月のひと
スナック・テンダリーは駅のロータリーを折れて路地に入ったビルの二階にあった。ビルの全部が飲み屋の入った建物で袖看板が壁面から突き出ている。津崎哲夫が店の入り口の木製の扉を押したのは、金曜日の七時半頃だった。
「いらっしゃいませ」
と、ママの西野恭子の声が迎えた。
ママの年齢は四十五歳。店は居抜きで買ったという。
「いらっしゃいませ」
もう一人の女性の声が響いた。
「今日から働いてもらうことになった玲子ちゃん、哲っちゃんよろしくね」
と恭子が椅子に掛けた津崎におしぼりを渡しながら紹介する。
「玲子です。よろしくお願いいたします」
と、カウンターの中でぺこりと頭を下げた。
目元が涼しげで、かたちのいい唇をもっていた。悪くないな、と津崎は思いながら、ママに言われて、棚からボトルを取り出す玲子のボディコンシャスの後ろ姿を見ていた。恭子が製氷機からすくった氷を入れたアイスペールを津崎の前に置く。玲子がその氷をグラスに入れ、ボトルのスクリューキャップを開ける。手首の細いブレスレットが天井のダウンライトの光を弾いていた。
「薄めでたのむよ」
津崎が言う。
チリン、と、ドアの鈴が鳴って二人連れの客が入ってきた。津崎は軽く頭を下げた。常連の客だった。と言ってもそれほど親しいわけではない。飲みに来て、たまたま一緒になる飲み仲間と言ったところだろうか。
カウンターの端に座った二人の客を恭子が対応する。カウンターは七人も座ればいっぱいだった。
気づくと、玲子が真剣な表情でグラスのなかのマドラーを回している。
「おい、おい。そんなに回したら氷が溶けちゃうよ」
津崎が言うと、
「すみません、液体の濃度が気になったもので」
と玲子は真顔で言った。
津崎はその口調に笑った。
その日から津崎は玲子の顔を見るのを楽しみに店に通った。
店での玲子は馴れてくると客に素直に応対し、初々しい感じが、どの客にも好評だった。若いことがやはり魅力のひとつと言って良かった。なかにはしつこく本気で口説く客もいたが、そんなときはママの恭子がうまくとりなした。
二カ月が経った。
「津崎さん」
と、ある晩、玲子は声をかけた。
「わたしのこと、どう思っています?」
「どうって、素敵な女性だと思っているよ」
「わたしが居なくなったら、寂しいですか?」
「そりゃ、寂しいよ。店、辞めるの?」
津崎が訊くと、玲子はしばらく黙ってグラスを見つめていた。
「帰らなくてはならないんです」
「帰るって、田舎?」
玲子は首を振った。
「月」
「つき、って?」
津崎は理解できず、聞き返した。
玲子は人差し指を天に向けた。
津崎はからかわれているかと思い、
「ムーンの月ってこと?」
「わたし地球の人間じゃないんです」
そこで、他の客のカラオケが始まり、会話は中断した。音楽が流れるなかで、玲子は言った。
「駅の向こうの公園わかりますか? あとで来て下さい」
玲子は時間を十時と指定した。玲子が帰ってから津崎はママの恭子にその話をした。
「確かに玲子ちゃんは今日で辞めたんだけど、ちょっと変わった子だから」
津崎は訊いた。
「月の話とか」
「他のお客さんにも言ってたわよ」
「ふーん」
それから津崎は、また飲み、カラオケで数曲歌った。気がつけば十時を少し過ぎていた。
津崎は店を出た。公園に歩いて、正面までくると、街灯の照らすベンチに座った玲子の姿があった。
「待たせたね」
津崎が言うと、
「お別れが言いたくて。津崎さん、いい人だったから」
そこで玲子はバッグから四角い装置を取り出した。玲子は手にした装置のボタンをいくつか押した。
「テレポーテーションのコントローラーです」
玲子が言うと、彼女の姿が揺れるように変化し、ぼんやりとかすんできた、
「玲子ちゃん!」
そして、玲子の身体が光に包まれ、夜空に向かって光の筋が流れて消えた。夜空には煌煌とした月が出ているだけだった。
ベンチの上にきらりと光るものがあった。ブレスレットだった。津崎はそれを手に取ると、目の前で起きた出来事を反芻した。玲子は、ほんとうに月世界から来た女性だったのか。ひんやりとしたブレスレットの冷たさが津崎の心に哀感を刻印した。
翌日の晩、津崎はテンダリーにまた顔を出した。
「いらっしゃいませ!」
ママの恭子が笑顔で迎える。カウンターの中には別の女性が居た。
「今日から働いてもらう、みずきちゃん。哲ちゃんよろしくね」
女性が頭を下げた。
「みずきです、よろしくお願いいたします」
長い髪の細い顎の女性だった。気付くと腕には細いブレスレットをしていた。
「哲ちゃん、今日はゆっくりしていって」
そう言っておしぼりを渡す恭子の袖口からも、細いブレスレットがのぞいていた。
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