7.To be or not to be 或いは王者の談笑【前書:侯爵夫人視点、本編:主人公視点、後書:妹視点】
「誘った歌劇でつまらなそうにされた上に帰りの馬車で泣かせた女人に脈があるかどうかですか?」
夜の寝所で侯爵夫人は目を擦る。夫婦で寝ていたところに通信が入り、わざわざ起き上がって隣室に移動した夫が誰かと会話している声を夢うつつに聞いていた。戻ってきた彼に肩を揺すられて、てっきり魔獣前線で何かあったかと飛び起きたのだが。
「ないでしょう」
随分と下らない内容だったらしい。
だよなぁ、と頭を抱える侯爵に、妻は冷たい目を向けた。
「というか、貴方確か『ふられる』方に領地の特級葡萄酒を賭けていらっしゃらなかったこと?」
馬鹿な殿方達の集まりで、と続けた妻に、どうして知っている、と侯爵は気まずげな顔をする。
「かの御婦人の話は私も個人的に収集しておりますの。まさか、夫の愚行を知る羽目になるとは思っておりませんでしたが」
辛辣な侯爵夫人に、いやそれは、と侯爵は言い訳しようとしたが、睨みつけられて口を閉じる。
「人の恋路を賭け事にするなど不謹慎ですわ。ルイス様が気の毒でなりません。あの方は、お義父様亡き後に私達夫婦を随分手助けして下さった方ですのに。貴方は昔からそう。お気に入りの相手程揶揄う癖は直した方が宜しくてよ」
反省しきりの夫に妻は溜息を付き、まぁでも、と続けた。
「脈が無いなら、口付けて心臓を叩いてでも脈を起こさせればよいのです。いっそ聖魔法で蘇生してもよろしいですわね」
それはどういう意味だ、と恐る恐る尋ねる夫に、侯爵夫人は答えた。
「押して押して、押し倒せば、あの方に落とせない相手などおりませんわ」
数多の婚約者候補を蹴散らして侯爵夫人となった女は壮絶な笑みを浮かべた。
「獲物を狩るのは、お得意でしょう? 戦神たる黒の次期当主様なのですから」
【ヴァッレン皇帝からフレンド申請が届いています。受諾しますか。▼YES ▼NO】
空中に浮かんだ選択画面に元女王は動揺を隠せなかった。異世界に転移して11年。まさか転移先の帝国で、元の世界でも『鎖国モード』によって一括拒否していたフレンド申請を受けることになるとは思っていなかったのだ。
***
生まれて初めて歌劇を見た翌日、リオンは惰眠を貪っていた。辺境伯家では週に一度を安息日と定めており、今日は一日仕事が休みなのだ。昨日は寝るのが遅かったこともあり、リオンが起きた時には随分と日が高く上っていた。
―――今日は一人でのんびりしよう。
大勢の人間が集まる場所に出かけて気疲れしたのか、妙に体がだるい。今日は一日別棟に引きこもることにした。女主人の起床を手伝うメイドに手伝われつつ、洗顔、保湿、身支度と朝のルーティンをこなしてゆく。別棟内であれば庶民的な室内着でいいのが疲れた体にはありがたかった。
明るく日当たりのいい食堂に、湯気を立てたスープと鮮やかな色のサラダ、パンと果物が用意される。今朝は甘い物が飲みたかったのでメイドにオレンジジュースを頼んだ。全てが卓上に揃うと手を組み朝の祈りを捧げる。
「今日の命に感謝を。どうぞ明日もこの良き糧を得られますように」
異世界版『いただきます』だ。11年目ともなると随分慣れた。粛々と祝詞を捧げて食事を始める。今日のスープはコーンポタージュだった。濃厚な旨味に眦が下がる。焼きたてのパンをちぎるとカリッとした皮が小気味いい音を立てた。まだ熱いそれを頬張れば、素材の小麦とバターの味が口一杯に広がる。
―――幸せだなぁ。
元日本人のリオンは、今日も飯が美味くて人生は素晴らしいと休日を満喫していた。
***
食後の紅茶を飲んでいた時だった。本邸の家令補佐が慌ただしくダイニングルームに駆け込んできた。これほど焦った彼を見たことがないリオンは、嫌な予感がしつつどうしたのか尋ねる。
「こ、皇帝陛下がお越し遊ばされました」
思わず聞き返すリオンに現実は無常であった。本邸に御幸遊ばした皇帝陛下がリオンを呼んでいる、と告げる彼にリオンは気絶しそうになった。
彼女の優雅な休日が終わりを告げた瞬間であった。
そこからはもう戦争である。衣装を格式あるものに着替え、化粧を一見薄化粧なナチュラルメイクにがっつりし直し、髪形を上品な貴婦人らしくまとめる。それらを別々のメイドが同時進行でこなしていくのに、為されるがまま言われるがままに腕を上げ顔を上げて従う。リオン史上最短の身支度であった。
見覚えのない騎士がそこかしこに立っているのを横目に、急ぎ足で本邸に向かう。皇帝陛下の護衛騎士達だ。妙に視線を感じるのに内心びくびくしつつ、邸内に入れば静かな緊張感が漂っていた。国の最高権力者がアポなしで来たのだ。無理からぬことであった。
玄関先で待機していた侍女頭補佐の後をついて貴賓室への廊下を進む。壁面に並んだ絵画の歴代当主はどれも黒目黒髪だ。同じ色を持つ次期辺境伯ルイスは現在、現辺境伯夫妻と共に皇帝陛下と歓談中らしい。現状報告を侍女頭補佐から聞きつつ、リオンは胃がキリキリと痛むのを感じた。
最近、漸く辺境伯一家との食事に慣れてきたと思ったら、今度は皇帝陛下とお茶とか。イベント進行の難易度調整間違えていませんか、とリオンは呻いた。
***
大柄で筋肉質な銀髪赤目の壮年男性。正面の席に座る彼こそがヴァッレン帝国皇帝イルデブラント3世だ。
ヴァッレン帝国は大小50程度の国家を束ねて形成された複合国家体だ。各々の国家は主権の存する王家のもと独立した統治機構で運営されている。しかし、外交・通貨・司法分野は帝国の名のもと共通化され、人の行き来も自由化している。
つまり、元世界のEUと同じく、人・モノ・金・サービスの自由な移動が保証されているのだ。
ただし、そのトップにあるヴァッレン皇帝の権限はEUの欧州理事会議長の比ではない。
皇帝と各国王家の力関係は、江戸時代の大名制度をイメージすると分かりやすいかもしれない。
江戸時代は国土を藩で区切り、各地を大名が治めていた。例えば、会津藩のお殿様は藩内では一番偉い。しかし、その彼も江戸城では国家最大権力者の徳川将軍に平伏していた。
徳川将軍に腹を切れと言われれば死ぬしかないし、お前んちお取り潰しな、と言われれれば大名家は断絶、領地は没収となる。
さて、大分ざっくりとした説明になったが、その一番偉い徳川将軍的立場の御方が目の前にいる。リオンは眩暈がしてくるのを感じた。
「そう緊張せずともよい。まあ、くつろいでくれ」
無茶を言うな、とリオンは脳内で叫ぶ。現実には引き攣った顔で笑うしかないのだが。
円卓を囲んで談笑する皇帝の両側には辺境伯夫妻がおり、先日の次女の結婚式話でもりあがっていた。その話の流れで、結婚相手の母親である私が呼ばれたらしい。ルイス様の横に座ったリオンは「はい」「いいえ」と相槌だけで会話をこなしながら、早く終われと神に祈った。
***
「それで、そなたの国はなぜ滅んだのだ?」
唐突な問いかけに一瞬言葉が詰まる。隣に座るルイス様が気づかわしげにこちらに顔をむけた後、皇帝に抗議しようとした。
「イルデ叔父上、それは」
ルイス様を視線一つで黙らせたヴァッレン帝国皇帝イルデブラント3世は、私に問うた。
「私はこの帝国を統治するものとして、実際に国を失った其方から直接、話を聞きたいと前々から思っておったのだ。予測できるリスクには万全を期し、万が一にも備えたとて、神の悪戯一つで滅ぶ我らが身だ。集められる情報は全て得ておきたい」
500年以上続く帝政を受け継ぎ、その地に住まう民草全てを守り慈しまんとする皇帝に元女王は答えた。
「おっしゃる通り、神の悪戯一つで吹き飛びましたわ」
珍しくもない亡国からの難民として、これまで幾度も様々な立場の人間にしてきた説明を繰り返す。
「地脈の暴走です。国が存した大地ごと膨大な魔力暴走で消し飛びました。前兆はなく、対策の取りようもなかった」
実際、リオンが元の世界でプレイしていた国家は『データ』の初期化によって吹き飛んだ。大型アップデートが終わり、さあログインしようとアプリを立ち上げた後に、何故か初期設定画面が表示された瞬間の絶望は今でも忘れられない。
「今でも、どうしたら正しかったのかを考えておりますが、いつも答えは一つです。それが運命であった。そうとしか言いようがないのです」
アカウント名とパスワードを何度入力し直しても、リオンが大事に育てていた国は二度と戻ってこなかった。アップデート時に発生したバグで同様の被害者が多数出たらしい。運営が大炎上して返金騒ぎまで起こっていた。
運営に抗議メールを送る勇気のなかったリオンはひっそりと泣き寝入りし、目が覚めたら『ここ』にいた。もう一度会いたいと願ったNPCの息子を腕に抱きしめて、亡国の民が屯する難民キャンプの雑踏の中で茫然と立ち尽くした瞬間のことは今でも夢に見る。
でも―――後悔はない。
「神の悪戯で国元は滅びましたが、恐らくは、その原因である魔力暴走のお陰でこの国に転移したことは神に感謝申し上げております」
必死に生きてきた。座して死を待つ選択肢は存在しなかった。ゲームの記憶がなく、不安げに縋る幼い息子がいたから。足掻いて絶望して、それでも、守るべき息子を支えにここまで生きてきた。
今、息子は隣にいないが、心配そうにこちらを見つめるルイス様と辺境伯夫妻が一緒にいてくれている。
朝、私を起こした優しい声のメイド。温かい食事を用意してくれる料理人。皇帝に会う私を気遣った家令補佐と少しでも助けになればと道中ずっと皇帝について話してくれた侍女頭補佐。
優しい人々に出会い大切にされて、私も彼らを大切にしたいと願った。そう思える人達に出会えたことに、後悔はない。
「ですから陛下」
元女王は微笑んだ。
「悔いなき人生を。民草達が最後の日まで笑っていられる国を作ることこそ統治者の義務だと私は考えております。リスクへの対策は大事ですが、どんなに備えても、おっしゃる通り、滅びるときには滅んでしまうのですわ、我ら人の国は」
指示間違い一つで人の命どころか帝国全土が滅亡する重責を担う、かつての自身と同じ立場にいる彼に、最後に助言を一つ。
「ですが陛下、一つだけお忘れなきよう。陛下もまた人の国に住まう、守るべき命なのです。何一つ諦めることなく強欲に、なさりたいことをなさいませ」
皇帝などという面倒極まりない立場に座らされているのだ、その程度の役得はもらって当然だと言うリオンに、イルデブラント3世は目を丸めたのち呵々大笑した。
「ふはは。気が合うな。私も後悔はせぬと決めているタチなのだ。為すか為さぬか迷うくらいならば、通達無しで悪友の屋敷を訪ねる程度にはな」
後が怖いと分かっておっても、其方と話してみたいという欲に負けてなぁ、と皇帝はニヤニヤと笑う。警備の問題もあるからもう少し慎重になって欲しかったのだがな、と苦く呟く辺境伯に睨まれているが、まったく気にしていないらしい。なるほど、肝が太い。
余計な心配だったか、と苦笑するリオンは、帰りがけに皇帝陛下から「また話をしようぞ、次はそなたらの結婚式に呼んでくれ」と言われた瞬間に本日二度目の気絶をしそうになった。
なぜルイス様と私が結婚すると勘違いしているのだ、とか、また皇帝陛下とおしゃべりイベントとか勘弁してください、とか言いたいことは沢山あったが、それよりも問題は―――
【ヴァッレン皇帝からフレンド申請が届いています。受諾しますか。▼YES ▼NO】
目前に浮かんだ選択肢だ。
この体が元はゲームのアバターであるためか、ゲームの表示画面が浮かぶことはしばしばあった。自分以外には見えていないし、消えろと念じたら消えるので、あまり気にせずに使っていたのだが。
―――これ、YESって答えたらどうなるんだろう。
黙り込んだリオンに、ルイス様が心配そうに声を掛けてきた。若者二人を揶揄うだけ揶揄って満足げに帰っていった皇帝陛下に心なしかゲッソリしている。
―――後悔が無いのは、
フレンド登録を行うと、キャラクターの使える技が増える。『鎖国モード』の元女王には必要のない情報であったため、攻略サイトでは読み飛ばした内容も多かったが、覚えているものもある。
中には辺境伯家の力になれそうなものも幾つかあったはずだ。ごくりと唾を飲み込んで、リオンは選択肢【YES】を押した。
―――【新規フレンドを獲得しました】
―――【イベント『初めての盟友国』をクリアしました】
―――【クリアボーナスが贈られます】
―――【ステータス表示が変更になります】
―――【使用可能な技が増えました】
―――【能力値にボーナスポイントが加わりました】
ゲームの通知バーで目の前がまっくらになった。急激に『作り変えられる』ステータスと能力値に脳が負荷限界を超える。遠くなる意識の中、背中に大きな手が当てられ、誰かに抱きとめられるのを感じた。
切り捨てたはずの魔獣の首が、牙を剥いて飛び掛かってくるのに騎士ラウラは死を悟った。
―――回避は間に合わない。剣は先程の戦闘で折れており長さが足りない、魔力は尽きかけ。……何か、何か手はないか。
それでも最期まで足掻いてやると目前に迫った牙を睨みつけた時だった。
何かが、魔獣の頭を『蹴り』飛ばしたのだ。魔獣の中でも中級の大きさであり、その頭部だけでも50kgは優にある物体を、だ。
茫然と見やった相手は、神官服を身に纏った少年だった。日の光に煌めく金の髪が、場違いにも宗教画のように美しいと思ってしまった。天使のような容貌を歪めて神官レオンが叫んだ。
「武具が破損したなら、さっさと本陣に戻って交換! ついでに魔力回復の薬も打ってこいっ」
可愛い顔をしてえげつないことを言ってきた。飲み薬と違い、体内に直接打ち込む回復薬はリバウンドが酷いのだ。その副作用を無視してでも使うだけの理由はその即効性だ。後のことなど知るか、我々騎士は―――目前の怨敵を討伐するために生きている。
「感謝する!」
礼を言って本陣に向かい騎獣を駆けさせる。道中、背後を振り返れば、光の柱が天に向かって伸びていた。先程の少年が前線ど真ん中で広範囲型聖魔法を発動させたのだ。前代未聞のことだった。
本来、これほど上位の聖魔法が使える神官は、後方にある本陣の更に奥で大切に温存されてきた。
聖魔法は血統による発現が基本の希少種だ。実際、これまで高位の聖魔法使いはそのほとんどが高位貴族であった。己の価値を理解している彼らが、命の危機が日常茶飯事の前線に出てくるはずがないのだ。
それもまた、生存戦略としては正しい在り方なのだろう。
だが、どうだ―――あの光の柱の下で、平民神官が立てた広範囲型聖魔法のもと、死のうが怪我しようが治り蘇る騎士達の狂乱を!
高位聖魔法使いの参戦によって劇的な快進撃を見せた騎士達は、かつてない程に魔獣戦線を押し上げ、逆に損耗率を最低に抑え込んだ。
この時の礼をラウラが言いに行ったのが二人の馴れ初めになるとは、当時の彼らは予想もしていなかった。