【1】 第三皇子殿下の、
いつから気づいていたのかと問われれば、それはもしかしたら最初からであったかもしれない。
住まいとして与えられていた離宮の庭で、師より剣の指南を受けていた、ある日の昼下がり。
皇宮に出入りしていた貴族から、ぜひ殿下のご友人にと紹介されたのがその男だった。
柔和な笑みを張り付けた伯爵が、親戚の子なのだと言いながら、己が連れてきた少年の背を押して前に出す。まさか押されるとは思っていなかったのか、飛び出す格好になったその人物は、たたらを踏みながらもすぐさま体勢を整え、無様に転ぶことはなかった。
対峙した真面目そうな顔立ちは、まだ少年の盛りを抜けておらず、輪郭は丸みを帯びている。
反して、身長は見上げるほどに高く、体格もがっしりとしていた。
不均衡が際立つのは、少年時代にはありがちなことかもしれないと、訓練用の剣を鞘に納める。
正面から受け止めた視線は、柔らかくも鋭くもない。知らない人間に初めて会うときの好奇心のようなものも見えなかった。遠くの山を見るともなしに眺めているとき、人は、こういう目をするのかもしれない。何の関心もなさそうだ。
僕もただ、随分年上だな、という感想を抱いただけだった。
あと数年でやっと二桁の年齢になる僕と、それよりも十は上の男。友人として紹介された割には年の差がありすぎる。
けれど、そもそも年齢差など誰も気に留めていなかったのかもしれない。単に「友人」という枠に当て嵌めるのが一番納まりが良かっただけで、目的は僕たちを引き合わせることにあったのだろう。
これも、大人たちが勝手にやっている駆け引きの内の一つで、政治と呼ばれるものなのだと踏んだ。
ということは、僕には不満を口する権利もなく、与えられたものを受け取るしかない。
初めから、僕の周囲には、利害のない関係など存在しないのだから。
連れて来られた当人は、愛想笑いの一つも浮かべず「よろしくお願い致します」と胸に手を当てて頭を下げる。儀礼的な挨拶に、到底、よろしく思っていそうにない声。
ゆえに、僕自身もおざなりに「よろしく」と返した。
どうせ、長く傍にいることはないだろうと思ったからだ。僕の前に現れた人間の大半がそうであったように。
けれど、男はその後も僕の傍に居続けて。その内に、友人から護衛となり、側近へと役目を変えた。
予想よりも、だいぶ長い間、共に過ごしたのである。
他の人間とは違ったという事実に、思った。もしかしたら、彼はこのまま一生涯、僕の傍にいるのかもしれないと。
『こういうのを腐れ縁と言うのかねぇ』と笑いながら、何でもそつなくこなす、あまり表情の変わらない側近に多少うんざりして。それでも期待していたのだ。第三皇子という、寄る辺ない僕にもとうとう、真に頼りとなる忠臣ができたかもしれないと。
互いに、悩みを打ち明けるような間柄ではないが、それでも他人行儀すぎるということはない。適度な距離感で、多くを語らなくとも大抵のことは察してくれる。得難い人材だ。
彼自身の「殿下がどこかで命を落とすまで、護って差し上げます」と明らかな上から目線と、複雑な立場にある僕の事情をよく踏まえた上での発言を、信じたというのもある。
我が国と周辺諸国の間で起こった諍いの中、その役目を全うし、彼があまりに短すぎる生涯を終えるまで。
馬鹿な僕は、あの側近が先に死ぬということを想像すらしたことがなかった。
*
*
「陛下!」
執務室から出たところで、数日前に戦場から帰ってきたばかりの魔術師に声を掛けられる。天井から下がっている照明の派手な装飾に目を眇めつつ、廊下の向こう側から小走りで駆け寄ってくる男を見やった。
僕よりも随分年嵩で、かつて僕の側近を務めていた男よりも更に上だ。そういえば、この魔術師と今は亡き側近は友人だったかもしれない。
いや、どうだろう。
そもそもあの側近には、友人と呼べる人間がいたのだろうか。
「元帥ともあろうお方がこんなところにいるなんで、どうしたんです」
黙ったまま魔術師を見ているだけの僕に代わってそんなことを口にしたのは、宰相だ。
先帝が国庫金に手を付け、邸内で贅の限りを尽くしていたことに気づき、告発した人間の一人である。
それだけ聞けば、凄いことを成し遂げた豪傑のような印象を受けるが、当時はまだ宰相補の事務官であり、何の力もない若造だった。
それでは、力のなかった彼が何をしたのかというと、地道な証拠集めである。
年こそ若かったけれど、それなりに高位の文官であり、国家機密に触れるような重要書類にも目を通す機会があったこと、また、そういった類の文書を保管する場所へ自由に出入りできたことが助けになったらしい。そして、彼のように、不正の証拠を集めようとしていた人間は他にもいたようで。
彼らは秘密裡に手を組んで、皇帝に反旗を翻したのである。
というと、謀反でも起こしたように聞こえるが、そうではない。剣は使わず、あくまでも平和的に事態を解決に導いたと聞く。
ちょうどそのとき、我が国は戦争をしていたのだが、そんな混乱期にも関わらず……、いやだからこそだろうか。割と短期間に集められた証拠が、皇帝一派を追い詰めるのに十分すぎるほどの役割を果たしたのだった。
現在、父王……もとい先帝が己の側近たちと共謀して組織的に国の資金を横領していたことは今や誰もが知るところではある。が、父を含めて、彼らの内の誰一人として罰らしい罰を受けた者はいない。
関与していた人間全てが高位貴族であり、つまるところ、厳罰に処すことができなかったのだ。
しかし、国民にまで知られた醜聞であるがゆえそのまま捨て置くこともできず、父は離宮に封じられ、かつての側近たちはそれぞれの領地で軟禁されることとなった。
要するに。
年齢的に、あまり長くはない余生を好きなこともできず、ひっそりと過ごしているというわけだ。
もしかしたら、今後一切、国政に関わることができないというが、彼らにとっての罰であったかもしれないが……。
むしろそれは、褒美であったのかもしれないとそんなことを考える。
「“こんなところ”とは随分な言い草ですね。宰相殿」
魔術師は宰相をねめつけながら鼻を鳴らし、僕の方へと一歩近づく。すると、見計らったように護衛達が陣を組んで僕を囲んだ。誰に指示されたわけでもないのに、こういう動きができるのは彼らが優秀な兵士であることの証である。
特に不穏な状況ではなかったが、念のためということだろう。
急に暑苦しくなったと、護衛のいかにも分厚そうな背中を眺めていれば、その向こう側から「……何もしませんよ」と声が聞こえる。そして、ややあって続けた。
「陛下。進言をお許しください」
「……、」
僕は相変わらず黙ったまま、ちらと宰相に視線を移す。彼は酷く難しい顔をしていたけれど、このままではらちが明かないと思ったのだろう。一つだけ頷いた。魔術師の話を聞いてもいいという合図である。
「……いいよ。あまり時間はないけどね。お前たち、下がりなさい」
言えば、護衛達がさっと廊下の端に避けた。突然、見晴らしがよくなったと思えば、いつからそうしていたのか魔術師は跪き、頭を垂れている。
仕立てのいい黒いローブが赤い絨毯に映えて、男の存在そのものを際立たせているようだった。
元帥という、いかつい名の階級を与えられているにも関わらず、あまりに線の細い男であるが、派手な顔立ちをしているのでどうしても目立つ。だからなのか、義務でもないのに地味な黒いローブを好んで身に纏っているようだ。
「一体、何なの」
進言したいと口にした割にはいっこうに話し出さないので、下を向いたままの魔術師に近づく。僕の後ろから宰相も寄ってくるのが気配で分かった。
「―――――妃殿下を、戦場に出すのをお止めください」
思ってもみないことを言われると、確かに聞こえたはずなのに、頭が理解するのを拒むらしい。
「今、何て言いました?」
けれど、今度も僕よりも先に言葉を発したのは宰相だった。
「妃殿下を戦場に出すのはもう、お止めください。あの方は十分に、我々に貢献してくださいました。もういいでしょう。……もういいと、言ってやってくださいませんか」
進言というよりももはや、懇願に近かった。しんと静まり返った廊下に響いた声はくっきりと浮かび上がるように明瞭だ。しかし、語尾は明らかに震えている。
それはきっと、僕を恐れているからではない。溢れそうな激情を抑え込んでいるからだ。
よく見れば、絨毯の上で握られた拳には血管が浮き、指先が手の平に食い込んでいる。
僕に対する「進言」に、それほどの覚悟が必要だったということなのだろうか。
「……どうして君が、そんなことを言うのかな? 彼女が、何か言ったの? もう戦場には行きたくないって?」
魔術師に訊きながら、同時に心が冷えていくような気もした。なぜなら僕は既に知っているからだ。
自ら問うたにも関わらず、答えを知っている。
彼女は、―――――ビアンカは決してそんなことは言わないと。
「妃殿下は……、あまり口数が多くはありません」
魔術師の言葉に嗤いが込み上げた。そんなことは言われるまでもない。あの子が口下手なのは昔からだ。出会ったときから今までもずっと、必要以上のことは話さない。無駄口など、本当に無駄だと思っている節がある。
「不満など一切口にはしません。これまでも……、これからも。けれど、だからと言ってあの方の優しさに甘んじるべきではないのです。きっと、妃殿下は我が国の為に戦場へ出られているのでしょう。それは分かっています」
「しかし、本来殿下はあのような場に出る方ではない」
魔術師に諭されるまでもなく、彼女が戦場に出るべき人間でないことは僕も、ここにいる宰相だってよく分かっているのだ。けれど、そうしなければならない事情がある。
大した後ろ盾のないビアンカが正妃である限り。僕が、皇帝である限り。
彼女は戦場で功績を立てる必要があるのだ。
もはや、名誉だけが彼女を護る盾となる。
「……前向きに検討しよう」
その言葉に意味などないことを誰もが知っていた。だから、下を向いたまま、明らかにはっと息を呑んだ男は黙り込んでしまう。握りしめた拳が、一層、白くなったような気がした。
互いに黙ったままでいると、やがて立ち上がった魔術師はじっと僕の顔を見つめる。
真意を見抜こうとするかのごとく。
「……もういいでしょう。陛下はお忙しいのですよ」
呼吸音すら耳障りだと感じるほどの沈黙の中、散会の合図を出したのは、図らずもこの場を仕切る格好になっていた宰相だ。
「それに、通路を塞いでいます」
その言葉に思わず振り返れば、確かに、幾人かの文官が書類を抱えたまま困り顔で立ち尽くしている。
相対していた魔術師は、肩が上下するほどに大きく大きく息を吐き出した。体の内側に渦巻く激情を、口から逃がしたように見える。
「本当に検討するよ」
僕に言えるのはそれだけだった。
そもそも皇帝になどなるつもりもなかった僕には、何かを一存で決められるだけの力がない。国主であるからある程度の権限はあるけれど、決断を下すときには必ず宰相に相談するし、他にも監査役や相談役に話を通す。
それだけではない。
元々、皇帝の派閥だけに権力が集中しないように、高位貴族によって構成されている議会にも政治を動かす権利が与えられている。ただ、政に関して何事かを為そうとする場合には会員の七割以上の賛成が必要となり、それはなかなかに難しいことである為、議会が帝国を掌握することもできない。
当然、法律だってある。
現在、我が国は権力者たちの絶妙な均衡の元に存在しているのだ。
僕の父までは、何事においても最終的な決定権は皇帝にあった。ゆえに、間違いが起こったのだと言える。
王室の不祥事が発覚したとき、実際はもっと深刻な事態だった。一時期は王政を廃止するという声すらあったほどだ。それは、かろうじて免れたのだが、今度は血脈に問題があるのではないかという話になった。直系に継がせるのではなく、縁戚に継がせるのはどうかと。
当時、皇帝の跡を継ぐことができる人間は僕以外にいなかったので、ともすれば僕は廃嫡される可能性だってあったのである。
皇籍を失わずに済んだのは、一重に、国政を変える一端を担った現宰相のおかげだ。
正直に言えば、僕は皇帝になりたかったわけではないし、権力に興味があったわけでもない。
だいたい、帝王学を学ぶことが許されていたのは第一皇子だけで、第二、第三皇子の王位継承権などあってないようなものだった。経済学や政治学だって専任の教師がついていたわけではなく、あくまでも皇族の教養の一つとして学んでいたに過ぎない。
周囲の人間は、第一皇子に倣って何でも僕にやらせようとしたけれど、受け入れなかった。
危険だったからだ。
早くに身罷った母は何度も『兄君たちよりも秀でてはいけませんよ』と言っていた。
兄たちの足元を揺るがすようなことをしてはならないと。
だから、物心つく頃には、目立たずにいることが生き抜くための処世術だと、よく理解していた。
「陛下、参りましょう」
結局、帝位を得たのは一度も凡人の域を出なかった僕だったのだが。
「本当に、お願い致します。陛下」
長い長い直線の廊下を歩きだしたとき、背後からぽつりと響いた声に振り返ることはしなかった。
視線の先は、廊下の向こう側で行き止まり。もちろん途中で曲がるけれど、行きつく先は結局、同じなのかもしれない。
「誰もが勝手なことを言う」
足早に目的地へ向かいながら呟くと、耳聡い宰相が吐息を落として柔く首を振った。
「仕方のないことですよ。皇帝陛下とてただの人間に過ぎないのに、誰もが勘違いをしているのです。皇帝は強い権力を持ち、臣下を意のままに操り、民を統べ、国を治めているのだと」
「……勘違いではないでしょ」
「まぁ、そうですね」
含み笑いを伴う声音に思わず、宰相の顔を見る。
「でも、正しくはないでしょう」
言われて、己でも眉間に皺が寄ったのが分かった。
そうだ。確かに僕は、違う。
強い権力など持っていないし、臣下を意のままに操るなんてできやしない。国を治めることができても、民を統べることはできない。
「誰かの理想を押し付けられて、僕は辟易しているよ」
それでも演じなければならない。「強い皇帝陛下」というものを。
「兄上が生きていたら、さぞ立派な皇帝になっただろうね。だって、あの人は皇帝になる為に生まれてきたのだから」
それなのに、死んだ。あの、側近が命を落とした戦争のときに。
「……しかし、皇帝になられたのは貴方です。他の誰でもなく貴方だ」
「……、」
「言いたいことは分からないでもないですけどね。貴方が皇帝でなければ、妃殿下は戦場に出る必要はありません。そもそも、貴方が皇帝にならなければ、あの方が王妃殿下などと呼ばれる存在になることはなかった」
そんなことはよく分かっている。どいつもこいつも知ったようなことを言う。
彼女のことを一番よく知っているのは、この僕だ。
―――――いや、違う。
あの子のことをもっとよく知っていた人間がいた。今は亡き、僕の側近である。
だってあの男は、よく見ていた。
仏頂面に分かりにくい笑みを載せて。そうと分からないように目尻を緩ませて。
訓練兵の中で誰よりも小さく、誰よりも華奢で、誰よりも努力家で、誰よりも魔法の扱いが上手く、誰よりも戦闘魔術師になりたがっていた彼女のことを。本当に、よく見ていたのだ。
ずっと昔のことだというのに。今でも、はっきりと覚えている。




