【11.5話】辺境伯領本邸執事の今昔
バルリング家辺境伯領本邸は、もはや城と呼ぶべき規模の屋敷である。それを維持管理する大勢の使用人のうち男性使用人を統括する立場にあるのが執事だ。
現在の執事は名をディルク・シュトロムという。彼の出自は伯爵家の三男である。
彼は貴族の血筋であるが、魔力はあれども戦闘センスに恵まれなかった。仮令公爵であれども戦場で功績を残さなければ、家門が取り潰しになる世の中だ。民草を守る貴族として戦い続けるのは無理だと、ディルクが判断したのは12の時であった。
彼は、これまでの貴族としての経験と自身の持つ教養や人脈・適性を鑑み、帝都の執事養成学校へと進路を定めた。卒業後は、従僕見習いとして使用人キャリアを始めた。その後、従僕やその他の男性使用人役職に就きながら各地の貴族家を転々とし、途中現在の妻と出会い結婚して一男二女に恵まれた。
順調に経験を積み、執事として内向きの用をなす男性使用人のトップとなった彼は、その昔、ヴァッレン帝国外交官に仕えていた。ヴァッレン帝国の領土外にも、人類生存圏は無数に存在する。日々興っては滅ぶ、新旧の国家達との橋渡し役である主に付き従い、ディルクは諸外国を渡り歩いた。順調であるかに見えた彼の人生であったが、最大の不幸が彼を襲う。
主である外交官一家と共に赴いた国が、魔獣に侵略されて滅亡したのである。外交官夫妻は死亡、残された遺児を抱えて命からがら帰国することとなった。
不幸中の幸いに、ディルクの妻子は第三子の出産のために里帰りしていた。しかし、当主を突如失った主の一族は大いに荒れた。亡き主より預かった遺児にまで、当主の座争いに端を発する馬鹿げたお家騒動の火の粉が降りかかろうとしたことで、彼は腹をくくった。
『メヒティルデお嬢様、爵位と命どちらを選ばれますか』
10に満たぬ幼子にそう尋ねれば、死にたくない、と震える手が伸ばされた。
彼はその小さな手を握り、その足で神殿に赴いた。貴族の幼年学校同期であるラウレンツ神官に繋ぎをつけて、神前での爵位継承権の放棄をメヒティルデに行わせた。
本来ひと月から半年先の予約となる儀式を、幼年学校時代の『貸し』を引き合いに出して即日行わせた彼は、そのまま宮廷の貴族籍課にいる親族を訪ねる。
メヒティルデの貴族籍抹消と平民籍ディルクの三女としての登録を行い、彼は家族5人を連れて帝都を去った。向かった先は、人類の生存圏争いの最前線。辺境伯領であった。
いつ魔獣の侵攻をうけるとも知れぬ地、しかも貴族きっての武闘派バルリング家の領地に追っ手を差し向けるほどの力を、前主の一族は持っていない。皮肉にも、メティヒルデの両親の命を奪った魔獣が、今度は彼女の命を守る形となったわけである。
そうして、彼は生家である伯爵家の伝手を辿り、今いるバルリング家に職を得たのである。
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今年で45歳になる彼は、白髪交じりとなってきた赤茶色の短髪を丁寧に撫でつけ、皴一つないお仕着せに身を包み、葡萄酒色の瞳を伏せて、影のごとく静かに辺境伯家当主の後ろに日夜控えている。
当主の幼馴染である家令が執務補佐や財産管理等を担うのに対して、執事ディルクの仕事は館内の日常業務の管理だ。男性使用人の取りまとめ役としてバルリング家の日常を守ることに人生をかける男、ディルク。
これは、そんな彼の何気ない日常の一コマである。
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執事ディルクの朝は早い。鶏が鳴くより早く、まだ夜も明けきらぬうちから彼の一日は始まる。
簡易的な作りの訓練着に身を包んだ彼が鍛錬場に足を踏み入れれば、既に侍女頭が剣の素振りをしていた。それに軽く挨拶をしてディルクも攻撃魔法を的に向かって放ち始める。徐々に他の使用人達も加わり、それぞれが得意分野での魔獣討伐訓練を始めた。いつも通りの朝を、バルリング家本邸が迎えようとしていた。
魔獣戦線で異常事態があれば、『非戦闘員』は後方陣地へ避難しなければならない。そこで、『戦闘員』であれば最期まで本邸で職務を全うできる。そう考えた何代か前のメイド長の発案による、就業前の戦闘訓練。いまや、ほぼ全ての使用人が参加する訓練は、使用人専用の鍛錬場が作られるほどの規模となっていた。
年齢や魔獣戦の後遺症で戦闘が難しい使用人もいるが、彼らはディルクかメイド長の許可を得た上で小さなクリスタル瓶を持ち歩いている。万が一の時には中にある薬で、足手纏いになる前に自害するためだ。
魔獣との生存圏争いの最前線を領地にもつ辺境伯家本邸。戦地の大規模魔術の閃光や爆音が見えて聞こえる距離にある館に仕える使用人として当然の覚悟であった。
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鍛錬後、軽くシャワーを浴びて着替えたディルクは、彼専用の執務室へと向かう。狭いながら椅子・机・書棚と必要なものが揃った部屋だ。その机の上に置かれた夜間日報を開く。彼が寝ている間に館で起こり、知っておくべきと夜間担当使用人達が判断したことが記される台帳である。
バルリング家辺境伯領本邸には常時200を超す客人や食客が滞在している。魔獣戦線を視察に来た帝都の官吏、魔獣の生態調査を行う研究者、当主を訪ねてきた分家や他家の貴族達。その他、諸々の理由をもつ彼らが快適に過ごすことができるようにすることも、執事たるディルクの責務であった。
『22時15分 ダイヒハウセン男爵夫人より戦地の戦闘魔法による閃光が眩しくて眠れないと苦情。部屋を東棟沈丁花の間に変更。爆音に関しては気にならないとのこと。解決済み』
『22時35分 ルイス様がリオン様の部屋を訪ねられる。侍従がご同行し、ワインとグラスをお持ちした後は退室』
『23時30分 カスパー教授が東部戦地の魔獣分布の再調査を希望。当該戦地担当通信士に伝言済み。現在戦闘中のため、状況が落ち着き次第返答予定』
『0時15分 ヴローム国外交官オッデルラーデ伯爵が到着。途中の魔獣湧出域にて予定外の戦闘が起き竜飛行便が遅れたとのこと。西棟矢車草の間にご案内。仮眠後に挨拶をご希望。朝食は不要』
『0時35分 テオフェル殿下が部屋にいないと専属メイドが報告。扉外にて待機の帝室派遣の護衛官は気付かず。 0時55分 夜間使用人部屋に待機中の従僕達に混じってポーカーに参加しているのを発見』
様々な筆跡で記された昨晩の様子を読み進めていくうちに、ディルクは首を傾げた。もう一度、最初から読み進める。神経質な割に攻撃魔法の爆音を気にしない男爵夫人、昼夜を問わない研究馬鹿、気の毒な外国からの賓客、人騒がせな皇弟殿下はさておいて。
―――ルイス様がリオン様の御部屋から退室なさった記録がない!
彼は急いで部屋を出た。向かうのは女性使用人の統括人、メイド長の執務室である。
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途中で声を掛けた家令を連れてメイド長の執務室を訪ねれば、侍女頭がいるだけでなく、なんと辺境伯夫妻が朝の鍛錬用の訓練着のまま、何事かを話していた。慌てて入室を告げれば、手を振って許される。
「それで確かなのか」
好奇心を隠せない様子の辺境伯に夫人が肘打ちする。そうはいいつつ気になる様子で目線で問いかける辺境伯夫人に、メイド長は頷いて見せた。
「専属メイドから報告があがっております。少なくとも現時点で、リオン様の御部屋からルイス様は出ておりません」
今夜は馳走を振舞わねば、と浮かれた様子の辺境伯に、おやめなさいみっともない、と夫人が厳しい声を出す。とりあえず、と彼女はその場に居合わせた全員に告げる。
「このことはくれぐれも内密に。リオン殿は奥ゆかしい方。あまりこのようなことを人に知られたいとお思いではないでしょう」
よろしいこと? と凄む彼女は、執事ディルクの後方に視線をやって釘を刺した。
「テオフェル殿下も、どうぞご配慮下さいませ」
え、とディルクが振り返れば、従僕の制服に身を包んだテオフェル皇弟殿下が背後にいた。というか、また客間から脱走している。ディルクの脳裏に、額に青筋を浮かべた専属メイドの顔が浮かんだ。
「了解しました。ところでバルリング辺境伯夫人」
ニコリと微笑んだ貴人はディルクの主家夫婦に相談があるという。丁度いいと彼は続けた。
「婚姻を望んでいる相手がいるのですが、立会人になってはもらえませんか」
***
相手はこの館にいるという皇弟殿下に、先程とは別の意味で室内が騒がしくなる。帝位継承権を神前放棄したとはいえ、相手はこの帝国随一の血筋の貴人だ。その伴侶ともなれば、生半可な相手では務まらない。
ディルクは、滞在客に適齢期の御令嬢がいただろうかと脳内リストを参照した。いまいち心当たりがない彼の前に、テオフェル皇弟殿下が跪いた。固まる彼を、焦げ茶色の瞳に真摯な光を灯して殿下が見上げる。
「私テオフェル・ヴァッセンは、貴家シュトロム家三女メヒティルデに婚姻を申し込む。どうかお許し願えないだろうか」
歴戦の執事ディルクは思った。
―――皇弟殿下に絶対に色目を使わないメイドとして、愛娘メヒティルデを滞在中の専属に選んだわけだが、相手に惚れられる可能性は全く考えていなかった。
思い出されるのは、これまでの日々だ。
かつて握った手の小ささ、共に家族として辺境伯領で暮らすうちに「父さんと同じ使用人になる」と宣言した声、メイドとして仕事に誇りを持ち、時に悩み時に喜び成長していった姿。
その彼女に、目の前の男は果たしてふさわしいのだろうか。
「主級の黒竜を倒してから出直してこい」
『一昨日来やがれ』と『死んで出直せ』が華麗にコラボした返答をした父親は知らなかった。
彼の旧友ラウレンツ神官の指揮する神官部隊は、最前線で戦う超攻撃型神官集団であり、そこの二大エースの一人こそが、目前の男であるということを。
後日、主級の黒竜の魔獣石から作った宝玉を通信具として娘に差し出す青年を止める術は、もはや彼にはなかった。真っ赤になった娘の瞳に浮かんでいる喜びの色に気付いた父親には、祝福の言葉以外は許されなかったのだった。