雪合戦
短編小説「思い出交換所」はメモリー・トレイダー/冴木姫美子を主人公にした作品です。思い出交換とは? メモリー・トレイダーとは? その特殊能力をどうやって手に入れたのか? 謎が徐々にあきらかになって行きます。
僕には不思議な記憶がある。
子供の頃だろう。校庭で雪合戦をしていた。ひざ下まで埋まる雪野原を駆けまわりながら、雪を丸めて友達に投げつける。うまく当たらない。はっと気配を感じて振り向くと、背後から忍び寄って来ていた友達から、顔面にまともの雪玉を食らうのだ。
顔に当たってはじけ飛ぶ雪が太陽に反射して、きらきらと輝いた。
そんな夢だ。
雪合戦の記憶なんて珍しくないと思うかもしれない。だが、僕が生まれ育ったのは、温暖な瀬戸内海地方だ。冬に雪が降ることだってあるが、降雪量なんてたかが知れている。雪合戦だって、できなくはないが、ひざ下まで埋もれる雪野原を駆けまわるなんて、そんな大雪が降った記憶がないのだ。
だが、雪合戦の記憶があった。
しかも、雪合戦をやっている校庭は僕の通っていた小学校や中学校のものではない。見渡す限り雪野原で、遠くに背の低い山が見えるだけだ。僕が育った小学校は海沿いの団地に囲まれた学校だったし、中学校は山裾に長く伸びた学校だった。
僕は一体、何処の学校で、誰と雪合戦をやっていたのだろう?
まるで覚えていない。
だけど、楽しい思い出だ。思い出す度に、(ああ~僕も雪野原を駆けまわりながら、友達と雪合戦をやったことがあるんだ)と幸せな気持ちになる。
そんなある日、東北のとある町に出張に行った。
僕は大学を卒業し、都内の電気メーカーで働いている。東北にある工場にやって来た。
駅に降り立った瞬間、何故か懐かしい気がした。僕が育った町の駅に似ていたからかもしれない。だけど、僕が育った町はずっと小さい。もっと鄙びた駅だった。
駅前のホテルを予約していた。
駅からホテルまでスーツケースを引っ張りながら歩いていて、僕はデジャヴに襲われていた。
(この町に来たことがある)僕の記憶がそう訴えていた。
明日の朝まで仕事はない。今日は食事をして寝るだけだ。ホテルでチェックインを済ませると、探検に出た。
(こっちだ)、(右かな?)記憶が導くままに、ぶらぶらと歩き続けた。
季節は初秋、街歩きをするには丁度良い季節で、雪が降るにはまだ早かった。
歩き回っている内に、小学校が見えて来た。小学校を見た途端、
――ああ、ここだ。
と何故か思った。初めて訪れた場所のはずだが、何故か懐かしい気がした。雪の季節にはまだ早い。校庭の向こうには、一面、茶色になった休耕田が何処までも広がっていた。
僕は目を閉じると、雪合戦の記憶を呼び起こした。
(僕はここで雪合戦をした)
「すいません。関係者の方ですか?」
感傷に浸っていると、突然、背後から声をかけられた。
驚いて振り返ると、二十代だろう。長い髪をポニーテールで纏めた若い女性が立っていた。
「私、この学校で教師をしています。まだ新米なものですから、卒業生の方を、あまり覚えていなくて。すみません。この学校の卒業生の方ですか?」もう一度、丁寧に声をかけられた。
僕は彼女に向き直ると、「この学校の卒業生ではありません。でも、何故かここで雪合戦をした思い出があって、それで、何だか懐かしい気がして、眺めていました。すみません。きっと、何処か余所の場所と勘違いしているのだと思います。怪しい者ではありません。直ぐに出て行きます」と頭を下げながら答えた。すると、彼女が「もしかして・・・」と呟いた。
立ち去ろうとする僕を「ちょっと待ってください」と呼び止めると、「あなた、真子さんという彼女がいませんでしたか?」と尋ねた。
「えっ⁉」真子は確かに僕の彼女だった。
大学二年の時に付き合い初めた。ひとつ下でサークルの後輩だった。社会人になって、僕が東京で働き始めた為、遠距離恋愛になって別れた。自然消滅だった。
「いました」と答えると、「やはり・・・あなた・・・」と彼女が僕のことをじっと見つめながら言った。
――思い出交換所。覚えていますか?
彼女はそう尋ねた。
「思い出交換所? いいえ、覚えていません」
「そうですか・・・」
「何がご存じなのですか? 僕の雪合戦の思い出と、その思い出交換所との間に、何かつながりがあるのでしょうか? ご存じなら、教えてください」と僕が言うと、彼女はまつ毛を伏せながら、「あなたの雪合戦の記憶は兄のものなのです」と答えた。
「お兄さんの?」
「はい。実は――」と彼女が語り始めた。
彼女の兄は子供の頃に弟を水難事故で亡くしていた。大雪が降った日、兄は校庭で友達と雪合戦をする為に出かけた。「僕も雪合戦がやりたい」と弟がついて来たが、まだ体が小さかった弟は足手まといになる為、「ついて来るな! 家に帰れ」と何度も追い返したと言う。だが、追い返されても、追い返されても、兄を追いかけ続け、結局、弟は校庭までついて来てしまった。
雪合戦が始まった。夢中になった兄は弟の存在を忘れてしまった。ふと、気がつくと、弟の姿が無かった。
校庭の周りは一面、田んぼで、校庭の端に用水路が流れていた。農閑期は水量が僅かだが、このところの大雪で水量が増えていた。しかも、水路が雪で覆われて、見えなくなっている箇所があった。この時期だ。用水路に落ちると、ひとたまりもない。あっという間に体温を奪われてしまう。
兄は名前を叫びながら、弟を懸命に探した。
「結局、弟の遺体が見つかったのは、春になってからでした」と言う彼女の眼には薄っすら涙が浮かんでいた。「それ以来、兄は弟の事故に囚われてしまいました。寝ても覚めても、くよくよと弟の事故のことばかり考え続けました。あの時、無理矢理にでも弟を家に連れ帰っていれば、雪合戦なんかに行かなければ良かったと」
「・・・」僕は黙って彼女の話を聞いていた。
僕が何を言っても、気休めにしかならないような気がしたからだ。
「兄は引き籠るようになってしまいました。何時までも弟の事故を引きずる兄を、まるで腫れ物に触るように扱うしかありませんでした。家族みんな、苦しんでいたと思います。それが、三年前――」
「三年前⁉」
「東京に遊びに行った友人から妙な噂話を聞きました」
「妙な噂話?」
「新宿に思い出交換所というお店があって、そこに行けば辛い過去や思い出したくもない記憶を消してくれると言うのです。普通なら、そんな突拍子もない馬鹿げた話、誰も信じないでしょう。でも、私たち、本当、藁にも縋る思いだったのです。兄を何とかしたくて。兄に立ち直ってもらいたくて。私、兄を連れて上京しました」
新宿の何処かだった。雑居ビルの二階に思い出交換所があった。表向きはバーのようだが、店の奥に小さな部屋があって、そこに若い女性がいた――と彼女は言った。
「クレオパトラみたいな人でした」とその女性を例えた。
「クレオパトラですか?」
「すみません。下手な例えで。でも、そう感じたものですから」
「そこでお兄さんの思い出を消してもらったのですか?」
「厳密には誰かの思い出と交換したみたいなのです。思い出を取り出して、辛い部分を消去して、そして、ぽっかり空いた部分に、同じようにして取り出した別人の思い出で埋め合わせるのだ――と、そんなことを教えられました。他人のものですが、美しい思い出になるのよと、それに今日、ここに来たことは覚えていませんよと、クレオパトラみたいな人に言われました」
「それで、お兄さんは元気になったのですか?」
「はい。すっかり。弟が事故で亡くなったことは覚えているのですが、詳しいことは覚えていなくて、遊んでいて用水路に落ちて死んだ――ということだけしか知りません」
「へえ~良かったですね」
「はい。その代わり、時々、妙なことを言い出すようになったのです。俺、真子っている女性と付き合っていたみたいだって」
「それは・・・」僕の記憶だ。
「引き籠りだった兄に、恋人なんかいませんでしたし、女性と付き合っていたみたいだって、その言い方、変でしょう。あの時、思い出を交換した方の記憶なのだと直ぐに分かりました」
「確かに、僕の記憶のようです」
僕は真子とは自然消滅の形で別れたことを彼女に伝えたが、よほどひどい別れ方をしたのだろう。そして、僕はそのことを思い出したくなかった。
彼女もそのことが分かっている様子だった。
僕には思い出交換所を訪ねた記憶など無かった。クレオパトラが消してしまったのだろう。
「良かった。今日、ここで、あなたと会うことが出来て。お陰でスッキリした気分です」と僕が言うと、「私、あなたと会っているのです。あの日、思い出交換所で」と彼女が言った。
彼女の話によれば、晴れ晴れとした表情で部屋を出て来た兄を迎え、「気分はどう?」、「何か変わったところはない?」と質問責めにしている時、横を通り過ぎて行った若い男がいたということだった。
「それが僕だった訳ですね?」
「一瞬、ちらりと見ただけでしたので、確信は無かったのですが」と言って彼女が笑った。「校庭にあなたが立っているのを見た時、まさかと驚くと同時に、やっぱりっていう気持ちがありました。記憶を頼りに、ここまで来てくれたんだなって」
「僕なんかで良かったのでしょうか?」
「あなたが弟の記憶を持っていてくださる。あなたで良かった。そう思います」
「ありがとうございます」
「それで、あなたは今?」
「僕ですか⁉ 元気ですよ。今日、ここに来たのは、出張でこの町に来たからなのです」と言って、校庭に来た経緯を伝えた。
「良かった。あなたも、もう思い出に縛られていないのですね」
「はい」
日が暮れて来た。明日は天気になりそうだ。夕焼けが彼女の顔を赤く染めていた。