あなたの笑顔①
新宿の雑居ビルの二階に思い出交換所はある。
階段の入り口に「思い出交換所」の小さな看板が立っているが、まるで目立たない。初見の客は気がつかないだろう。それに、場末の寂れたバーとしか思えない店名だ。店名に惹かれて店を訪れる客など、滅多にいないに違いない。
夕方、姫美子が雑居ビルの階段を登っていると、階段に腰を掛けていた女の子が急に立ち上がって、「あの~」と声をかけて来た。
まだ学生のようだ。中学生かもしれない。こういうところに出入りするような年齢ではない。
「どうしたの? こんなところで」
「新宿のクレオパトラさんですか?」と少女があどけない表情で尋ねて来た。
姫美子は苦笑すると、「そう呼ばれていることは知っているけど、クレオパトラという名前じゃありませんよ」と答えた。
少女が顔を強張らせながら言った。「お願いがあります」
真面目な学生のようだし、姫美子を訪ねて、ここに来るのは勇気がいっただろう。
「なあに?」
「ママに幸せになってもらいたいのです」
「何か事情がありそうね。中で話を聞くから、さあ、入って」
姫美子が思い出交換所のドアを開けたが、女子中学生は階段に立ち尽くしたまま動かなかった。
「大丈夫よ。取って食ったりしないから」
姫美子がニコリとほほ笑むと、意を決したように女子中学生が思い出交換所に駆け込んだ。
「これ。僕の特製フルーツジュース。アルコールは入っていないから、よかったらどうぞ」
ヨシキがグラスに入ったジュースをカウンターに置くと、カウンター前の椅子に座っていた少女がビクリと飛び上がった。
姫美子が嬉しそうに言う。「教訓ね。世の中には、ヨっちゃんになびかない女の子だっているってこと」
「そんなこと、言われなくても分かっています。そこまで自信過剰ではありません」
ヨシキが淡々と答える。
「ふふ。彼女に手を出したら犯罪だからね」
「止めてください。ほら、彼女、怖がっているじゃないですか」
「ああ。ごめんなさいね。怖かった?」
姫美子が少女に聞くと、ぶるぶると首を振った。
「気丈な子ね。それで、何故、私を訪ねてきたの? 訳を話してくれる?」
「はい」と少女は事情を語り始めた。
ブックの妹、萌亜が通っている学校は中高一貫校で、彼女はその中学校に通っている。かつてブックの頼みで萌亜の友人の悩みを解決したことがあった。先輩からその噂を聞き、姫美子のことを知ったと言う。
新宿に尋ねて来るのは勇気がいったが、どうして姫美子に頼みたいことがあった。
「それが、お母さんに幸せになってもらいたいということなのね?」と姫美子が聞くと「はい」と少女が答える。
彼女の家庭は母子家庭で、父親は彼女が子供の頃に事故死していた。母親は女手一つで彼女を育ててくれている。
最近、彼女は母親の変化を感じるようになった。何時も疲れ切った表情をしている母親が明るくなって化粧をするようになった。
「好きな人ができたのだと思います」
少女はそう言う。年頃だ。母親に恋人が出来たようだ。それを知って複雑な心境だということくらい、直ぐに想像できた。
「お母さんに恋人が出来たのが嫌なの?」と姫美子が優しく聞く。
「ううん」と少女が首を振った。そして、「もうパパのことは忘れて、ママには幸せになって欲しい。好きな人が出来たのなら、再婚しても良いと思っている」と俯き加減で言った。
本当は嫌だが、母親のことを考えると応援してあげたいといった心境なのだろう。
「大人ね」と姫美子が感心する。
「ママに好きな人がいるのなら、再婚してもいいよって言ったら――」
母親はこう言った。
――あの人の笑顔が忘れられないのよ。
あの日の朝、何時も通り父親は家を出た。
市内の工場に車で通っていた。出勤途中、交差点で無理に右折しようとした車が直進して来たトラックと衝突、衝撃で進路を外れたトラックが父親の車と正面衝突してしまった。
即死だった。
もらい事故であり、父親に過失は見られなかった。
「ほら、よくあるでしょう。事故の前に喧嘩してしまって、それが最後になってしまい、仲直りが出来なかった。それが心残りだって。でもね、あの日の朝、普段通りで、何も無かったの。ただね、パパが出かける時、『行って来ます』って言ったの。『いってらっしゃい』って答えると、にっこり笑った。『ああ~素敵な笑顔だな。そう言えば、パパの笑顔が素敵で好きになったんだ』って思い出して、ママ、胸がキュンとしたのよ。それが忘れられなくてね~だから、パパのこと忘れて、別の人と再婚する気になれないの」と母親はのろけながら言った。
再婚に踏み切れないのは、父親のことを忘れられないからのようだった。
「パパの笑顔の記憶を消してもらいたいのです」と少女は言う。
そうすれば、母親が再婚に踏み切ることが出来るはずだ――と少女は思っているのだ。
「そうねえ・・・」と姫美子は考え込んだ。
母親にとっては大切な記憶のはずだ。それを消してしまって良いのだろうかと姫美子は考えていた。




