後編<りょう> 9
幸い、俺も父も怪我はなかった。
ただ、コテージの中の催涙ガスが抜けるのには、一日や二日では無理そうだった。
『そういうことなら俺の別荘を使っていい』
「ありがと」
父が兄の一人に電話をしたら、結局のところ父に甘い彼はあっさりと俺たちに近所の別荘を貸してくれた。
農園の中車を走らせている間、父は無言だった。
――ミハイルの馬鹿っ。
俺が拳銃で度胸試しをしていたことは部屋の外で聞いていたらしく、父にしては珍しく俺に声を荒げた。
そして俺をぎゅうぎゅうと抱きしめて、あとは車に叩きこんでひたすら運転していたのだ。
りょうの姿はどこにもなかった。次どこで姿を露わすか、想像もつかない。
父方の伯父の別荘に辿り着いて荷物を下ろしてから、俺は外に出た。
「どこ行くの、ミハイル」
ベランダでまだむくれている父に、農園の裏手を指さす。
「ああ、そう。行ってくれば?」
父が機嫌を直すには催涙ガスが抜けるくらいはかかりそうだと思いながら、俺は歩きだした。
時間があまりない。
父は平常通りに見せかけて、もう動きだしているはずだ。伯父もそうだろう。
黙っていれば、父やアレクたちが俺と安樹を守り通してくれるのかもしれない。
だけどその結果、誰か死ぬことになる。それではいけない。
……俺の片割れは、呆れるほどの甘いハッピーエンドが好きなのだから。
俺は丘を越えて、こじんまりしたコテージに辿り着く。
古めかしい石作りで、父方の伯父のコテージの半分もない。周りにはささやかな菜園と家畜小屋があるくらいだ。
かろうじてにわとりの声が聞こえるくらいの静けさだった。
この家には、十五年近く前から老人がたった一人で住んでいる。
ドアベルを鳴らしたが返事はなく、鍵は開いていた。俺は勝手に上がることにして、家の中に足を踏み入れる。
リビングの窓辺に、肘掛椅子にかけて本を読んでいる男の姿があった。
大岩のような老人だった。広い肩幅に太い腕、七十を超すほどになっても並みの男では敵わないほどの引き締まった体つきをしていた。
「じいさん」
俺が声をかけても、彼は碧の目で紙の上の文字を追っていた。
「浅井竜太郎のことを知ってるだろ?」
彼はそこで、本をめくる手を止める。
「じいさんの助けが必要なんだ。俺と安樹に力を貸してくれ……イヴァン」
かつて裏社会で名を轟かせたファミリーのボスだった男。
そして俺の父方の祖父、イヴァン・カルナコフは、俺の言葉にゆっくりと顔を上げて俺を見た。




