見る、或いは、見える
愛するS嬢へ
前略
貴女がこれを読む頃には、私は既に何処かに旅立っていることでしょう。
……いえ、御安心ください。かねがね見たいと思っていたドイツの新白鳥石城あたりを旅しているだけです。ひょっとしたら中国の万里の長城かもしれませんし、アメリカの自由の女神かもしれませんが、詳しい所在地は私の知るところではありません。ともあれ、旅が終われば必ずや貴女のもとに戻って参ります。
旅支度も全て終わってしまい、出立の時刻までかなり手持無沙汰ですので、私がどのような訳で貴女に「同じ日に同じ場所で死のう」と心中を持ちかけたのかを説明し申し上げよう、と筆を執りました。先日は断られてしまいましたが、この遺書を最後まで読んでいただければ屹度、受け容れていただけると信じております。
なにぶん筆不精ですし、普段読んでいる本も偏りが激しいので、読みづらい点が多々在るかと思いますが、お許しください。
却説、何処からお話し致しましょうか。……矢張り、私がこの世に辟易する理由から始めるのが妥当でしょう。
では先ず、問いましょう。貴女は、「見る」ことや「見える」ことに就いて、どう思われますか?
……絵画や彫刻を解するのに必要不可欠な行為……ええ、それも然りです。作品に触れて鑑賞する方法も在るらしいですが、国宝や重要文化財等は気軽に触れることができませんからね。
……言語習得に非常に便利なもの……そうですね、それも亦た然りです。新しい文字を学ぶには目が有った方が遥かに便利でしょう。
ですが、弱冠まで生きてきた私の答えは違います。「見る」「見える」ことの本質は「苦しみの元凶」です。それ以外にはあり得ません。
貴女には馴染みが無いかもしれませんが、少々、仏教で説明されるところの「見る」行為に就いて触れてみます。尤も、私とて専門的に仏教を学んだわけではありませんから、私の解説の中には間違っていることがあるかもしれません。怪しいな、と思われた場合にはどうぞ御遠慮無く、この部屋の書棚から仏教の辞典を探し、御覧ください。本棚の上から二段目、右端に在る筈です。
人間が、世界に存在するものを其の儘に知覚することは、全く不可能である、ということは、簡単に了解していただけるかと思います。そして、かかる発想は、仏教の思想にも登場してきます。
仏教では、世界に存在する物を「色」と呼ぶそうです(尚、サンスクリット語ではルーパと云うそうです)。これを人間が目で捉え、脳内で「想」と呼ばれるイメージを形成します。この想を通して人間は、色の正体を「犬だ」「猫だ」と認識します。この認識を「識」と呼びます。当然ですが、この「想」「識」は、「色」と全く同様に形成される筈はありません。ここには、記憶や知識などの「行(サンスカーラ)」が影響します。
例えば、貴女は昨日、「友人Rを見つけた!」と仰って、あろうことか私の手を離してまで、駅のホームで走り出しました。ですが其の男性が偶然にも振り向くと、実は全く知らない青年でしたね。この場合、謎の青年が「色」にあたります。そして貴女の脳内に生まれた「想」及び「識」は友人Rです。そして恐らく、「友人Rに会いたい」とかいう気持ちか何かが貴女の中に在って、それが貴女の認識を歪めた「行」だったのでしょう。
仏教では、何かを見て想や識が生まれることを「名言が生じる」と云うそうです。人間は、禅行の訓練をしない限りは、必ず名言が生じてしまい、更にあれこれ連想してしまい、悩みが生じることになります。したがって、「物を見ることは苦しみを生じる」と結論付けて差支え無いことになります。
唯本棚の端っこの辞書から、かかる記載を見つけただけで、私はすっかり生きる希望を失ってしまいました。ですが、私の話には少々続きがあります。
……キッチンの戸棚に、貴女の好きな銘柄のワインを買っておきました。グラスに一杯分注いで、復たこの部屋に戻ってきてください。この遺書は、格別、集中して読むべき大層なものでもありませんから、口を潤しながら先へ進まれると宜しいでしょう。多少変わった味がするかもしれませんが、ワインが悪くなってしまっているのではありません。私から貴女への愛だと思って、気味悪く思わずにどうぞ気にせず召し上がってください。
閑話休題。
人間が何かを見る時には、知識などの「行」が影響する、という話は致しましたね。この知識というのが、非常に厄介なのです。決して逃れ得ぬ、完全なる悪なのです。私の人生を破滅させた犯人なのです。
知識を付ければ付ける程、人間は不幸になります。例えば、貴女が小学生の頃を思い出してみてください。或いは、貴女の家の近くに在る公園で、無邪気に遊ぶ子供たちを見てもよいでしょう。彼らは暗鬱な未来を考えることも無く、世界の不条理を嘆く必要も無い。実に明るく生きています。そして、見るもの聞くこと全てに感動し、彼らにとっては世界は完全に輝いて見えています。……ところがどうでしょう、今では我々は、将来を憂い、理不尽な世を恨み、余裕も無くあくせくと生きています。「大人になったからには一人で生きていかねばならぬ、其の為には万事己で考えねばならぬ」という理由も在りましょうが、決してそれだけではありません。憖知識があるために、世の中の綻びが数え切れないくらいに見えてしまっているからです。人の醜い感情も、誰が誰を本当に好いて、誰を密かに疎んでいるかということも、見たくもないものが全て、大人になるにつれて見えてきてしまうからです。
又た、知識が有るが故に見えなくなってしまうものもあります。時々、貴女をお連れして美術館に行きますよね。其処で、私は特に日本画や仏像を好んで鑑賞しますが、最近はめっきり面白くなくなってしまいました。というのも、昔はただぼーっと眺めて、なんとなく「あ、いいなぁ」と沁々感じることが出来たのですが、鑑賞の為の知識を付けてしまったために、「構図が云々」「掘り具合が云々」などと考えてしまい、どうしても分析めいたことをしてしまうのです。細かな雰囲気、小さな違いが見えなくなり、頭でっかちに作品と向かい合ってしまう。不幸極まりないことです。
しかも、知識というものは滅多なことでは小さくなってくれません(忘れることはあるかもしれませんが、大抵都合の悪い知識は脳に残ってしまうものです)。知ってしまったら忘れられない、不可逆な苦しみなのです。
先週の金曜でしたか、雨が降ってしまった為にデートが延期になり、私の家で、何をするともなく一緒にぼーっと過ごした日がありましたね。あの夜のテレビ番組で、以下のような実験が在ったのを、貴女は覚えていらっしゃいますか?
……番組視聴者は、或る静止画を見せられます。この静止画は、実は徐々に或る部分が変わっているのです。壁紙の色だったり、人物の髪型だったり。それを見つけることができると、人間の脳に良い刺激が走り、脳が活性化される。又た、どうしても分からなくても、答えを聞いて再度「静止画」を眺めて変化を納得できれば、同等の刺激を得られる……。
私は、確か1問目と3問目は分かったのですが、2問目だけは分からず、答えを見てしまいました。すると何のことは無い、「空を飛んでいた風船が消えていた」が正解でした。答えを知った後に「静止画」を見ると、確かに、風船が次第に透明になり、空が透けてゆき、消えてゆくのが分かりました。静止画は、いとも簡単に動画になってしまいました。
丁度あの時、番組を録画していたので(詳しい理由は忘れましたが、確か、何処かの男性が殺害されたというニュースを録画しようとして失敗したのだと思います)、先程もう一度、件の「静止画」を見てみました。……どうしても、何処に注目してみても、風船が消えてゆくのがはっきり分かってしまい、「動画」にしか見えなくなっていました。山の稜線を凝視しても、遊ぶ子供たちの目を見つめてみても、風船の変化を私の脳は無視できませんでした。先週、あれほど変化が分からず悩んだ筈なのに、今日は寧ろ静止画に見えずに悩む羽目に陥ってしまいました。
答えを知ってしまい、知らなかった頃に戻れなくなる。例に挙げた番組は、風船が消えようと消えまいと些細な問題ですが、嫌な思い出やトラウマも同様です。一度得てしまったものは、易々とは消えてくれません。知識は、脳や目にこびりついて、死ぬまで我々を苦しめ続けるのです。
且つ、知識は麻薬です。知らないことがあると悔しく、それを知ろうと躍起になります。そして新しい知識を得ると、その周辺にも手を伸ばしてみたくなります。かくして知識欲には歯止めがかからず、投与量が増えてゆきます。
知識を多く得ることで、知識同士のぶつかり合いも生じますね。或る観点からすればXは真なのに、別の或る観点からするとXは偽である、というように。屹度双方の主張を止揚した「真実の知識」が在る、と期待して、苦しみながらも更に知識を求めますが、それこそ奴らの思う壺なれ。幻想を求めて、底無し沼に沈むのを、奴らは嘲笑して見ているに違いありません。……いっそ、「食われて死ぬ」という結末が約束されている蟻地獄の方が、余程良心的ではありませんか。
視覚は、人間が生きている中で得る情報の8割を担っている、と、何処かで聞きました。時と場合に依って割合は前後するようですが、視覚が知識の大部分を作り上げていると考えて宜しいかと思います。
したがって、私はかく断言するのです。「見ること、見えることは、苦しみの元凶に他ならない」と。
長々と書き過ぎました。そろそろ、貴女の手元のワイングラスも空になり、だいぶ酔われてきたことかと思いますので、このあたりで筆を置きます。ワインはきちんと飲み干していただけましたか?
若し、私が申し上げた通りの手順で、貴女が一杯のワインをすっかり飲み切られたならば、次に貴女と私が何処かで再び見えることができるのは、8月23日あたりになるでしょう。それまでは暫し、お別れです。
ですが、私の肉体は今でも貴女と共に在ります。紙にして200枚程の隙間から、最早閉じることさえ能わぬ眼で、じっと貴女を見守っております。「同じ日に同じ場所で死のう」という約束を違えるつもりは、私には寸毫も無いのですから。……そうそう、どうでもよいことですが、仏教の辞典は、きちんと本棚に戻しておいてくださいね。決して目を逸らさず、確実に、元在った場所に、お願いします。
……おっと、これは失敬、私がこの世に絶望した理由をお伝えし忘れていましたね。尤も、貴女には屹度お心当たりがあろうかと思いますし、手紙末尾のこの文を読むまで貴女がまともな理性や視力を保ってらっしゃるか分かりませんが……。
ヒントをひとつだけ差し上げましょう。……三日前の夜、仕事帰りの私は偶然、隣の駅の歓楽街で、私も未だ見たことの無いくらいに綺麗な貴女が「見えた」のです。「友人」に手を引かれながら建物から出ていらした、宵闇に満開に咲いた貴女を。
草々
2016.7.6 貴女の親友、却下