人の感情は操れない
「姫様。ちょっと良いですか?」
ヨシキがカウンター越しに姫美子に尋ねた。ヨシキは姫美子のことを、姫様と呼ぶ。
「なあに? ヨシキさん」
姫美子は傾けていたグラスをテーブルの上に置いた。
ヨシキは思い出交換所に勤めるバーテンダーだ。思い出交換所は表向き、バーになっている。パッとしない店名の寂れたバーだ。思い出の交換は商売ではない。
ヨシキはアラサーで、手足が長くて、ファッション雑誌から抜け出して来たようなスタイルの良さだ。バーテンダーとして腕も一流だし、ヨシキ目当てに通って来る女性客が多い。
細面で鼻筋の通った整った顔立ちだが、左の眉毛が一筋、切れて無くなっている。恐らく、ナイフによる傷跡だ。ヤンチャな過去があったようだ。
ヨシキが姓なのか、名前なのか誰も知らない。
「少々、面倒な相談を受けちゃいました」
「面倒な相談?」
「ストーカーです」
「ストーカー? 詳しく話して」
「この間来た客の知り合いらしいのですが――」とヨシキが説明を始めた。
よくある話だった。
元カレからストーキングされていると言うのだ。元カレは高校の同級生だが、高校時代は親しくなかったらしい。高校卒業後、女は短大へ進学し、男はスーパーに就職した。スーパーが女の家の近所にあり、二人は当然のように再開した。
若い二人は運命だと思ったことだろう。
日中は真面目に働いているが、週末の夜になると、好きなバイクで暴走する、そんな男だった。危ない男に惹かれる若い女は多い。
何時しか、二人は付き合い始めた。
だが、破局が訪れた。
女が合コンに参加し、有名私大の学生に口説かれたからだ。女は、スーパーの店員と有名私大の学生を天秤にかけたのかもしれない。そして、大学生を選んだ。
女が別れを切り出すと、「お前無しでは生きて行けない。別れると言うなら、お前を殺して俺も死ぬ」と脅されてしまった。そして、女の後を付け回すようになった。女は怖くなって友人に相談し、その友人が客となってヨシキに相談したという訳だ。
「思い出は操れても、人の感情は操れないのよ」
姫美子が頬杖をつきながら言った。
「でも、姫様だったら、何とかできるのではありませんか?」
「そう言われても・・・」と姫美子は考え込む。
メモリートレイダーは、思い出は操れても、人の感情までは操れない。思い出を弄ることで人の感情に影響を及ぼすことはできる。だが、それは二次的な副産物であり、人の感情を意のままに操ることなどできないのだ。
「男から彼女の記憶を消し去ってみては?」
「ダメね。リスクが大きい。今、彼の頭の中は彼女のことでいっぱいだと思う。そんな彼から、彼女の記憶を一気に消し去ってしまうと、長い間、記憶喪失になっていたみたいなもので、日常生活に支障が出たり、悪くすると精神が崩壊してしまったりするかもしれない」
「そうなのですか⁉」
「彼女も同じね。廃人を二人もつくる訳には行かない。もう少し時間が経って、思い出が短く編集されてしまえば、入れ替えることが出来るのだけど」
「それは、どのくらい?」
「本人次第。彼らにとって過去になってしまえば、大丈夫なのだけどね」
「難しいですね」
「難しいのよ」
「でも、姫様なら、何とか出来ますよね?」
「全く・・・ヨっちゃんの手にかかれば、オバサンなんてイチコロね。このオバサンコロリが」
「姫様はオバサンなんかじゃありませんよ。姫様は姫様」
「もう良い。その男のことについて、もっと詳しいことが知りたい。子供の頃に夢中になっていたこととか、将来の夢だとか。そういうものを持たせてあげると、彼女への執着が薄れるかもしれない」
「なるほど。聞いておきます」と言って、ヨシキがにこりと笑った。
「止めて。その笑顔」
「何故です?」
「オバサンを惑わすから」
「はは。姫様を惑わすことなんて出来る訳がない。だって、姫様は姫様だから」
「さっきから、何なの? それ」
ヨシキはまた眩しい笑顔を向けただけで、何も答えなかった。
三日後、思い出交換所に現れた姫美子にヨシキが言った。
「姫様。この間の話、聞いておきましたよ」
「この間の話?」
「ほら、元カレがストーカーになった女の子の件」
「あれね。それで、どうだった?」
「元カレの過去について、聞いておきました」
ヨシキが説明を始める。
元カレはサッカー選手になることが子供の頃からの夢だった。だが、中学の時、部活で足を骨折したことから、サッカー選手になる夢を断念した。
「もともと、才能があった訳では無かったようです」
「他に、彼女に熱中する前に、夢中になっていたことは無いの?」
「週末、バイクに乗って走り回っていました」
「それは迷惑な話ね。もっと夢のあるものは?」
「それが、ありました」
「あったのね」
「一時期、音楽に夢中になってギターを弾いていたそうです」
「ギター・・・」
「探しておきましたよ」
「探したって、何を?」
「ギターに関する思い出を捨ててしまいたいやつです。俺のダチに――」
「あら、ダチだなんて。やんちゃなヨっちゃんも悪くないわね」
「茶化さないでください。ダチに音楽をやっているやつがいて、メジャーになってやるって頑張って来たんですけどね。この前、会ったら、彼女に子供が出来たんだ。俺、もう、音楽、止めて地道に働く。俺たち、もういい年だろう。夢を追いかけるのも、ぼちぼち潮時だって言うんです。ギター弾いていた時の思い出、何でも持って行ってくれと。もう、忘れてしまいたいそうです」
「そう。ヨっちゃんたちがいい年なら、私なんて、ババアね」
「そこですか⁉ 引っかかるのは」
「やってみる価値はありそうね。問題は――」
「問題は?」
「元カレをどうやって引っ張ってくるかね」
「それは任せておいてください」
「手荒な真似はダメよ」
「そんな、やんちゃはしません」
ヨシキは白い歯を見せて笑った。
翌日、思い出交換所で思い出の交換が行われた。
元カレを呼び出すのは簡単だった。伝手を辿って、元カレの怖い先輩に「楽して稼げるバイトがあるから、俺の代わりに行って来い」と言ってもらっただけだ。バイト代は一時間で一万円だと告げると、ホイホイやって来た。
店の奥の一室、メモリートレードセンターで思い出交換が行われた。ヨシキはカウンターの裏で開店準備をしながら待機していた。姫美子が思い出交換を行う時は、何時も店に来て待機している。ヨシキがいても、思い出交換には何の役にも立たないが、万が一、候補者が暴れ出したりした時に、取り押さえる為に男手が必要だろうと思うからだ。いざという時は、身を挺して姫美子を守るつもりだった。
小一時間も経たない内に、元カレがメモリートレードセンターから出て来た。
呆然と、視線を泳がせながら、酔っぱらっているかのように、ふらふらしながら歩いて行った。
姫美子のことだ。間違いはないだろう。後は思い出交換が上手く作用してくれること祈るだけだ。
次に姫美子がメモリートレードセンターから出て来た。
「あなたのダチは熟睡中よ」と言って笑った。
思い出交換が終わった後、寝てしまう候補者が多い。思い出を弄り始めると、候補者は記憶を失ってしまう。昼下がりの授業で、猛烈な睡魔に襲われる感じらしく、気持ち良く眠ってしまう。
「上手く行きますかね」
「分からない」と姫美子は暗い表情をした。
一週間経った。
何も起きない。元カレは再び、ギターに目覚め、メジャーを目指して毎日、練習しているのかもしれない。
上手く行った。ヨシキはそう思いたかった。
だが、ヨシキの期待は見事に裏切られてしまう。
八日目、元カレが彼女を刺し殺したのだ。
短大の帰り道を待ち伏せ、自宅付近で彼女に復縁を迫った。彼女は復縁を断り、自宅へ逃げ込もうとしたが、背後から追いつかれ、隠し持っていた包丁で刺された。
出血多量で彼女は死亡した。
ヨシキと姫美子はテレビのニュースで悲報を聞いた。
「ダメ・・・だったみたいですね」
ヨシキが沈痛な面持ちで口走る。
「そうね。私は神様じゃない。思い出は操れても、人の感情までは操れない。分かっていたのに、やっぱりダメだった」
「僕のせいです」
「誰のせいでもない。これは彼が選んだ道だもの」
「でも、他に彼女を救う道があったかもしれないのに・・・」
「それを言われると辛いわ」
「すみません。決して姫様を責めているのではないのです」
「分かっている。分かっていても・・・・」
「悔しい!」
「うん」
ヨシキが俯く。握り締めた拳がぶるぶると震えていた。