婚約式
ノアベルトは玉座の前に立つと悠然と群衆を見下ろした。
「面を上げよ」
先ほどよりも更に強くなる視線だが、目を合わせてはいけないと教えられた。ただ隣で堂々とまっすぐに背筋を伸ばしていれば良いのだと。
ノアベルトの声が広間に響く。
「今宵、ここにノアベルト・フォン・ルードヴィッヒとリア・アキヅキの婚約を宣言する。我が婚約者については様々な流言が飛び交っているようだが、異世界から召喚された少女であること以外は事実無根だ。彼女はイスビルに不利益をもたらす者ではない。不満がある者は決闘の申し出を受けよう。――話は以上だ。今宵はゆるりと過ごすがいい」
婚約式と名がつくものの、誓いの言葉や儀式はなく一方的な発表だった。だがそのシンプルさゆえに伝わるものがあった。
文句があるなら王になってみせろ、そう明確な意思表示をしたノアベルトに、不満そうな貴族たちの顔が気まずそうな表情に変わる。
魔王に必須なのは魔力量だ。この地に魔力を注ぎ、瘴気を抑え安住の地に変えたのは初代魔王であり、それから魔王はこの地の管理者として唯一の存在となった。だからこそ実力が物を言う地位であり、この地を治めるのに必要な能力を有さない者に異論を述べる資格はない。
緊迫した雰囲気が、音楽が奏でられ始めたことによって和らいでいく。ノアベルトが宣言中にまとっていた厳かで畏怖さえ感じてしまうほどの、重々しい空気は既にない。優しい微笑みとともに差し出された手を取ってダンスホールに向かう。
この場で一番身分の高いノアベルトがファーストダンスを踊らなければ、他の招待客が踊りづらい。何度も練習したとはいえ、一番不安なのはダンスだった。
至近距離からの令嬢たちからの視線が一層激しくなった。ノアベルトが隣にいるからそこまで露骨ではないが、背中に突き刺さる視線は気弱な令嬢であれば、心が折れてしまうだろう。もっともリアはこれぐらいでへこたれる性格ではないが。
ダンスホールの中央に着くと、音楽が変わった。
「リア、私だけを見て」
手の甲にキスをされて、そのまま両手を引かれる。ノアベルトの柔らかな笑みを見て心がすっと落ち着いた。
踊り始めれば予想に反して、緊張する余裕などまったくなかった。ノアベルトは距離が近づくたびにリアにしか聞こえない音量で、「可愛い」「愛しい」「私の妖精」など愛を囁き続けたからだ。
恥ずかしさのあまり俯きそうになると、顔を上げるように何度も注意される。だけどその瞳は悪戯っぽい色をたたえていて、からかわれているのだと分かる。
「陛下は意地悪です」
小声でも公式な場なので流石に名前で呼べないが、不満はしっかりと伝えておく。
「リアが構ってくれないからだ。 一緒に踊っているのに寂しいだろう?」
(構うってどういう……? うわっ?!)
くるりとターンさせられるが、すぐに腕の中に戻る。
「っ、そんな余裕ない、です!」
ダンスに加えて表情だってアルカイックスマイルをキープしているのだ。無茶をいうな、と心の中だけで猛抗議する。
「では構ってもらえるよう、そろそろ戻ろうか」
その言葉で曲が終わりに差し掛かったことに気づき、周囲の音も戻ってきた。すっかり集中していた、というよりもノアベルトに注意を逸らされていたようだ。
精神的な疲労感を覚えていたが、まだこれで終わりではない。
ノアベルトの隣に座ると貴族たちが挨拶に訪れる。そのほとんどが父親と娘という組み合わせで、自分の娘が陛下の目に留まれば、という野心が見え隠れする。
「聖女様はまだ幼くいらっしゃいますから、お困りのこともあるでしょう」
訳知り顔で話すふくよかな侯爵は、自分の娘を前に押し出す。美しい令嬢は身体のラインがはっきり分かるマーメイドドレスを着こなし、豊かな胸を強調している。
(幼いって言うな!)
自分が童顔なのは自覚しているし仕方ないと思っているが、大人っぽい女性を目の前にすると、ちょっと落ち込む。
「リア」
呼ばれて隣を向くと、ノアベルトが口に何かを押し込んだ。咀嚼すると甘い汁が溢れて、近くにあった果物を食べさせてくれたのだと理解した。喉が渇いていたし、美味しかったけれど気分は高揚しなかった。
(何だか本当に子どもみたいだ…)
「まあ、可愛らしい」
令嬢の笑みを含んだ声が聞こえて、胸がずきりと痛む。
「――っ!」
指が顎にかかり上を向かされた途端にキスされた。人前でと思いながらも、ここで取り乱してはいけないと、ぐっとこらえる。いつもより長いキスが交わされ、ようやく唇が離れた。
「甘いな」
嬉しそうな表情を浮かべるノアベルトだったが、伯爵に向きなおると冷たい表情に戻っていた。
「特に困ってなどいない。 下がれ」
不興を買ったと気づいた時には遅く、伯爵と令嬢は肩を落としながらその場を後にした。
「陛下、少々お控えください」
傍に控えていたヨルンの諫言にも、ノアベルトは一向に気にする様子はない。
リアの手を取ると、ひじ掛けの上でお互いの手を絡ませる。その様子を目にした貴族たちからは娘を売り出そうとする気配は消えた。
一方の令嬢たちは明らかに悔しそうな表情を浮かべるが、ノアベルトは一瞥すらしない。
むしろ令嬢たちがリアに敵意を向けるほど、ノアベルトはリアに水を飲ませたり菓子を食べさせたりと世話を焼く。見せつけることで牽制しているのだろうが、女性相手には逆効果な気がする。
ようやく挨拶の列が途切れ始めて、休憩の時間を告げられた時には安堵のため息が漏れた。姿勢が崩れそうになるのをぐっと堪える。ドレスを着た時は絶対に姿勢をキープするようエリザベートから指導されている。一度緩んでしまえば癖がついて、思わぬところで出てしまうそうだ。
温かい紅茶を飲むと少し気分が落ち着いた。
人目に晒されることは、思った以上に精神的負荷がかかる。
ノアベルトは涼しい顔をしているが、きっと今までの努力の賜物なのだろう。ただ紅茶を飲んでいるだけなのに、絵になる。
「…リアに見つめられるのも悪くないな」
笑いを含んだ声で、自分が見惚れていたことに気づいた。
「だって、綺麗だったから…」
不可抗力だと告げるリアに目を細めて、ノアベルトは忍び笑いを漏らす。
(そうだ、今のうちに化粧直しに行かないと…)
ステラに視線を送ると、心得たように近づいてきた。
「ああ、エスコートしよう」
「陛下! それは流石に紳士らしかぬ振舞いかと…」
「リアに何かあったらどうする」
「そのために警備も厳重にしております。 代わりに私がお連れしますから、どうかご許可を」
譲る気配のないノアベルトと困った様子のヨルンを見て、リアも口添えした。
「陛下、すぐに戻ってきますから」
それから、そっと手を添えて耳元で囁いた。
「心配してくれてありがとう」
他の人に聞かれるのが恥ずかしいけど、自分の身を案じてのことだからと小さくお礼を言うと、表情を和らげ了承してくれた。
――この時の判断を後悔することになるとは、思いもしなかった。




