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偏愛イデオロギー  作者: 真木
第二編 フェロモン星人の逆襲
9/68

前編<龍二> 3

 その日、私はようやく慣れてきた給仕をしながらいつものようにクラブ内を回っていた。


「安樹ちゃん。これ奥に」


「奥ですか。はい、気をつけます」


 奥は一番いい部屋だ。ということはお得意様だと思って、私は緊張しながらお盆を運んだ。


「失礼します」


 ノックをして扉を開く。その途端、私は思わず目を見開いた。


 鈴子ママがいて、売り上げトップの奈々さんと栞さんが左右に控えていた。つまり平たくいえば店の綺麗どころを全員そろえた豪華な布陣だ。


 どんなお金持ちさんですかと思ったが、じろじろ見るのは失礼なので話の邪魔にならないように最小限の動きで飲み物を置いた。


 ところが一礼して踵を返そうとした私に、一言。


「名前は?」


 鈴子ママと奈々さんと栞さんですよ、と心の中で呟きながらなお去ろうとすると、もう一言かかる。


「ボーイをやってるそちらの子。名前は?」


 もう一人ボーイがいてくれればいいな、と現実逃避気味に顔を上げたけど、当然そんな架空の人物は現れてくれるはずもなく。私は自分に問われたのだと認めるしかなかった。


 お客様は妙に迫力のある壮年の男性と、それより少し若いくらいの細身の男の人だった。どこかの社長さんとその秘書ってところかな、と思いながら私はふと気づく。


 しまった。源氏名考えてなかった。


 ボーイだからそんなものいらないだろうと踏んでいた。しかし本名をさらすのも気が引ける。


「は、はるかです」


 ごめん、お母さんっ。


 咄嗟に母の名を口にした私に、秘書らしき男の人はぎょっとした顔をした。


 あれ、何かまずかったかな。この名前。親の仇とかか?


「そうか」


 そう思って首を傾げた私に、社長さんらしき男性は微笑んだ。


 怖そうな目つきの人だけど、こんな風に柔らかく笑うこともできるのかと驚いていると、彼はソファーから背中を起こす。


 その動きは奇妙にゆっくりで何というか……そう、色っぽい感じだった。よっこらせというより、さぁてやるか、という何か準備するような。


 そこで全速力で逃げればよかったように思うのだが、私はあいにくぼんやりしていて腰を上げるタイミングをなくした。


 彼は少し手招きして、子どもをあやすように言う。


「はるか。おいで」


 ……なぜだっ。 


 私は心の中で盛大に叫んだ。


 なんてもったいないことを。両手にこのクラブトップの花たちが咲き乱れてるのにボーイ呼んでどうするのだ。あ、ひょっとして私のこと男だと思って? いや、はるかで男はないだろう普通。


「ああ、座るところがないな。出てくれ」


 えっ、本気で追い出す気ですか、奈々さんと栞さん。二人とも立たないで、ああ、ママまで腰を上げてっ。


「あ、いえ。私は入ったばかりなので緊張してどうすればいいのか。下がらせて頂いて構いませんか」


「駄目だ」


 即答されてしまった。しかも声がすさまじく低い。結構迫力がある。


「ですけど私は話すのが専門ではないので。とてもお相手は務まらないかと」


「仕方ない。じゃあ鈴子だけ残ってくれ」


 妥協点でママだけ残ってもらえることになった。でも全然安心できない。


「よかったわね、安樹」


 すれ違いざまに奈々さんが笑いながら耳打ちした。私は一緒に出て行きたいと思いながら、後ろで閉まる扉の音をうらめしく思う。


「わ」


 気づいたら目の前にその男性は立っていた。私の手を引いて自分の隣に座らせる。


「はるかは何を飲む?」


 お品書きを出されたので、私はママを窺った。鈴子ママは微笑してそっと言葉を挟む。


「はるかちゃんは真面目なので、勤務中には飲まないんですよ」


「そうか。じゃあ食べ物ならいいんだな」


「い、いえ。お客様にお出しするものを頂くのは失礼なので」


 慌てて否定すると、彼はひょいとテーブルに手を伸ばす。


「私ははるかに食べてもらいたい。ほら」


 差し出されたのはくしに刺したイチゴだ。


「え」


 私は目が点になる。


 実はいつも厨房で、イチゴおいしそうだなぁ、さすがママが選んでるだけあると感心していた。


――どうぞ。あーん。


 そしてそれを綺麗なお姉さんに食べさせてもらえるお客様がうらやましいなと思っていたのも事実なのだが。


「あ、ありがとうございます」


 私がくしを受け取ろうとしても、彼は何かを待っているようにくしを手放そうとしない。


「口を開けろ」


 ……私がやられる側なんですか?


 軽い眩暈を覚えながらも、口に押し付けられるイチゴに、ええいお客様の戯れに付き合うのも従業員の使命だと思い切って口を開ける。


 イチゴは確かにおいしかった。でもこんな状況じゃなければきっともっとよく味わった。飲み込むように食べてしまったのがちょっと惜しかった。


「もう一つ」


「あの」


 全部食べさせるつもりの彼を留める意味をこめて、私は話題を逸らすことにした。


「お客様を、私は何とお呼びすればいいのでしょう?」


「そうだな。はるかにお客様としか呼ばれないのは悲しい」


 彼はくしを置いてくれた。やった、と私は心の中でガッツポーズを決める。


「こういう者だ」


 けれど渡された名刺に私は絶句する。


 社長。それだけならここのクラブに来ているお客様の中にも多い。けれどそれが企業に詳しくない私でも知っている超有名な大企業だったらどうだろう。金融業から不動産業、ITといった幅広い分野を扱っているところだ。新聞でも見かけたことがある。


「こ、ここの社長さんですか」


「……名前の方を見てもらいたいのだが」


「あ、はいっ。浅井さんですね」


 名前は浅井龍二。一瞬、浅井の苗字に幼馴染の竜之介のことが浮かんだが、そう珍しくない苗字だ。それに竜之介の家は確かに旧家らしいけど、こんな大企業の社長さんが伯父さんのはずない。あっさりと、竜之介のことはそこで忘れた。


「龍二だ」


「え、龍二さん……ですか?」


「そう」


 部活で名前呼びは慣れているが、社会人でそれは珍しいのではないだろうか。しかし龍二さんは嬉しそうに目元を和らげたので、まあそれでいいならと納得する。


「ここには何度か来ているが、はるかを見たのは初めてだ」


「そうですね。臨時で入ってますから」


「臨時? いつまで?」


「あと二週間くらいです」


「ふうん。二週間、ね……」


 龍二さんは再びイチゴに手を伸ばす。今度は自分で食べるのかなと思ったら、また私の口の前に差し出した。


「……あの、逆のような気がするのですが」


「はるかがやってくれるのならそれもいいな」


 やられるよりはやった方がまだましだ、と聞きようによっては下品なことを考えながら私はくしを受け取る。


 秘書らしき男性は緊張した面持ちで声を上げる。


「か、会長」


 あれ、社長じゃなくて会長? いろんな会社を経営していらっしゃるのかな。


「何だ、山岡」


 それに、龍二さんは冷ややかな目を向けた。うわ、一気に目の色が絶対零度まで冷えたぞ。


「よろしいのですか?」


「はるかが食べさせてくれるというんだ。何か問題があるか?」


「いえ、何も」


 隣の秘書らしい男性は驚愕の目で私を見ている。この子は何をしているんだと言わんばかりだ。そうは言いましても、ふざけてこられたのはこちらの御方で私は何もしていないのだが。


「では、どうぞ」


 お姉さん方がやっているのを真似て、私は会長さんもとい龍二さんの口元にイチゴを運ぶ。


 小ぶりのそれを彼は一口で口の中に入れて……ついでに私の指まで含んだ。


 ……うわぁーっ。指食べられたぁーっ。


 と、心の中で絶叫する。


 幸いなことに歯は立てられなかったけど、ぺろ、と舐められた。その時の表情が、心臓が止まるかと思うほどの色っぽさ。しかも全然いやらしくないのが不思議だ。


「な、な、な……っ」


私はくしを取り落としそうになるのを必死でこらえながら手を引っ込める。


「ああ。おいしそうなものが目の前を通ったのでつい」


 悪びれずにさらっと答える。私はたぶん耳まで真っ赤になりながら、言葉もなくして目を見開く。


「私が来る時は必ずはるかがつくように」


 私の頭を抱いて撫でながら、低く艶めいた声で言ってくる。


「な、なぜ」


「はるかが気に入った」


 指がですか?と問いかける余裕もなかった。


「約束だぞ」


 結局どうしてだか全くわからないまま、この日から決まった時間になると龍二さんは現れることになったのだ。

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