15:女神と女王【前書:宰相の長男視点、本編:主人公視点、後書:侯爵夫人視点】
泉下に旅立った人間に関して、一番最初に忘れるのが声だと知ったのは、さて、人の話からだったか書物からであったか。
忘却は遺された人間への慈悲だ。魔獣に食い殺された弟と上の妹。彼らの生前の姿を思い浮かべたいなどと思ったことは無かった。死者への感傷など戦場での判断を過たせる不要物なのだから。そう、思っていた。
―――彼女の声が思い出せない。その欠落に気付くまでは。
だから、あの申し出に後悔はなかった。
「ノイス侯爵閣下、どうぞ僕をお連れ下さい。我が家の索敵魔術があれば、斥候及び足止め要員数を大幅に減らせます。これからの帝国を守護する精鋭騎士を一人でも多く遺して逝けるのです。この命の使い方が、最も効率が良い」
―――その黄泉路の果て、軍神の御許で、貴女があの雲雀のような声を響かせているかもしれない。
そう、思ってしまったのだ。
***
10年経っても帝都は相も変わらず欲に塗れた人間の魔窟だった。そんな人の皮を被った魔物たちを統治する帝室に新たに加わった、先帝の御落胤テオフェル皇弟殿下。かの貴人こそが僕の新たな主君だ。
特攻作戦に参加した当時、僕は現皇太子殿下の側近候補だった。蘇生後、その立場に復帰してはと勧められたが、辞退した。宰相たる父に、僕が死亡していた十年の間に、生母は離縁して下の妹を連れて公爵家を出て行き、傍系の子息を後継に指名したと教えられたからだ。
下手に出世して、家督問題の火種になるつもりはない。そんな時間があれば、皇弟殿下の部下として帝国内政治の安寧に寄与した方が合理的だと告げれば、父は満足そうに頷いていた。
***
「初めまして、種馬」
本来であれば皇族には専用の宮殿が与えられる。しかし、最近になって皇族となったテオフェル殿下の宮は未だ建造途中であった。そのため、我が主の執務室は筆頭家臣であるジギスムント殿の帝都本邸に臨時で設けられている。
殿下宛ての書簡を手に入室すれば、その執務机の天板に腰掛ける小柄な人影があった。
細い足をブラブラと揺らしながら、そばかすの子供がこちらを焦げ茶色の瞳で射抜く。立ち振る舞い、訛り、容貌、服装、髪と瞳の色。いずれも凡庸であり、貴族階級が持つ高貴な特色を有しない。どこからどう見ても平民の子供であった。
そんな生き物が一体全体どうして、皇族たる主の執務机の天板に腰掛け、開口一番にこちらを罵倒してきたのか。皇弟殿下は何故この状況を放置して報告書を読み進めているのか。彼の後方に控える先代侯爵ジギスムント殿が明後日の方向を向き、こちらを見ないようにしているのは何故か。
聞きたいことは色々とある。だが。
皇弟テオフェルの部下アロイジウスは、薄紫色の瞳を冷たく光らせて、目前の無礼者を睥睨した。普通の子供であれば泣き出す場面なのだが、このガキ、べっと舌を出してこちらをおちょくってきおる。中々によい根性だ。
歳は10代前半ぐらいであろうか。いかに学の無い下等平民といえど理非の判断はつく年齢のはず。
「不敬である。首を千切り飛ばすぞ、小僧」
額に青筋を浮かべて低い声で凄めば、ようやく主が書類から顔を上げて、子供に声を掛けた。
「おい、エデル。あんまりからかうな。一応、軍神神殿の聖典曰く、お前に血と肉と骨と魔力、あと魂の半分をくれた父ちゃんだぞ」
子供の名前が判明した、と同時に不可解な内容が聞こえた。額を抑えて、何か勘違いをしている主に反論する。
「テオフェル殿下、私に子供はおりません。この平民が何を申したのかは存じ上げませんが、どうぞ真に受けないで下さい」
どうやって主をだまくらかし、ここまで潜り込んだのか。聞き出してやろうと一歩踏み出せば、平民の子供が馬鹿にしたように鼻を鳴らして、歌うように言葉を紡いだ。
「その美しい金の髪は星々より眩く、その澄んだ若葉の瞳は僕の心を揺らす。どうかその麗しい声で僕の名を呼んでおくれ、愛おしい人……ぶっは、やっぱ駄目だ、これ! 笑わないとか無理だろっ」
エデルと呼ばれた少年が、執務机をダシダシと叩く。だが、こちらはその不敬を咎めるどころではなかった。今、彼が謡った情詩、それは、僕が。
「お前っ、どこでそれを!」
早足で駆け寄り、子供の頤を掴み上げて睨みつける。この少年が今口ずさんだ詩歌は、僕が生涯で唯一、必要だと思った不必要な存在に捧げた言葉だ。もうこの世にいない彼女のための。
「母ちゃんからだよ」
意志の強そうな顔立ちの、ほんの欠片も彼女にも僕にも似ていない少年が、ニイッと口の端を歪めてこちらを嘲笑して見せた。
「あんたの閨教育を担当した侍女からって言った方が分かりやすいか。童貞と子種、御馳走様でしたってね。ハジメテの女までパパに用意してもらった感想はどうだった、お貴族様?」
子供の瞳に冷たい光が宿った、その時だ。左端の視界にソレが映った。認識すると同時に頭を後方に逸らす。
水魔法の長矢がこちらの頭部があった空間を射抜く。子供を掴んでいた手を離し、数歩下がる間にも次々と放たれる攻撃型水魔法に、こちらも防御の盾を水魔術で編んで凌ぐ。
魔力を単純な力で使うのが魔法、それを技として精錬させたのが魔術だ。本来ならば、魔法に魔術が負けるはずがない。そのはずなのだが……。
「……固いっ」
水の魔力を魔術で組み上げた盾が軋むほどの威力に、鳩尾がヒヤリとする。魔法攻撃でコレだ。魔術となれば、どれだけの威力に。
「魔術だったらどうなるかって?」
見透かしたような声に、嫌な予感がした。陣がひび割れた防御魔術の水の膜。その向こう側で、猫のように目を細めて微笑む子供がいた。ああ、その笑い方は。
少年の背後に、魔術陣が浮かび上がり、膨大な魔力が練り上げられていくのが分かる。アレを食らえば、この防御陣では一溜りもない。だが、反撃は。あの、彼女によく似た艶然とした笑い方の子供は、もしかしなくともきっと本当に。
―――愛した女との子供に、例え自衛のためでも攻撃などできようか。
為す術もなく両手をダラリと下した時だ。
スパアンッ、と小気味よい音が室内に響いた。少年の頭頂部に、皇弟の丸めた書類が振り下ろされた音だった。集中力が途切れたらしく、空中の陣と魔力が霧散ていく。
いってぇ、と頭を押さえて涙目の少年が振り返れば、腕を組んだテオフェル殿下が彼を睥睨していた。
「やりすぎだっつってんだろうが、この愚弟が」
弟? というこちらの声を拾って、殿下が何でもないことのように親指でエデル少年を指さして言う。
「こいつは俺の父親違いの弟だよ。で、実の父親が『黒の女王』のおかげで奇跡の復活を遂げたって聞いて、見てみたいって駄々こねて仕方がないって面倒見てる他の兄弟に相談されて連れてきたわけだ」
まったくもって訳が分からない説明であった。
「……殿下は孤児で、天涯孤独の身では?」
あー、そこからか、と面倒臭そうに頭を掻くと、殿下は護衛のジギスムント殿を指さした。
「詳しいことはコイツに聞け。お前は口が堅いって聞いたからな。そうじゃなきゃ、可愛いアホ助のお願いでも聞きゃあしねぇよ」
アホってひでぇ、と少年が、年相応の子供の顔で抗議するのを皇弟は黙殺する。
「ほれ、もう満足しただろ。帰った、帰った」
乱暴にエデルの髪を撫でまわして、テオフェル殿下は彼を執務机から降ろしてやる。ええー、もう? と少し不満げな少年は、それでも素直に踵を返し、何もない壁に向かい歩いていく。
あと少しで壁にぶつかる、というところで彼は振り向き、僕に言った。
「薔薇の花、ありがと」
え、と声を零せば、エデルは焦げ茶の瞳を逸らして、小さな声で付け加えた。
「母ちゃんのこと、俺が小さい頃に死んだから本当はよく知らねぇんだ。あんたのあの言葉は、よく歌ってたって兄ちゃん達に教えてもらった。んで、あんたにもらってから赤い薔薇の花が特に好きになったって一番目の兄ちゃんが言ってた」
だから、と彼は強い光を宿した瞳でアロイジウスを射抜く。
「あの女が、俺達と生きるこの世界で嬉しいと思えるものをくれて、ありがとう」
―――閨教育係に情が移っては困る、という父の指示で、かの侍女は多めの慰労金と共に別の貴族家を紹介された。そう、彼女が去った後に聞かされた。
それでもと父の目を盗み、多少の親交があるという侍従に幾度となく託したのが赤い薔薇の花束だ。だが最後に届いたのは、彼女からの感謝の言葉ではなく、その訃報であった。
決死の特攻作戦に志願した時に、チラリと頭の端をよぎったのは、先に軍神の御許に召された彼女の笑顔であった。黄泉路で、もう忘れてしまった、その声に呼んでもらえればと思ってしまったのだ。
結局、彼女にあちらで逢えたかは覚えていない。だが、僕の人生は忘れて欠けて失うばかりでもなかったらしい。あの一見儚げに見えてその実、芯の強い女性の忘れ形見が目の前にいる。
「……そうか。教えてくれて、ありがとう」
頬を上げ、唇を歪める。子供と接したことなど数えるほどしかない。鉄仮面と呼ばれるこの顔に怯えて彼らの方が近づいてこないせいだ。果たして、僕は上手く笑えているだろうか。
「別に。……せっかく生き返ったんだ。今度は長生きしろよ、種馬」
最後まで減らず口を叩くと、少年は壁の向こうに消えていった。
顔を引き攣らせたジギスムント殿が皇弟に詰め寄る。
「殿下、なぜ当家本邸の秘匿通路をご兄弟が当然のように使っていらっしゃるのですかな!?」
秘匿通路にも様々な種類がある。あれは恐らく見る限り、特定の魔術陣を開錠位置で展開しなければ通れない類のものだ。専用の魔術陣と展開位置は代々の当主と跡継ぎしか知らないのが通例なのだが。
「なんか俺の家臣団を内偵調査したときに、ここを担当した兄弟が解析して開錠したらしいぜ」
魔術陣の設定が甘かったんじゃねぇの、と再び書類に目を落とした皇弟が、興味なさげに淡々と返す。彼はそのまま、こちらに掌を差し出してヒラヒラと振った。
「アロイジウス。その手に持ってんの、聖スヴィール教国の最新動向だろ。さっさと寄こせ」
主の命令に慌てて差し出した書類は、先程のやり取りの途中で強く握ったためか、随分としわが寄ってしまっていた。それを伸ばしつつ読み進めて、テオフェル皇弟殿下は眉を寄せる。
「『皇弟』に帝室の影が渡してくる程度の、表層の情報でもここまでヤバくなったか」
んー、面倒臭えなぁー、と北方の宗教国家に頭を抱える皇弟と、秘匿通路の設定を変えるべきか唸る先代侯爵。その二人に、結局さっきの子供と殿下の関係は、と聞き難い、意図せぬ隠し子が発覚した、宰相の長男であった。
「よきかな」
ゆるりと金色の瞳が細められる。
「よくないっ」
リオンは吠えた。
***
毎度お馴染みになりつつある白一色の空間で、リオンは力無く四肢を投げ出していた。どうせ、誰に見られるわけでもない精神世界だ。女王の品格を彼方に放り投げたところで何の問題もない。随分と久しぶりの、警備の騎士も控えている使用人もいない、本当に一人きりの時間だった。
「……つ、疲れた」
なぜ彼女が疲労困憊しているのか。それは、直前に奇跡の死者蘇生をやらかしたからでも、魔力と体力を限界まで使ったからでもない。それは―――陰キャが陽キャに囲まれた結果の精神的疲労からだ。
前の世界では自他とも認めるインドア派陰キャであった彼女にとって、次期辺境伯夫人として大勢の家臣や使用人に傅かれての生活は、中々にしんどいものだった。
実務は女王としての能力補正で卒なくこなせても、他者と会って話す、それだけで草臥れるのが陰キャという生き物なのである。飲み物一つですら複数の使用人に用意させる生活は、人によっては羨ましい環境かもしれないが、リオンにとっては地味にストレスのかかる生活であった。
兎は寂しいと死ぬらしいが、構い過ぎると干乾びるのが陰キャという生き物なのである。サボテンと同じぐらいに放置して欲しい。イエス引きこもりノータッチが身上のリオンとしては、この誰もいない真っ白な空間には、実家のような安心感しかないのであった。
「ひっさしぶりのボッチ空間。最高……」
魔力値と体力値の回復には経験上2、3週間かかる。その間一人ぼっちを満喫して、貴族生活でゴリゴリに削れた精神を回復させよう。そう決めて、仰向けに横たわったリオンは完全に脱力していた。思っていたよりも限界だったらしく、もはや立ち上がる気力もない。
何もない中空をぼうっと眺める視界を、大きな白い尻尾が過る。見間違いだろうかと瞬けば、今度は狐耳の女人がリオンの顔を覗き込んできた。
「おや、寝ておるのか、人の子よ」
慌てて上半身を起こしたリオンの目前に、木扇を持った女人が着物の裾を整えて正座する。
「おお、起きておったか。『クオン』。いや、今は『リオン』と名のうておるのじゃったかのう」
―――息が止まった。
だって、その名は。前の世界に置いてきてしまった、最早この世界の誰も知らないはずの名だ。
寝起きでボサボサの髪のまま固まった彼女に、謎の美女は扇子で口元を隠して笑う。
「こちらの姿では分からぬか。ふむ、ならば、こちらならばどうじゃ」
舞うように振られた木製の扇から白檀が香ると同時に、その姿が霞んで小さくなった。美女が掻き消え、その後に現れたその姿は、小さな狐であった。白色の毛並みと、九つの尻尾、染めたように赤い眦。思い出したのは、古い木彫りの像だ。
中学時代に叔母と共に参拝した、地元の山裾にあった廃神社。その御神体として祭られてた木像は、米作の豊穣を願って古い時代に彫られたものらしかった。荒れ果てて面影もなくなっていたが、全盛期、女神を喜ばせようと境内に植えられていた花の名で親しまれていたという、白狐の神様。その名前は。
「お藤さま?」
ドウッとどこからともなく現れた淡藤色の光の粒の荒波が白狐を包み込む。眩しさに目を瞬かせていれば、次第に光は収まり、見上げる程に大きくなった狐が姿を現した。先程よりも毛艶が良くなり、少しふっくらとしている。
「……おお、さすがは藤二郎の子孫。名を呼ばれただけでこれか。いや、信仰心があってのものでもあるのう」
光り輝く毛並みに金色の目をまん丸にした白狐が、リオンの頭ほどの大きさとなった前足の肉球を持ち上げて、まじまじと眺める。余談だが、肉球の色はピンクだった。
「いかにも、妾は『お藤さま』じゃ。時代によって『しろ様』だの『狐神』だの『狐たん』だの村人達が好き勝手に呼んでおったが、一番呼ばれたのは『藤』の名であったの」
え、神様にとって名前って大事なんじゃ? と首を傾げるリオンに、ほけほけと神様は髭を揺らした。
「そも、正月祝いに遠方から来た親族が、村の宴で『でかい岩とか流れ着いた変なモンとか祭るとなんかいいことがあるらしい』という話をして、『じゃぁ、うちの村もなんか稲作を見守ってくれそうな神様を作ろうぜ!』とノリと勢いで形作られた信仰の化身が妾じゃ。
人の思いに応えて生まれた我が身ゆえ、妾を思うて呼ぶ名を選んだりはせぬ」
ゆえに、と女神は金色の瞳を細めて、はじまりの村人たちの末裔に微笑みかけた。
「『【美獣探偵ベンソン教授】3巻に出てきた九尾のビャッコ様そっくりだー!』という其方の声も、意味は分からぬが、なんぞ呼ばれたようじゃ、と久々に起きて現世に行く程度にはよく妾の耳に聞こえたのぅ」
ミ゜という声がリオンの喉から漏れ出た。暗黒の中学時代が蘇ったのだ。
今、話に出てきた書籍は、リオンが中学時代にドはまりしていた推理小説系ラノベである。その内容は、獣人が存在する現代社会で研究の傍らで探偵業も営むジャックラッセルテリアの獣人ベンソン教授が、舞い込む依頼を解決するうちに巨悪と戦うことになる王道サスペンスミステリーであった。
作中に登場する謎の美女悪役が、九つの尻尾を持つ白狐の獣人ビャッコ様だ。古今東西、日本人のオタクは王道主人公よりも格好いい悪役に肩入れする癖がある。当時『久遠』と呼ばれていたリオンもまた、敵方のクールなお姉さまキャラであるビャッコ様を推していた。
彼女に憧れて始めた全身黒ファッションと共に、人類皆が通る中二病という通過儀礼を思い出して、声もなくリオンは身悶えした。過去の自分に刺し貫かれた気分だった。人間、忘れたい記憶というものもある。
そのビャッコ様が人型から完全獣形態に移行した時の姿が、廃神社の御神体に似ていると叔母に教えられて、彼女にねだって一緒に行ったのが最初だった。
折角お参りしたのだからと、軽い草引きをして、狐神ということで安直にお揚げをお供えして、その時は帰った。その後も、時々一人でお参りしては、家族には話せないアレコレを零す場所として、崩れかけた社の掃除や、花や食べ物のお供えを続けていた。
国道の拡張工事で、社が取り壊されるまでは。なんでも廃神社がある場所は私有地だったらしい。土地の持ち主は元村人の子孫で、現在は遠方で暮らしており、神社の維持管理が難しいため前々から処分したかったのだという。
他所の地域から来た神主に鎮めの儀を施されて、御神体ごと廃神社は取り壊され、後には広い道路ができた。
慣れ親しんだ神社が取り壊されたことはショックだったが、当時、定期健診の検査結果から余命が残りわずかと言われていた私は、後に遺す心残りが一つなくなった、と少しほっとしてしまった。
そんな、薄情者の信仰者に打ち捨てられて、最期には人間の都合で棲み処の社すら取り壊された神様が、金色の瞳を細めて、心底愛おしそうに彼女を見つめていた。
「息災なようで何よりじゃ、我が愛し子よ。よきかな」
未だにフラッシュバックする黒歴史に息も絶え絶えなリオンは、反射的に吠えた。
「よくないっ。あ、いえ、よくはないです」
さっきまで精神的な休暇に喜んでいたはずなのに、突如として過去の愚行を思い出して心に深い手傷を負ったリオンは、温度差にグッピーだったら死んでいた、と原因となった狐神に反射的にツッコミを入れて、そのキョトンと丸まった金色の瞳の無垢さにシオシオと項垂れた。
「……恨んでいないのですか? 近隣の市に吸収合併されて、村の名前すら失った私たちは、『お藤さま』を過去のモノとして捨ててしまった。紛れもない不信心者です。貴女様には私達を恨み祟る権利が、ある」
お人好しの神様に、お人好しの女王が吠える。貴女様は怒っていいのだ、と。
それに、クックッと笑い、白狐は九つの尾を愉快そうに揺らした。
「よいのだ。お前たちが笑っている姿を最期までずっと見ていたい、それだけが妾の願いであったのだから」
道路事情とやらはよく分からなかったが、あの廃神社がなくなって、お前たちの生活が少しでもよくなるのならば、それでよかったのじゃ。そう言って白狐は姿を揺らめかせ、再び白髪の美女に転身した。
「それに、怒る権利はそなたにもあるのだぞ」
柳眉を下げて、女神は人の子の頭を撫でた。これまで異界の地でリオンが舐めた辛酸を労うように。
「そなたをこちらの世界にこさせたのは、妾じゃ」
その瞬間にリオンの胸中を過ったのは、言葉にならない感情の渦だった。
理由も分からずに息子レオンと共に異世界に放りだされてからの数々の苦難が思い出される。汚泥の中を這いずり回った難民時代、生活に追われつつも諦めきれない故郷について調べ続けた平民時代、そして、その先の未来で得た新しい家族達との今の暮らし。
不幸も幸福も、苦しみも喜びも、怒りも感謝も、全てはあざなえる縄のように表裏一体で、そのどちらだけでもない。なんと言うのが正しいのかもわからず、途方に暮れて、リオンは、結局ただ尋ねることしかできなかった。
「どうして」
ぽつりと落とされた人の子の問いに、真剣な面持ちで元土地神は答えた。
「彼方で消えたそなたの命を吹き返す方法が、妾の神格ではこれ以外になかったのだ。この世界には知己の神がおっての。その者に其方とその眷属たるレオンを託した。あれが正しかったのか、妾には分からぬ。だが、妾が嫌だったのじゃ。其方の笑顔が二度と見られぬのは」
酷なことをしたのう。すまなんだ、と項垂れた女神は、狐耳まで伏せてしまっていた。そのぺちゃんこの耳とだらりと垂れ下がった尻尾を見て、リオンは深呼吸をした。
―――故郷のことを思わない日は無かった。だけど、それももう過去のことだ。
ルイスと出会ってからの怒涛の日々の中、過去を振り返る暇など数えるほどしかなかった。もう私には、共に未来を見つめる、夫を始めとした家族がいる。彼や彼女に、そしてこれから生まれる未だ性別すらも分からない命に出会えたのは、きっと、この神様のおかげだ。
「ありがとうございます」
『神社に願掛けをして、それが叶ったら神様にお礼を言うのよ』という母の言葉が脳裏に蘇る。その後に『そういえば、父さんもクオンが生まれた後で安産祈願をした神社にお礼を言いに行ったなあ』と懐かしそうに告げた父の言葉も。その声はもう忘れてしまったけれど、その教えは今でもこの胸にある。
「いつも見守って下さり、ありがとうございます。もうすぐ孫が生まれます。どうぞこれからも私達一族を子々孫々とお見守り下さいませ。『お藤さま』」
伏せられた白い睫毛の下から、金色の瞳が見えた。ああ、そうか。この色は。
「貴女様に古の村人たちが願ったという、金色に染まった実り豊かな稲穂はありませんが、この地には、大地の果てまで続く黄金色の麦畑があるそうです。どうぞ、時々でも構いません。また此方にいらして下さい」
ほんに優しい子じゃのう、と女神は赤い唇を一瞬震わせて、ニッと悪戯気に碧色の瞳を覗き込んだ。
「まず、稲穂はこの世界にも存在しておるぞ」
え、まさか日本人の命たるお米と再会できる!? とリオンはソワソワとし始めた。それにフフと笑って、豊穣の女神は続ける。
「次に、この世界の神に、その、実は先日嫁いだのじゃ。だから妾が消えてなくなるまで、そなた達のことをずうっと見守るつもりじゃ」
それでのう、と着物の袂から取り出されたのは、折りたたまれた和紙の書状だった。
「ヴァッレン帝国の軍神神殿とやらが、結婚式を開いてくれるそうなのじゃ。背の君は、降臨なぞ数える程しかしたこともない故、勝手にさせておけと申しておったが、妾が出たいとねだったのだ。せっかくなので元の世界の神々も呼んで、盛大に宴でも開こうと思うておる。ただ、妾は知っての通り、信者がほとんどおらぬ。そこでじゃ」
―――そなた、新婦側の招待客として参列してはもらえぬか?
差し出された和紙には、懐かしい日本語が毛筆で流麗に書かれていた。そこにある『結婚式招待状』の文字を見て、卒倒したくなったリオンだった。
参列者がほとんど神様だとしたら、これって神前式ってことになるのかな、とか。神様に結婚式に招待されたときのマナーとか知らないんですが、とか。知らない人、いや、知らない神様に囲まれて御式に出席して、更に酒宴に参加することになるとか陰キャには荷が重い、とか。
色々と言いたいことはあった。今日はこんなんばっかだ。ゆっくりボッチ空間を堪能するつもりだったのに。内心でそう嘆きつつ、引き攣った笑顔でリオンは恭しく招待状を受け取って、新婦たる女神に尋ねた。
「夫婦で参列しても宜しいでしょうか」
夫である次期辺境伯ルイスが、愛妻リオンによって神様案件に巻き込まれた瞬間であった。
ノイス侯爵夫人は絶句した。
ノイス侯爵家領地本邸にある貴賓向け客室を訪ねれば、客人リオンの寝顔を見つめている偉丈夫がいた。眠り続けるリオンの夫であるルイス次期辺境伯だ。寝台の横に置いた椅子に座って、眠り続ける妻を眺める姿は、それだけならばいつも通りだった。
いつもと違うのは―――
「一体全体、どうなさったのです」
寝台に横たわったリオンの全身が、一部の隙もなく装飾品で飾り立てられ、着けきれなかったらしい品々が周囲に散りばめられていた。その姿は、あたかも宝物の上で眠る神話の竜のようであった。
***
あの奇跡の夜から一ヶ月が経過していた。蘇生限界時間を突破しての聖魔法による特殊回復という、前代未聞の偉業を成し遂げた『女王』は、本人が倒れる前に宣言した通りに昏々と眠り続けている。
彼女を診察した、腕利きの神官であるレオンによれば、確かに本人の申告通り『ただ寝ているだけ』なのだそうだ。
レオン本人は、既に帯同神官として魔獣戦線へと復帰しており、現在は我が侯爵家お抱えの神官が、数日に一度彼女に聖魔法を施して身体機能を維持している。
レオンと入れ違いに魔獣戦線から来訪したのが、ルイス次期辺境伯だった。戦闘や執務の都合で何度も辺境伯領とノイス侯爵領を往復しては、瞳を閉ざしたままのリオンに時間の許す限り付き添っていた。
時折その手を握り祈るように額に押し当て、その頬を撫でて何事かを囁く姿は、見ているこちらまで胸が苦しくなる悲壮感があった。
―――リオン様、早く目覚めて下さいませ。貴女様の御夫君がお心を痛めていますわよ。
ノイス侯爵夫人もまた、彼女の目覚めを今か今かと待ち焦がれていた。
侯爵夫人は夫の生還時に、夫の侯爵はその父親との再会時に、夫婦揃って『女王』に泣かされている。この恩は必ずや倍にして返すと強く誓ったのだ。リオン本人不在の間にも色々と貴族社会で手回しはしたが、やはり本人にもお礼が言いたい。
今日こそは、春の空のように柔らかで美しい碧色の瞳を見せてくれるだろうか。そう期待して入室した客室で、何故か宝飾品塗れとなっているリオンに、犯人であろう夫ルイスの正気を疑ってしまった。
「ルイス様、安眠効果のある薬草茶をご用意させますわ。少しお休みになってはいかが?」
努めて穏やかな声で休息を勧めれば、否との返答と共に、この異様な光景の理由が語られた。
「……なるほど。つまり、大攻勢の時に同じように異能で『疲れた』リオン様は、宝玉ピアスを『使用』することで覚醒までの時間を短縮したと推察されましたのね」
それで、とリオンに付けられた装身具に目をやる。どれもこれも最上級品の宝玉が使われている。その仮説が正しいとしたら、これらに付けられている宝玉をリオンが利用する可能性が確かにある。あるのだが……。
再度、装着された宝玉と装飾品を眺めて、高位貴族として有する知識と引き合わせた上で、ノイス侯爵夫人はリオンの頭を仰向けにした掌で指し示した。
「ルイス様。私の見間違いでなければ、リオン様がお付けになっているティアラは、皇太子妃が婚約時に与えられるものでは。首飾りは皇后陛下が式典で付けられていたものに似ていますわね。指輪は……皇太子殿下の印章指輪に見えるのは、私の目の錯覚かしら」
途中から流石の侯爵夫人も声が震えた。ヴァッレン帝国皇室の財宝が、当家客室の寝台の上で燦然と輝いていた。透き通るように美しいリオンの肌が、妙に血の気が引いた青白さに見えるのは、気のせいではないかもしれない。
「我が辺境伯家の家宝をリオンに着けようと思っていたのだが、どこからか話を聞きつけた帝室一族が、好きなように使えと送ってきたのだ。だが、リオンが目覚めないところを見るとまだ足りないらしい。
丁度今、我がバルリング家とっておきの、金竜の宝玉で作った魔導杖を持たせようとしていたところだ」
もはや宝玉が付いていればなんでも良いと、装飾品ですらない軍事兵器が女王に献上されると聞いて、ノイス侯爵夫人は眩暈を覚えた。件の魔導杖は作動させれば小国一つ吹き飛ばせる最終兵器である。同心円状に効力を発揮するため、使いどころが難しく腐らせるばかりのガラクタだとルイスが嘯く。とんでもない危険物の持ち込みが発覚した瞬間であった。
この宝玉の原材料である金竜は、100年ほど前に、今回よりも更に規模の大きい魔獣の大攻勢において討伐された個体だ。ちなみに、この金竜単体によって近隣の人類生存圏が複数滅失した。
討伐のためにバルリング家は、その一族の過半数を犠牲にしたという。その功績を称えて与えられた、本来であれば皇室以外は持てない金竜の一級宝玉。そんな国宝が嵌め込まれた魔導杖を両手で抱え込まされて、明らかにリオンは魘され始めていた。
はやく起きろ―――夫による宝玉の形をした無言の圧力が女王を悩ませているのは、最早明らかであった。
「ルイス様、足りないのではなく」
逆に宝玉の価値が高すぎて使えないのでは、そう言いかけて、ルイスの笑っていない瞳に気付いたノイス侯爵夫人は言葉を飲み込んだ。
―――これはワザとですわね。
奇跡の蘇生、その後の昏倒。両方ともに事前の相談がなかったことに、どうやらルイスは随分と立腹している様子であった。
起きるまで宝玉付装飾品を延々と増やし続けるつもりのルイスを、どうにか宥めて、リオンが使いやすそうなランクの宝玉を用意させてもらうのに苦労したノイス侯爵夫人だった。
***
夫人がリオンに提供したのは準主級の赤竜の宝玉が連なった腕輪であった。準主級の赤竜自体は、高位貴族であれば10歳になれば討伐可能になる程度の難易度の魔獣だ。
これならば、使っても問題ないと判断したのだろう。腕輪を付けてすぐにリオンは碧玉の瞳を開き、「つ、使えるかっ」と、震える手で魔導杖をルイスに突き返した。
開口一番に文句を言われた次期辺境伯は、それは美しい微笑を浮かべて、まずは姉を始めとした騎士達の蘇生に感謝し、その後『なぜ相談しなかったのか』と問い詰め始める。
長くなりそうな夫婦喧嘩に、ノイス侯爵夫人は部屋の片隅にある椅子に腰かけて、ルイスの気が済むのを待つことした。適当なところで声を掛けて、まずは神官を呼びリオンの体調を見て、それから、随分と庶民的らしい彼女にお礼をしよう。この後の段取りを考えながら、侯爵夫人は通信具で各所にリオンの目覚めを知らせた。
***
ちなみに、件の腕輪は、侯爵夫人が少女時代に幼馴染であったノイス侯爵に贈られた品である。使った女王本人は知る由もないが。知った場合は「歴史・金銭的価値のある品物だけでなく、初恋の思い出補正でプライスレスなやつも、お願いだから勘弁して欲しい」と半泣きになること請け合いの一品だ。
しかしながら今の所は、幸か不幸かそれどころではないため、リオンが自身が覚醒に使った赤竜の宝玉について尋ねることはなさそうである。
天上の守護神から結婚式の招待を受けたのだと、先程まで無かった真珠色に淡く光る書状を手に訴えるリオンに、独断専行への苦言どころではなくなったルイスと絶句するノイス侯爵夫人であった。