使者と我儘
そうして異世界に来て一ヶ月ほど経った。
いつものように執務室のソファーで本を読む。退屈しのぎにと与えられたが、おかげでこの世界のことを学ぶことができた。一つ一つの文字はアルファベットのような文字で意味をなさないが、読めば不思議と意味が理解できる。文字を読むことが出来たのは幸いだった。最初は歴史書や伝承などの書物を、最近はそれ以外の物語や紀行文などを読むようになった。
「リア、休憩の時間だ」
本を閉じて向きを変えると、背後から優しい手つきで髪を梳かれる。
(随分慣れてしまったなぁ)
約束したとおりノアベルトはリアの髪にしか触れない。時折耳や頬に手が触れてしまうことはあるけど、そんな時はきちんと謝ってくれる。その誠実な対応にリアは必要以上に警戒することを止めた。ノアベルトがリアに甘いのはペット枠だからだということは忘れてはいないのだけど――。
(たまに勘違いしそうになる。特に今のような状況だとなおさら)
「どうした? 体調でも悪いのか?」
溜息をつきかけて堪えたものの、ノアベルトにはあっさりバレてしまう。
「何でもありません」
「ハーブティーを用意させよう、それからリアの好きなタルトも。他に欲しい物はないか?」
とことん甘やかされすぎて駄目になってしまいそうだ、と時折怖くなる。元の世界に帰る手がかりすらなく、この世界で生きていくしかないのだろうと心の底では思っている。だったら生活のための手段や方法を身に付けたほうがいい。
(陛下は危険だからと働くことを許可しない。今は珍しくて傍に置いているけど、飽きればきっと放り出される――処分されない限り)
本で読む限り、この世界は産業革命以前のヨーロッパぐらいの生活環境のようだ。身元不詳な自分がまともな仕事に就くことができるのか、考えれば考えるほど自信がなくなってくる。そんな堂々巡りの思考から逃げ出すため、架空の物語などに手を伸ばしてしまう。
「陛下、失礼します」
ヨルンはいつもより硬い表情を浮かべている。
「エメルド国が使者をよこしました。聖女を返還するよう要求しています」
「っ!」
驚きに息を呑む。自分をこの世界に召喚したエメルド国―。
「……ふざけた話だ」
ノアベルトの周囲の空気が凍り付きそうなほど冷たくなっていく。
「すぐ戻るからいい子にしてるんだぞ」
表情を和らげ、惜しむように頭を撫でて立ち上がるノアベルトを慌てて引き留める。
「陛下、私も行きた――」
「リア」
窘めるような拒絶の意思が伝わってくる。だけど他ならぬ自分のことで、今後の身の振り方にも大いに関わってくるとあっては、リアも引くことができない。
「邪魔はしません。会談の場所でなくても少し話をしたいのです。それに当事者である私がいた方が優位に物事を進めやすいのではないですか」
気づかない振りをしてまくし立てるが、ノアベルトの表情は険しくなっていく。最近は口元に笑みを浮かべることも多かっただけに、その落差が恐ろしい。
「そんなに会いたいなら―そうだな、口づけの一つぐらいしてねだってみろ」
揶揄うような口調で、するりとリアの唇を指でなぞる。
子供扱いされていることを感じてカチンときた。
立ち上がり掛けたノアベルトの襟元をつかむと、一瞬触れるだけのキスをした。
「なっ!?」
珍しく狼狽した様子のノアベルトに溜飲が下がる思いがした。
「ふふん、子供ではないのだからキスぐらいしたことありますよ。これで会わせてくれますよね?」
いつも自分ばかりペースを狂わされているからと調子に乗ってしまった。それをひどく後悔する羽目になるとは知らずに。
乱暴にソファーに押し倒されたと気づいた時には唇を塞がれていた。驚いて声を上げようとするが、ますます深くなる口づけに押さえ込まれる。自分の上に覆いかぶさる身体を押しのけようと足掻いてもびくともしない。角度を変えて何度も与えられる激しい口づけに、息苦しさから涙があふれてくる。それに気づいているはずのノアベルトはそれでも執拗なほど口内を蹂躙する。
(もう、限界――)
意識が遠のきかけたころ、ようやくノアベルトはリアを解放した。
涙でぼやけた視界でノアベルトの表情が分からない。そのまま黙って部屋を出て行ってしまった。
起き上がって涙を拭うが、次から次へと涙が溢れてくる。
(あんなに怒った陛下、初めてだ)
キスされる直前に見た紫水晶の瞳には確かに怒りが宿っていた。
(キスしたから? 会いたいと我儘を言ったから?)
頭の中が疑問と不安でいっぱいになる。クッションをぎゅっと抱きしめて、落ち着けと自分に言い聞かせる。
(陛下は自分が使者と会うことを快く思っていなかった。キスしたら考えるなんて言ったのは、絶対にそうしないと思ったからだ。ああ、もしかして―)
自分の目的のためなら、あっさりとこれまでの態度を翻したことに怒ったのではないかと思い当たった。触れられることをあんなに嫌がっていたから、ノアベルトは慎重にリアに接していてくれていた。リアの行動はその好意を無下にするのに等しい行為だったと言える。
(どうしよう…軽蔑された……もう愛想を尽かされたかも)
嫌な想像がどんどん膨らんで、胸が苦しい。この苦しさが未来への不安によるものなのか、ノアベルトに嫌われることなのか、今のリアに考える余裕はなかった。