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短気な聖女は魔王の溺愛を回避したい  作者: 浅海 景


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本当の名前

――遠くで鳥の囀りが聞こえる。

(朝だ…、起きなきゃ……)

微睡みの中でそう思うのに、気持ちよくてなかなか瞼が開かない。午前中はどんなレッスンが入っていただろうか、と記憶を掘り起こしながらようやく目を開けるとすぐ近くにノアベルトの顔があった。


「――えっ?! あっ!」

昨晩の出来事を思い出して、顔から火が出そうなほど恥ずかしくなる。

(起き抜けの顔、思いっきり見られた!)

シーツにくるまって悶えていると、目の前が明るくなってシーツが取り払われたのだと分かった。


「リア、どうして隠れるのだ」

「……だって、恥ずかしいから」

一緒に眠っていたことはあるが、顔を合わせると昨日の記憶を鮮明に思い出してしまう。

「ふふ、それなら毎日たくさん愛して慣らしてやろう」

「―――!!」

こんな時のノアベルトは少し意地悪だと思う。


「喉が渇いているだろう?」

むくれたリアの感情を宥めるように差し出された水は、程よく冷えていて美味しい。子供扱いされているようで悔しいが、拗ねる気持ちなどどこかへ行ってしまった。

気持ちが落ち着くと、気になっていたことを切り出した。


「ノア、ステラは大丈夫なのかな? 私を庇って怪我をさせてしまったから、謝りたい」

痛々しいステラの姿を思い出して、胸が痛んだ。リアが嘘を吐いていたことにも関わらず、あの場で身を挺して守ってくれたのはステラだけだった。

「……ヨルンが気にかけていたから、恐らく問題ないだろう」

どことなく歯切れの悪い物言いが気になったが、安心させるようにぎゅっと抱きしめられる。


「お城に戻らなくていいの? ヨルンが心配してない?」

ノアベルトがどれだけ多忙なのか分かっているつもりだ。どんなにリアを甘やかしていても、執務室では休憩の時以外はずっと机に向かっていたし、徹夜をし過ぎてヨルンから叱られていたこともある。それなのにノアベルト自ら探して助けに来てくれた。嬉しくて胸がきゅっとなるが、これ以上独占できない。


「まだ大丈夫だ。じきに迎えがくるだろうが、…リアが望むならここで共に暮らすこともできる。 そうすれば面倒なしがらみや責務などに煩わされずに済む」

あっさりとした口調で言われたが、たとえノアベルトが望んだとしても周りが許さないはずだ。だけどノアベルトが出来ない提案をするはずもなく、素直に浮かんだ質問を口にした。


「ノアはどうしたいの?」

その質問にノアベルトは驚いたように目を瞬かせた。


「私は……リアが欲しい」

「え、いやそういうのじゃなくて!」

「私にはリアさえいればいい。……リアだけは私の気持ちを考えてくれる」

うっとりとした笑みは妖しい色気も含んでいて、逃げる間もなくソファーに押し倒される。そのせいで後半部分の小さな呟きはリアの耳には届かなかった。


必死の抵抗と説得の末、何とかキス以上の行為を阻止することができた。

「もう! 真剣に訊いたのに誤魔化すなら知らない!」

「誤魔化してなどいない。伝えたのは本心だ」

ノアベルトは名残惜しそうにリアの手に口づけを落とす。


「私が魔王であるがゆえに、嫌な思いをさせたし危険な目に遭わせてしまった。 リアが望むなら私は魔王の地位など捨ててしまっても構わない」

それが自分への質問の答えと提案の理由だと一瞬分からなかった。


嫌悪や好奇の視線にさらされ、一方的に非難されたこと、厳重な警備の中攫われてしまったことをノアベルトは気に病んでいるらしい。望まなくとも自分は聖女と呼ばれる存在で、人間であるのだから仕方がないと思っていたのに――。

(本当にいつまでたっても過保護だな)

呆れるような嬉しいような複雑な気分だ。


「ノアのせいじゃないし、攫われたのは私が聖女だとあの人達が信じていたからだよ。 ノアが辞めたいなら止めるつもりはないけど、ずっと頑張っていたことを私が原因で放棄するなら嬉しくない。 それに――」

躊躇ってしまったのは、罪悪感と恐れのせいだった。けれどノアベルトには話さなければならないことだと覚悟を決める。


「辺境伯に不信感を持たれたのは、私が名前を偽っていたせいだから。――ごめんなさい!」

頭を下げたせいで、ノアベルトがどんな表情を浮かべているのか分からない。

『リアはリアだ』

昨晩はそう言ってくれたものの、実際に言葉にすると嫌われたり失望されるのではないかと怖くてたまらない。


「言いたくないことなら無理をしなくていい。 リアが別の名前を持っていたとしても、私がリアを想う気持ちは変わらない」

ノアベルトはいつもと同じように優しくリアの頭を撫でてくれて、気持ちがふっと軽くなった。自分のことを知られるのは怖かったけど、ノアベルトには知って欲しいという気持ちのほうが強くなる。


「私の本当の名前はマリアというの」



『マリア様のように振舞いなさい』

それは両親の口癖であり、躾の方法だった。誰もが知っている聖母マリア、慈悲の心を持った優しい娘になってほしい、そう願って名付けられたのなら何の問題もなかっただろう。

だが彼らにとってのマリアとは、大人しくて従順で手がかからない、という意味だったようだ。幼いころから外で駆け回れば眉を顰められ、大声や声を立てて笑うと叱責された。


それが普通でないことに気づいたのは、小学校に上がって友人が出来てからだ。

そんな両親に見切りをつけたのは、12歳の時に起こった事件がきっかけだった。


一人で下校中、変質者に襲われ人気のない雑木林に連れ込まれそうになった。大声で叫んだところ通りすがりの人に助けられたのは不幸中の幸いだった。

両親が警察署に迎えに来てくれた時、緊張が解けて泣きじゃくる姿に眉をひそめて、「みっともない」と言われた。あまりの物言いに涙は止まり、一緒にいた警察官の人が血相を変えていた。


誰にも頼らず一人で生きていこう、そう心に誓った。その頃には妹に掛かりきりの母を手伝い、家事も一通りこなせるようになっていた。

フランス語でアンジュ――杏樹と名付けられた7歳下の妹は天真爛漫な性格で、両親は天使だからとそれを許容した。妹は可愛かったが、両親の愛情を一身に受けているような彼女を見るのはつらく、高校卒業同時に家を出た。


大学の授業料も生活費も援助はなく、必死で働いて勉強をしていた。心配してくれる友人もいたが、誰にも頼るまいと意固地になっていた。気づかない振りをしていたが心底疲れて逃げ出したくて異世界に召喚されたのだ。



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