記憶の爆弾
「おはようございま~す」
思い出交換所に若い女性の声が響き渡る。
「ブックちゃん。おはよう」とヨシキが挨拶を返す。
ブックこと、本家詩織は思い出交換所に勤めるホステスだ。二十そこそこ、手足が長く、顔が小さいモデル体型だ。大きな目にラッキョ鼻、美人と言うより可愛いと言った方がブックによく似合う。やや下あごが張った顔で口が大きく、笑うと白い歯にえくぼが魅力的だった。
本家と書いて、“ほんや”と読む。実家がどこぞの本家の家系なのだろう。姓が本屋で名が”しおり(栞)”だ。当然のように、本に関するあだ名がついた。中学生の頃から、ブックと呼ばれていると言う。ご当人、そのあだ名が気に入っているようで、初対面の人に「ブックって呼んでください」と必ずお願いする。
「ヨシキさん。おはようございます」とブックはヨシキにもう一度、丁寧に挨拶した。
ヨシキがにっこり微笑むと、「あら~くらくらする」とブックが額に手を当て、眩暈でふらつく動作をした。
「おはよう。ブックちゃん」と姫美子が声をかけると、「ああ~良かった。姫美子さんがいてくれて~」とブックが姫美子の腕にまとわりついて来た。
姫美子は思い出交換所のスタッフではない。非常勤だ。何時も思い出交換所にいる訳ではない。
「どうしたの?」
「ちょっと相談があります」
「珍しい」、「おや、珍しい」姫美子とヨシキが同時に言ったものだから、「何? それ。まるで私って、能天気みたい」とブックが腹を立てた。
「あら⁉ 違うの」と姫美子が言うと、ヨシキが大笑いした。
「ひど~い」とブックが泣いて見せた。
相変わらず賑やかな店だ。
「それで、相談って何?」
「それが――」
ブックには妹がいて、その妹の友人に関する相談だ。ブックの妹はまだ高校生だが、仲の良い友人が先輩にレイプされたのだと言う。
「ひとつ上の先輩で、その子の憧れの先輩だったみたいです」
先輩は大学受験を控え、受験勉強に追われる日々で、ストレスを溜めていたのだろう。先輩に誘われ、家に行ったら、家族が誰もいなくて、レイプされてしまったと言う。
「その子、レイプされたことを忘れてしまいたいって言うのです。姫美子さんのことを話すと、是非、思い出を交換したい。あの日のことは忘れてしまいたいと言って泣いていました」とブックは言った。
「それはダメだね」、「それはダメよ」と又、姫美子とヨシキの発言が被った。
「ダメですか?」
「気持ちは分かるけど、今、記憶を消してしまうと、先輩への憧れだけが残ってしまう。誘われたら、また、のこのこついて行ってしまうでしょうね」
「その可能性は高いと思いますね」とヨシキ。
「ああ~そうですね」
ブックは女の子の苦しみを取り除いてあげることばかり考えていて、取り除いた後のことまで気が回らなかった。
「じゃあ、どうすれば良いんでしょうね?」
「警察に届ければ?」
「警察で根掘り葉掘り聞かれるのは嫌だそうです。それに、噂になると、学校に行けないと」
「難しいわね。辛い思い出を薄れさせてあげることならできる。ほら、若い頃に辛いことがあっても、時と共に痛みは薄らいで行くでしょう。あれと同じ。辛い思い出のコマ数を減らして、思い出を薄くしてあげるの。痛みは残るけど、記憶も残る。二度と先輩には近づかないようにね」
「でも、レイプされたって過去は消えませんよね」
「そうね。彼女が、その先輩のことをきっぱり、あきらめることができたら、また連れて来るといい。その時は綺麗さっぱり記憶を消してあげる」
「分かりました」
「それから、ブックちゃん。あなたの妹さんと話をしてみたいの」
「萌亜と・・・ですか?」
「うん。彼女にとって、どうしたら良いのか、側で見ている妹さんなら分かると思うの。」
「萌亜に話してみます」
「それと先輩にも、きつい罰が必要ね」
「それ、是非、お願いします」
「彼にも思いっきり、苦しんでもらう」姫美子が笑うと、「あら。悪い顔。姫美子さん、怖い~」とブックが怖がって見せた。
萌亜が友達の女の子とやって来て、姫美子と共にメモリートレードセンターに入って行った。
姉のブックと違って、萌亜は小柄でやや肉付きの良い女の子だ。顔もぽっちゃりしていて、似ているのは下あごが張っていて口が大きいことくらいだ。
記憶を薄くするだけで、思い出交換をする訳ではないと聞かされていたが、随分、長かった。たっぷり二時間近く、三人はメモリートレードセンターから出て来なかった。
「大丈夫だよ。姫様に任せておけば」とヨシキが言ってくれた。
「分かっています」
分かっているけど、心配なのだ。
ドアが開いた。来た時は俯いて暗い表情だった女の子は、前を向いて、笑顔で萌亜と話をしながらメモリートレードセンターから出て来た。
「どうだった?」と萌亜に聞くと、「うん」と頷いただけで、友達と腕を組みながら、店を出て行った。
「どうでした?」と改めて姫美子に尋ねる。
「どうでしょうね。記憶は薄くしておいた。毎日、毎日、あの日のことで、思いつめるようなことは、もう無いはず。後は――」
「後は?」
「妹さんが思うように、上手く行くかどうかね」
「萌亜が思うように?」
「さて、次は先輩ね」
「どうするのです?」
「明日、図書館に行ってくる」
「図書館ですか?」
受験を間近に控え、先輩は受験勉強で図書館通いの毎日らしい。「ここに呼んでも、素直に来ないだろうから、こっちからお邪魔するの」と姫美子が勇ましく言った。
すかさず、「僕、お手伝いします」とヨシキが言う。
「そうね。逃げられると厄介だから、男手があった方が良いかもしれない」
「私もお手伝いします」とブックも言ったが、「ちょっと多すぎるかも。明日、妹さんが手伝ってくれることになっているの。ほら、私、先輩の顔、分からないから」と断られてしまった。
だが、ブックはあきらめなかった。
家に戻ると、「明日、姫美子さんを連れて図書館に行くんでしょう。お姉ちゃんも連れて行きなさい!」と萌亜に無理を言って承諾させた。
翌日、萌亜と共に図書館に行くと、姫美子とヨシキが待っていた。
日頃、見慣れている二人だが、図書館で会うと、まるで二人だけが映画やドラマから抜け出して来た別次元の人間に見えた。ヨシキは漫画の主人公のようだし、姫美子はそれこそクレオパトラの生まれ変わりにしか見えない。
「あら、来たのね」と姫美子はブックを見て言った。
批難がましい口調ではなかったので、ほっとした。
「どの子? 今日、来ている?」と姫美子が萌亜に聞く。
萌亜はぐるりと周囲を見回すと、「いました! あそこ」と一人の男を指さした。
「あの人ね」
「はい」と萌亜が頷くと、姫美子は「ここで待っていてちょうだ」と言って、すたすたと歩いて行った。ヨシキがその後を追う。
姫美子は男の隣に腰を降ろすと、一言、二言、声をかけた。
男が立ち上がろうとするのを、背後に回っていたヨシキががっちり肩を押さえて座らせる。「図書館だよ。静かにしないと」と言ったようだ。
姫美子がまた、何か言うと、男はがっくりと首をうなだれた。男の隣で、姫美子が優雅に指を動かす。ピアノを弾いているようだ。姫美子には思い出がフィルムのように見えているのだろう。初めて見た。思い出交換はこうやってやるのだ。
何時もはたっぷり時間をかけるが、今回の思い出交換は一瞬で終わった。
姫美子が席を立つと、ヨシキが男の背中をポンと叩いた。男がはっとして顔を上げる。意識が戻って、辺りをきょときょとと見回した時には、姫美子もヨシキも、姿を消していた。
図書館を出た。
ブックはもう一度、聞いてみた。「姫美子さん。あの男に何をしたのです?」
萌亜も興味津々の顔だ。
「もう直ぐ受験でしょう」と姫美子が言うと、萌亜が「はい」と頷いた。
「受験会場で答案用紙を前にすると爆発するように、時限爆弾を仕込んでおいたのよ」
「時限爆弾⁉」
「記憶の爆弾。ほら、試験の時や大勢の人の前で話をする時、一生懸命、覚えておいたはずのことがパッと消え失せて、頭の中が真っ白になってしまうことってない?」
「あります。あります。私なんて、テストの時は何時もそう」と萌亜が激しく同意した。
「あんたなんて、真面目に勉強してないんだから、最初から真っ白じゃない」とブックが言うと、「お姉ちゃんには言われたくないなあ~」と萌亜が反論した。
学校の成績のことを言われると、ブックは言い返せないようだ。
「記憶の中に、その爆弾を仕掛けておくことができるの。テストが始まったら、『さあ、いよいよ本番だぞ』とひとり言を言わせるように暗示をかけておいて、その言葉を使うと、記憶の中に仕込んでおいた爆弾が爆発するようにセットしておくの。そして、爆弾が爆発すると、記憶が一瞬で吹き飛んでしまうのよ」
「それは大変」と口では言うが、萌亜は楽しそうだ。
「まあね。記憶は二、三日かけて、全部、戻って来るけど、テストには間に合わない」
「いい気味ね。でも、受験に失敗するくらいじゃあ、あいつのやったことに対する罰としては、まだまだ軽いと思う」
「そうね」と姫美子が頷いた。
それから一か月後、ブックは萌亜から二人のその後について教えられた。
先輩については、姫美子が仕掛けた記憶の爆弾が作動したようで、受験に失敗したという話だった。これは予想通りだったので驚かなかったが、女の子の話には驚かされた。
「好きな男の子が出来たみたい」と萌亜が言うのだ。
「またあ~⁉ ちょっと早くない?」
若いと心の傷も治りが早いようだ。
「違うのよ」と萌亜が言う。萌亜が姫美子に頼んだのだと言うのだ。
「どういうこと?」
「うん」萌亜が言うには、彼女ことを何時も遠くから見ている男の子がいた。真面目で大人しい子で、(あんな先輩より彼と付き合えば良いのに)と思っていた。
メモリートレードセンターで、記憶のコマ落としをやってもらって、彼女の記憶を薄くしてもらった時、萌亜の記憶から、その男の子の笑顔を抜き取って、それを複製して鮮明にしてもらい、彼女に移植したと言うのだ。
「まんまと成功したみたい。毎日、あの子の笑顔を思い出している内に、好きになったのよ」と萌亜が自慢気に言った。
「へえ~」とブックが感心する。
「大丈夫。あの子なら、きっと彼女のこと、大切にしてくれるから」
「自分のことはどうなのよ? 人の世話ばかり焼いていないで、恋人でもつくったら?」
「あら? お姉ちゃんが、それ言う?」
「へへへ」
「ヨシキさん、素敵だったね~」
萌亜が意味深な視線を投げかけて来た。