12:貴様に義父上と呼ばれる筋合いはない。【前書:長女視点、本編:主人公視点、後書:肉食系侯爵夫人視点】
―――あの泣き虫は、きっとまた嘆き悲しむのだろうなぁ。
その赤い瞳から零れる雫を、もう二度と拭ってやれない。それだけが心残りだった。
***
覚悟の上だった。
大型魔獣湧出地の出現。通常ひと月に一つのはずのソレが、今回は五か所発生した。恐らくはほぼ同時に。その上に最悪なのは、前線に到達した大型魔獣の頭数から言って、それら以外にも斥候部隊が見つけられていない湧出地が存在する蓋然性が高い。
大型魔獣の討伐には、一頭に付き平騎士が三十名は必要だ。その大物共が徒党を組んで前線を襲ったのだ。一溜りもなく我が戦線は総崩れとなった。
第一、二、三防衛ラインは既に突破され、最後の切り札である『障壁』さえも度重なる攻撃に一部崩壊しつつある。魔獣戦線後方領地であるノイス侯爵領にて再構築した防衛体制も魔獣の猛攻に押されており、そう長くはもたない状況だった。
だから、仕方がなかったのだ。
魔獣どもを押し返すための人身御供に、ノイス侯爵が選ばれたのは。
***
ヴァッレン帝国貴族の使命は、魔獣戦線での勝利と帝国の繁栄だ。
我々貴族は、高位の一族ほど体内に有する魔力が膨大なものとなる。ノイス侯爵家の血筋は、その貴族家の中でも一際魔力量が多く、純粋に魔力量だけであれば帝室にすら並び得るとされる。
その強大な魔力を意図して暴走させる特攻魔法は、広範囲の魔獣を一掃することができる。だが、術者本人はまず間違いなく死ぬことになる。
聖魔法による蘇生が可能という研究結果はあるらしい。だが、単純に蘇生限界時間内での神官による聖魔法の行使が、不可能に近いのだ。
事実、この崩壊しつつある防衛線の遥か後方、安全地帯の更に奥地。騎獣で一週間はかかる距離に、高位の聖魔法使いの神官達は、既に退避を完了している。高位貴族の血筋である彼らが、希少種である自分たちの身の安全を第一に行動したとして、それを咎められる者はいない。
ノイス侯爵の特攻魔法による死亡はもはや確定事項だ。
彼は父の友人で、私も幼い頃から可愛がって頂いた。実の叔父のように思っている方の、死出の道行きに水先案内人として立候補したのは、私にしてみれば当然の流れだった。たとえそれが、自爆魔法に巻き込まれることによる死を意味していたとしても。
作戦上最も効果的な地点まで、極力魔獣との戦闘を回避して最短ルートで行くには、辺境伯領の魔獣戦線に詳しい先駆けが必要となる。その一番の適任が、辺境伯家長子たる私だったというだけのことだ。
弟のルイスが代わると言って聞かなかったのには困ったが、仕方がなく、目線で呼んだ母上に手刀で気絶させてもらった。
うつ伏せに倒れた弟の黒髪をそっと撫でて、立ち上がりながら母上に礼を言い、父上に向かって不敵に笑ってみせた。
「謹んで拝命致します。ヴァッレン帝国に栄光あれ」
***
私を先頭に、少数精鋭部隊が魔獣戦線を駆け上がる。もはや魔獣支配域と化した大地をどれほど進んだか、数回の野営の後、未確認の大型魔獣の湧出地に突き当たった。
「目標地点まで、このまま東に進めば1時間もかかりません。私はここで足止めをします。ご武運を!」
駆けていく騎獣の蹄音に背を向けて、剣を構える。さて、ノイス侯爵が行使した特攻魔法に巻き込まれるのが先か、この魔獣共に喰い殺されるのが先か。
「最期まで魔獣を相手して死ねるとは、これ以上の僥倖は無いというものだ」
口角が上がるのが分かる。弟を残したのは、私には辺境伯家当主に必要な資質がないためである。
なにしろ私は稀代の戦狂いと名高い女だ。正直に言えば、帝国の繁栄も人類の存続もどうでもよい。そんな人間に、当主など務まるはずもないだろう。
「あぁ、楽しいなぁ」
魔獣を狩る、この瞬間のために生きている。魔力攻撃で吹き飛んだ先頭の一頭に、後続の魔獣が足を止めた。ぬるい。その程度の覚悟で、この私に挑もうというのか。
巨大な狼型魔獣の首を剣で一閃。その頭を跳ね飛ばして高笑いを上げる。
「最っ高だ!」
広域型攻撃魔法を、左翼の大型魔獣の群れに向かい放つ。どうせ残り僅かな命だ。魔力の残存量など知るか。
大型魔獣の群れが後退るのに、黒の瞳をギラリと輝かせて吠える。
「さぁ、どちらが先に死ぬか、勝負だ!」
***
―――泣き声が聞こえる。
『もっと自分を大切にしろ!』
幼い声が私を詰るのに、ああ、あの時の記憶か、と思い当たる。
確か、そう。暗殺者から幼馴染を庇って、相手の首と引き換えに右腕を跳ね飛ばされた時のことだ。片腕を抑えながら、幼馴染は無事かと振り返れば、怪我人である私よりも痛そうな顔で大泣きされた。
どうせ皇室専任の神官が聖魔法で復元してくれるのに、何をそんなに騒ぐ必要があるのか、と首を傾げた私に彼は言った。
『お前が怪我をすると、お前を大事に思っている俺は悲しくて辛いんだ。お願いだから、無茶をしないでくれ』
コトリと首を反対側に傾げる。
当時ヴァッレン帝国は先帝が治めていた。
人柄は良くとも統治者の才が無かった彼の治世には、政争がそこかしこで勃発した。そのあおりを食らったのが、私の住まう魔獣戦線屈指の激戦地たるバルリング辺境伯領だった。
私が好きだった祖父母も騎士も使用人でさえ、魔獣に喰われ殺され、それを嘆いて後を追って軍神の御許に召された。
愛した相手が消えるのは、私の世界では仕方のないことだった。それなのに、高々怪我をした程度で嘆き喚くこの小さな生き物が、どうにも奇妙に思えてならない。
『どうせ皆死んじゃうのに?』
泣き崩れる彼と目線を合わせるためにしゃがみ込めば、抱き着かれて、押し倒される形になる。仰向けに倒れた私の胸に縋って泣いた彼は、こう吠えた。
『死ぬまでは、生きているだろうが! 愛している相手には、笑って幸せそうにして欲しい。そう思うのが人間だろ!』
***
―――ああ、本当だ。
「そうだな。愛している相手には笑って欲しい、なぁ」
霞んだ視界の中で、こちらに向かい牙を剥く主級の黒竜に向かい、剣を構える。
左手は先程の戦闘で付け根から吹き飛んだ。右足には深めの裂傷、魔力の残存値は極わずか。その他大小の負傷個所は、最早数えるのも馬鹿らしい具合だった。
大量の失血によりクラクラする頭で、この残存魔力量でも、あの黒竜の首を吹き飛ばす程度の自爆魔法は行使可能と判断する。
右足を引きずりながら黒竜に向かって一歩一歩進む。
―――私が死んだら、あの幼馴染はきっと泣くのだろう。
黒竜のグワリと開いた口から除く牙が私を狙うのが黒の瞳に映る。
―――泣いて泣いて、その後で、私のことなんか忘れて、笑って幸せそうにしてくれたら、いいなぁ。
黒竜に飲み込まれる直前に、体内の魔力を搔き集めて、どうにか暴走させるのに成功した。黒竜ごと吹き飛ぶ直前に脳裏に浮かんだのは、号泣する幼馴染だった。せめて笑顔を思い浮かべたかったのだが、普段の所業ゆえに一番見慣れた表情になってしまった。
―――どうか、幸せで。
「それで義父上に結婚を申し込んだら、主級の黒竜を倒して来いって言われて」
何それカオス。茶器を片手にリオンは乾いた笑いを零した。
***
魔獣の大攻勢やら王配宣言やら真夜中プロポーズ事件をどうにか乗り越えたリオンは、次期辺境伯夫人として所有する専用の応接室でテオフェル皇弟殿下をもてなしていた。というか、彼の暇つぶしに付き合わされている、というのが正しい状況だった。
テオ本人としてはさっさと魔獣戦線に復帰したいそうだが、流石に帝室直系を護衛無しで前線には出せない。
専属の家臣団が新たに組織されるらしく、現在メンバーを選考中だそうだ。帝室転覆を目論む他国間者や高位貴族の子飼い、純粋な暗殺者など、豪華な応募陣に担当騎士が涙目になっていると聞く。大変に気の毒である。
そんな選考担当騎士の心労もどこ吹く風と、皇弟本人は、ちょうど時間があるし嫁でも娶るかー、と恋人の父親に婚約を申し込んだらしい。心臓がオリハルコンとかなのだろうか。
お相手は我がバルリング辺境伯家執事であるディルクの娘で、私も知っているメイドだった。彼が言うには、ちょっと気分転換に辺境伯家本邸内をぶらついていたところ、恋人の主である辺境伯夫妻と父親の執事がいるのを見かけて声を掛けたそうだ。
ちなみに、状況から考えてナチュラルに護衛騎士を撒いている。うーん。護衛選考で修羅場っているベテラン騎士の額に青筋が浮かびそうな案件である。
自由人皇弟による使用人執務室での公開婚姻申し込みに早朝の空気が凍ったそうだ。もうちょっと場所とかタイミングとか選んだ方が良くないか。
そんな中で『主級の黒竜討伐』を条件にした当家の執事も中々に強い。ド直球の『一昨日来やがれ』を皇弟に言うとか、度胸がある。
息子レオンの婚姻を申し込まれたことのあるリオンは、そういう断り方もあるのか、と自身の婚約者である次期辺境伯ルイスに尋ねた。彼は、もの凄く微妙な表情の後に、気持ちは分かるがと前置きして、テオフェル皇弟殿下以外の帝室相手だと不敬で死罪の場合もありうる、と答えた。
―――なるほどリアル俺の屍を越えていけ系の宣言であると。
執事ディルクの娘への愛の深さが分かるというものである。
また、随分と厄介な相手を好きになったものだ、と自身の婚約者を棚に上げて思うリオンだった。
***
「リオンさん、戦場の魔獣の位置が分かるんですよね。主級の黒竜って今、どこらへんにいるか教えてもらえませんか」
暇だからと誘われた茶会の本題はこれだったらしい。頭を下げてこちらを上目遣いに見上げるテオに、リオンは唸った。
彼は息子レオンの同僚神官として、帝都の平民時代に随分と世話になった。息子と三人で食事したこともあるし、息子に相談し辛いトラブルの解決を手伝ってもらったこともある。
後輩神官として、息子レオンを可愛がってくれている彼は、息子から聞いた『障壁』の初発動時のタイミングから言って、息子のために先帝の落胤であることをばらした可能性がある。本人は認めないだろうけど。
……いい子なんだよなぁ。
チラリと壁沿いに控える専属メイドに目線をやった。
「メヒティルデ。この前も聞いたけれど、本当にいいのね?」
そう。この赤髪金目の美人メイドさんこそが執事ディルクの愛娘であり、テオフェル皇弟殿下の恋人なのである。
実は当初はテオ君の滞在中の専属メイドにしていたのだが、求婚中の相手を専属にするわけにはいかないだろうということで、元の担当である私のところに返してもらったのだ。
彼女は、この求婚をどう思っているのだろうか。
テオ君は面白いこと好きで愉快犯のきらいがある点を除けば、性格が百点花丸に良い子だ。ただ、容姿がわりとよくある顔立ちで平民層で中の中くらいのため、彼女と並ぶとちょっと美女と野獣感がある。
帝室メンバーという身分も、上昇志向がなければマイナス要素になりうる。その上、いつ死ぬか分からない戦線勤務の神官を続けると宣言しているため、高位貴族としての旨味はほぼゼロだ。
売物件としては正直微妙な彼で本当にいいのか尋ねた彼女の答えは、先日あえて二人きりの時に尋ねた時と同じ「はい」だった。耳と頬を赤らめて瞳を潤ませての回答である。あ、テオ君が可愛らしさに撃沈した。
テーブルに顔を伏せた彼の耳が赤いのには触れないでいてあげることにしたリオンは、中空に戦場マップを呼び出して現在の戦線の状況を分析した。
彼女以外には見えない膨大な量な情報を、女王の内政スキルで処理していく。
息子レオンは相も変わらず魔獣討伐に明け暮れている。辺境伯夫人と、その息子である次期辺境伯ルイスも元気に魔獣を驚きの速度で駆逐していっているようだ。
昨日までなかった魔獣湧出地を確認して、テオ君に断りを入れて、前線の作戦本部に位置と規模を通信具で伝えて唸った。
―――主級の黒竜かー。ちょっと今の辺境伯領の戦線で見つけるのは無理だと思うなぁ。
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リオンの異能『加護』によって、この辺境伯領戦線の戦闘員には能力向上のバフが、魔獣には能力低下のデバフがつけられている。魔獣湧出地の発生率を抑えるおまけも付けているため、最近前線の前進度が日々過去最高を更新し続けているらしい。
遥か彼方まで進んだ前線に、そろそろこの辺境伯本邸から魔獣戦線の爆発系魔法などの閃光や爆音が見聞き出来なくなってきたなぁと思っていたら、城ごと引っ越す羽目になった。
そうなのだ。動くのだ、このお城。どこぞの映画タイトルのような話だが、本当に動いたときはちょっとワクワクした。基礎になる石に魔導陣が刻まれていて、専門の魔術職人がチームを組んで動かしていったのだが、一週間で戦線近くに引っ越し完了となった。
そんなわけで、今日も閃光を目の端に、爆音をバックミュージックに生活している。人間慣れるもので、今では今日も元気だなぁ程度にしか思わなくなった。
そんな辺境伯領魔獣戦線なのだが、さて前述の通り、私リオンの異能により魔獣湧出地の抑制が行われている。そのため、大変残念なことに。
「いないわね。影も形もないわ」
やっぱり、とテオフェル皇弟殿下が呻き声をあげた。
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魔獣は湧出地から発生する。その種類は小型・中型・大型の三分類で、それぞれの種別の湧出地からしか発生しないという特性を持つ。大型になるほど湧出地が発生し辛く、通常ひと月に一か所程度の頻度で大型魔獣湧出地はできるとされる。
前世のゲームでは、ひと月に一回の大型イベントの最終局面で出てくるレベルのラスボスが主級の黒竜だった。ほぼイベント限定キャラであったため、討伐難易度とレア度が高い魔獣とされていたのだ。リオンはこの主級の黒竜をイベントの度に積極的に狩りに行っていた。
それは、この魔獣が排出する魔獣結晶から、特殊な回復アイテムが手に入るからだった。
この世界では魔獣石と呼ばれる物体が手に入るのだが、魔獣結晶とは少々用途が違うソレで、同じ効果が見込めるかは分からない、だが、試す価値はあるなぁ、と結論付けて、異世界産女王は、ヴァッレン帝国皇弟に告げた。
「心当たりがあるにはあるのだけれど」
勢いよく上がった顔に、小さく笑った。この若く愛らしい恋人たちに協力するのに、出し惜しみをするつもりは元からなかった。
「ヴローム国外交官オッデルラーデ伯爵が今、当家に滞在中でしょう? 彼が帝国に来るのに使った飛竜便が、魔獣支配域で飛行種の魔獣湧出地に航路が重なってしまって戦闘になったという話よ」
魔獣湧出地は進化する。
小型魔獣の湧出地が、早めに『涸らさ』ないと中型魔獣、更にその上の大型魔獣湧出地にまで発展するというのは、この世界の研究でも分かっているらしい。
だが、どの湧出地がどのような魔獣の湧出地になるかまでは、まだ分かっていない。魔獣も獣の姿の者もあれば植物型、飛行種と千差万別だ。その研究は日進月歩しているが、前世のゲーム攻略サイトの方が詳しい分野もある。
例えば、飛行種の湧出地の最終発生魔獣が主級の黒竜であること、とか。
「話から逆算すると結構日数が経っているみたいだし、そろそろ大型の魔獣湧出地になっている頃合いでしょうね。場所が魔獣支配域だから、きっとまだ湧出地を潰せてはいないわ。可能性があると思わない?」
キラキラと碧の瞳を煌めかせて入れ知恵をしている女王は忘れていた。皇弟が現在本邸にいるのは、専属の護衛騎士団が決まらないからであり、彼が他国との間にある魔獣支配域に行くには、仮につけられた帝室派遣の護衛騎士を撒いて本邸を出奔する必要があるということを。
その後、単独討伐に出陣しようとする皇弟とその腰に縋りついて愁嘆場を演じる担当騎士、額に青筋を立てて仲裁に入る本邸執事というカオスを目撃して、そっと見なかったことにしたリオンだった。
―――『ご武運を』。その一言だけで見送った背中を覚えている。行かないで、と伸ばしそうになった右手を、左手で必死に抑えた、その痛みと共に。
***
夫であるノイス侯爵の特攻作戦が中止になった。その第一報を聞いた時は、我が耳を疑った。前代未聞の奇跡だった。
帝室に匹敵する魔力保有者を多く輩出し、特攻魔法による焦土作戦に貢献してきた家系。それがノイス侯爵家だ。
今回の魔獣の大攻勢で、崩壊した戦線を押し戻すための人身御供として夫が選ばれたのは当然の流れだった。
覚悟は嫁いでくる前からしていた。彼を好きになって、愛していると思い知らされて、婚約者の地位を勝ち取った時には、すでにこの未来を受け入れていた、つもりだった。
だが、バルリング辺境伯領で戦線が崩壊しつつあると聞いた瞬間の、あの絶望。世界が終わったかのような気持ちだった。
――― 貴方がいない未来になど意味はない。
――― 一緒に逃げて欲しい。
――― 行かないで。
胸の内に溢れだした言葉達を閉じ込めて、沈着冷静な侯爵夫人の仮面を被り、夫の戦支度を手伝った。息子はまだ幼い。彼がバルリング辺境伯領で自爆魔法を行使して死亡すれば、ノイス侯爵家の暫定当主は、私ということになる。
夫亡きあと、先代のノイス侯爵夫人がなさったように、息子達と領民を守るのが現ノイス侯爵夫人たる私の役目だ。
それでも微かに震える指先を、太く節くれ立った夫の指が掬い上げ、口付ける。
「……後は任せる」
普段は要らないくらいに饒舌なくせに、こんなときだけ言葉に詰まる、そんな男に笑ってみせる。最期に思い出すのは、笑顔がいい。
「ご武運を」
最後に一度、私を強く抱きしめて、彼は騎馬を駆っていった。少数精鋭の家臣と共に死地たるバルリング辺境伯領を目指して。
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「あいつ、とんでもない女に惚れたみたいだ」
傷一つなく帰還した夫に泣いて縋りついた私を落ち着かせた彼は、『ノイス侯爵家の人柱』無しでいかに戦線を押し戻したかを説明してくれた。だが、その内容が予想外にも程があった。
「……戦線の戦闘員の異常なまでの能力強化、逆に魔獣の能力抑制。息子の異能を利用した、前例のない規模の超広域回復魔法。それだけでなく、魔獣湧出地の抑制もできる異能。加えて、魔獣とその湧出地、戦闘員の配置まで分かる、と」
止まらなくて困っていた涙も止まるというものだ。まるで神の化身ともいえる、化け物じみた異能だった。
『加護』と呼ぶらしい異能に加えて、他国の王族に保有者がいるらしいと噂に聞く程度に御伽噺染みた異能『千里眼』に近い能力もあるらしい女性。帝都の貴族だけでなく、他国の王族からも引く手数多であるに違いない戦女神が誕生した瞬間だった。
先帝の落胤も見つかったと言われたが、そちらは帝室が対応するだろう。今、我が侯爵家がすべきは―――。
夫の膝から降りて、目元に残った涙を拭う。深く息を吸い、背筋を伸ばして扉に向かい一歩を踏み出した。
「おい、どこへ」
目を丸くした夫たるノイス侯爵に、侯爵夫人らしく完璧な笑顔で応じる。もう、声は震えなかった。
「勿論、執務室ですわ。私、恩義には全力でお返しすることにしておりますの」
貴方も、体を休めたらいらしてくださいましね。仕事は山ほどあるのですから。そう言い残して、今度は私が彼に背を向けた。
帝都の社交場。こちらは私の戦場だ。さて、どこから探りを入れて、どう牽制するか。相手が自国高位貴族だろうが他国の王侯貴族に高官だろうが関係はない。
「恩人に手出しはさせませんわよ」
魔獣の相手は夫や騎士にまかせているが、人の形をした獣は私達貴婦人が得意とする獲物だ。
さぁ―――。
「狩りのお時間ですわ」