お姉ちゃん①
「ねえ、マスター」と目の前の客がヨシキに話しかけた。
思い出交換所には奥にテーブル席がひとつあるだけで、後はカウンター席だ。男は一人でやって来て、カウンター席でウイスキーの水割りを味わいながら飲んでいた。
「マスターじゃなくて、ただのバーテンダーです」とヨシキが答える。
「じゃあ、ただのバーテンダーさん。俺、ここに来たことがあるような気がするんだよね。あんたの顔、なんとなくだけど覚えている」
「そうですか。私も、お客さんの顔、覚えています」
「やっぱり来たことがあるんだ」
「思い出を交換しに来たんですよ」
「思い出を交換?」
ヨシキが思い出交換を説明する。
「そんなことが出来るのかい? 一種の催眠術みたいなものかな?」
「ええ、まあ」と曖昧に答える。ヨシキだって、詳しいことは分からない。
「俺、どんな思い出を消去したんだろう?」
「さあ、今日は姫様がいないから・・・」
姫美子は気まぐれだ。毎日、思い出交換所に顔を出す訳ではない。
「その姫様なら分かるのかい?」
「分かると思います」
「じゃあ、出直そうかな」
「止めた方が良い。あなたが忘れてしまいたいと願った思い出です。辛かった思い出に決まっている。もう二度と、思い出したくないと思ったから消してもらったはずです。思い出して良いことなど、ひとつもありません。このまま、つまらないことは考えずに、前向きに生きて行けば良いのですよ。今、幸せならそれで良いでしょう」
「ただのバーテンダーさん。良いことを言うね。うん。今、幸せだ。つい最近、子供が生まれたばかりだしね。おっしゃる通りだ。止めておこう。大体、何の思い出を消したのか想像がつくからね」
「心当たりがあるのですか?」
「うん。まあね」男が寂しそうな顔をした。
「思い出が消えたと分かると、人は知りたくなるものなのでしょう。時々、いらっしゃるんですよ。思い出が消えたことを知って、ここを訪ねて来る方が。何故、思い出を消したんだ。思い出を返せって」
「へえ~それで、その時は思い出を返すの?」
「いいえ。一度、消してしまった思い出は、二度と元には戻らないそうです」
過去に、思い出を返せと思い出交換所に怒鳴り込んで来た男がいた。姫美子は「思い出を返してあげます」と言って、男をメモリートレードセンターに連れて行った。暫くすると、男が大人しくなってメモリートレードセンターから出て来た。そして、ふらふらとよろけながら、焦点の定まらぬ目で出て行った。
姫美子に聞くと、店に来た記憶を全て消してやったということだった。過去の記憶に穴を空けてしまうと大変だが、現在進行形の記憶は問題ない。寝ていたのと同じ状況になるだけだ。
その時、姫美子が言っていた。「返せったって、一度、消した思い出は二度と取り戻せない。映画のフィルムを切り取るのを同じなのだから。残念ながら、私には切り取ったフィルムを保管しておくことができないの」
ふと気になって男に尋ねてみた。
「思い出を交換したのですから、何か不自然な、気になる思い出はありませんか?」
「気になる思い出?」
「もともとは他人の記憶だったものが、あなたに埋め込まれているのです。変だなという思い出は無いのですか?」
「ああ、そうか」と男は暫く考え込んだ後、「さあ? ないね」と答えた。
よほど、男にとって違和感のない思い出が移植されたのだろう。
記憶をまさぐっているのか、その後、男は静かに飲んでいた。やがて、「じゃあ、そろそろ帰るよ。お勘定、お願い」とカウンター席を立った。
「毎度、ありがとうございます」
勘定を済ませて店を出る時、男がヨシキを振り返って言った。「多分、今、俺が生きているのは、姫様に思い出を消してもらったからだと思う」