【3】 元王子の、
ふ、と意識が浮上して、視界に映り込んだのはこちらを怪訝そうに見下ろす身なりのいい男だ。
何事か話しかけられているようだったが、返事をすることもできず再び、暗闇の中へと堕ちていった。
完全に目が覚めたのは、それからずっと後のことである。
はぁっという己の口から洩れた呼吸音に驚いてはっと目を開けた。暗闇を穿つようにぱっと光が散る。
逸る心音に、死んでいなかったのかと不思議な気分になった。
眩しさにぼやけた視界が馴染むのを待ち、瞬きを繰り返しながら辺りを見回せば、大きな寝台に寝かされていることに気づく。
染み一つない天井にぶら下がる照明を飾る、尖ったクリスタルが圧迫感を与える広い部屋だ。
壁紙にうっすらと描かれた花模様、建具に刻まれた細かい意匠、磨き抜かれた窓からして、適当な部屋に放り込まれたわけではないらしいことが分かる。比較的、格式高い部屋のように思えた。
鈍い思考のまま、天蓋のレースをぼんやりと眺めていれば、僅かに蝶番の軋む音がして。いかにも重そうな厚みのある扉が内側に開く。やがて、忍ぶように現れたのは。
よく知った顔だった。―――――わたしの、扉だ。
肩の上でさらりと散る短い髪が憧憬を誘う。その小さい頭を撫でたときの感触が、手の平に蘇るようだった。
触れてもいないのに、指先がぴくりと動く。
少女の白く小さな顔は血の気がなく、良くできた人形のような造作だ。どこか思いつめたような何とも言い難い表情をしている。室内に誰もいないことを確認するかのように視線を巡らせた後、そっとこちらに視線を向けた。まさか起きているとは思っていなかったのだろう。ぴくりと肩を震わせた彼女は、わたしを見つめたまま大きくて丸い瞳を不安げに揺らした。
たった数日前に別れたはずなのに、随分懐かしい。感慨にふけると同時に、違和感が過る。
ひたと、わたしを見つめるその顔が、別れたときよりも幾分ふっくらとしているように見えたからだ。骨ばっていた体格も少し丸みを帯びて、背も高くなっているような。……といっても、同年代の子よりもずっと小柄で華奢だろうが。
ともかく、何かおかしい。
王宮で別れてからたった数日しか経っていないはずなのに、顔つきや体格が変わるなど、いくら何でも妙だ。
ひょっとすると何年間も眠り続けていたのだろうか、と変な想像が浮かぶが、牢獄で受けた傷はまだ塞がっていない。ということは、わたしが牢獄を出てからさほど時間は経っていないはずだ。
考えられるのは、彼女がひょっとしたら扉ではないかもしれないということだが……。そんな馬鹿なことはあり得ないと断言できる。
なぜなら、わたしたちは特殊な絆で結ばれているからだ。互いの運命が、見えない鎖でがんじがらめに縛られているとでもいうべきか。だから、理屈抜きに、互いのことを認識できる。
顔立ちや髪形、体格などの視覚情報など関係なく、直感で相手が何者か分かるのだ。心が、魂が呼び合う。わざわざ「扉だ」とか「開く者だ」とか名乗る必要もない。
肌がざわざわと音をたてている感覚に、肩が揺れた。
そういえば、初めて出会ったときも同じような現象に陥ったことを思い出す。彼女はまだ、赤ん坊だった。父親の腕に抱かれたその子の虹彩に自身の顔が映り込んだ刹那、己の運命を悟った。
母の『貴女と私の息子は、扉と鍵。自然と、引き寄せられてしまうものなのよ』という言葉は、比喩的な表現でも何でもない。わたし達は真実、どこにいても何をしていても引き寄せ合う。
わたしが「ここ」に居ることが、何よりもそれを証明している。
自分がどこにいるのかいまいちよく分からないが、母が展開した魔法により、牢獄からどこか別の場所へ移送ことくらいは想像がついた。
本来、転移する場合には目的地の座標が必要となるが、わたしの場合、座標などなくても無条件で扉の元へ飛ぶことができるのだ。
ゆえに、彼女が彼女であることは疑う余地もない。妙な感じがするのは、顔や体格を変化させるような魔法でも使っているからかもしれない。普通の人間には、己の肉体を変化されることなどできないが、彼女は扉である。常識の枠には収まらない。ゆらゆらと揺れる瞳に浮かぶ感情がどのようなものなのか心の機微に疎いわたしには推し量ることができないけれど。
いずれにしろ、わたしを案じてくれているのは間違いない。
そういえば、顔の半分がずきずきとやけに痛む。抉られているような感覚に、額に汗が浮いた。
はっきりとは思い出せないが、暴行を受けている最中、兵士がわたしの顔に松明を近づけてきたことがあったような。あのときは顔を確認されただけだと思っていたが。
本当は皮膚を焼かれたのかもしれない。
記憶が曖昧なのは、精神的負荷からくるものだろう。
「う、」喚きたいような、あるいは口を閉ざしていたいような。思わず開いた唇から漏れた言葉にならなかったかさかさの呻き声が、ねじ曲がって霧散する。
「……我が君……、」
様子を窺うように立ち竦んでいた少女がやがて、消え入りそうな声で呟いた。
ぶつかった視線が、柔らかく溶ける。あるべきものがある場所に納まった。そんな感じがした。
わたしは、分かるか分からないかの微動作で小さく小さく一つだけ頷き、返事をする。
ここで言葉を交わすのは得策ではないと踏んだ。誰も見ていないと分かっているが、もしもがないとは限らない。わたしたちの関係は、誰にも知られない方がいいに決まっている。
互いに黙ったまま見つめ合って、沈黙を謳歌した。気まずさは、あまりない。
かつてもこんな風に、言葉を交わすこともなく静かな時間をありのままに享受していたのだ。それは、いつか来る日に備えて、常に心穏やかであるようにという父王の厳命でもあったのだが。
わたしが扉を使い、扉はそれを受け入れる。そんな、いつ来るか分からない「終わりの日」のために、優しい日常を重ねてきた。
懐かしいような気もするし、もう思い出したくもない日々である。
和やかな日々を思い出すほど、その後に訪れた地獄が、鮮明な影を落とす。
間もなく、扉はほんの一瞬だけ泣きそうな顔をして一歩足を踏み出し、深く頭を下げた。
礼なのか。あるいは謝罪なのか。どちらでもあるのだろうか。……それは、何に対して?
わざわざ目を閉じることもなく蘇る凄惨な記憶。崩壊する王宮と、隠し通路に押し込んだとき、信じられないものでも見るかのようにわたしを射抜いた扉の目。ちらちらと雪のように舞い散る灰は、燃え尽きた王都の残骸だ。
そして、心の最も深い部分に刻まれた、放り込まれた牢獄の暗闇と、泣きじゃくる母の顔。
かの人はきっともう亡くなっているだろう。魔力が使えない状況で、人間を一人転移させるなんて尋常ではない。無事では済まされないことは明白だ。
今、わたしの手に残っているのは、絶望だけ。
夢なら良かった。何もかも。
帝国がもしも攻めてこなければ、我が国はいつも通り平和な日常を送っていたはずだ。今、この瞬間も。
元々今回の戦争は、帝国による一方的な略奪であった。領土を広げるための侵略である。けれど。
牢獄での出来事を考えると、それはあくまでもただの名目であり、本当の狙いは扉だったのではないかと思えてくる。
だったら、わたしたちは帝国に、一矢報いたことになるのか。そうだったらいい。
命を賭して、扉を護った。
―――――さわり、と。空気が動く気配があり、そこに視線を向ければそこにはもう誰もいなかった。
あの子の存在自体が、幻のようだ。
痛む体を深くベッドに沈めて両目を閉じる。考えるのはもう少し後でもいい。今はゆっくり休んで回復を待つのが先だ。
ここには、あの子がいる。それだけでいい。
*
*
事態を把握するには、それなりの時間を要した。屋敷に勤める人間から、怪しまれない程度に情報を得るため、慎重に行動した結果だ。一方で、わたし自身の怪我についてそれとなく追及されるようなこともあったが、記憶喪失という如何にもな手段で交わし、良い人間であることを態度で示すように心がけた。
丁寧な言葉遣い、品のある仕草、感謝を惜しまず、人の話に耳を貸す。たったそれだけのことだが、それだけのことに意味がある。いつか国王になる為に育てられた身であれば、さほど難しいことではなかった。
信用を得るために、良い人間であることを示す必要があったのだ。
そもそも、まともに歩くこともできないのだ。悪さしようもない。
雑談という名の聞き取りで分かったのは、わたしを拾ってくれた中年夫妻のは、帝国の下位貴族だということ。そして、屋敷の前に倒れていたわたしに気づいたのは、侍従長だったらしいということである。
屋敷の主人は「しがない貧乏貴族だよ」と笑っていたけれど。市井の民からすれば資産家であることに変わりはないし、少人数ではあるが使用人がいる家など多くはない。街の大商人に比べれば、さも質素な生活をしていると感じるが、貧しくはないはずだ。
そして、もう一つ。とんでもないことも判明した。
発覚したのは、目覚めてから割とすぐのことだ。教えてくれたのは、新聞記事だった。
起き上がることもままならず一日中横になっているだけのわたしに、せめて暇を潰すものを、と侍女が善意で用意してくれたものである。せっかくの好意だからと、サイドテーブルに置かれていたそれを何気なく手に取って、眺めていると。
その日付が、―――――未来日なことに気づいた。
いや、正確には少し違うかもしれない。すなわち、新聞には、自分が考えていたよりもずっと先の日付が刻まれていたということだ。
思わず漏れた笑いを喉の奥で噛み殺し、何の冗談だと記事全体に目を通す。
けれど、内容自体は特に何の問題もなく、最近巷を騒がせている強盗の件や、騎士団の不名誉な噂の真偽、劇場が改修工事されることなど時事的な話題が並んでいるだけだった。
その内容は屋敷の侍女たちが洗濯場で交わしていた話とだいたい一致している。
ということは、この新聞自体に信用がおけないというわけではない。
ならば。日付が正確であるとして。
自分は故国が滅んでからだいぶ先の未来にいることになる。と言っても、二年ほどだが。
それでも、二年だ。
「扉」が、別れたときよりも年を重ねているような気がしたことにも説明がつく。つまり彼女は、魔法を使ったのでも、たった数日で大人びたのでもなく、単純に年を重ねて成長しただけなのだ。
それはもしかしたら、座標を示さず転移したことの副作用的事象なのだろうか。
「……っ」
事の次第を知るにつれ、ひんやりと背筋が冷たくなっていく。
新聞が、くしゃりと手の平で潰れた。震えを止めようとして、今度は肩ががくがくと揺れた。
逸る鼓動と、間隔が短くなる呼吸。眩暈を覚えながら、無理やりに深呼吸を繰り返し震えを止めようと努める。
そうか。なら、わたしの国はもう二年も前に滅び、世界は既に、あの戦争を忘れつつあるのか。
心臓のあたりに、靄のようなものが生まれて。じわじわと広がり、全身を蝕んでいく。
あれほどのことがあったというのに。世界的にみれば、我が国はもう忘却の彼方にあり、史実の一つとして語り継がれるだけになっているらしい。今後は、話題に出ることすらなくなっていく。事実、帝国にとって小国の我が国を蹂躙することなど赤子の手をひねるほどに簡単で、思い返す価値もないことだろう。
一国を焼き尽くしておきながら、もう、無かったことにされている。……恐らく、そうだ。
帝国に、たった一晩で炎の向こうに消えた魔法王国があったことを知っている人間が、どれだけいるのだろう。
「……はは、」
唇から漏れた、吐息のような乾いた笑みは誰にも聞かれることなく消えた。
―――――それから。
体がある程度動くようになって、わたしは屋敷の書庫に入り浸り、数年の空白を埋める作業に没頭した。
本を読みたいを言ったわたしに快く書庫の鍵を貸してくれた屋敷の主人には感謝しかない。「君の記憶が戻る手助けになればいいが」と、鷹揚に笑う姿は器の大きさをそのまま体現したかのようだった。貴族的というよりむしろ、人間的である。
警戒心が薄いのは、彼が管理する領地が比較的平和だからだろうか。
作物が取れるような豊かな土地とは言い難いが、代わりに、民は等しく手先が器用で魔道具を作るのに長けている。大量生産できないとは言え、精密な魔道具を高額で売り出し、その大半を国が購入しているという。
安定した資金供給が、領民の安寧を保証するのだ。
また、屋敷のご夫妻に合わせるように、侍女侍従も人柄が良い。記憶がないというわたしを気遣ってくれる。ゆえに、監視などもなく屋敷内を自由に動き回ることができた。
さほど広くはない屋敷の書庫には厳選された古い蔵書が並んでおり、その一角には、これまでに国内で発行された新聞が保管されていた。まさに僥倖である。
勇んで、我が国が攻められたときの記事を探した。
ある程度予想はしていたけれど、たった一日で終わった戦争について書かれていたことはあまりなく。元々、閉ざされた国だったこともあり、我が国に関する情報は統制されていた。瓦礫の山と化してしまえば、もはや得られるものも何もない。詰まるところ、戦争に勝っても帝国にとってさして有益ななものはなく、紙面に記載するようなこともなかったのだろう。
それでも。少ない情報の中から、自身についての情報を拾っていった。
新聞によれば、わたしと母は獄中で命を落としたことになっている。
父は、帝国に移送された後、早々に首を落とされたらしい。それまでの間に、どのようなことがあったのかは記載されていなかったが、最後に母と会ったとき、そこに父の姿がなかったのも納得がいく。
そして、母は―――――。
収監されていた牢獄で、松明の不始末による火災に巻き込まれたことになっていた。複数の虜囚と共に炎の中に消えたと。
真実を知っている者からすれば笑い話にもならないが、それなりに筋の通った物語は、記者の筆力によりより真実味を増していた。
更に。そこには、これまでずっと公には語られてこなかったわたしの姉弟について書かれていた。そこまで調べたのかと、さすがに唖然としながら文字を追えば。生まれてすぐに養子に出された弟、また、成人するよりも前に他家へ降嫁した姉の「最期」が報じられていた。
彼らは、敗戦が濃くなったそのときに、自死したらしい。
とても短い文章だった。
「開く者」としてこの世に誕生したわたしのために、王家から遠ざけられた姉と弟。
万が一、王位を争うような事態になった場合、開く者であるわたしが害されることがないようにと、縁を切られてしまった人たちだ。
ほとんど言葉を交わしたこともない。それなのに、帝国は彼らの存在をどこかで嗅ぎ付け、元王族であるというだけで追い詰めたのだ。恐らく、扉の在処を聞き出そうとしたのだと考えられる。
しかし、姉や弟は既に王宮から離れた人たちであり、何も知らなかった可能性が高い。
だというのに、死を選ばざるを得なかったのは。人質になるようなことがあっては、脅しの材料に使われないとも限らないから。
とっくの昔に王族ではなくなっていたというのに。王族だったからこそ、その道しか選べなかった。
悲しいとは思わなかった。胸が潰れるような痛みも、感じない。
なのに、灰色の新聞記事の上に、ぽつりぽつりと小さな水たまりができては染み込んで、跡を残していく。
そうか。わたしは、すべてを失くしたのか。
分かっていたはずなのに、今ようやっとそのことを実感した気がする。
未だ包帯が巻かれたままの指先に視線を移せば、併せて視界に入り込む異国の服。
屋敷の婦人が用意してくれた衣服は、当たり前だが帝国のものだった。故郷で纏っていたものとは織りが違うし、染料が違うのか色合いも異なる。すべての人が等しく魔力を持ち合わせていた我が国は、織物一枚にすら魔力を込めていたことを思い出す。普通に編むよりも色が映えるようになるからだ。けれど、帝国を含めて他の国では、そんな面倒なことはしない。
袖口に施された繊細な刺繍を見ても、履いている靴を見ても、窓に下がるカーテンを見ても突き付けられる。わたしにはもう、帰る場所がないのだと。
「―――――今日は、編み物を教えましょう」
いつの間にか夕日で赤く染まった書庫に、優しい声が響いた。入口のすぐ近くに座っていたから、少しだけ隙間の空いた扉の向こうから聞こえてきたのだ。
ご主人が与えてくれた杖を頼りに、そっと立ち上がって、扉の向こうを覗く。
そこに、並んで歩く婦人と少女の後ろ姿があった。
親子に見えるし、親子にしか見えない。
扉の短い髪が、肩の上でふわりふわりと動いている。まるで、弾んでいるようだった。
婦人を見上げるその幼い横顔に浮かぶ微かな笑みに、胸の奥を掴まれるようだ。全幅の信頼を置いているのが分かる。わたしに知らないこの数年で、それほど関係を結んだのだ。
あの子が自分で。たった、一人で。
両親がわたしに残した、扉と鍵の真理。鍵のために扉があるのではない。―――――それは、そうだ。
扉は扉だけで意味を成すけれど、鍵は、錠があってこそ。大事なものを封じるためのもので、鍵だけあったところで何の意味もない。
盗み見ていた二人の背中を、視界から断ち切るようにしっかりと扉を閉める。
しんと静まり返った室内に、浅い呼吸音が落ちた。
椅子に座ろうとして無様に失敗し、冷たい板張りの床に倒れ込む。からんと転がった杖が、自分自身と重なった。立ち上がろうと思うのに、足が痛んで上手くいかない。掴もうとした杖は、指先にあたって逆に遠ざかっていった。
一人では立てない。
それなのに、誰もいない。
呼べば来てくれるだろうか。でも、わたしはあの子の名前を知らない。
与えなかったから。