【4】 元王子の、
『逃げ出したかと思った』
思わず、口をついて出た言葉だった。
彼女を侮っていたわけではなく、単純に、本気でそう思ったのだ。逃げ出したのかと。だってきっと、誰だってそうする。
けれど、帝国による急襲のすぐあとに忽然と姿を消した扉は、居なくなったときと同様、何の前触れもなく王宮へ戻ってきた。
その目に、覚悟を宿して。
恐れなどないかのような強い眼差しに、怯まなかったかと言えば嘘になる。なぜなら、既に王族として、国の終わりを予感していたわたしよりもずっと、清々しい顔をしていたからだ。
威厳に満た姿には息を呑むほどで、だから、わたしはあまりにもありきたりなことしか言えなかったのかもしれない。
逃げ出したかと思った、と。
つと漏らした本音はため息と共に囁くような声となり、そっと消えた。つまり、大声を出したわけではない。それでも、正確にわたしの言葉を聞き取っただろう扉は僅かに目を瞠った。驚きと、あるいは戸惑いの混じった複雑な表情である。共に過ごしてきた短いとは言えない日々の中で、あまり見たことのない顔でもあった。思わず魅入ってしまい、はっとして彼女の手を握る。
小さな、小さな手。
何事かとわたしを見上げる小さな顔のまろい頬と大きな目は、幼さの象徴であるかのようなのに。やがて、ふっと息を吐き出すように静かな笑みを浮かべた彼女は、もはや子供とは言えなかった。でも、大人と呼ぶにはあまりに早すぎて。
だったら何なのかと言えば、答えは一つ。
扉だ。―――――この国の、最終兵器。
対する自分は、果たして他人にどう見えているのだろう。いや、知っている。知ってはいるのだ。
恰好だけは立場に相応しいものを纏っているし、両親に似た顔は平凡とは程遠く、麗しいと称される。
まさしく王子殿下だと、誰もがそう言って褒めそやした。
けれど、その内面は……、精神はあまりに凡庸だ。
王子であり、鍵であり、特別であるにも関わらず。扉という最終兵器の前に立てば、わたしはいつだって只人になってしまうのだった。
ゆえに、最終局面ともいえる場でわたしがやったことは。あまりにも人間じみた行いだった。
私欲を満たす為に、彼女を生かすことに決めたのだから。
『我が君! 止めてください! 陛下と王妃様を止めて!!』
倒壊する建物の、耳を塞ぎたくなるほどの騒音の中、はっきりと耳に響いたあの子の声が。わたしの決断を後押しする。自分を使ってと叫ぶ少女の声が、わたしの決意をより一層強くした。
扉は、使わない。絶対に、この子を死なせてはならない。
こんな場所で、こんな風に終わらせてはならない。沸き立つ思いに、胸の奥が焦げ付く。
くしくもわたしには、開く者として選ぶ権利が与えられていた。例え、国王が扉を使うと言ったところで、開く者が了承しなければ扉は発動しない。
要するに、わたしには全権が委ねられていたも同然だった。
責を負うべきは、父や母ではない。わたしだ。
頭の中に、何度も繰り返し、幼い頃に母から聞かされた言葉が蘇っては消える。
愛することは、示すことだと。
初めて聞いたときは、真意の図りかねる難しい解釈だと思った。でも、扉を逃がしたとき、唐突に腑に落ちたのである。
これが、愛かと。
ならばわたしは、示さなければ。そう思った。
何としてでも、この子を生かさなければ―――――。
***
わたしは「扉だけ」を選んだ。他には何も選ばず、国を捨てることすら躊躇わなかった。
扉の為なら構わないと、本気でそう信じたのだ。
だから、本当は知っている。
その後に受けた暴力はきっと、己の犯した罪にに対する罰だったのだと。
記憶を探るまでもなくまざまざと目に浮かぶ、炎の中に沈んだ国と大勢の民。悲鳴が猛火に混ざり、黒い怨念となって宙を舞っていた。
助けを待ちながら、理不尽に命を奪われた民の怨讐が向かった先は、帝国と、我ら王族だ。
結果として、わたしはこの肉体と心に、地獄を焼き付けることになった。
そして。その惨禍は、未だにわたしの心の奥深くに巣食い、離れることがない。昼夜問わず、悪夢を見る。
明るい陽射しの下では、わたし自身が真っ黒な影であるかのように。深い闇夜では、もっと暗い場所へ潜っていくかのごとく。
真夜中に己の悲鳴で目を覚ましたのも、一度や二度ではない。
ねばつく闇に纏わりつかれて、振り払うようにぱっと開いた瞼の向こう側。一瞬、松明の炎が映り込む。そんな気がして、声を上げそうになった。
―――――熱い!
でも声にはならずに、震える唇が無様に空気を食む。
わなわなと震える唇に呼応するかのように喉が引きつって、嗚咽のような音が漏れた。
ひっひっというしゃっくりに似た不安定な呼吸を何度も繰り返し、少しだけ落ち着いてきた頃、やっと恐る恐る辺りを見回す。
大きな出窓から入り込んだ月明りが、室内を淡く照らし出していた。
優しくて淡い光が、じっくりと教えてくれる。こちらが現実だということを。
薄暗い天井は、それでも染み一つ浮いていないことが分かるほどに白い。吊るされた照明器具には凝った装飾が施されていて、光源もないのにちかちかと輝いている。月明りを反射しているのだろう。壁紙には色とりどりの花が散っていて、いまにも香ってきそうだし、整列している本棚には分厚い蔵書が行儀よく納まっていた。
つまりわたしは今、獄に繋がれているわけではない。
ここはとても、安全な場所だ。
動悸がおさまったのを確認し、汗の浮いた額を拭おうと身じろぐ。が、腕が上がらなかった。傷口はとうに塞がっているものの、完全に癒えたわけではないのだ。皮膚が引きつって、神経を裂くような痛みが走る。医師の見立てでは、体を自由に動かすことができるようになるまでは、何年もかかるだろうということだった。
もしくは、一生このままかもしれないと。
毎日、凝り固まった筋肉を動かす訓練をしているけれど、いきなり健康体になれるわけでもなく。屋敷の夫妻が、わたしの為に訓練を介助してくれる人間を雇ってくれたのだが、やはり劇的な効果というのは期待できなかった。可動域はだいぶ広がったけれど、それだけだ。
「……、く、そ……っ」
せめて水だけでも飲めればと用意されている水差しに視線を移すも、やけに遠い。広いベッドのせいで、サイドテーブルも手が届く範囲にはない。
健康だったときは、全く気にならなかった距離だ。ちょっと体を転がせばいいだけなのに、たったそれだけのことができなかった。
必死に動かした指先が、やっとガラスのコップに触れたけれど、そのせいでまた少し向こう側に追いやってしまう。
いつかのときと同じ。転がって遠ざかっていった杖を、思い出す。
痛みに呻きながら、更に腕を伸ばそうとして視界が滲んだ。
腕を伸ばせば伸ばすほど、遠ざかっていく。全てそうだった。
きっと、おかしくなる。
確信があった。
母の魔法に導かれ、扉の元に身を寄せて。優しい夫婦に見守られながら少しずつ傷を癒し、もしもこのまま彼らと一緒に過ごしたならどんな自分になるのだろうと想像したこともあった。
その内、わたしと扉は、何事もなかったかのように少しずつ親交を深めていくのだろう。
婦人から編み物を習う少女の様子を、近くで眺める日がくるのかもしれない。そういう何気ない日常を共に過ごしていくこともあるかもしれないと、ほんの少しだけ、馬鹿な空想をした。
けれど、それが本当に現実のものになるのかと問われれば、―――――答えは否だ。
そもそも、現在のわたしは身元不明の行き倒れであり、ましてや亡国の王子である。死んだことにはなっているが、だからといってずっと安全だとは限らない。
一つのところに留まれば、そこで過ごした月日の分だけ危険は増していく。それに、貴族の屋敷に身を寄せているのも問題だろう。身分の高い人間というのは自ずと周囲の関心を買ってしまうものだから。一挙手一投足が注目を浴びる。そんな人たちの元に、わたしのような得たいの知れない人間がいれば、否応なく目立つ。
身元がはっきりしないどころか、火傷を負ったこの顔はあまりに印象的で。一度認知されてしまえば、もはや隠れることもできない。もしかしたら、そう遠くない日には身元が暴かれるのかもしれない。
既に、使用人の中にはわたしを排除しようとしている者もいるようだ。夫妻への忠義心が強ければ、それほどわたしへの猜疑心は深くなるのも、もっともであると言えた。
だから。
このまま扉と一緒にいてはならないと、強く感じた。
扉にとってだけではない。この屋敷に住む人間に、わたしという存在が悪い影響を与えない内に離れるべきだ。
そうして。月の出ていない暗い夜に、半ば出奔するような形で屋敷を出た。
荷物もなく、当然、金銭の持ち合わせなどない。前よりもほんの少しだけ回復した身体は、それでも鉛のように重く、杖もまだ手放せない状況だったけれど。それでも、ここにはいられないと思った。
優しくしてもらったのに、これ以上の裏切りがあるだろうか。
恩知らずと謗られても仕方がない。
―――――いや、違う。
もしかしたら、やっと出ていったと感謝されるのではないだろうか。
扉は、どうだろう。
胸の奥が痛むような気がして、大きく息を吐き出す。
疲れているからだと、民家の外壁に体重を預けた。あらかじめて魔力を込めておくと輝く街灯がちかちかと瞬いている。そこに集まった羽虫が躍るのを、ぼんやりと眺めた。
それにしても、静かな街だ。
警邏隊が定時に見回りをしているらしいが、だからだろうか、犯罪の発生率も低いと聞いた。
良い街だ。
そろそろ行かなければと思うのに、なかなか足が動かない。
ただ進行方向を見据えれば、道の先はどこまでも暗く、まるで闇が大きく口を開けて待ち構えているようだった。
不気味ではあるけれど、わたしのような人間はきっとあの闇に紛れることができる。
というよりも。薄暗い夜道の向こう側、わたしの居場所はもう、あそこにしかない。
一つだけ大きく息を吸い込んで、ぐっとつま先に力を入れたところに過る違和感。
いつからそこに居たのか、男がいた。
「―――――よう。坊ちゃん」
完全に、暗闇と同化しているような。あるいは暗闇を背負うように、その男は立っていた。
分厚い体と上背は含みなどなくとも威圧感を与える。武器を携えていなくとも、彼が「闘う者」であることが分かる。
のっしりとしたあゆみが獰猛な肉食獣のようで、足音もしないのに、重量感があった。
例えわたしが勢いよくぶつかったとしてもよろめくことすらないのだろう。
「なぜ、ここに?」
はっきりと動揺していたはずなのに、それよりも驚きが勝った。
今更どうして、とそんなことも思った。
なぜなら彼は、―――――我が国が戦場と化したそのとき、姿を消したはずだからだ。
いち早くわたしたちの前からいなくなった。気づいたときにはどこにも居なかったのだ。
「迎えに来たんですよ。寂しがりやの坊ちゃんを、一人で放り出すなんてできないでしょう」
一緒に行こうと言われてたじろげば、優雅な足取りで近づいてきた彼は、たった数歩の距離ですら息切れするわたしをいともたやすく抱き上げる。いい年をして、同性に子供か女性のように扱われるなど矜持が許さない。抗おうとしたけれど、男にとっては抵抗の内に入らないのだろう。まさに幼子にするのと同じように、わたしを揺すり上げる。
寄る辺のなくなったわたし指先が、あまりにも頼りなく、男の背を掴んだ。
泣くことができれば、どれほど良かっただろう。
「……どこに行って、何をする? どういうつもりだ」
昔は見上げてばかりだった男の顔が下にある。わたしは同世代の男性よりも細身ではあるが標準くらいの身長はあるので、抱えられば当然、そういうことになる。
こちらを見上げる男は口の端を緩く上げて、
「取り戻すんですよ。何もかも」と言った。
何もかも失くしたな。なんて、いつの日かと同じように目尻を細めるから。わたしはただ、同意する。
「そうだ。本当に、全てなくした」
抵抗を止めて、静かに歩き出す男に全体重を預ければ、
「知っていますか? 坊ちゃん。あのとき、なぜ、魔法がうまく発動しなかったのか―――――」
「?」あのとき、というのは言うまでもなく、帝国が攻めてきたときのことだろう。
「帝国はやはり、他人から魔力を奪い魔法を使えなくするような魔道具を開発していたんですよ」
「、」
「そして、それを作ったのは、この街の人間なんです」
頭を殴られたような衝撃に目を閉じる。屋敷の、優しく穏やかな夫妻の顔が浮かんだ。
「俺たちの国が炎に沈んだすぐあと、この街は祝いの花火を上げたんですよ。自分たちが開発した魔道具が、帝国を勝利に導いたと」
静かな声だった。あまりに抑揚のない低い声だ。
「泣いてはいけませんよ、坊ちゃん」
「強くならなきゃいけません。これまでも、この先もずっと。ただの一度も、弱くなってはいけません。それが、導く者の定めなのです。貴方は、鍵なのだから」
そして、一緒に行くことを決めたのだ。




