【11.9話】半刻女侯爵の事情【本編:ルドヴィカ視点】
―――こいつはやべぇな。
10歳の誕生日に悟ったのは、自分の人生の詰み具合だった。
フリフリのレースで重ったるいドレスに身を包み、可愛い可愛いと連発する両親を見上げながら、メールス侯爵の隠し子ルドヴィカは死んだ魚の目をした。
「可愛いルドヴィカ。大きくなったら、父様の後を継いで女侯爵になるんだよ」
―――なれるわけないだろ。平民の愛妾が産んだ子供が五大侯爵のうちの一つを継ぐとか、どんな悪夢だよクソオヤジ。
「まぁ。素敵ね。頑張るのよ、私の可愛いヴィヴィちゃん」
―――どう頑張れと。というか、止めろよ、母ちゃん。頼むから。無理だって。
脳内お花畑の両親を前に、頼むから誰か良識ある侯爵家関係者が父親を止めてくれることを軍神に祈った10歳の誕生日。魔獣討伐の守護に忙しい尊き神にそんなことを祈ったバチが当たったのだろうか。その半年後に、父親である侯爵がついにやらかした。神前契約で、この私ルドヴィカを後継者指名したのだ。
***
その日のことは今でも夢に見る。勿論、悪夢の類として。
母と共に暮らしていた帝都の下町の石畳は、整備不良で凹凸が激しかった。その石畳にガラガラという車輪の音を高らかに響かせて、侯爵家の家紋付馬車が我が家にやってきたのだ。余りに大きな音に窓の外を覗いた私は、状況を悟って地獄からの使者が来やがったと白目を剥いた。
これまでコソコソとお忍びスタイルで通っていた父親が、侯爵としての正装で母と私を迎えに来たのだ。そのまま侯爵家に攫うように連れられて、私専用だという子供部屋に案内された。
それまで住んでいた家が丸ごと入りそうな部屋だった。女の子が好きそうな花柄の壁紙とピンクのカーテン、可愛らしいデザインの家具。専属だという完璧な笑顔のメイド達。衣装部屋には一杯の衣装が用意されているらしい。子供部屋の片隅には、色とりどりの包装紙に包まれた贈り物の入った紙箱が積み上げられ、後のお楽しみだよ、と父親は嬉しそうに笑っていた。
私が侯爵家の正式な後継者になったお祝いだと彼は言った。嘘だと言ってよ、軍神様。涙目になった私を感激からだと勘違いした父親は、どうやって庶子である私を次期侯爵に指名したか一から十まで説明してくれた。
結論から言うと、軍神様は被害者だった。色ボケ侯爵の神前契約に巻き込まれた側だった。本当に申し訳ない。うちのバカオヤジがすまねぇ。
神前での誓文言がまた酷かった。
『娘ルドヴィカを次期侯爵とする。もしこの誓約が守られない場合は、その原因となった人間及び私と一族郎党全ての命を軍神に捧げることを、我が名我が血我が魂をもって誓う』
止められなかった神殿関係者も、立会人である辺境伯も責められない。
何処の世界に、愛人への永遠の愛を証明するために隠し子を後継者指名しまーす、と一族郎党の命を対価に神前契約する馬鹿がいるというのだ。そんなのを予想して今回の大事故を未然に防げる奴は、心配性の度が越しているから、魔獣湧出率の低い田舎で一度静養した方がいい。
***
移動で疲れただろうから少し部屋で休みなさい、とルンルンで母親の肩を抱いて退出した父親。それにニコニコと笑って付き従う母親。そんな彼らを見送って、メイド様方に「疲れたのでお昼寝したい」と子供らしく目を擦りながらお願いして、どうにか一人になった寝台の中、絶叫した。
勿論、お口には枕を当てて音は殺した。子供らしくないことは控えて、努めて『普通の』幼子らしくあろうと努力してきたのだ。人に見られない場所で、声にならない叫びをあげることぐらいは許してほしい。
―――うっそだろ!
―――やりやがったっ。いつか絶対やると思ってたけど、でも、マジでやるか、普通!?
―――正気かよ!
下町訛りの罵詈雑言が溢れて止まらない。酸欠になりかけて、プハッと枕から顔を上げ、スンッとなった顔で今後のことを考えた。
神前契約をしたということは、一度は侯爵にならざるを得ない。メールス侯爵家関係者も巻き込まれて死にたくはないから、爵位継承を止めはしないだろう。
問題は、その後。一度侯爵になれば、逆に私がどうなろうと神罰は下されない。つまり、両親共々『不慮の事故』で死んでも可笑しくない。
というか、愛人の子が侯爵になった時点で、家門としてメールスの権威は地に落ちる。その被害は誰に行く? ……領民だ。貴族の誇りなんぞは腹の足しにもならないが、力なき貴族は平民を庇護できない。他貴族からの干渉、略奪の危険。領地での権力構造の混乱も予想される。
メールス侯爵家は、ヴァッレン帝国の食糧庫と呼ばれる穀物地帯を領地として管理している。その帝国の食を支える侯爵家の御家騒動だぞ。下手すれば魔獣戦線の配給食にまで影響が出る。つまり、人死にどころか、帝国の存続の危機にすらつながりかねない。
皇室が動くな、こりゃ。あの能面のように完璧な笑顔のメイド達。あの中の何人かは、帝室の子飼いの可能性がでてきた。というか、帝室だけでなく他家の子飼いも紛れ込んでて可笑しくない。
はい! 周囲に警戒されないように、自室でも無害なお子様ムーブをかますことが決定しました!
―――勘弁してくれ。
力なく項垂れて、大きくてフカフカな枕に抱きついた。せめて私が侯爵家跡継ぎに相応しい能力を持っていたらよかった。ところがどっこい、私の能力値はド庶民である母親似なのである。
魔力―――平民平均程度。等級外の小型魔獣一頭倒すのが限界。つまり、お貴族様的には話にならない。
容姿―――メールス侯爵家は目と髪が藍色と相場が決まっているらしい。お家カラーってやつだ。で、私の目は母方の祖母似の紅茶色、髪は母親似の紫色。髪が青色系統である以外欠片も掠っていない。
教養―――平民としては中の中程度だ。貴族的教養はない。しかも、実は神殿学校にも通ったことがない。
神殿学校というのは、庶民に読み書き教養を教えてくれる無料の手習い所だ。大抵の平民が通うその学校に私は一度も通えていない。父親の関係者に狙われるといけないと言って外出を制限されていたからだ。代わりに両親が読み書き程度は教えてくれた。父親が家に持ち込んだ本と情報紙を読んできたので、多分、平民としては中の中くらいの教養があると思いたい、というレベルだ。
―――しみじみ思う。詰んでるな、コレ。
唯一メールス侯爵家の能力らしいもの、といったら、この思考力だけだろう。同年代の子供とか窓の外で喋っているのを聞いたことがあるぐらいでよく知らない。だけど、私の今考えている内容が、閉鎖的環境で育った10歳児としては普通ではないことは分かる。
だいたい3歳ぐらいの時には、物事を理解した上で行動していた。この精神的成熟の早さは、恐らく幼少期から魔獣戦線での戦闘を経験させるというメールス侯爵家を始めとした上流貴族独特の性質なのだろう。というか、そういう性質を持ったものしか上流貴族として生き残れない、といった方が正しいか。
―――より多く、より強い魔獣を討伐する。それこそが、ヴァッレン帝国における高位貴族の条件だ。
まぁ、私のような引きこもり幼女には、無理ですけどねー。おつむが多少良くても、こっから努力した所で魔力量がゴミカスなので、頑張っても平民騎士でも中の下くらいの戦力になるのが限界だろう。
メールス侯爵家当主に相応しい戦果とか、天地がひっくり返っても出せませーん。
再び枕に顔を埋めて、雄叫びを上げた。
―――詰んでるっ!
***
父親がウルトラCタイプの解決策を連れてきた。文字通り、人の形をした希望の光が私の前に差し出されたのだ。そう―――メールス侯爵家後継者に相応しい資質を持った婚約者である。
目前のソファーに座っているのは、少女と見まがう線の細い美少年だ。
まだ13歳にも関わらず、すでに魔獣戦線で準主級の白狼を討伐した経験があるらしい。髪も瞳もメールスの藍色。学業は、なんと帝都最難関のヴァッレン帝国立シャウムブルク学園の在校生。皇太子も通うという超名門学園生である。成績はよろしく、学園内の人望もある。とどめに、魔力量が一応侯爵家現当主の我がバカオヤジ並みに多い。
―――完璧である。
私にバカ甘い両親のせいでちっとも進まないマナーの授業の不出来さが露呈しないように、動かない、喋らない、目立たないを己に言い聞かせつつ、婚約者を伺いみる。
私よりも、よほど侯爵家当主にふさわしい、分家の男の子。
―――よし、爵位はこいつにぶん投げよう。
今後の人生の方針が決まった瞬間である。
***
なんか婚約者のエアハルト様がめっちゃ会いにくるんですけど。
応接室のソファーの向こうに座った人形みたいに綺麗な少年に、引き攣った笑みを浮かべつつ紅茶をすすめる。侯爵令嬢らしい微笑みってなんだ。適当に笑って、後ろに『侯爵令嬢』って太字で書いた紙でもメイドにもたせてればよくないか。
侯爵令嬢としてのマナー講習は相変わらず進んでいない。ちょっとでも家庭教師の先生が私に厳しくしようとすると父親である侯爵がクビにするからだ。どれだけ大丈夫だと言っても、聞いてくれないので困っている。
父親は侯爵家長男として幼少期から厳しく教育を受けた。5歳で魔獣戦線に連れて行かれて、さあ、生き残ってみろと小型魔獣の群れに放り込まれた経験を未だに恨みがましく母と私に語る程度に、彼にとっては辛い日々だったらしい。
そのため、自分と同じ思いを愛娘にはさせまいと過保護が加速している。ぶっちゃけ軽い軟禁状態にあり、10歳の誕生日にこの侯爵邸に来てから、敷地の外に出たことがない。普段顔を合わせるのも両親と決まった使用人だけだ。
単調な毎日に変化をもたらしたのが、この度めでたく婚約者となったエアハルト様だった。
彼は花やら菓子やら可愛らしい宝飾品やらを手土産に、婚約者である私に会いに来ては、学園でこんなことが、とか、魔獣戦線での戦闘で魔獣が、とか、外の世界の話をしてくれる。
物凄くありがたい情報源である。
あいにく令嬢らしい喋り方まで講習が進んでいないので、「まぁ」「あら」「はい」「いいえ」「ありがとうございます」「申し訳ございません」で会話を終わらせている。多分、無口な令嬢と思われている。こちらがあまり喋らなくていいように、返事の必要がない話を一人で喋り続けてくれる婚約者に、少し申し訳なくなる。
手元にあるのは、金細工で花弁のフチを作り、その中に紫色の硝子をはめ込んだ紫陽花のブローチだ。ただの硝子ではなく、内部で魔力の粒子がキラキラと輝きながら光を放っている。
「学園の授業に、『美術』というものがありまして。今期は『彫金』を実習で選んだのです。素人が手慰みに作ったもので恐縮なのですが、宜しければどうぞ」
素人の手慰みでこんなものが出来てたまるか、という完成度の芸術品を手にして、まさかの自作という事実に私は固まった。
「まぁ、ありがとうございます」
どうにか声を絞り出し、どこまで完璧超人なんだよこの人、と内心で打ちひしがれた。
本当に申し訳ない。こんな平民の愛人が産んだ能無し庶子が婚約して良い相手ではないのだ、この方は。屋敷内でもそこかしこで使用人達が噂している。「不釣り合い」と。まったくもってその通りである。ぐうの音も出ない。ぐう。
「内部で光っているのは、私の魔力を固体化して」と続ける婚約者に張り付けた笑顔のままで決意する。
―――できるだけ早く爵位譲渡を実行しよう。
そっと指先で金細工を撫でる。そのぐらいしか、この厚意に返せるものが無いのが歯痒かった。
***
頭を下げれば、祖父母が息を飲む音が聞こえた。
メイド観察も5年ともなれば、誰が誰の子飼いか分かるというものである。結果、領地に押し込められている先代侯爵夫婦が送り込んだメイドを発見した。彼女を通して祖父母である彼らに連絡をとり、帝都の片隅にある侯爵家の持ち家の一つで初顔合わせとなったわけだ。
開口一番宣言した。
「私は爵位を婚約者であるエアハルト様に譲位したいと考えております。
神前契約があります故、一度は侯爵位につかねばなりませんが、その場で彼への譲位を宣言いたします。その後は、お二人のご意向に従うと誓います。
死ねとおっしゃるなら、大型の狼型魔獣の群れに単騎出陣でも致します。どうか、どうか、御助力頂けませんでしょうか」
どうにか家庭教師に及第点をもらった上位に対する礼を取りつつ、腰を落とし頭も下げて懇願した。
***
「お前がメールス侯爵の掌中の珠か」
尊大な態度の銀髪の男がこちらを睥睨する。それに是と答えて頭を下げて最上礼を取り、至高の御方に恭順を示した。フン、と鼻で笑うのが頭上で聞こえた。
「聞いていたよりは、頭が回るようだな」
ドレスの裾を持つ手が震えそうになるのを必死に抑えた。声は出してはならない。上位者に対して話しかけて良いのは、相手の許しが出た時だけだ。
「―――度胸と判断力は悪くないな」
おい、と皇帝陛下が誰かに声を掛ける。
「お前のところで引き取れ」
呆れたような男性の声がそれに答えた。
「陛下、猫の子ではないのだぞ」
まったく、と溜息が聞こえて、顔を上げよと声が掛けられた。
恐る恐る顔を上げた先にいたのは、黒目黒髪の壮年男性だった。この色は知っている。本に載っていた。確か、黒の一族の―――。
「これはバルリング辺境伯領当主。我ら人間の存亡を掛けた戦いの最前線、最も死が近いと言われている領地の主だ。どうする? こやつに付いていくというのならば、協力してやらんこともないが」
***
『軍神に誓う。私ルドヴィカ・メールスは侯爵位を後継者エアハルトに今この時をもって譲り、以降貴族籍を放棄し生涯平民として生きることを、我らが守り神たる軍神に我が名我が血我が魂をもって誓う』
まさかのオヤジと同じ手段による強行突破と相成った。親子二代で軍神様にご迷惑をお掛けするとは本当に申し訳ない。次の軍神に捧げる花祭りには、とびきりの刺繍を施した布を捧げよう。
侯爵となるエアハルト様の道行きの障害物でしかない実父を含めた関係者は、領地に押し込めることにした。祖父母に父親自身がしたことだ。母がいれば満足なあの人のことだ、案外悪くない生活かもしれない。
ついでに婚約者のご両親も道連れにした。婚約期間中にぎゃいのぎゃいのと便宜を図って欲しいだの誰それを紹介してほしいだの頼まれて、求愛中の鳥でもここまでやかましくないぞ、とうちの父をドン引きさせていた御仁たちだ。
どう考えても侯爵になる婚約者の足を引っ張る予感しかしない。申し訳ないが、見渡す限りの麦畑以外に見どころのない我がド田舎領地で大人しくしていてもらおう。これでも一大農畜産地だ。飯だけは美味いから、それで満足してほしい。
残して行く命令書や契約書、人材や資料とかが彼の助けに少しでもなればいいなぁ。
もう会うこともない元婚約者の人生が良いものとなることを軍神に祈って、辺境伯に連れられて神殿を去った。
***
人生初メイド業はとっても楽しい。
発言や表情で令嬢らしくとか気にしなくていいし、女同士の腹の探り合いも貴族に比べたら何てことないお遊びみたいなもんだ。戦地の爆音と閃光なんて慣れたら爆睡できる程度にしか気にならない。
掃除や洗濯、配膳、備品の用意とかの雑用ばっかりだけど、誰かの役に立つことを仲間とやるのがこんなに楽しいとは思わなかった。なんか辺境伯に、馴染み過ぎでは? と面談で聞かれたけど、元々10歳まで平民として生きてきたわけで、根っからの庶民には貴族令嬢生活とか一種の拷問だったんだなぁとしみじみ思いつつ過ごしている。
あと、メールス侯爵家由来の特質をもう一つ見つけた。どうやらこの体はめっちゃ体力があるっぽい。同僚が疲れたーって言う場面でも、全然そんなことないし、正直あんまり寝なくても翌日には元気一杯に動き回れる。
さすが、領地での魔獣討伐時に最前線に立ち続ける領主一族の血筋って感じ。いままで侯爵家本邸に閉じ込められて行動を制限されていたから気付かなかったんだな。
そういや領地に押し込めた実父である元侯爵は、元気に魔獣討伐に明け暮れているらしい。母も後方支援部隊で働いていて、たまの休暇には夫婦仲良く市場で買い物とかしているらしい。
一介のメイドには知りえない彼らのその後の話を、面談と称して定期的に教えてくれる辺境伯閣下には大変感謝している。婚約者はどうしているか? と前に一度聴いたら、元気にはしている、と答えられた。なんで目を逸らしていたのかだけが謎である。何であれ、元気ならばそれでよし。
***
友達ができた! 人生初!
下町の飲み屋でワイワイと肉と酒を楽しみながら、恋バナをした。本の中でしか読んだことのない、同年代の女の子との恋愛談義。途中から芋の話になったと思ったら、赤薔薇ちゃんを芋男が回収していった。
酔っぱらってふわふわとする頭で、寄り添って歩く彼らの姿を後ろから眺めつつ辺境伯家本邸へと帰る。芋男が呼んだらしい騎士達が夜道は危ないと一緒に付いてきてくれている。うむ、紳士である。
「ねぇー」
隣にいる藍色の瞳の同僚メイドにヒソヒソと声を掛ける。
「あれでくっついてないとか嘘だよねー」
懐かしい藍色が私を映して前を向き、確かに、と呆れたような声を零す。
「さっさとくっつけばいいのに、あのバカップル」
好きな人が側にいて、一緒にいるのを許されるのならば、どうしてさっさとくっつかないのだろう。酔った頭で首を傾げた。私だったら。
益体もない考えが脳裏を過る。
―――藍色の髪と瞳を持つ彼は元気だろうか。もし私が彼に釣り合う侯爵令嬢だったら、あんな風に手を繋いで一緒に並んで歩んでいけたのだろうか。
***
わぁ。冷汗が大量に出てる。前回ここまでビビり散らした時って確かヴァッレン帝国皇帝陛下に謁見した時だよね。久々だなぁ。
現実逃避気味に思考を明後日の方向に飛ばすが、現実は無情にも変わらない。目前に、先日懐かしく思い出した美少年が逞しい美青年となって座っている。よく似た赤の他人であることを願ったが、そのぎらついた藍色の瞳の色を見間違うはずがない。
確実に御本人様である。爵位をぶん投げて逃亡した元婚約者と再会した時のマナーを家庭教師から学んでおくべきだった。あとなんか、滅茶苦茶怒ってるっぽい。空気が重い。
ちょっとした気の迷いで男女の出会いの場である食事会に参加したら、元婚約者とバッティングしたとか、なにそれ地獄? 主催者の辺境伯領騎士が、オロオロと彼と私を交互に眺めている。
逃亡経路を無駄に回る頭で探るが、どのルートも完璧超人である元婚約者に阻まれて終わる。久々の叫び声が脳裏に響いた。
―――詰んでるっ!
***
激痛を伴う通信具の装着を終え、私は詰めていた息を大きく吐いた。補助をしてくれたレオン少年神官に礼を言えば、先日の魔獣の一斉討伐で大活躍した『放浪侯爵傭兵団』への報酬の一部として命じられた仕事の一環だから気にするな、と淡々と返された。
はぁ? と声を上げたのは致し方あるまい。耳に嵌った藍色の通信具を撫でている恋人を睨みつければ、横を向いて視線を逸らされた。
「職権乱用では?」
「せ、正当報酬を帯同神官部隊の本拠地神殿に上納しました。確かに、一番腕が良い神官を派遣してほしいという要望は騎士団上層部との宴席で口にしましたが、強制力はないものでしたし……」
じとっという目を彼に向けた後に、あとでお話があります、と言えば、ピクリと肩が揺れた。
「あの、」
恐る恐るという風に彼が尋ねる。
「怒っていますか?」
「呆れています」
ずっと呆れている。どこの世界に、元婚約者を追いかけて爵位を放り投げて、辺境伯領まで探しに来る人間がいるというのだ。あのまま侯爵でいた方がよほど良い暮らしができたというのに。
まったく、馬鹿な人だ。
―――ずっと父親の横で笑っていた母親。バカオヤジがどんな馬鹿をやらかしても微笑んでいた彼女の気持ちが少しだけ分かる。
「公私混同はこれっきりにしてね、ハルト」
藍色の瞳の中で笑っている私は、確かに彼女の娘だった。ただし、私と母は違う。やめて欲しいと思うことは、はっきりと声に出して言うべきだ。相手の思惑に振り回されるのは、父親の件でもう懲り懲りなのだ。
話を逸らそうと、恋人である『放浪侯爵傭兵団』団長エアハルトが、私達が再会した食事会を主催した騎士に礼をしたいがどうしたらよいだろうかと尋ねてきた。確かに、辺境伯領の騎士については本邸メイドの私の方がよく知っている。
先日の食事会は、私を捕獲したエアハルトのせいで滅茶苦茶になった。それなら、もう一度、今度は傭兵団の女性陣との出会いの場を設けては? と提案したのは、間違っていなかったと思う。
ただ、食事会後に結果を尋ねると、大物狙いについてどう思うかと釣り人のようなことを尋ねられた。意味が分からなかったが、とりあえず、
「私が貴方の恋人になれたくらいなんだから、いいんじゃないの?」
そう答えたら、むっとした顔で、逆です、と恋人に反論されて、いかに彼にとって私が大物であるかを延々と語られた。
―――そんな風に、なんだかんだと楽しく恋人の隣で笑っていると、そのうち両親に手紙でも出そう。
未だしゃべり続けている恋人である『放浪侯爵』エアハルトに、分かったからと『半刻女侯爵』ルドヴィカは笑い声を上げた。




