「まだ心の準備が」
胸がドキドキしていた。こんなことは魔王になって以来、あまり感じたことがない感覚だった。いや、生まれて以来と言った方がいいのかもしれない。
私は今、女の子にしがみついている状態で立ち尽くしている。いやいや、待て待て。女の子って言っても、相手はあのキョーコだぞ。扉を蹴りでふっ飛ばし、冒険者を一発でノックアウトしてしまうヤツだぞ。私だって、危うかったというのに。
だがしかし。
キョーコはギュッと目を閉じ、その瞳にはうっすらと涙すら浮かんでいる。頬がほんのりと赤く染まり、吐く息は荒く彼女の動揺を表しているかのようだった。誰でも、人には苦手なものがあると言う。だが、まさかキョーコがレイス――正確には幽霊の類――が苦手だったとは。
しょうがない。「私が付いている、大丈夫だ。ゆっくりとここを出よう」そう言って一歩前へと踏む出す。キョーコは目を閉じたままコクンコクンとうなずいて、おぼつかないながらなんとか一歩前へ。
岩場の辺りをうろついていたレイスが一匹、こちらへとフワフワと飛んできた。むっ、やる気か。と思ったが、どうやら彼女が怯えているのを見て、より怖がらせようと思っているらしい。レイスの漆黒の瞳が『分かっていますよ』と告げているように思えた。
ってか、余計なことしないで! アトラクションじゃないんだから。彼氏彼女で遊びに来ているわけじゃないんだから!
キッと睨み返すが、レイスはまるで分かっていないのか、キョーコの真横にやってくる。それを感覚で察したのか、キョーコが「ひっ」と小さく悲鳴を上げて私の腕をギューッと……って、ててててて!
フルアーマープレートメイルがギシッっと鈍い音を立てる。ちょっ、魔法、魔法使ってる! キョーコ、魔法無意識で使ってるって!!
「キョ、キョーコ!? おおお落ち着け、腕を一旦離そう、な?」
「やだっ!」
「ダイジョウブ、ダイジョウブ。何も怖くないから」
「うそっ! そこにお化けいるんでしょ!?」
そう言ってキョーコは一層強く腕を締め上げる。金具の一部が腕に食い込んできているのが分かった。フルアーマープレートメイルはもう限界だ。しがみついたキョーコごと引きずりながら進む。
再び坑道のような道に入る。キョーコに「もうレイスはいないぞ」と言うが、彼女は信じない。マズイ、このままじゃプレートメイルごと私の腕が……。
必死になって私は歩く。腕に金具が食い込み痛かったが、そんなことを言っている場合ではない。キョーコは一歩も歩かないと宣言しているかのように、黙ったまま私に引きずられている。おぉ、明かりが……。あそこが出口か、頑張れバルバトス。もう少しだ。
「お疲れさまでしたぁ」
外へ出ると、気の抜けたような係員の声に迎えられた。「あらら、お連れさん。相当怖かったんですね」と呆れているが、どちらかと言えば、本当に怖かったのは私の方だ。どのトラップよりもどのモンスターよりも、キョーコが一番怖かった。
係員の言葉と周囲の明るさに気づいたのか、キョーコがそっと目を開ける。ホッと息をつき、そして私の腕を掴んでいることに気づき、パッと手を離す。兜を脱ぎ、キョーコに抱き潰されかけた腕を見てみた。
鋼鉄製のフルアーマープレートメイルが、彼女の腕の形に凹んでいる。金具が食い込んだ腕からは、血が滲んでいるのが分かった。危ないところだった……。
それを見たキョーコが慌ててバックパックからタオルを取り出す。それを傷口に当てながら「ごめん」と小さくつぶやく。「気にするな。まだ腕は繋がっている」と冗談っぽく言ったが、キョーコは瞳を潤ませながら傷口をじっと眺めたまま何も答えない。
気づくと、私はキョーコの表情に見惚れていた。長いまつ毛は涙でしっとりと濡れてキラキラと輝いている。頬がほんのり赤く染まり、周囲の白い肌とのコントラストで映えていた。少し尖らせているピンク色の唇は余程怖かったのか少し震えていた。
それを見ている内に、自分の体温が上昇してきているのが分かった。暑い……このプレートメイルと気温のせいだと思ったが、係員が連れて来てくれた休憩所は木陰でむしろ涼しいはず。と言うことは……これは照れているということだろうか。
彼女を見て、彼女の中の女の子らしさを見て、私が異性として認識しているとでも言うのだろうか。確かに彼女の容姿は美しい。ダンジョン協会の会長が言っていたように、冒険者からも概ね好評を博している。
だが、彼女とのファーストコンタクトが戦闘だった私にとって、これまで彼女を異性として見たことはなかった。この胸のドキドキは、初めて彼女を異性として見ているということの証拠なのだろうか……。
「バルバトス……」
キョーコは私の腕に包帯を巻き終えると、私の目を真っ直ぐ見た。もう一度「バルバトス」と言いながら、顔が近づいてくる。彼女の吐く息が、優しく頬を撫でる。
えっ、なに……? もしかして、これって……ちょ、ちょっと待って! 我、まだ心の準備がっ!!
ギュッと目を閉じたふりをしながら、ちょっとだけ薄目で様子を伺う。キョーコの顔が近づいてきて、彼女の唇が私の唇に触れ……ることはなく、そのまま私の耳元に行く。
「あたしがお化け怖いこと、誰かに言ったら……分かってるよね」
顔を離して、ニコッと笑うと私の肩に手を置く。
「分かってるよね?」
念を押すようにもう一度キョーコが言う。ホッとしたような、なんだか残念なような……微妙な感覚に包まれる。なんだよ、私の一方的な勘違いだったのか。
「バ・ル・バ・ト・ス?」
キョーコの腕が私の肩をギューっと掴む。いってててて……痛いって! 分かってる、分かってるってば!!
「分かってるならいいけど。それと……その……」
「それと?」
「やっぱ、なんでもないっ! とにかく、このことは黙っておいてよ!」
プイッとそっぽを向く。なんだよ、もう……。
□ ◇ □
「おかえりなさいっ! どうでしたか!?」
ダンジョンに帰ってきた私たちを、クルーの皆が取り囲んで質問攻めにする。私たちは数々のトラップなどを図に書き説明したりした。「最後にはレイスがいてな」と言った辺りで、キョーコから発せられる無言の圧力を感じて「レイス、怖いよね」と誤魔化した。
「それにしても凄いトラップですよねぇ」
書き上げたトラップのリストを見ながら、4剣士のひとりニコラが感心している。お前、本当にこういうの好きだよな。まぁ、私も好きだが。
「でも、とてもウチじゃ買えないですよね」
アルエルがため息をつく。確かにそうだな。あれほどの大掛かりなトラップ。ひとつくらいは何とかなりそうだが、全部揃えるにはどれほどのお金が必要なんだろうか……? 部屋に重い空気がのしかかる。
「でもぉ、不思議だよね」
4剣士ヒューが、タプンタプンしたお腹を擦りながら言う。
「トラップって魔力がいるんでしょ?」
「そりゃ当たり前だろ……って、あっ、そっか」
ラスティンがヒューのお腹をポンと叩きながら答えた。
「それだけの魔力、一体どこから捻出しているのか……ということか」
なるほど一理あるな。このダンジョンのトラップ類は、主に私の魔力によって動いている。と言っても、それほど複雑なものは多くないので、必要な魔力もそれほどではない。だが、あれほどのトラップだとひとりではとても供給しきれないだろう。
そうなれば複数、それもかなりの人数が魔力を供給しているということになる。しかし、それだけの魔力。一体どれほどの人数を集めれば可能になるのだろうか? それにそもそも、それだけ魔力を持った者を集めるのも大変だろう。
そこに何か秘密があるような気がするのだが……。もう一度潜入して調べてみるか、とも思ったが、結構目立っちゃったしなぁ……。
「それなら僕たちにお任せ下さい!」
ラスティンがハイハイっと手を挙げる。
「僕たちが調べて来ます」
うーむ。少し不安ではあるが、彼らは元々冒険者だ。ある意味、最も適しているのかもしれない。
「よし、頼んだぞ」
翌日、彼らが意気揚々と出発して行くのを見届けて、私たちは通常のダンジョン業務に戻った。『精霊たちの夢』が何をしているのか? それは気になることではある。だが、まずは自分たちのやれることをやり切ること。それが大切だろう。
しかし現実は厳しい。しばらく魔導モニターで観察していたが、明らかに我がダンジョンを訪れる冒険者の数は減っていた。「やっぱりお客さん取られちゃってるんでしょうか」と悲しそうに言うアルエルに、キョーコが「心配ないって。オープンしたばかりだからだよ。しばらくしたらきっと元通りになるから」と励ましている。
ボンたちクルーもいつになく真剣に仕事に取り組んでいるように見えた。『憩いの我がダンジョン亭』に行ってみると、レイナにマルタ、それにサラ、エミリー、ジーナ、リーゼロッテなども減ったお客さんにふてくされることなく、一生懸命笑顔で接客している。
窓の外からそんな様子を見ていると、例え『精霊たちの夢』に多少お客を取られたとしても、このメンバーがいるのならば大丈夫なような気がしてきた。環境的には厳しくなってきたのは確かだが、私には素晴らしいクルーたちがいる。父が言っていた言葉を思い出す。
『ダンジョンは人なり』
遠い昔の言葉をもじったものだそうだが、私は今本当にその言葉の意味を理解し始めていた。同時にその言葉の持つ重みも感じ、少し身震いする。
「そう言えば遅いな」
辺りは既に日が暮れ、漆黒の闇を『憩いの我がダンジョン亭』から漏れる明かりが優しく照らしていた。ラスティンたちがダンジョンを出発して随分立つ。もうとっくに帰ってきてもおかしくない時間なのだが……。
余程の繁盛ぶりで混み合っているのだろうか。そんなことを考えていたときのことだった。ダンジョンから街道へと伸びる道の奥に、いくつかの人影が見えた。うっすらと浮かび上がる姿は剣士4人組のものだった。
「お、帰ってきたか。遅かったな、楽しくて遊びすぎたのではあるまいな」
そんな軽口に誰も返事を返さない。うん、どうした? って言うか、ひとり足りなくない? ラスティンはどうした? 泣きそうな顔でニコラが答える。
「すみません、バルバトスさま。ぼくら失敗しちゃって……ラスティンが捕まっちゃいました!」




