い、村を失い、そのうえ賠償を払って終われというのか」

「それは分かっておる」


東方侯が答えた。


「だからこそ、これ以上の損害を避けたい。奪還のために戦を続け、残った領地まで失えばどうする」

「取り戻す手立てがないとは限らん」


俺は南方侯の隣へ進んだ。


「ニヒリア帝国のことでございますか」


閣下の手が、地図の上で止まった。


三侯の視線が俺へ向く。

俺は南方侯に向き直り、返答を待った。


「……何の話だ」

「閣下が勇者軍の撤退を引き留めておられると知り、留守中の往来を調べました。こちらへ出入りしている商人の一人が、帝国の連絡役でございます」


俺は懐から、折り畳んだ紙を取り出した。

城への出入りの記録に残っていた名を、机上へ示す。


「停戦協議の間に、帝国が王国へ兵を向ける。そのために勇者軍を引き留めておられるのではありませんか」


西方侯が椅子から身を起こした。


「南方侯。まことか」


南方侯は答えず、俺を見ていた。


「ルキウス。お前は……」

「王国は、王太子殿下の暗殺未遂を受けて警戒を強めております。今から帝国が動いても、奇襲にはなりません」

「それでも、帝国が動けば」

「その保証を、得ておられますか」


返答はなかった。


「閣下の兵には、現在の配置を維持させております。勇者軍も健在です。ここで再戦すれば、今度こそ南方領が両軍の戦場になります」

「私に、土地を諦めろというのか」

「帝国の都合で、残った土地まで賭けるべきではないと申し上げております」


東方侯が、南方侯へ呼びかけた。


「帝国との約定を、我らにも明かしてもらおう。貴公の領土の話で済む段階ではない」


俺は南方侯の隣で、判断を待った。


祖国の工作員として告発したのではない。

主君の危険な計画を知り、諸侯の前で諫めた。


どうか、そのように受け取っていただきたい。


十年間の勤務態度には、それなりの自信がある。



■■■



南方侯は、しばらく黙っていた。


やがて、机の引き出しから鍵を取り出した。


「奥の箱だ。帝国からの書状が入っている」


俺は鍵を受け取り、執務机の脇にある箱を開けた。

数通の書状を取り出し、三侯の前で読み上げる。


帝国が王国へ兵を向ける。

南方侯は停戦協議を引き延ばし、勇者軍の帰還を遅らせる。


王太子の暗殺は、その攻撃に先立って行われる手はずだった。


「王国の次は、帝国と国境を接するつもりか」


北方侯が尋ねた。


「その帝国が、貴公の土地を返した後、おとなしく引き揚げる保証はあるのか」

「王国が占領を続ける保証なら、すでにある」


南方侯は即座に答えた。

北方侯も、それには反論しなかった。


「この状況で軍を動かすことには、同意できん」


東方侯が話を引き取った。


「停戦協議は続ける。帝国との話は打ち切ってもらおう」

「我らは、次の戦争を始めるために陛下を見送ったのではないぞ」


西方侯の言葉に、南方侯は地図へ目を落とした。


三対一。

しかも、肝心の軍を動かす指揮官たちは、俺の指示を待っている。


「……今は、兵を動かさぬ」


返ってきたのは、それだけだった。



■■■



会議を終えると、南方侯は俺に言った。


「二人で話すことも、できたはずだ」

「閣下が思いとどまられなければ、私には止められません」

「お前なら、勝てる策を考えると思っていた」


閣下の指が、地図の国境線をなぞった。


「停戦したところで、私の土地は戻らん」

「交渉は続けます」

「何年かけてだ。その間も、あそこでは王国の旗が翻る」


俺は答えなかった。


「帝国には、私から話す。使者が来たら通せ」

「承知いたしました」


閣下は、まだ諦めていない。


十年仕えた。

それくらいは分かる。



■■■



帝国の使者が訪れたのは、三日後だった。


商人を装った男を、南方侯は応接室で迎えた。

俺もその傍らに控える。


「勇者軍の撤退が始まると伺いましたが」


使者は挨拶を終えるなり切り出した。


「まだ決まってはおらん。だが、三侯は停戦を進めるつもりだ」

「閣下のお考えは?」

「そちらこそ、今後どう動く。王太子の暗殺は失敗したのであろう」


使者の目が、俺へ向いた。


南方侯は退席を命じなかった。


「この者は承知している」

「……では、すでにお話しになったのですね」


使者は鞄へ手を入れた。


次の瞬間、南方侯の喉に細い針が突き立った。


椅子が倒れる。

俺は剣を抜き、卓越しに身を伸ばしてきた男の胸を貫いた。


使者が床へ崩れたところで、扉を開く。


「医師を! 閣下が襲われた!」


兵が駆け込んできた。

俺は南方侯の傍らへ膝をつき、その体を支えた。


閣下の口が動いたが、言葉にはならなかった。


医師が到着したときには、もう息はなかった。



■■■



帝国の使者に南方侯が殺された。


城内は騒然となったが、軍は動かなかった。

各指揮官へ、持ち場を守るよう命じる。報復を叫ぶ者には、閣下の葬儀を敵軍に囲まれて行いたいのかと尋ねた。


ひとまず、静かになった。


三侯からは、後継者が決まるまで南方領を取りまとめるよう命じられた。


望むところである。

次の領主が余計なことを考える前に、停戦をまとめてしまえばいい。


夜になって部屋へ戻ると、相棒から返書が届いていた。


《帝国側へ伝わったことを確認した》


南方侯が密約を三侯に明かした。

証拠の書状を携え、王国との停戦交渉に臨もうとしている。


そう知らせてもらった。


帝国は、こちらの誘導通りに口封じの使者を送り込んできた。

あとは、その仕事を邪魔しなければよかった。


うまくいった。


主君の仇を討った腹心を、疑う者はいない。


十年間、世話になった方だ。

だが、祖国の王太子を殺そうとした以上、生かしてはおけなかった。


返書を火へ落とし、机に向かう。


三侯への報告。

南方軍への指示。

勇者軍へ送る、協議再開の書状。


主君を失った腹心には、悲しむ暇もない。


まことに、都合のよいことだった。



■■■



停戦協議は、南方侯が亡くなってからの方が早く進んだ。


三侯の承認を得て、俺が使節を率いた。

相手は祖国の軍である。何を欲しがり、何を嫌がるかは、よく知っていた。


とはいえ、言い値で承知するわけにはいかない。

魔王国の金を預かっている以上、働きぶりを疑われては困る。


賠償額を削り、支払いを分け、勇者軍の撤退日を決めた。

王国側にも、これ以上兵を国外へ置いておきたくない事情がある。


最後の書状に双方が署名したときには、三侯から預かった額を下回っていた。


祖国にも不足はない。

潜入先にも損はさせない。


我ながら、よい仕事だった。



■■■



勇者軍の最後尾が国境を越えるのを、砦の上から見送った。


長い隊列の先には、祖国がある。

馬を走らせれば、夕方にはあちらの町で飯が食えるだろう。


「ルキウス様」


振り返ると、南方軍の指揮官が立っていた。


「全軍、予定どおり通過しました」

「ご苦労。こちらの兵も、順に持ち場へ戻してくれ」

「承知しました。これで、ようやく終わりますな」


俺は国境の向こうへ目を戻した。


「ああ。終わりだ」


魔王は死んだ。

帝国の暗殺計画は潰れ、南方侯もいない。

王国へ攻め込もうとしていた軍は動かず、停戦も成立した。


あとは、預かった仕事を次の南方侯へ渡すだけである。



■■■



城へ戻って数日後、三侯から呼び出しを受けた。


俺は南方侯の席の傍らに立ち、一礼した。


「勇者軍の撤退は完了いたしました。南方軍も通常の配置へ戻しております」

「南方侯を失った影響は、どうだ」


北方侯の問いに、用意していた報告を返す。


「各指揮官は命令を守り、滞りなく任務を果たしております。新たな南方侯が決まれば、問題なくお引き渡しできるでしょう」


軍を勝手に動かす者はいない。

引き継ぐべき仕事も整理した。


あとは、受け取ってくださる方を待つだけだ。


「まるで、身を引くような言い方だな」


俺は、いささか驚いた顔を作った。


「そのつもりでおりましたが」

「ほう。なぜだ」

「前任の側近が軍に口を出し続けては、新たな閣下もお働きになりにくいでしょう」


北方侯は答えず、先を促すように俺を見た。


「誰の指示を仰ぐべきか、兵たちを迷わせるわけにもまいりません。引き継ぎを終えた後は身を引き、故郷へ戻らせていただければと存じます」


どうだ。

新しい領主への配慮として、申し分ないはずだ。


西方侯が低く笑った。


「そこまで考えておったか」

「南方侯には、長くお世話になりましたので」


最後まで忠実に。

そう見せるためなら、言葉はいくらでも選べる。


「確かに、貴殿をそのまま残せば、新たな南方侯も気を遣おう」


東方侯の言葉に、俺は内心で拳を握った。


よし。

話が通じる。


「だが、故郷へ戻るというのは待ってもらいたい」


握った拳を、そっとほどいた。


「……何か、まだ不手際がございましたでしょうか」

「逆だ。貴殿には、別の役目を頼みたい」


俺は三侯を見渡した。


北方侯が言った。


「次の魔王を、誰にするかという話だ」


なるほど。

その選定が終わるまでは、南方領を預かっていろということか。


「我らの誰かが即位すれば、力が一方へ偏る。かといって、また戦争を始めるような者を据える気はない」


西方侯の言葉には、全面的に賛成である。


「王国と交渉でき、我らの事情も分かる者がよい。軍をまとめ、種族を問わず人を使える者だ」


ずいぶんと注文が多い。


……なぜ、三人とも俺を見ている。


「貴殿は、南方侯の計画を止めた」


東方侯の声に、俺は顔を上げた。


「主君亡き後も軍を乱さず、停戦をまとめ、王都を取り戻した。そのうえ、得た権限に執着せず、次の者へ譲ろうとしている」


待ってほしい。


今のは、帰るための話だった。


「私は、閣下に仕える者として務めを果たしたにすぎません」

「十分だ。我らは、その働きを見ている」

「しかし、私は人間でございます」


西方侯が、当然のように答えた。


「知っておる」


そうでしょうね。

そこは、一度も隠していない。


隠しているのは、別のことだ。


「先代は魔族だったが、その前は獣人だ。貴殿が人間であることに、我らは異論を持たぬ」


東方侯は、もう話が済んだような顔をしていた。


俺は王国の秘密工作員である。

祖国への脅威を取り除き、潜入先に正体を悟られぬよう、忠実な腹心として働いてきた。


ようやく、その役目を終えられるはずだった。


東方侯が、厳かに告げた。


「次代の魔王には、貴殿こそふさわしい」


(えぇ~、マジかよ……)





END

某スパイドラマの影響で、二重スパイものを書きたくなって生まれたお話です。

潜入先で頑張りすぎた工作員の、ままならない出世話になりました。


お楽しみいただけたら嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
面白いです☺️ 賢いオトコが要領良く立ち回って予想以上の成果を上げて、祖国にも潜入先にも利益を齎し、潜入を命じた上司がいなくなった今、これだけの優良物件、スパイと知らない潜入先が離すワケないですよね。…
ちゃんと某スパイ物の広告が表示されてオチがついてる…!と思ったり。 そのうち元同僚からの連絡役がやってきそう…そして二人して『どうしてこうなった…』とかやりそう…連絡役むしろその元同僚かもしれん。出入…
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