想定外の聖女
ノアベルト視点です
結界が一瞬揺らいだ。異質な気配を感じて辿っていくと、一人の少女がいた。
緩やかにカールした黒髪に見たことのない服装、床に座りこみ呆然とした様子に、思い当たることがあった。
「……またか」
異世界から召喚された聖女。自分の眼で見るのは2度目だった。
自分が生贄として召喚されたなど知ったら憎しみや絶望に染まってしまうだろう。それよりも早々に終わらせてしまったほうが良い。
今回は随分と幼く見えるせいか、すがるような眼で尋ねる少女に少し憐れみを覚えたのは束の間のこと。
「あ゛? 誰が小娘だ、気安く触ってんじゃねえよ?」
か細く不安に揺れていた声が、低くドスの効いた声に様変わりしていた。可憐に見えたその容姿からは想像できないような激しさが宿った瞳は真っ直ぐで、とても美しかった。
胸の奥がトクリと鳴ったような感覚に、様子を見てみようという気になった。
ヨルンが説明している間に燃えるような瞳は落ち着きを取り戻していた。直情的ではあるが、裏表のない性格のようだ。結果として城に侵入したことに対しても丁寧な態度で詫びる。どうしたものかと思案しかけたところに告げられた少女の提案。
命乞いのために哀願する者は少なくない。だが少女が労働力を対価として交渉を持ちかけたことに内心驚いていた。咄嗟の判断力から窺える聡明さ。
目の前の少女からは魔物が忌避する聖女としての力は感じられない。実際にないのかもしれないし、いつか覚醒するかもしれない。その脅威を思えば生かしておくことは、何のメリットもない。
それでも名前を尋ねたのは半ば無意識のことだった。
「…リア、です」
名前は個人を認識する大切な記号。自分の中で瞬く間に存在感が増し、処分命令を下すことなどできそうになかった。
「役に立ってみろ」
訝し気なヨルンの表情に気づかない振りをして、執務室に戻った。
リアの顔を思い浮かべて、声に出さずに何度も名を繰り返せば、その響きに心地よさを覚えた。
報告書に目を通していると、ヨルンが食事を運んできた。
「あの娘はどうしている?」
「物置の片付けを命じました。あとで様子を見に行きます」
元の世界から召喚されて負担が掛かっているだろうに、そのまま働きづめであるという事実に今更気づいた。腹を減らしているのではないだろうか、身体は大丈夫なのだろうかと段々気がかりになってくる。
自分に用意された軽食を手に取り、立ち上がる。
「私が行く」
「陛下!」
咎めるような声音に視線で不快を表すと、それ以上言葉を募ることはなかった。
わざわざ魔王である自分がすることではない。分かっていながらも気になるものは仕方ない。
(雇い入れたのは私なのだから、気に掛ける義務がある)
する必要のない言い訳で自分を納得させていることにノアベルト自身は気づかなかった。
壁にもたれて座りこんでいる様子をみて、体調が悪いのかと一瞬焦る。
近づいてそっと様子を窺うと、規則的な呼吸が聞こえてきてただ眠っていることが分かった。元の様子は知らないが、磨かれた部分と汚れの残る部分を見て努力の跡が見て取れた。懸命に働いて疲れてしまったのだろう。頬についた汚れを拭ってやると、表情がふにゃりと柔らかくなった。
(もう一度見せてくれないだろうか)
元の寝顔に戻ってしまったリアの髪にそっと指を滑らせる。
柔らかな髪を何度もなぞる。口元が緩み何か言いたげに動くのをじっと見ていたら、目を覚ましてしまった。
先刻のヨルンのように罵倒されてしまうのだろうか、ぼんやり思いつつその瞳から目が離せなかった。
その後すぐに当初の目的を思い出して、リアの髪から手を離す。
軽食を目に瞳を輝かせるリアに罪悪感を覚えた。空腹を抱えながらも仕事をこなし、わずかな休息も申し訳なさそうに詫びる様子は健気な少女に見える。先ほどヨルンに食ってかかったときの激しさとは別人のようで、ますます興味が湧いてくる。
汚れた指先を見て、手ずからサンドイッチを差し出したのは自分でも意外なことだった。空腹を早く満たしてやりたいと思ったのは確かだが、手を洗わせるぐらい大して時間もかからない。差し出したものを引っ込めるわけにもいかず、何と声を掛けたものかと迷っているとリアは素直に口にした。
「んんっ、美味しいです」
嬉しそうに笑顔を見せるリアの顔に釘付けになった。
(なんて可愛い)
自分の中でどんどんリアが特別な存在になっていくのが分かった。
もっと美味しいものを食べさせたいし、喜ばせたい。そうしたら彼女の幸せそうな顔を見られるに違いない。そう思って頭を撫でるが、リアは困惑した表情を浮かべている。さっきまで気持ちよさそうにしていたのに。
「あの、すみません。掃除して汚れているから触らないほうがいいと思います」
汚れているのを気にしているのか。
彼女の態度が腑に落ちて、浴室に連れて行った。抱き上げた時は嫌がる素振りを見せていたが、罵倒されないからそんなに怒っていないのだと思う。
湯浴みを終えた彼女は何故か警戒しているようだ。もっと別の表情を見せて欲しいとノアベルトは思うが、どうしたら彼女が笑顔を見せてくれるか分からない。
髪に水気が残っているのが目について、まずはタオルで丁寧に乾かすことにした。風邪を引いてしまうといけない。少し嫌そうな顔をしたものの、大人しく任せてくれた。終わったあと髪を撫でるも固い表情のままだ。
「陛下、仕事に戻りたいので失礼いたします」
遠回しな拒絶に落胆するが、仕方ないと手放そうとしたのにふわりと甘い香りが鼻をかすめた。
無意識に引き寄せてリアの髪に顔を近づける。甘い匂い、リアの匂いだと確信した。
「触るな!変態!!役に立つとはいったが、ペットになる気はない!」
足を踏まれたことに痛みを感じなかったが、激しい拒絶に胸が痛んだ。
抱きしめたのは失敗だったらしい。リアの機嫌を損ねてしまった。
深いため息に自覚が芽生えた。どれだけ彼女に心を奪われているのかということに。
彼女はペット扱いされていると思い込んでいるけれど、これはもっと重たくて激しい感情だ。
(リアの心を手に入れるためには、何が必要なのだろう)
一旦頭を冷やして考えようと、リアの後をさっさと追わなかったことを後悔した。
ヨルンに連れられて戻ってきた彼女は険しい表情で、視線を向けてくれなかった。
(そんなに嫌われたのだろうか)
動揺しながらも観察すれば、右手の人差し指に鮮やかな赤がうっすら浮かんでいる。
自分の見ていないこところでリアに怪我をさせてしまった。それなのにリアはそれを隠すように、大丈夫だと口にする。
ヨルンを睨むと慌てて説明を始めたが、その内容は到底許容できるものではなかった。
「―殺す」
(私のリアによくもそんな不埒な真似を!)
リアが抵抗しなかったら、ヨルンが間に合わなかったら、最悪の想像に怒りが収まらない。だが、急にリアがその場にへたり込んで涙を流し始めた。怒りの感情より心配な気持ちに一気に傾く。名前を呼んでも、ただポロポロと大粒の涙を流す。
「リア! リア?――触れていいか?」
よほど怖かったのだろうか。涙をぬぐってやりたい、頭を撫でてもう大丈夫だと伝えたい。けれど必死に首を振り拒絶される。見ていられず、苦肉の策として毛布で包んで抱きしめた。余計に嫌われるかもしれないと思ったが、何もせずにはいられない。だから名を呼び、大丈夫だと言い続けた。
やっと泣き止んで顔を上げてくれたリアの眼は真っ赤で痛々しい。そしてその原因が自分の不用意な発言によるものだと知って、心底落ち込んだ。リアにとって自分は危険な存在なのだと思われていることにも心が痛い。出会って早々処分しようとしたのだから、自業自得ではあるのだが。
リアを寝室に運び、これからのことを考える。
ペット扱いとリアが思っているのなら、それでもいい。リアは男に対して警戒心が高く、嫌悪感があるようだから、逆に都合が良いのかもしれない。部屋に閉じ込めて危険から遠ざけ、甘い言葉を囁きどこまでも甘やかしてやろう。
(少しずつ意識させていけばいい。そしていつか自分の心も身体も手に入れよう)
口元に薄い笑みを浮かべながら、いくつかの計画を実行するためノアベルトは執務室に戻った。