【1】 彼女の、
『女だてらに』なんて時代錯誤もいいところだと思っていた。
実際、戦闘魔術師を職業として選ぶ女性は多かったし、そもそも性別すら問われることはなかった。もっと言えば、年齢も出自も、学歴も関係なく、唯一必要なのは魔力量だけである。
成り上がるには一番良い仕事だとも言われていた。実力と才能さえあれば、どこまでも登っていける。
戦災孤児だった自分には、これ以上ないと言っていい程うってつけの職業だった。
その為、迷いなく戦闘魔術師になる道を選んだ。
「お前、小さいな……」
初めに声を掛けてきた男は、明らかに私よりも若かった。
訓練所での出来事である。
戦闘魔術師はあくまでも志願制ではあるが、国家試験に合格したからと言ってすぐに正規の魔術師になれるわけではない。
試験に合格した後は、素養を図る為、訓練所へ召集されるのだ。
そのまま、約三年をそこで過ごし、卒業できれば軍に入隊する。人によっては定められた期間内に卒業することができず、留年するか、退所を選ぶ者もいた。
「女か? いや、子供か?」
訓練所に入ったその日に絡まれるなんて、どういう運なのだろう。
対峙した顔はまだ丸みを帯びていて、どうにも若々しい。一般的には少年と呼ばれる年齢層に違いなく、十代の半ばか、それよりももっと若く見えた。身に纏っている訓練兵の制服は大きめに作ってあるようで、袖も裾も余っている。
私は、少年の顔を見上げつつ首を傾いだ。
「まぁ、確かに私は君よりも身長が低いです。でも、それは見れば分かることだし、わざわざ口に出して指摘するようなことでもないのでは?」
まさか反論されるとは思っていなかった様子の彼は、つと口の端を上げて「なるほど」と呟く。
何に得心がいったのか全く分からない。
不思議に思って、しばらくの間、ただ見つめあう。もちろん、見惚れていたわけではない。互いの出方を探っていたのだ。そして、先に根をあげたのは少年だった。
「お前、面白いな」と笑う姿は、まさに子供そのものである。
何と返せばいいのか分からず、唇を引き結んだ。
「面白い」と言われたことを、喜べばいいのか、あるいは怒ればいいのか。からかわれているのかと思ったけれど、少年の表情を見れば、そうではないことが分かる。
どうやら、褒めてくれたようだ。せっかくのその気持ちを無碍にしたくないような気になって、言葉を失った。
思えば、私はこのときから彼に毒されていたようだ。
その人が、我が帝国の第三皇子だと聞かされたのは、この出来事のたった数時間後のことである。
「殿下はいたく、お前を気に入ったようだ」と、にこりともせず、そう言ってきた人物がいたのだ。
同じ訓練兵だというのに、やたら貫禄のある男で。がたいも良く、私よりも頭三つ分は背が高かった。
それに見合った威圧感というか、威風堂々たる態度は、無意識にも対峙した相手を萎縮させる。
私自身も当然、そんな大男に間近で見下ろされて気分がいいわけではなかったけれど。
唐突にもたらされた真実が、不快感など一瞬で吹き飛ばしてしまった。
好奇心が勝ってしまったのだ。
第三皇子の護衛と名乗った彼はつまり、訓練などせずとも、既に立派な兵士だったわけだが、より近くで殿下の身を守るために訓練兵として学校に入ったらしい。
年齢も、私や皇子殿下よりも十は上だという。
わざわざ説明してくれるのは有り難いが、なぜそんなことを、ただの訓練兵の私に言うのか。
口には出さなかったが、疑問に感じたのは伝わったようだ。
男は「お前にも関係のない話しじゃない。まぁ、今は関係のないことだが。……それでも、その内、無関係ではいられなくなるだろう」と、分かるような分からないようなことを口にした。
口の端を歪めた話し方に違和感が伴う。困ったような、あるいは面白がっているような表情だ。
でも、私はそれを気にしないことにした。
この先、何が起ころうと自分には関係のないことだと思っていたから。
両親はいないどころか、気付いたときには路上で生活していたような自分。
一方、世界でも有数の大帝国である我が国の皇子とその側近。
そんな私たちが、親しくなろうなど―――――、誰が考えるだろうか。
*
「第三皇子とは名ばかりで、生まれたときから死を願われている。だから、僕が戦場に出るのは不可避なんだ」
訓練学校も二年目ともなれば。
規則ばかりの生活も、さほど窮屈とは思わなくなる。
こういうのを洗脳というのか。あるいはただ単に、受け入れることに慣れてしまっただけなのか。
規則違反をした者に与えられる懲罰すら、何とも思わなくなっていた。
要するに、規律を乱さなければいいのだから。
そんなことを思いながら、学校から与えられた教科書に目を通す。
「ね、聞いてる?」
視界に大きな影が映り込んだと思えば、すっと教科書を奪われた。
顔を上げれば、出会ったときよりも随分、背の高くなった男性がそこに居る。
二年前から、あまり成長していない私と比べて、体格の差は歴然だ。
私だって、決して、訓練で手を抜いているわけではない。それなのに、どういうことか。
納得できないような、受け入れざるを得ないような、何とも言い難い感情に眉根を寄せる。そんな私のことなどおかまいなしに、彼は、にやにやと品のない笑みを浮かべた。
「……殿下」
しんと静まり返った図書室に私の声が響く。思わず、非難めいた声色になってしまい、ぐっと唇を噛んだ。
けれど、名を呼んでも、その人は私の教科書を持ったまま、ひょいと片方の眉を上げるだけだ。
全く悪いとは思っていないらしい。
私は、これみよがしに、はぁと小さく息をついて、皇子の後ろにいる側近に視線を移した。けれど、成長した殿下よりももっと大きな彼は無表情にこちらを見やるだけで、口を開こうともしない。
そもそも私のことなど興味がないのだ。助けを求めても無駄だということである。
「奪い取っても、お前を不敬だと責めるつもりはないんだけどね。相変わらず、僕たちは距離を縮めることができないな……」
つい今しがたまで浮かべていた子供じみた笑みを引っ込めて、皇子はふっと、息を吐き出した。途端に表れる品格に、彼の出自を垣間見る。表情や仕草の一つ一つに、どうしても王族たる所以を見出してしまう。時々、思わず目を瞠るほどの優雅さを見せ付けてくるものだから困ったものだ。
そういう何気ない動作で、否が応でも衆目を集めてしまうから。
「友達くらいにはなれたと思っていたんだけどね」
そのまま、いかにも繊細そうに見える指先で私の隣に並ぶ椅子を引いた皇子殿下は、ふわりと腰掛けた。
ちら、と側近を見やれば、彼も少し離れたところに座ろうとしている。
皇子よりも随分、雑に椅子を引いたにも関わらず、こちらもやはり平民とは違った。何というか、身のこなしが軽いのだ。肩幅も上背もあって、見るからに体重がありそうなのに、さすがだ。
そんなことを考えていると、頬に突き刺さるような視線を感じた。
「……何なんですか、一体」
「何でもないよ」
「じゃぁ、顔を近づけないで下さい。殿下」
「やっぱりそっけないなぁ」
「そして、本を返してくださいませんか」
「えー」
さらりと揺れた赤い髪が、大きな窓から取り込んだ陽光を反射させる。
いかにも王族という容貌をしているにも関わらず、年の割りに幼い顔つきをした皇子。ゆったりとした鷹揚な動作とは別に、他人の教科書を取り上げるなんて、どこか幼稚だ。
そこが、他の訓練兵から慕われる理由でもあるようだけれど。
王族にしては気さくだと言われている。そういう噂を耳にした。
むしろとっつきにくいのは、この人の側近だとか。
実際、側近であり護衛でもある彼は、皇子殿下とは常に適切な距離を保ち、近づきすぎることはない。
今も、あさっての方を向いているので、ここに第三者が居れば、私たちと彼は無関係のようにも見えるだろう。
それでも男は、さりげなく私たちの会話を拾っているに違いない。
あくまでもそうとは知られないように、視線を寄こすことなく、全身で見張っているのだ。
「お前もそんなところにいないで、こちらに来ればいいのに」
皇子は、そういう側近の心情を知っているだろうにあえて、そんなことを言う。
さずがに、主から声を掛けられて知らぬ振りをすることはできなかったらしい側近は「いえ」と短く答えた。
一度だけ、ゆるりとこちらに向けられた視線は、ただ殿下の顔だけを捉えて、私の顔を素通りしていく。
殿下のこと以外は関心がない。というより、興味が持てないのかもしれない。
威圧的な風貌にも関わらず、その目はどこか空ろだ。
それでいて、当然、ひどく優秀ではある。体力があれば力も強く、足も抜きん出て速い。剣や弓矢の扱いに長けていて、とりあえず彼に敵う者はない。
皇子殿下ですら、あっという間に負かされてしまう始末だ。
魔術だけが苦手であるようだったが、それも些末な事だと思えるほど、他の能力が秀でている。
訓練学校での毎日など、退屈で仕方ないだろう。
「……お前は、殿下を守りぬけると誓えるか」
そんなことを問われたのは、殿下が居眠りしてしまった後のこと。
訓練学校は全寮制だが、第三皇子殿下とこの側近に限っては特例措置が施されている。つまり、彼らは夕方になると宮殿に帰り、公務をこなしているわけだ。
詳しい事情は知らないが、ともかく、非常に忙しい毎日を送っているらしい。
だからなのか、殿下は時々、こんな風に眠り込んでしまうことがあった。
「……それは、命令でしょうか」
返事をする前に問い返す。すると、男は椅子から立ち上がり、私のすぐ傍までやってくる。
何をするかと思えば、唐突に膝をついて「誓ってほしい」と続けた。そのまま頭を垂れるその人。
祈りというよりも、懺悔しているかのようなその姿は。
ただひたすらに神へ、慈悲を求めているようにも見えた。
己がそれほどに崇高な存在ではないと知りながらも勘違いしそうになる。
私は「選べる」のではないかと。
でも、現実には初めから選択肢など与えられていない。私はただの孤児であり、身分すらないに等しい。
現在の両親に引き取られていなければ、私は既にこの世にはいない。道端で死んでいてもおかしくなかった。
だから、
「誓います」
それ以外に答えはなかった。
ほぼ投げやりに返事をしたのだけれど、男は顔を上げて「そうか」と笑う。
―――――笑った、のだ。
心底、ほっとしたように。
「君はそんな風に笑うんですね。同僚に、死を宣告したにも等しいのに」
殿下を守るというのはつまり、そういうことである。
私がそう言えば、男は鼻を鳴らした。
「殿下を守ることこそが、俺の生きる意味だからな。その為なら何でもできる」
「……難儀なことです」
「ああ、そうだな」
「でも」
「……でも?」
「生きがいがあるというのは、いいことだと思いますよ」
何の目的もなく、ただ食うに困らないからという理由で戦闘魔術師のための訓練学校に入った私とは違う。
「他人事だな」と、男は笑った。
今日は本当に、よく笑う。と、背中がむず痒くなる。男の笑みに、あまり慣れていないからだろう。
二人の間に奇妙な沈黙が生まれて、殿下の小さな寝息が響いた。
実に穏やかな昼下がりだ。
私は多分、この日のことを一生忘れないだろう。
*
我が国とその周辺諸国が戦争を始めたのは、この、僅か一ヵ月後のことだった。
少しでも戦力を上げるために訓練学校の生徒も例に漏れず、戦場へ出向くこととなり、その多くが前線へと派兵された。けれど、決して捨て駒の扱いを受けたわけではなく。
単に、魔術の扱いに長けていたからだ。……と、思っている。
「……、失敗した……」
殿下がそう言ったきり倒れこんだまま動かなくなったのは、私たちが戦場に足を踏み入れてから二週間後のことだった。そのまま意識を取り戻すことなく、死んだように眠り続けている。
一旦、王宮に返すべきとの声もあり、指示を仰ぐため王都へ早馬を飛ばすが返事は来ず。
とりあえず天幕の中で休ませることとなった。
「恐らく、何らかの魔術の影響を受けています」と述べたのは、皇子を診察した衛生兵だ。
「しかし、私は医師ではありませんので正確な判断は下せません」と苦い顔をして続ける。
「そうか」肯いたのは、戦場でもやはり皇子の護衛を務めている側近だ。
そして、ややあって私の方へ顔を向けると「……ともかく、お前は殿下を守ってくれ」と懇願するように告げた。返事をしようと口を開いたそのとき、すぐ近くに砲弾でも落ちたのか、地面が大きく揺れる。
はっと顔を上げた側近は、そのまま天幕から飛び出して行った。
あっという間の出来事で、声をかける猶予も、余裕もない。
本当なら私だって、こんなところでただ戦況を見守っている場合ではないけれど、皇子を託された以上、ここから動くわけにもいかない。
ただ眠っているだけのように見える皇子殿下だが、魔術の影響を受けているのだとしたら、容態が急変することも考えられる。
まんじりともせずに控えるだけの状況に、心臓のあたりがどうしようもなくざわついた。
この先、よくないことが起こるだろう。
ふと、そんな考えが過ぎる。それは多分、虫の知らせというやつだった。
「腕をやられた」
利き腕を血だらけにした側近が戻ってきたのは、それから数時間が経過した頃だ。
彼が怪我をすること自体、あまりないことであるから、控えの兵士たちがその顔に不安の色を載せる。
常に士気を高めておかなければならない戦場において、よくない反応だと言えたが、それも仕方ない。
側近が側近たるゆえんは、文字通り、彼が他の誰よりも強いからだ。訓練学校の実戦なんて、お遊びだったのではないかと思えるほどに。
魔術はさほど扱えないと言っていた割りには、中級程度の魔術であれば当たり前に使いこなすことができる。私はそれを、戦場に出て共に戦うようになってから知った。
側近が、大剣を頭上に掲げ、馬で戦場を駆る姿はまさに鬼神。
彼は、そもそも訓練学校にいた生徒とは格が違ったのである。
もちろん実力で言えば、私とも雲泥の差があった。
それほどの強さを誇るというのに―――――。
私たちは、いつの間にか追い詰められていたのだ。
側近が腕を怪我したのをきっかけに、次々と禍が降りかかってくる。深夜に奇襲を受け、疲れきっていた兵士たちは抵抗すらままならず劣勢を強いられた。
本来、予見できたはずの襲撃なのに、味方の裏切りにより、見破ることもできず。
まんまと罠にかかってしまった。
そうして、私たちは、皇子を連れて逃げ出すこととなる。
「もう、ここまでかもしれないな」
鬱蒼と茂る森の中。いつから走っているのか上がった息がなかなか元に戻らない。
既に魔力は尽きて、使える魔術もあまりなく、ここで敵兵に見つかればまずいことになる。
側近は背負っていた皇子をそっと地面に下ろし、私に座るように促した。思わず周囲を見回せば「まだ、大丈夫だ」と苦笑する。つまり、差し迫った危険はないということだろう。
味方の陣営から逃げ出すほどの状況にあって、それも可笑しな話だが。
「……悪いが、殿下を連れて先に逃げてくれないか」
数秒か、数分か、僅かな間を置いた後、側近が言った。
普段なら、いくら走っても息など上がらない彼の肩が浅く上下している。
「どういうことでしょうか?」
私が首を傾げば「……後から、必ず行くと約束しよう」と、実に苦い顔をして声を低くする。彼自身も、本心では望んでいないのだと分かった。
訓練学校で知り合っただけの、出自もはっきりしない人間に、主の身を任せなければならない。……その葛藤がどれほどのものなのか、私には推し量るのも難しい。
側近について知ることは少ないけれど、物心ついたときには既に皇子の傍仕えだったと聞いている。
皇子を守るための人生であり、それ以外には許されない人生だったはずだ。
彼が、それこそ「全て」を捧げて皇子殿下の傍にいたことくらいは理解しているつもりだ。
「今はもう、歩けそうにない。お前はもう魔力が残っていないようだから、俺がお前に魔法をかけよう。体力を少しだけ回復することができる。殿下一人くらいなら、何とか担いで歩けるだろう」
側近はそう言って、その場に寝転んだ。本当は倒れたのかもしれないが、そう見せないように、わざと緩慢に動いた気がする。そして「俺は、しばらく動けそうもない」と、小さく笑った。
「……そんな状態で、どうやって私たちの後を追うというのですか? 私に魔法をかけて……それで君はどうするんですか」
意図せず、詰るような口調になってしまった。でも「何か」を諦めたかのように見える彼を、責めずにはいられない。
ここまできて、そう簡単に手放せるのか。
殿下の傍にいられる特権を、よく知りもしない人間に譲ってしまうのか。
殿下を守ることこそが生きる意味だと言っていたのに。そんな風に声を上げそうになった私を制したのは、他でもない側近自身だった。
「しばらくすれば魔力は回復する。そうなれば、俺だけなら何とかなる。だから、……ともかく今は、殿下を守ることを優先したい。その為に、最善の選択をする」
言い切った側近はそのまま目を閉じる。その横で、静かな呼吸を繰り返しているのは皇子殿下だ。汚れ一つない軍服を纏い、穏やかな顔で眠っている。
血に塗れた側近と、あまりに対照的だった。
「早く、行け」
側近がそう言いながら、私の足に魔法をかける。ふっと、体が軽くなった。力の入らなかった両腕も思い通りに動かせる。今なら、側近の目論見どおり、殿下を担いで歩くこともできるだろう。
―――――しかし、なかなかどうしてその場を動けない。
甲冑のせいでよく見えないが、側近はどうやら怪我をしているようだ。
暗闇の中でも分かるほど、地面にじわじわと滲んでいく赤い染みが、何よりの証拠である。
訊いてみたところで、まともに返事をしてくれるとは思えないが。
「……何をしている。早く行かないか」
薄く目を開いた側近が、立ち尽くしている私を見上げる。
いつも私が見上げてばかりいたのに、不思議な感覚だった。
「おい、」側近の口調に僅かだけれど、非難めいた色が交じる。何か言わなければならないと分かるのに、私の唇は縫い付けられたように言葉一つ発せなかった。
何をどうすべきか、最善は何なのか、側近に言われるまでもなく本当は理解している。
ここで最優先されるべきは、眠ったまま目を開くことのない皇子殿下の身を守ること。
「―――――なぁ、」
いつまでも動く気配のない私に焦れたのか、側近が声色を、ひどく穏やかなものに変えた。
それは例えば、親が幼い子供に何かを言い聞かせるときの口調に似ているような。
「俺は、殿下が大切なんだ」
そんなことは知っていると返そうとした。今度はきちんと口が開いたのに、声が出なかった。
側近が、どうしようもなく静かな眼差しをしていたから。
一切、波紋のない鏡面のような水面。彼の目は、まさにそういう感じだった。
何にも動じず、何にも揺るがない。
「ずっと殿下だけを見てきた。そうするように育てられたからだ。……だから、殿下がお前を見るとき、俺はなぜか息苦しくなることがあった」
淡々と話しているようで、どこかそうではない。吐息の交じる語尾が、疲れからくるものなのか、それとも心の内が影響を及ぼしているのか。心の機微に疎い私には判断できなかった。
戦場で最も必要なのは、決断力だと分かっているのに。今の私には、何も決断できない。
すると、ぽつりと
「好きなんだ」と、聴こえた。一瞬、空耳かと疑うほどに小さな声で。
「……だから、絶対に、死なせてほしくないんだ。これは多分、護衛としての義務からくるものじゃない。……分かるよな?」
返事に窮した私をどう思ったのか、側近は自嘲ぎみに笑った後―――――、
「行け!!!!!」と、叫んだ。
息を呑んだのは、空気を震わせるほどの大声で敵兵に見つかってしまうと思ったからだ。
要するに側近は、それほどの覚悟で私に皇子殿下を託したのだった。
この場から、すぐにでも皇子を連れて逃げるように。そして、自分がおとりになる為に。
私はすぐさま皇子を背中に負って駆け出した。
本来なら、体格差で身動きできなくなるところだが、側近の魔法が上手く作用しているのだろう。
驚くほどに足が軽かった。
背中にずっしりとした重みは感じるし、投げ出された皇子の足を引き摺るような格好だったけれど。
それでも前に進むことができた。
やがて。
ひいひいと、己の息が上がってきて、やっと照りつける太陽の存在に気付く。
元居た場所からは随分離れただろうことと、戦場に点在している味方の陣営に近づいていることが分かった。皇子と共に行動するからにはこういうこともあろうかと、事前に情報を得ていたのが功を成す。頭に叩き込んでいた地理が役に立った。
ほっとしたからか、あるいは魔法が切れかけているのか、足から力が抜けてむき出しの地面に顔を打ちつけた。
ずっと皇子を支えていたから、両腕にも力が入らず起き上がることができない。
そのときになって。
ふいに、泣き出しそうになった。
もしも、―――――もしも、だ。私が、側近だったら。
ここにいるのが側近で、怪我をして動けなくなったのが私だったら。
彼は多分、私と皇子の二人を助けることができただろう。
その大きな背に皇子を負って、更に、私を連れて走ることができたに違いない。たとえ、私が身動きできない状態だったとしても、腕に抱えて走っただろう。引き摺ってでも、連れて行ったはずだ。
けれど、現実はどこまでも残酷で。
私が、私だったから。
一人しか助けることができなかった。
私のこの小さな体躯では、一人しか背負うことができない。二人の男性を当時に運ぶなんて到底、無理だ。魔法は得意でも体力がなく、どれだけ鍛えたところで成人男性には勝てなかった私が、できることなど高が知れていた。
現に、たった一人背負っているだけだというのに、もう歩くことができないではないか。
目的地はすぐそこだ。それなのに、体力が足りない。
「……っう、」
何とかしようともがいた右手が土を掻く。指先が地面を穿ち、生き延びようとしているのが分かる。己のことだというのに。どこか客観的にそう思っている自分がいた。
そして―――――、
目前に、誰か分からない者のつま先が見えたのはいつだったか。
これで終わりなのか、それとも助かったのか、その顔を見上げようとして意識を失った。