母の思い出
――思い出交換所。
それはトラウマを背負ってしまった人たちが駆け込む避難所のようなものだ。
都合の悪いこと、嫌な思い出を、忘れてしまうことが出来れば――誰だって、そう考える。だが、人はそう単純じゃない。
トラウマを抱えて生きて行くことになる。
そんな悩みを解決してくれるのが思い出交換所だ。
トラウマに囚われた人が、新しい一歩を踏み出すことができるように、優しく背中を押してくれるのがメモリートレイダーこと、冴木姫美子の仕事だ。
烏の濡れ羽色の髪を姫カットにし、切れ長で大きな瞳、官能的な肉厚の唇を持つ美女で、クレオパトラを思わせる美貌と神秘性を持ち合わせている。
「どうやって思い出を交換するのですか?」と若い男がクレオパトラに聞いた。
二十代だろう。初々しさで溢れており、姫美子を見る目に羨望の色が濃かった。
「私は人の記憶を映画のフィルムのように見ることが出来ます。そのフィルムのコマのようになった記憶を自由に切り取ることができるのです。後は、ぽっかりと空いた記憶の穴に別人の記憶を移し替えるのです。人の記憶に大きさや長さは関係ありません。コマを増やせば記憶は鮮やかなものになるのです」
「何故、思い出を交換する必要があるのです? 空いた記憶の穴はコマを増やして埋め合わせをすれば良いのでは?」
「先ほども申しました通り、人の記憶に大きさや長さは関係ありません。本人の記憶ですと、いくら増やしても穴は埋まりません。記憶に穴をつくってしまうと、精神が不安定になってしまいます。最悪、精神が崩壊してしまうかもしれません。だから他人の記憶で埋め合わせをするのです」
「へえ~そうなのですか」
「それで、あなたはどんな思い出を交換したいのですか? 忘れたい記憶とは?」
「いえ。僕は思い出が欲しいのです」男が言った。
無邪気な笑顔だ。凡そ悪意というものを知らない子供の笑顔のようだった。
「思い出が欲しい?」
「はい。僕は物心つく前に母親を亡くしていて、母の記憶がありません。どんな記憶でも、誰の記憶でも良いのです。母親の思い出が欲しいのです」と男は言った。
「それは・・・」と姫美子が絶句する。
思い出交換所は忘れたい思い出を交換する場所だ。欲しい記憶を手に入れる場所ではない。
「ここは辛い思い出に苦しんでいる人に、救いの手を差し伸べる場所なのです」
姫美子の言葉に、男は真剣な表情で、「僕も助けを求めている人間の一人です。母親の思い出が無いことに、ずっと寂しさを抱えて生きて来ました。これからも、そのことは僕につきまとって離れない。僕を助けてください。ダメでしょうか?」と訴えた。
確かに、男の言うことにも一理ある。人を救うという目的は同じだ。だが、男の希望を叶える為には大きな障害があった。
「母親の思い出を捨ててしまいたい人など、そういないでしょう。ご希望に沿うことができるかどうか分かりません」
「そうですね。確かに、母親の思い出を消し去りたい人間など、滅多にいないかもしれません。でも、もし、そんな方が現れたらで良いのです。もし、そんな方が現れたら、是非、思い出を交換して頂きたいのです」
「思い出を交換するとなると、あなたの思い出が必要になります。忘れてしまいたい思い出がありますか?」
「僕にですか⁉ 忘れてしまいたい思い出・・・」と男は暫く考えてから、「はは。随分、能天気なやつだと思われるでしょうけど、特に忘れてしまいたい思い出なんてありませんね。強いて挙げるとするなら、カラオケ大会で、トップバッターで歌って恥をかいたことくらいです。僕、もの凄い音痴なので――」と言って、男はカラカラと笑った。
確かに能天気なやつだ。
「候補者を見つけるのに時間がかかりそうです」と姫美子が言うと、「今まで母親の記憶がないまま生きて来たのです。この先、十年だって、二十年だって待ちますよ」と言って、またカラカラと笑った。
「そうは参りません。私にはそんなに時間がありませんから」と姫美子は寂しそうに答えた。
三日後、姫美子から連絡があった。
どれだけ待たされるかと思ったが、思いのほか早かった。あまりに早いので、何か確認したい事があるのかと思ったが、「準備が整いました。思い出交換所にお出でください」とショートメッセージに書かれていた。
準備が整った! 思い出交換ができるのだ。
(これで母親の思い出を手に入れることができる!)
男は喜び勇んで思い出交換所へ向かった。
新宿の雑居ビルの二階に思い出交換所はある。一見、ダサい名前の寂れたバーにしか見えない。狭い店内には奥にもうひとつ部屋があって、そこで佐伯姫美子が待っていた。
「ごきげんよう」
姫美子と白髪で小柄な品の良い老婦人が男を出迎えてくれた。
「こんにちは~」と男が元気よく挨拶をする。
「あら、こんにちは。良かった、こんなに若くて元気な方に母の思い出をもらって頂けるのね」と老婦人が嬉しそうに言った。
「普段は思い出を交換する人同士、引き会わせたりしないのです。今回はあなたの要望が特殊だったから、こうしてお引き合わせをすることにしました」と姫美子が言った。
「何だか、すみません。良いんですか? 僕みたいな者に、大切なお母さんの思い出を渡したりして」
男が尋ねると、老婦人は「良いんですよ。母の思い出といっても、たくさんあるものの内、そのひとつですから。残りは私がお墓の中まで持って行きます」と言って笑った。そして、「最も――」と老婦人は言葉を続けた。「お墓の中まで持って行けないかもしれませんし」
「・・・?」どういう意味だろう。
「私、認知症なのです」と老婦人が言った。「昔のことは、よく覚えているのですが、最近のことはどんどん忘れてしまって・・・」
調子の良い日は普通と変わらないが、調子の悪い日は、たった一人の娘のことまで忘れてしまうのだと、老婦人は悲しそうに言った。どんどん忘れて行く自分が怖い。このまま、何も分からなくなってしまうのではと思うと、やりきれない気持ちになるのだと。
「だから、あなたに母の思い出をもらって欲しいのです。あなたの記憶の中で、母が生き続けてくれるなんて、こんな素晴らしいことはありません。御免なさいね。あなたから思い出をいただいても、私は直ぐに忘れてしまうかもしれません。何だか不公平よね」
老婦人は寂しそうに謝った。
「僕の思い出なんて、直ぐに忘れてもらって構いません。どうせ、つまらない思い出なのですから。あなたのお母さまの思い出、大切にします。いえ、大切にしようなんて思わなくても、僕にとって唯一無二の、大切な思い出になるでしょう。忘れられるはずがない」
男がそう言うと、老婦人は「まあ、まあ」と言って、ハンドバッグからハンカチを取り出して、そっと目頭を押さえた。
「若い人と思い出交換をすると、認知症の進行が止まることがありますよ」と姫美子が老婦人を慰めるように言った。
「あら、本当」と老婦人はやっと笑顔を向けた。
「さあ、そろそろ始めましょうか。お二人に予め伝えておかなければならないのは、今日、この日のことは記憶に残りません。ここに来たこと、こうしてお二人、顔を会せたこと、お話ししたこと、そして、思い出を交換したことは、綺麗さっぱり忘れてしまいます」と姫美子が言うと、「大丈夫よ。どうせ、私、直ぐに忘れてしまうから」と言って、老婦人が笑った。
「では、始めましょう」
部屋には椅子が三つ置いてある。二つは背もたれを倒せば、ほぼ水平になって楽にくつろげる大きな椅子で、足元にフットレストが置いてある。その二つの椅子の間に、ひじ掛けの無い小ぶりなアンティークチェアが置いてあった。そのアンティークチェアに姫美子が腰をかけ、左右の大きな椅子に男と老婦人が腰を降ろした。
小柄な老婦人は背もたれを倒すと、椅子にすっぽり収まった。男は、長い足をフットレスト乗せて体を伸ばした。
「さあ、目を閉じて。思い出を見せてください。先ずはあなたから、カラオケ大会で大恥をかいたことを思い出して」
膨大な記憶の中から思い出を探さなくても、こうして本人に思い出を辿ってもらえば、直ぐに目的の思い出に行き着く。便利な検索機能のようなものだ。
(あれは、会社の飲み会だったな?ビアガーデンだったので、夏だった・・・)
男は当時のことを思い出し始めた。
男は幼い頃に母を亡くしていた。
物心つく前のことで、母親のことは何も覚えていないはずだった。だが、男にはひとつだけ母親の思い出があった。
何処だろう。夕焼けに染まる道を歩いていた。まだ、しっかり歩けない。よちよちと頼りなげに歩いていた。母親を見上げた。笑顔を向けていた。顔が夕焼けで真っ赤に染まっていた。
立ち止まると、母親に向かって大きく手を上げた。
「しょうがないわね」と母親が抱き上げてくれた。
暖かい。
「夕焼けが綺麗ね」
母親の胸に顔をうずめる――覚えていることと言えばそれだけだった。
だが、母の優しい笑顔とオレンジ色に染まった周囲の景色がくっきりと記憶に残っていた。