異世界転移と魔王と聖女
いつも通りに家を出て、大学の授業を受け、バイトを終えて家に帰るはずだった。
「リア!!!」
悲鳴のような友人の声が耳障りなブレーキ音にかき消され、ヘッドライトの光に目が眩んだ。
(あ、死ぬな)
真っ白になった頭の中で冷静にそう思った。
眩しさに思わず閉じた瞼の裏に浮かぶ、勢いよく自分の方向に向かってくる2tトラック。衝撃を感じたものの、覚悟していた痛みはない。
違和感を覚えて目を開けると、視界がぐるりと回った。
「…………っ!」
目の前に広がる深紅色が血液のようで一瞬身体が強張った。
だがよく見ればそれは部屋に敷き詰められた絨毯で―――。
「え?何で??」
気づけば知らない場所に座り込んでいる。直前に車に轢かれかけたはずなのにどういうことだろう。
「夢、なのかな」
口に出してみる自分の声が弱々しいが、そのことでこの状況が急激に現実味を増した。状況の異常さに気を取られていたから、注意力が散漫になっていた。
「――またか」
低い囁きのような声がはっきり耳に届いた。
驚いて周りを見渡すと少し離れた場所に銀髪の男性が立っていた。
薄暗い室内でもはっきりと分かる鋭い目つきとひそめられた眉からは不快さが滲んでいた。恐ろしいほどに整った顔立ちは雰囲気と相まって酷薄そうに見える。怯みそうになる自分を叱咤し、男性に話しかける。たった一言だが彼がこの状況を理解していることが分かったからだ。
「あの、ここはどこですか?」
申し訳なさそうな顔をして丁寧に尋ねてみたが、彼は無言のまま視線を扉の方に向ける。
……はい、無視されたー。
天然パーマでふわふわとしたセミロングの髪型と中学生と間違えられるほど童顔な外面は庇護欲をそそると知っている。この場合それが有利に働くと思ったのだが。
内心がっかりしていると近づいてくる足音が聞こえ、勢いよく扉が開かれた。
「ノアベルト様!」
「――遅い」
「ご無事で――いえ、申し訳ございません、陛下」
膝をつき、ひれ伏せんばかりに頭を下げる金髪の男性。
(陛下って王様のことよね? そんな高貴な人がいる場所にいるとかどんな状況なんだよ、これは!?)
説明がつかない状況と無視された状態に、困惑がだんだん苛立ちに変わってくる。
「ヨルン、これを処分しておけ」
「はぁ?」
思わず聞き返したが、ノアベルトは用件は済んだとばかりに背を向ける。
追いかけようと一歩踏み出しところで、右腕を強く掴まれた。
「痛っ!? 何すんのよ!」
金髪の男性、ヨルンは不快そうな視線を向ける。
「うるさい。陛下の御前を汚すわけにはいかないからな。さっさと来い、小娘」
小娘呼ばわりにカチンときた。コンプレックスを刺激する容姿に関する言葉はリアには禁句だ。
「あ゛? 誰が小娘だ、気安く触ってんじゃねえよ?」
一転して低い声音と粗雑な言葉づかいになったリアに、一瞬ヨルンが硬直した。
その隙を見逃さず、掴まれた手を乱暴に振りほどく。
「さっきから黙って聞いてりゃ随分勝手なこと言ってくれるなぁ。この意味不明な状況にこっちも苛ついてんだけど。私に非があるなら詫びるが、何の説明もなしに処分とか何か都合の悪いことがあるって言ってるようなもんだろ。ああ、この元凶はお前らってことか―」
半ばこじつけのようなセリフにヨルンの顔は朱に染まる。
「よくもそんな恥知らずなことを!元凶はお前らのほうだろう!」
「…お前ら?」
周囲を見渡しても他に人は見当たらず、純粋な疑問に首を傾げる。
「ヨルン、説明してやれ」
淡々とした冷たい声と感情の伺えぬ顔で告げるノアベルトの声に、渋々といった様子でヨルンは説明をはじめた。そしてようやくリアは自分に起こったあり得ない現実を知った。
フェイナン大陸には二つの大きな国が存在する。
人が治めるエメルド国と魔物の王国イスビル、人間と魔物が存在する世界。
鬱蒼とした森や暗がりを好む魔物と平地や開放的な海沿いに住まう人と生活エリアは異なるが、二つの大国以外は明確な線引きなどない。そのため小さな諍いは日常茶飯事、国を挙げての戦争はそんなに頻繁ではない。一度始まればお互い被害が甚大になることは過去の経験から分かっている。契機があればどちらも行動に移すが膠着状態が続いている。
そしてその契機の一つとなっているのが、聖女の存在だった。
およそ1,200年前、人間が滅びかけたことがあった。当時は魔物と人間との戦力の差が著しく大きかった。その戦局を覆したのがある魔導士が召喚した少女の存在だった。
少女は不思議な力を持っており、魔導士や勇者とともに戦い魔物側に大きな打撃を与え互いに痛み分けの状況にまで持ち込んだ。
人々の希望となった少女は聖女と崇められ、以降異世界召還は国の存続をかけた重要な儀式となる。しかし、のちに聖魔導士の称号を得た魔導士と同じぐらいの力量の魔導士は少なく、膨大な魔術を要するため成功率は低かった。また徐々に特別な力を持つ聖女が現れなくなった。
そしてここ100年ほど聖女は魔王城に直接召喚されるようになる。
「何それ、おかしくない?」
黙って聞いていたリアは思わず突っ込んだ。
敵地に一人で送り込まれて、どうしろと?
「――さあな。苦労して召喚した聖女が、何の力を持たない人間だと分かれば召喚者の無能さが露呈するからなのか、そのまま陛下を害そうなどと愚かな妄想を抱いているのかは知らんがな」
「それってただの生贄じゃない」
一旦収まった怒りが再びぶり返しそうになる。
「力があれば生き残る」
ノアベルトは淡々とした口調で事実のみを告げる。
――なんかブレないな、この人。
「ふーん、ところで私にその力ってあるの?」
わざと軽い口調で魔王に尋ねてみる。
「人間風情が陛下に直接声を掛けるな! 大体あってもそんなこと教えるか!」
その反応だとないのだろうと推測する。
(そっか、良かった)
そんな危険な力を持っていたら、まず処分されることは間違いない。第一、聖女なんか冗談じゃない。誰がそんなものになるものか。
覚悟を決めて、リアはノアベルトに向き合った。
「私の意思ではないけれど、勝手に侵入したことはお詫びします。申し訳ございません」
言葉遣いを変え深く頭を下げる。
謝罪の言葉を口にしたからだろう、ヨルンから制止の声は上がらなかった。
「陛下、どうかわたしをここで雇ってもらえませんか」
「はあ!?」
ヨルンの反応は分かりやすいが、ノアベルトの表情は変わらない。それでもわずかに目を眇めた。怪しんでいるのか、怒っているのか分からない。それでもこの願いが聞き届けられなければ、恐らく自分は死ぬのだ。だから怯まない、諦めない。
「こちらの世界と勝手が違うかも知れませんが、できることからやります。向こうの世界でも働いていましたし、勤務評価も上々でした」
「何を、世迷いごとを!」
「小娘一人雇えないぐらい、経営厳しいの?」
一瞬だけ視線をヨルンに向ける。反論してくれるうちは、可能性はゼロじゃない。
「――人間なんか雇えるか!!」
「でも私は異世界から来た人間です。役に立つかどうか分からないうちに殺すのは勿体なくないですか?」
「人でありながら魔物に味方するのか」
淡々とした口調ながら、わずかに上がった語尾で質問されたと分かった。
「人間ですが、この世界の人たちの役に立とうとは思いません。勝手に連れて来られて生贄扱いされてそんな義理などありません。――私に陛下の役に立つ機会をください」
折角助かった命なのに、またすぐ死ぬなんて嫌だ。
感情の読めない瞳に不安を覚えつつ、リアは視線を逸らさずノアベルトの言葉を待つ。
「――名は」
「…リア、です」
「役に立ってみろ」
「……っ、ありがとうございます!」
雇われたことを理解するのが、一瞬遅れた。お礼を伝えた時にはノアベルトは既に扉の外に消えていた。