【12.1話】隻眼の葡萄娘と白髪の平民騎士【本編:ベルタ視点】
零れ落ちそうなほどトマトの詰まった大きな紙袋を抱えて、澄んだ初夏の青空を見上げる。困ったときは、とりあえず冷静になることが大事だとベルタは知っていた。そう、心を落ち着けて、今の状況を客観的に見るのだ。
現在地は、バルリング辺境伯領の下町の広場横の裏路地。時刻は、朝市が開かれてちょっと過ぎ、人混みのピークの一歩手前の時間。早朝特有の涼しい風が吹いている。状況は、市場で買い出しをする人波に揉まれて押し出され、広場の裏路地に避難したところ。
問題は―――このままでは店に帰れないということ。
***
紙袋を抱きしめる右手を見る。いつもだったら愛用の杖を握っているはずの手だ。
ベルタは左足が上手く動かせない。そのため、歩行に杖の補助が必要なのだ。ところが紙袋を抱えていたこともあり、朝市の人混みの中でうっかり杖を落としてしまった。しかも、誰かに蹴られた杖は雑踏の中に消えてしまい、どこにいったのか分からない。
しばらく左足を引きずりながら探したのだが、まったく見つからなかった。重たいトマトの紙袋に腕が悲鳴を上げつつあったこともあり、とりあえず人通りの少ない裏路地に避難したところだった。
まいったなぁ、と再び蒼穹を見上げる。ゆっくりと歩けば、帰れなくはない。しかし、いかんせんトマトの紙袋が重い。握力が弱い左手が痺れつつある。
鮮度と艶やかな赤色についつい買い込み過ぎた。顔馴染みの農家の大将がうちの店まで配達しようか、と言ったのに遠慮するのではなかったと項垂れる。
いやしかし、このトマト。大振りで赤みが強くヘタの色・形も良い。絶対に美味しい。店の冷蔵機能付き宝玉式保管庫にしまってある水牛のフレッシュチーズと合わせて、上からオリーブオイルと塩胡椒をしたら最高の一品間違いなしで、この朝市で新鮮なバジルが見つかったら、最強の組み合わせになる。
早く試食したくて持ち帰りにして、欲張りすぎて紙袋一杯に買ってしまったのが、今回の敗因である。
冷静に状況分析を終わらせたベルタは、よし、と覚悟を決めて、寄りかかっていた民家の壁から背中を離した。
―――休み休み帰れば、多分、いつかは店まで辿り着けるだろう。
決意も新たに顔を上げれば、目前に壁ができていた。片方しかない葡萄酒色の瞳を瞬かせて見上げれば、白髪の青年がこちらを覗き込んでいた。
「まぁーた無茶してるの、ベルタさん」
ひょいっとベルタが抱えていた紙袋を奪った、長身の青年は、親指と人差し指を立てて口を開いた。
「一、俺に負ぶわれる。二、俺の左腕を杖代わりにする」
どっちにする? と尋ねる彼に、おずおずと右手を差し出せば、慣れた様子で手を取られて、青年の腕に誘導された。
***
「いい加減、美味しそうな食材があったら後先考えない癖、直した方がいいよ」
ベルタに合わせてゆっくりと歩き出した彼に、口を尖らせて反論する。
「いけると思ったのよ。杖さえあったら問題なかったし」
で、その杖は今どこにあるの? と尋ねる彼に、苦々し気に経緯を説明すれば、はぁ、と呆れたような溜息が横で零された。
年下のくせに生意気な、と彼を見上げれば、藍色の目が眇められる。あ、これは怒っているのでは、と気付いた時には両足が宙に浮いて、気付けば彼の左腕に抱えられている状態だった。
右腕にトマト、左腕にベルタを抱えた青年は、危うげもなくスタスタと裏路地の石畳を進んでいく。さすがは激戦地である辺境伯領魔獣前線の討伐部隊所属騎士である。分厚い筋肉に覆われた胸板に抱え込まれたベルタは、うっかり彼の逆鱗に触れたことを後悔していた。
早朝とはいえ、人通りがまったくないわけではない。すれ違う人達からの好奇の視線に耐えかねた彼女が下ろせと訴えても、青年は聞く耳を持たなかった。
「俺、何回も言ったよね。右手が杖で塞がってるんだから、外では余計な荷物は持つなって。片手が空いてるかどうかで選択肢の数も質も変わるんだよ。戦術の自由度を自分で殺すとか、魔獣戦線だったら最初に死体になってるよ」
淡々と話す声からは、普段の快活さが欠片も見えない。これは、本気でお怒りである。
「わ、私は料理人で騎士じゃないもの。料理人が食材にこだわって何が悪いの」
うっかり言い返して、ベルタは蒼褪めた。
「へぇー。そっか。ベルタさんはそういうこと言うんだ」
いつの間にかベルタの営む食堂兼住居に到着していた。看板もなく一見ただの平民の民家だ。お得意様とその口コミできた客だけが知る、ベルタが一人で切り盛りする食堂。その扉に向かって掌を翳して青年は低い声を出した。
***
ベルタは、10代のころに使った飛竜便の墜落事故の後遺症で、左足が動かし難く、左手の握力が弱く、左目が見えない。そんな彼女がバルリング辺境伯領の下町に小さな食堂を開いたところ、心配した親族が勝手に店舗を改築して、そこかしこに宝玉を利用した魔導設備が施された。
結果、入り口の扉は、登録された魔力保有者が手を翳すことで自動開閉するものとなり、灯りとコンロの火はスイッチ一つでつき、冷蔵機能付きの食糧庫のおかげで買い出しは最低限で済み、二階の住居部には昇降機で移動できる、外観だけ平民向け民家のとんでもハウスができあがった。
―――過保護の極みである。
文句を言う間もなく店舗兼住居を魔改造して去っていった施工業者に、お支払いは既に済んでおります、と完璧な笑顔で父や妹弟、祖父母や叔父叔母の名前を列挙されて絶句したのも記憶に久しい。
さて、そんな、内部構造だけはどこの貴族邸宅だと言いたくなる最新設備を備えたベルタ宅の玄関は、登録した人間だけが自動開閉装置を使える。
食堂の開店時間には、自動設定をオフにしてお客様が手で扉を開けられるようにしておくが、今はまだ早朝だ。
防犯上の理由から、ベルタを含めた登録者以外開けられないはずの扉をあっさりと開けた青年は、静かな足音で店内に入り、客用の椅子に右腕に抱えたベルタをゆっくりと腰掛けさせた。
彼がトマトの紙袋をカウンターにそっと置く様子を、葡萄酒色の瞳で恐る恐る上目遣いに伺えば、冷えた藍色の瞳と目が合った。
「別に、料理人として食材に夢中になるベルタさんは嫌いじゃないよ」
いっそ不気味な程穏やかな声だった。青年は床にしゃがみこんで、椅子に座ったベルタと藍色の瞳を合わせる。
「たださぁ。やぁっと交代休暇をもらったから、早く会いたくて訪ねた家はもぬけの殻。時間帯的に朝市だろうと思って、人混み掻き分けて探し回って、どうにか見つけたら行き倒れ寸前だった恋人を心配するのって、そんなに悪いことかなぁ?」
そう言って恋人である青年が悲し気に目を伏せるのに、ベルタは慌てて手を伸ばした。
「ごめんっ。レヴィ。あの、その、ね。だって、レヴィの好きな水牛のチーズが手に入ったから。次にレヴィが帰ってきたら、美味しいもの食べさせてあげたいなって、そう思ったら、つい買いすぎちゃったの。ごめんね、レヴィ」
おろおろと伸ばした手が、体温の高い大きな手に捕まった。
伏せていた顔を上げた、恋人であるレヴィの表情は想像していたような悲痛なものではなく。
「そうだよね、ベルタが悪い。……慰謝料ちょーだい」
弧を描いた口元に、騙されたと思う間もなく、唇を相手のそれで塞がれた。
***
散々ぱらレヴィに堪能されたベルタが解放されたのは、恋人の腹の音のお陰だった。そういや朝飯まだだった、と呟いた彼に、とっておきの朝食を用意するから、と息も絶え絶えに言えば、名残惜しそうに相手の体温が遠ざかった。
た、食べられるかと思った、と内心震えながら、実際に足を震わせてキッチンに向かう。流し台でトマトを洗いつつ尋ねる。
「おかえり、レヴィ。いつ帰ってきたの?」
さっきまでベルタがいた椅子に座ったレヴィが眠そうに目元を擦りながら答えた。
「ただいまー、ベルタさん。え、今朝方だけど。とりあえず汗だけ流して、着替えて即ここに来た」
昨日まで魔獣と命の獲り合いをしていたのだ。疲れているはずなのに、交代休暇で帰還してすぐに来てくれたという恋人に、ベルタの口元がムズムズする。心なしか軽くなった体で、パタパタと朝食の用意のためにキッチンを動きまわる。
何か手伝えることはないか、と付き合い始めて最初のうち、落ち着かなさそうだったレヴィも、キッチンの中がベルタの城であると熱心に説明したおかげか、カウンターの向こう側で大人しく待っていてくれているようになった。
カウンターの紙袋からトマトを数個取り出して、残りを抱えて床にしゃがみ込む。四角く区切られた床下収納口に嵌った宝玉に触れれば、開閉口が開いた。
魔導具による立体式食料保管庫に残りのトマトをしまうと、水牛のチーズをしまったブロックを、宝玉に触れて魔導具に指示を出して呼び出す。
その他の食材が調理台に並んだ後は、流れ作業だ。
火をつけて、お湯を沸かして、トマトを切る。水牛のチーズを切って、トマトとバジルと一緒に皿に並べてオリーブオイルと塩胡椒をまぶす。温めておいたフライパンでベーコンをカリカリになるまで焼いて、卵焼きを作ろう。レヴィは半熟が好きだから、火加減には気を付ける。
オーブンで温め直したパンに、チーズとバターを添えてカウンターに並べれば、レヴィが食卓に持って行ってくれる。食器の準備は終わっており、後はベーコンエッグとトマトとチーズのサラダ、作り置きのピクルスや豆料理を幾つか並べれば、簡単な朝ごはんの出来上がりだ。
―――帰ってくるって知ってたら、もっと色々作っておけたのに。
紅茶が入ったポットとホットミルクの入ったミルクピッチャーを運ぶ、がっしりとした背中を眺めながらベルタは内心で口を尖らせた。
まぁ、戦線の魔獣湧出具合なんて千里眼とかいうのをもっているらしい、どこぞの国の王族でもなければ完璧に予測は不可能だ。一応、千里眼の劣化版と揶揄される、それでも希少な、多少の不正確さはあれども魔獣出現を予知できる異能持ちも、この戦線にはいるらしいと噂には聞くが。
―――魔獣戦線がいつ落ち着くかが分かったら、帰還に合わせて、とびっきり豪華な朝食を用意してあげるのに。
「ベルタさん。このトマトと水牛のチーズのやつ、滅茶苦茶うまい」
美味しそうに朝食を頬張る恋人に、やっぱり市場で選んだトマトは大正解だったなぁと、ベルタは葡萄酒色の瞳を和らげた。
***
―――この大陸の覇者は魔獣だ。
魔獣が跋扈する大地に、どうにか生存圏を確保した我ら人間の国。その国家間の往来は、かつては命が保証されない一方通行のものとされていた。物理的距離もさることながら、間に存する魔獣支配圏にある無数の魔獣湧出地と討伐難易度の高い魔獣の群れが行く手を阻んできたのだ。
現在の比較的安全な移動経路と手段が確保されるまでに、数多の挑戦者たちが魔獣支配圏でその餌となり、誰に弔われることもなく命を散らしてきた。
それでも、己が目的のために人間達は他国を目指し旅を続けてきた。その結果、近年では非戦闘員の一般人でも近隣国家へと移動できる経路が開拓され、その一部にはオアシスと呼ばれる、担当国騎士団が常駐する魔獣からの一時避難所まで設置されるようになった。
***
外交官などの役職持ち高位貴族や、各国の特産品目当ての商人、魔獣戦線を渡り歩く傭兵、その他様々な理由をもった人間達が、盛んに国家間を行き来するようになって久しい。
他国への行き方には主に空と陸の二種類がある。
陸路は、複数の傭兵団に護送されながらオアシスを経由して旅する、どちらかといえば安価な旅路だ。ただし、魔獣との遭遇率が空路よりも高く、いざとなれば荷を捨て、魔獣との戦闘を繰り返して活路を切り開かなければならない。
空路は、飛竜に乗って一直線に他国に行くことができる方法だ。飛行種の魔獣以外と戦わずに済むため、最も安全で早い手段と言われている。しかし、飛竜は個体数が限られる希少な騎獣だ。その分、値が張り、また一度に移動できる人数が限られている。
リスクとコストを天秤にかけて、旅人たちは自分の選んだ道を行く。
そして、私ことベルタが選んだは空路だった。金で安全を買った―――つもりだった。
***
「……ついてないにも程があるでしょ」
大型飛竜の骸の上で己が不運を嘆くが、返答を返す人間はいなかった。
それもそうだろう。ここは―――魔獣の支配域なのだから。
近隣国で開かれる野菜・果物・香辛料を始めとした食料品の大展覧会に参加した帰りのことだ。一か月ぶりに帰国するために予約した老舗旅団の飛竜便が、まさかの魔獣支配域に不時着した。
航行経路の真下で飛行種、しかも恐らくは中型魔獣の湧出地が発生するなど聞いたこともない。私が乗っていた飛竜の旅団は、発生したばかりの魔獣の群れに分断され、戦闘と逃亡を繰り返した結果、気付けば見知らぬ魔獣支配圏に乗っている飛竜ごと落下する羽目になった。
まだ旅団の護衛傭兵と一緒なら希望があったのだが、周囲には人の気配一つなく、こちらを伺う魔獣の息遣いが聞こえるのみだ。幸いだったのは、貨物運搬用の大型飛竜に乗っていたため、資材だけは豊富な点だろうか。
飛竜の背中に載せられた積み荷を、非常事態ということで勝手に開けて検分する。ラッキーなことに保存が効きそうな食料と薬草・薬品が見つかった。数日分を元々持っていた肩掛け鞄に詰め込めるだけ詰め込むと、愛用の杖を片手に地上を見下ろした。
大型飛竜の背から地面まで4,5メートルといったところだろうか。先に下した縄梯子が風に頼りなげに揺れている。
「大丈夫。……絶対に生き残ってみせる」
焦ったときほど、冷静にならなくてはならない。状況を客観的に分析しろ。今、己がすべきことは何だ。
脳裏を過るのは、恋人であるレヴィの笑顔だ。
魔獣討伐騎士である彼は、絶望的状況でも諦めないのだと言っていた。意地汚く足掻いたその先にある僅かなチャンスに食らいついて、彼は今も生きて戦場に立ち続けている。
耳に嵌った白色の宝玉に触れる。レヴィに貰ったお守りだ。白狼の魔獣石から作った宝玉は、通信機能だけでなく現在地の発信機能がある。貰った時には大袈裟すぎると呆れたのだが。
「生きて、足掻いて」
地面に向かい、杖と荷物を投げ落とす。私の左手は握力が弱い。縄梯子を降りる時に荷物は邪魔になる。
「笑い話にしてやる」
右足から最初の段に掛ける。動かし難い左足を、次の段に。
「二度も飛竜便で魔獣の住処に落ちたって」
前回は、左手と左足、左目を犠牲にして航行路オアシスまで辿り着いた。
「レヴィと二人で酒の肴にしてやるんだ」
今回も、何を犠牲にしてでも生きて帰ってやる。
***
息を押し殺して、眼下を闊歩する大型魔獣の群れをやり過ごす。
(大丈夫。大丈夫)
耳元の白色の宝玉に触れる。もはや習慣となった行動だ。探知圏外で、誰の通信も拾えないが、それでも大事な私のお守り。
(今回の旅団は老舗だ。多分、近隣国に伝手がある。騎士団が生存者を探しに来てくれる可能性が、ある、ハズ)
片足が不自由で移動手段が限られるベルタは、比較的魔獣に見つかり難そうな葉が覆い茂る木の上に隠れることを選んだ。
通常、魔獣支配域に救助隊が派遣される場合、まず通信具を装着している。その探知圏内に入れば、今耳に嵌っている自身の通信具で居場所を告げて、助けを呼ぶことができる。問題は、救助隊員に見つけてもらえるか、だが。
(大丈夫。乗っていた飛竜の死骸は大きかった。落ちた場所は開けた場所。多少魔獣に食われても、上空から死骸が見つかる可能性は高い。死骸からこの木までの間には、目につく樹皮とか岩に、矢印で目印を付けた。きっと、誰かが気付いてくれる)
震える指で触った白い宝玉は、沈黙を保ったままだった。
***
朝露で喉を潤し、わずかな食糧で食いつないで、もう何日が経過したしただろうか。
霞む視界の中で、それでも宝玉に僅かな魔力を流して通信機能を維持する。大木の幹にもたれ掛かって見上げた空は、辺境伯領の下町で見上げた時と同じ色をしていた。
もう数時間もすれば日が暮れて、恋人の瞳と同じ、藍色の闇が夜空を支配する。救助が来るとしたら、上空から観察がしやすい日中だ。今日も、どうやら救いの手は届かないらしい。
―――あと何日、自分はもつだろうか。
死んだ後の蘇生限界って何時間だっけ、と弱気になりそうな自分を叱咤していた時だ。
耳元の宝玉が熱を帯びた。
「ベルタっ」
幻聴というにはリアルな叫び声が、耳元に響く。
「先輩! つながりましたっ。現在地を出します。……ベルタさん! 返事できるなら返事してっ」
震える口元を無理に開いて出した声は酷く掠れたものだった。
「れ、れびぃ」
目もとを濡らす、熱い水の膜に瞬きをして、視界を開かせる。両腕を動かす体力は残っていなかった。しばらく後に、隠れている大木の上に大きな影が差し、誰かが木を伝い降りて来るのが分かった。
「……まったく。ベルタさんはちょっと目を離すと無茶をするんだから」
優しく目元を拭う指は、少し震えていた。
***
次に意識が浮上した時には、見覚えのない部屋のベッドに寝かされていた。パチパチと瞬きをして、試しに体を動かしてみれば、起き上がることができた。寝ている間に癒術なり神聖魔法なりを受けたのか、遭難前程度にまで体力が回復している。
とはいえ、相変わらず左足は動かない。杖もないため、ベッドから降りるに降りられずにいると、扉が開いて、しばらく顔を見ていなかった妹が入ってきた。金色の瞳が驚きに丸くなり、次いで、涙で潤む。
「お姉ちゃんっ」
駆け寄ってきて大泣きする妹の背を擦りながら、ここはどこかを尋ねて、意識が遠くなりそうになった。
「……辺境伯領本邸の貴賓向け客室? え、なんで?」
純然たる疑問の声だった。ベルタは生粋の庶民である。父親が元伯爵家三男だが、貴族籍を放棄したために今は平民で、その子供であるベルタも生まれてからずっと庶民である。
確かに、父と、今泣いて縋りついている妹は辺境伯家本邸に勤めているが、高々使用人の家族のために、こんな高待遇を用意するものであろうか。
「その、私が辺境伯家と養子縁組したから、元の家族のお姉ちゃんも貴賓扱いになるんだって」
涙を拭った妹が、おずおずと告げた内容が理解できなかった。なにがどうしてそうなったのだ。
「ええと、私の恋人のテオは知ってるよね。何回かお姉ちゃんのお店に連れて行ったし。その、彼が皇弟で、それで、その、婚約者の私も貴族籍に戻らないといけなくなってね……」
妹がたどたどしく説明する内容に、もう一度ベッドの住人になりかけた。私が仕入れで他国に行って留守にしている間に、実家がとんでもないことになっている。というか、よくあの父が許したものだ。余りに難攻不落過ぎて、なかなか求婚の挨拶に行けないと二人に相談されてたはずなのだが。
「約束通り主級の黒竜の宝玉をテオがくれたから、お父さんもいいよって」
―――それは、遠回しどころか、ド直球の『一昨日来やがれ』だったのでは?
妹の耳元で光る国宝級の代物と、嬉しそうに頬を染めてそれに触れる様子に、よかったね、と赤髪を撫でてやれば、可愛い妹は、はにかんで笑った。
***
「あの、ベルタさん」
目が覚めたと聞いて文字通り飛んで来た恋人は、何故が酷く蒼褪めていた。
「俺、主級の黒竜なんて一人で討伐できないから、駆け落ちしよう」
感動の再会が、どこぞのバカップルのおかげで台無しである。
はぁ、と溜息を付いたベルタは、両手を広げて見せた。
「レヴィ。久しぶりの恋人相手に、言いたいのはそれだけ?」
無言で抱きしめてきた男の背中に腕を回して抱きしめ返す。
―――生きてる。お互いに。
「ただいま、レヴィ」
「おかえり、ベルタさん」
いつもと逆の挨拶に、クスクスと笑いを零せば、抱きしめる腕に力が込められた。
「心臓が止まるかと思った。よかった見つけられて」
「うん、見つけてくれて、ありがとう」
ベルタの耳元にある白い宝玉に口付けて、レヴィは淡々と話し始めた。
「父親だから、飛竜便が魔獣に襲われたって第一報はディルクさんのところに届いたんだって。それで、妹のメヒティルデさんがその話を教えてくれた。俺が救助隊に志願したいって言ったら、新人の時に指導役だった先輩騎士が手助けしてくれて」
一緒に救助に向かってくれたという先輩騎士と、捜索を手助けしたという傭兵団長は、店の常連だ。今度、何か御馳走しようと考えていると、レヴィの潤んだ藍色の瞳が、ベルタの葡萄酒色の隻眼を覗き込んだ。
「俺、家族になりたい」
祈るようにベルタと額を合わせて、レヴィは続ける。
「何かあったら、一番最初に知ることができる存在になりたい」
揺らめく視界の向こうで、白髪の青年が慌てた声を出すのに、うん、と返事を返した。
―――私も。
「うん、家族になろう」
―――私も、貴方と家族になりたいとずっと思っていた。
涙を拭う、かさついた掌に頬を寄せてベルタは微笑んだ。
「帰ってきたら、美味しいご飯をいっぱい食べさせてあげる。だから、絶対に、私のいる家に帰ってきてね、レヴィ」
―――さて、どうやって我々姉妹を溺愛している頑固親父に結婚を認めさせようか。
恋人の肩越しに眺めた窓の外には、眩しいぐらいの青空が広がっていた。