お姉ちゃん②
翌日、思い出交換所に顔を出した姫美子に、昨夜の男の話をした。
「そう。人は思い出無しには生きて行けないものだからね」
こういうトラブルが嫌で、思い出交換の記憶は消してしまうのだと姫美子は言う。
「どんな思い出を消してあげたのですか?」と尋ねてみた。
「どんな人だった?」
ヨシキは男の年恰好と人相を説明した。それを聞いた姫美子は「分かった。あの人ね」と男のことを思い出した様子だった。
「思い出交換は、人のプライベートにずかずかと踏み込むようなものなの。他人に最も知られたくないことを、私はのぞき見ている」
だから姫美子は何時も憂いを含んだ顔をしているのだ。ヨシキはその苦しみを分かち合いたかった。
「僕は相棒でしょう。姫様が辛い時は、僕が支えます」
「あら、ありがとう。そうね・・・」と姫美子が話し始めた。
男は生まれて直ぐに子供を亡くしていた。
待ち望んでいた男児だった。だが、生後一か月ほどで、乳幼児は突然死した。始めて我が子を抱いた手の温もりが忘れられずに、男は苦しんでいた。夫婦関係もぎくしゃくしてしまい、このままでは、家庭が崩壊してしまうかもしれないという危機感を抱いていた。そして、思い出交換所にやって来た。
「そうですか。彼、交換した思い出に、直ぐに思い当たるふしがあったようでしたが、子供のことだったのですね」
子供が亡くなったことは、記憶に残っている。だから、深堀したくなかったのだ。
「いい思い出でもあったのでしょうけど、忘れることにしたのよ」
「それで、彼にはどういう思い出を移植したのですか? 彼、まるで分かっていない様子でした」
「そう。それはきっと、彼もお姉さんがいるからね」
「お姉さん?」
「うん」と姫美子は子供のように頷くと、交換相手のことを教えてくれた。
相手も同年代の男性だった。
男性には姉がいた。母親は再婚で、姉は前夫との間に生まれた子供だった。そのせいか父親は姉を毛嫌いしていた。
男性が物心ついた時には、既に父親の姉に対する虐待が始まっていた。最初は叱る程度だったが、段々、大声を上げてののしるようになり、やがて手が出るようになった。
姉は母親に助けを求めたが、母親は無視した。
男性は姉が大好きだった。何時も一緒に遊んでくれたのは姉だった。男性にとって、姉はかけがえのない存在だったが、幼子だった男性には姉を守る術がなかった。父親の虐待が始まると、押し入れに逃げ込んで震えていることしか出来なかったと言う。
「よくある話ですが、いざ、そういう話を聞かされると、ショックですね」とヨシキが言う。
「そうね。ニュースの世界の話――みたいに思ってしまうから」
「それで、どうなったのですか?」
「最悪の結末を迎えてしまうの」
父親の虐待により男性の姉は死んでしまう。夕食の席で、突然、怒り始めた父親は姉を殴り飛ばした。突然のことで、男性は押し入れに逃げ込む暇もなかった。父親が姉を殴り飛ばすシーンを目撃してしまった。
父親に殴られた姉は部屋の隅まで転がって動かなくなった。母親が救急車を呼んだが、全ては後の祭りだった。
父親は殺人容疑で逮捕され、刑務所に収監された。こうして一家は崩壊した。
「なるほど。その忌まわしい記憶を忘れてしまいたかった訳ですね」
「ところが、そう単純ではないの」と姫美子が言う。
「単純じゃない?」
男性は成人し、働き始めた。そして、職場で知り合った女性と結婚した。結婚して一年、奥さんの妊娠が判明し、幸せの絶頂期にあるはずだった。
「だけど、その人は怖いと言うのよ」
「怖い?」
「自分が父親みたいになってしまうんじゃないかって。あの父親の血を引いている。父親みたいに、我が子を虐待し、死なせてしまうんじゃないかと、それが怖がっていたの」
「分かるような気がします」
「だから、あの夜、父親がお姉さんを殴り飛ばしたシーンを忘れてしまいたいと言われた。だから、思い出を消してあげたの。思い出を交換する時、ほんのちょっと、細工をしておいた」
「どんな?」
「二人共、お姉さんがいることが分かった。先ず、その父親の虐待で姉を失った人に、子供を亡くした方の思い出を埋め込んだ。子供が出来た時、お姉さんから『大丈夫。あなた、きっといいパパになる』と言われている思い出なの」
父親のようになりたくないと思っている男が、死んだ姉から「あなたは良いパパになる。だから大丈夫よ」と励まされることになる訳だ。きっと勇気をもらえたことだろう。
「へえ~それは良いですね」
「子供を失った人には、父親の虐待で姉を失った人が、公園でお姉さんと遊んでいる時の思い出を埋め込んだ。実際に、公園でお姉さんと遊んだことがあったでしょうから、何の違和感もなく受け入れてしまったのね。だから、他人の記憶だなんて思わないのよ」
「なるほど。他人の記憶と自分の記憶がごっちゃになっているのですね」
「その子供を亡くした人、元気そうだった?」
「ええ。彼、今、幸せだって言っていました。そうそう。子供が生まれたばかりだって」
「それは良かった。奥さんと別れずに済んだのね」
思い出交換に来た人間は、そのこと自体、忘れてしまう。姫美子によって記憶が消されてしまうからだ。だから、思い出交換をした人物がやって来て、その後、どうなったのか話してくれることなど無い。
姫美子に感謝する人間などいない。
そんな役回りだ。ヨシキもそのことが分かっている。だから、姫美子に伝えたかった。「それに、自分が生きているのは、姫様が思い出を消してくれたからだって、彼、そう言っていました」
「そう言ってもらえると嬉しい」
案の定、姫美子が女神のような微笑みを浮かべた。それを見て、ヨシキは嬉しくなった。