【3】 彼女の、
「主役が浮かない顔をして、どうしたの?」
お膳立てされた道筋から逃れるには、一体、どうすればいいのだろう。
そんなことを考えながら、幾人もの侍女によって着せられた重い重いドレスの裾に視線を落とす。
繊細な刺繍は、吉事を祝う花を模ったもので、一般的には結婚式などに用いられる。王族も例外ではなく、今はまだ平民である私もその慣例に習い、あまり見覚えの無い花模様に飾られることとなった。
椅子に座っていても、衣装の重さで両肩が沈んで行くようだ。物理的にも。精神的にも。
「どこから入ったのですか、我が君」
視線を上げれば、いつの間にか、手を伸ばせば触れられるほどの距離に青年が立っている。
祝いの日であるにも関わらず、真っ黒な衣装を身に纏っているその人。祝い事に出席する為のものというよりも、喪に服しているように見えた。
実際のところは、違うのだけれど。
「入ろうと思えば、どこからでも。行こうと思えば、どこへでも。我々はそもそもそういう人間でしょ」
私の問いに、ふふ、と小さく笑みを零した彼はひどく曖昧な答えを返してきた。
何を考えているのかとその顔をじっと見つめてみるものの、彼は、顔の左半分を黒い包帯で覆っているので、表情が正確に読み取れない。微笑みを浮かべてはいるのに、冷たい印象を与えるのはなぜなのか。
「そんなに見つめたって何も出てこないよ」
軽く傾いだ首は同年代の男性より、随分細い。それは彼がこれまで生きてきた人生が、いかに過酷だったかを物語っている。
青年の左目を中心に大きく広がった赤黒いあざ。それを隠す為に、包帯を巻いているのだと知っていた。
「ごめんね。もっときちんとした格好をするつもりだったんだけど。間に合いそうもなくて」
「……いいのです、我が君。どうせ貴方は、祝ってくれるつもりなどないのでしょうから」
己ながら、何という言い草なのだろうと溜息が漏れる。
けれど、彼は気にした様子もなく「それはどうかな」と首を振って、介添人の為に置かれている小さな丸椅子に腰掛けた。
本来ならここにいるはずの介添人が、先ほど、誰かに呼び出されて部屋を出て行ったのも、この人の仕業かもしれないと思う。
「わたしだって、お祝いの言葉くらい言えるよ。おめでとう。良かったね」
もののついでと言わんばかりに吐き出された祝いの言葉。あまりに淡々としすぎていて、冗談なのかと笑い出したいほどだった。それほど、何の感情も乗っていない声だったのだ。
「ありがとうございます」そう返した私の声だって、きっと同じだろう。
感動など皆無で、感情も消え失せている。
ふっと視線を逸らせば、意識しなくとも室内に並ぶ派手な調度品が目に入った。花嫁の為に用意された部屋だからなのか、普段からそうなのかよく知らない。ここが王宮の一角だということを鑑みれば、特別に用意されたものではないのだろう。
どちらにしろ、居心地が悪いのは同じだ。
そんな場所に、花婿ではない青年と二人きり。
「……仕組んだのは、貴方でしょう?」
「どういう意味?」
「何事も、偶然などありはしない。かつて貴方が、私に言ったのです」
「まさか。さすがのわたしだって、ここまでは想像していなかったさ」
整った顔は、私が知っているものよりも幾分か年を重ねているように見えた。それだけ長い間、顔を合わせていなかったということだ。
いや、厳密に言えば。少し前に、ほんの一瞬だけ顔を合わせている。
あの、戦場で。
「そうでしょうか。だって、貴方……あそこに居たではありませんか。衛生兵として我が軍に潜り込むなど……密偵も驚きでしょう」
私がそう言うと、男は笑みを深くした。実に意味深であるが、それでもどこか優美に見えるのは、彼がかつて王族の一員であったことを如実に表している……と、思う。
知っているからこそ、そう感じるのかもしれないが。
「第三皇子殿下に妙な魔術を施したのも、貴方ですね? 我が君」
「まぁ、そうだね。彼には眠っていてもらった方が色々と都合良かったし、でも、ただ単に、君へのメッセージでもあった……かもしれないね?」
「……どういう意味です?」
「彼の命は、わたしの手の平の上だよってこと」
目を細めた青年が、私に右手を見せてくる。その手の平には、親指から手首に向かって線を描くように傷があった。あまりにも痛々しくて眉間を寄せれば「もう、痛くないから」と困ったように首を傾ぐ。
そんなことは分かっている。そう言おうと思ったのに、口から漏れたのは何とも頼りない溜息だけだ。
だから、ただ黙り込んでいると彼は、「あまり時間がない……」と彼は視線を落とした。
その儚げな表情は、寂しげに見えるし、わざとらしくも思える。
「君の本音を聞いてみたいと思ったんだ。どんな気分だろうと考えてみても想像できない」
「……、」
「親の敵と結婚するのは、どんな気持ち?」
ごくごく軽い口調だった。けれど、陰湿さを伴う質問だ。
「厳密に言えば違います。あの方自身が、私の敵ではありません」
「そうだね。でも、この国の、この一族こそが、我が国を滅ぼした」
目の前に対峙する人物は果たして、私の知っている人間と同一人物なのだろうか。
急に、そんなことを思った。なぜなら、私の知っている「彼」は、こんな強い口調で話したりはしないからだ。
いつも穏やかで、優しく、もしかしたら怒ったことなどないのではないかと勘違いするほどには、感情に起伏のない人だった。
「わたしの両親、兄弟、親戚、一族を皆殺しにし、君の家族も殺した。それが、この国だ」
もっと言葉を選ぶこともできただろうに、あえて苛烈なことを言う。
「生まれ育った愛しい故郷を灰にしたのは間違いなくこの国だよ。そんな国の、次期国王となる人に嫁ぐのは、どんな気分だろう。人身御供にでもなったような、悲しい気分? あるいは、心を押し潰されるような絶望を味わっている? いや、違うかな? あまりの事態に動揺しているのかな? まさかとは思うけれど、喜んでいたりはしないよね?」
まるで、断罪されているようだ。わざと辛らつな物言いをするのは、私の本音を引き出すためなのか。
ともかく、私のことをまったく、信用していないのは分かる。彼のごっそりと抜け落ちた表情が、あまりにも、真に迫っていた。
それほどに、私が、第三皇子殿下と結婚するという事実は、彼にとって許しがたいことなのだろう。
「我が君。私がそんな人でなしとお思いですか? 私がこの結婚を喜んでいるとでも?」
私の両親、弟。皆、この国の人間に殺された。
母の叫び声が、今でも耳に残っている。
「……すまない。きついことを言ったね。感情が高ぶっていたようだ。……こんなことをは久しぶりだよ」
すっと、無理やりに弧を描いた唇に、その人が冷静さを取り戻したと知る。
全ての感情を覆いつくす、諦念の笑みとでも呼ぶべきか。彼は、出会ったときから、よくこの顔をしていた。それだけ、諦めるものが多かったということだ。
なぜなら彼は、一国の王子だったから。
「まぁ、かつての妻と対面して平然としていられるような、できた人間ではないんだよ。わたしはね」
そして私は―――――、この方の「妻」だったのだ。
何かの比喩などではなく。私たちは、正真正銘夫婦だった。
「もしも、わたしが「死んで」いなければ、君は重婚になるわけだけど。わたしはもうこの世の人間ではないから、仕方ない」
でしょう? と問われて、小さく肯く。けれど同時に、本当にそうなのだろうかという疑問が湧いた。
私はもしかしたら、未だにこの方の妻なのではないかと、そんな気がしたのだ。
「気に病む必要はない。君は、わたしの妻という役目を終えたけれど、これからもずっと「扉」なのだから」
久しぶりに、その名で呼ばれて。私は果たして、動揺を隠すことができていただろうか。
―――――扉。
久しぶりに、そう呼ばれた。
私の名前。
*
*
とある小さな、魔法王国。それが、私の生まれ育った国である。
誰もが魔力を持ち、魔法使いとしての素養を持つ、ある意味「選ばれた」国だった。
外部から人間が入ってくることはほとんどなく、他国とも交流を持っていない、隔絶された国。
世界的に見れば、孤立していたともいえるが、それも魔法使いたちが生き抜くには必要なことだった。
魔力の高い者というのは総じて、命を狙われやすい。それは、他人にとっての脅威になり得るからだ。
他国の人間に捕まれば、それこそ終わりである。たとえ、命を奪われずに済んだとしても、大切に扱われることなどありはしない。
だからこそ、私たちの国の人間はとても慎重だった。ほとんどの人間が、一度も国外へ出ることもなく生を終える。
他国から「閉ざされた地」と呼ばれていた私たちの国。
しかし、いかにも利用価値のありそうな我が国がなぜ、他国からの侵略を受けず、平和に過ごすことができていたのか。
答えは、我が国が保有していた「兵器」にある。
実体の明らかになっていないその「兵器」は、使用すれば、僅か一瞬で一国ほどの領土が灰になると言われていた。
歴史上、何度かその兵器が使用された形跡があり、幾つかの国が滅んでいる。
だから正確には、誰も侵略しようとしなかったのではなく、誰にも手出しできなかったのである。
―――――過激な国だ。同時に、とても穏やかな国だった。
私は、そんな国で生まれ育ったのだ。
目を閉じれば、故郷の景色がまざまざと甦る。レンガ造りの白い建物が立ち並び、いっそ圧巻な程に色のない国だった。壁が白ければ、道も白い。異常なほどに白色に執着するのは魔法使いの特性か。
「故郷のことを思い出すとき、君はどんな気分になる?」
「……言葉にするのは難しいです。ただ単純に懐かしむことができたなら……、どれ程良かったか」
「そうだね。その気持ちはよく分かる。君は何せ、扉なのだから」
「……、」
この世に生まれ落ちた瞬間、私は、母を絶望させた。
産後で意識が朦朧としていただろう母はそれでも、産婆が抱えた私を見て、こう叫んだと聞く。
―――――なんてこと! 扉なんて!! と。
私の罪は、それだ。
生まれたそのときから、家族を悲しませ、その後ずっと苦しめ続けた。
本来、家というのは、心の休まる場所であるべきだろう。大抵の人間が家に居るときには安らぎを得るに違いない。
けれど、我が家は違った。
家の中に「兵器」があったからだ。
一国を滅ぼすほどの威力を持ち、大地を血に染めると言われた兵器が。
『扉』と呼ばれるそれは、人の形をして生まれた。
「わたしたちは、離れるべきではなかったと、そう思うことがある」
自分の傷だらけの指先を見つめながら、その人は小さく笑う。自嘲的な笑みだ。
どこでそんな笑い方を覚えたのだろうと思う。そもそも彼は、「自嘲」という言葉の意味すら知らず、理解もできなかったはずだ。
彼は常に気高く、自尊心が強かった。自己肯定感が高く、己を疑うことなど知らずに生きてきたことだろう。
小さな国ではあるが、王族に生まれ、やがては王となることが決まっていた人なので、それも当然と言える。
「そうですね。私たちはずっと共にあるべきでした。生まれたときから、そう決まっていたのだから」
だからこその夫婦なのだ。この方が生まれ、そして私が生まれたときから、共に生きていくことが定められていた。
「私が『扉』であり、貴方が『開く者』である限り。離れることは許されなかったはず」
けれど、戦争が起こった―――――、というより、一方的に奪われた。何もかも。
そのせいで私たちは離れるしかなかった。
もしもあのとき、扉が使われていたなら、結果は違ったかもしれない。私たちは何も奪われることなく、今でもあの国で生きていただろう。
でも、「開く者」にのみ与えられた権利で、彼は選んだ。「扉」を使わないと。
ゆえに、有事の際に用いられるはずだった兵器は、姿を見せることもなかった。
戦火の中で、人々は狂ったように叫んだ。
『―――――扉は、どこだ!!』
敵国には何のことか分からなかっただろう。我が国の人間だけが、その言葉の正確な意味を知っていた。
「扉というのはつまり、世界を終わりに導く為の扉という意味を持ち、開く者は、その名の通り扉を開くことができるものという意味である」
私がそう言えば、
「……そうだね」と、元王子は、にっこり笑った。
当たり前に諳んじることのできるその一節は、私たちが、国王陛下の側近によって引き合わされたときに聞かされたものである。一言一句違わず覚えているのは、忘れることができなかったからだ。
「扉」として生まれた私を唯一縛ることのできる、開く者あるいは門番、鍵などと呼ばれる存在。
平たく言うと、扉を自在に操ることができ、意のままに扱うことができる「開く者」はいわば、支配者なのである。
「呪いだ」
静かに告げられた言葉が、私と彼の間を冷たく通り過ぎた。
「そう思って、生きてきたよ」と、続ける。君もそうだろう? と問われて答えに窮したのは何だったのか。戦争によって故郷を失うまで、私も確かにそう思っていたはずなのに。
握り締めて白くなった己の指に視線を落とす。この手は、目の前にいる男性のものであったはずだ。
手だけじゃない。腕も体も足も髪の毛の一本まで全て、私の全ては、この方に捧げるはずだった。
私は、そういう風に生まれてきた。
扉というのは本来、そういうものだから。
それゆえ、呪いなのである。
「私はずっと考えていました。あのとき、貴方はなぜ扉を……、私を使わなかったのかと」
「……、」
微笑んだままのその人は何も答えない。
亡国の王宮深くに眠っていた蔵書には、「扉」と「開く者」の歴史が刻まれていた。
私たちよりも幾世代も前から存在するそれらは、常に、対を成して誕生する。扉がこの世に現れれば、やはり開く者が生まれる。開く者が生まれれば、扉が現れるという具合に。
有事の際、これまでの「開く者」は迷わず、扉を「開いている」
「愚問だね。わたしには、それはどうしようもなく愚かな問いに聞こえる」
ふん、と鼻を鳴らした元王族は「だって、答えは君の中にあるのだから」と続けて、一つだけ強く瞬きをした。眉根を寄せるほどに強く閉じた瞼の向こうで、その双眸は、どんな色を浮かべていたのだろう。
予想することさえ、困難なことに思えた。
「……さぁ、そろそろ時間だ。王子様のお出ましだよ。邪魔者は退散するとしよう」
「我が君」
「ん?」
「復讐を果たすおつもりですか?」
そのとき、彼は唐突に私の目元を、その傷だらけの手で覆った。真っ暗になった視界に、声が響く。
「君は、どうする? わたしがこの国に仇を成す者なら……。君は、わたしを、どうする?」
優しい声音だ。でも、酷でもある。
「わたしを、殺す?」