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偏愛イデオロギー  作者: 真木
第五編 アンビバレント・マリッジ
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後編<りょう> 7

 南フランスには何度か父に連れられて来たことがある。


 ここには父の実家の会社があるらしく、父の一族も多く住んでいるし、気さくに父に話しかけてくる知りあいも多い。


 父はいつものように、自分の好きな場所へと思うがままに俺を連れまわした。


「ねえねえ、ミハイルー。僕あれ食べたいな」


 どっちが父親かわからないような、子どもっぽいことを言って俺に甘える。


――レオ、お前はもっとしっかり父親の自覚を持って子どもを教育しろ。


 その自由気ままな父に、何度か会った父の兄たちはいつも眉をひそめていた。


――だってかわいいんだもん。


 ぷくっとむくれる父を、伯父たちは叱った。


――かわいいだけじゃ駄目だろうが。教育は安樹と美晴のためなんだ。


 伯父たちの言っていることの方が、確実に正しいことはわかっていた。


 いつまでもふらふらしていて、子どもと会っても甘やかすばかり。世間的に言って、駄目な父親であることは間違いなかった。


――僕はいつでもエンジェルとミハイルのためを思ってるよ?


 ある時父はきょとんとして、何気なく言った。


――だって二人が幸せだと、僕、とっても嬉しいもん。


 父は当たり前のことを言うように、言葉を続けた。


――二人が死んじゃったら、僕、ハルカのところに行くもん。


 たぶん、父は思ったままを言ったのだろう。


 伯父たちは笑い飛ばすでも叱るでもなく、ただ諦めたようにため息をついただけだった。つまり、父はそういう人間なのだ。


 俺たちは日中街を歩きまわって、夜になる前に田舎のコテージに来た。


 そこは父の持っている別荘で、俺も何度か来たことのあるこじんまりとした隠れ家だった。周囲には農地が広がっていて、街灯一つない。


 父はまるで修学旅行中の学生のようにわくわくと話し続けたが、やがて一つ大きなあくびをすると、おもむろに布団にもぐりこんで電池が切れたように眠った。


 俺も布団に入って、少しの間眠る。


 幸い、悪夢ではなかった。父が側にいてくれるという安心感もあったのかもしれない。


 俺は久しぶりに、夢の中で安樹以外の姿を見た。


 それは現実にあった記憶だった。雪深いロシアの故郷でのことだった。


 確か俺は八歳だったと思う。父と東欧辺りを旅行中に、俺は父方の祖父に会った。


――レオには内緒だぞ。


 祖父は俺をこっそりロシアに連れて行った。父は母が亡くなってから、俺と安樹を決してロシアに近付けなかったのだ。


――一番奥にお母さんのお墓がある。挨拶してきなさい、美晴。


 真っ白に雪化粧された大地に、十字架の立ち並ぶ墓地だった。


 俺は久しぶりの雪の感触にうきうきしながら、飛ぶように駆けて行った。


 ……そして俺は、墓地の奥で「彼」に出会った。


 彼は十代半ばほどの小柄な少年だった。黒髪に黒い瞳の東洋系の顔立ちをしていた。


「しばらく来られなくてすみません、遥花さん」


 彼は腕から溢れんばかりの大きな花束を抱えていた。


「雪がよく降りますね。寒くはないですか?」


 屈みこんで、無心に墓石にかかる雪を払いながら、彼は穏やかに語りかけた。まるで目の前にいる誰かと話しているようだった。


 丁寧に雪をすべて払って花束をささげると、彼は十字架にキスをした。


 さら、と黒髪が揺れた。こちらを振り向いたのがそれでわかった。


「君が美晴?」


「……うん」


 俺が頷くと、少年は微笑んだ。


「お兄ちゃんは、お母さんが好きなの?」


「愛している」


 少年はゆっくりと答える。


「お母さんは、お父さんのものなんだよ」


「そうだね」


「もう、死んじゃったんだよ」


「うん」


 静かすぎる答えだった。


「でも、遥花さんだろう?」


「え……」


「僕にはそれで十分だ」


 この人はどこかおかしい、と俺は思った。


「変かな?」


 少年はそんな俺の内心を読みとったように、小さく首を傾げてみせた。


 俺は答えに困った。変だとも思ったし、そうでないようにも思った。


「僕は変わるよ」


 少年はそれ以上俺に答えを求めず、ただ言葉を紡いだ。


「いつまでも、何度でも、原型さえ留めなくなっても。遥花さんの望みを叶えるまで、僕は変わり続ける」


 彼は柔らかく墓石に笑いかけた。狂っているほど美しい笑い方だった。


「……それが、僕が遥花さんに捧げる、『愛してる』だから」


 少年はぽんと俺の頭を叩いた。


「君もみつけられるといいね。君だけの、『愛してる』」


 その時の少年の声を、俺は決して忘れない。


 風のような、涼やかで穏やかな声。


――初めまして、よろしくっ。


 それから十年近く経ってからブラウン管の向こうでその声を聞いて、俺はすぐに気づいた。


 外見は全く同一人物とは思えなかった。名前も、性格も、性別すら変わっていた。


それが、美峰りょうだった。


 彼はあの時の言葉通り、変わり続けたのだろうと、妙に納得したのだ。


 りょうはおそらく、母の何かの望みを叶えるために今も動いている。


 酷い目に遭わされたが、俺はあいつのことを嫌いにはなれなかった。


 ……何にも動じず自分の愛の形を貫こうとするあいつの強さは、羨ましいとさえ思っていたから。


 夢から目覚めた俺は、隣のベッドに父がいないことに気付いた。


 日本よりはだいぶ暖かいとはいえ真冬だから、どこもかしこも冷え切っていた。


 まだ夜は明けていなかった。真っ暗闇の中、俺はベッドから足を落とす。


「エンジェルはどう?」


 隣室で父の声が聞こえたから、俺はそちらに足を向ける。


『だいぶ落ち着いてきました。美晴は……』


 扉を開けて中に入ると、パソコンのテレビ電話で父がアレクと話していた。


「見ての通り」


 父が俺を傍らに立たせると、画面の向かい側でアレクが頷いた。


 父は椅子にかけて頬杖をつきながらアレクに問いかける。


「美峰りょうの詳細はわかった?」


『芳しくありません』


 アレクは苦い調子で答える。


『どうやって、私を騙せるほどあなたに似た声色を習得したのかさえ』


「ああ、それたぶん僕のせい」


『は?』


 父は明後日の方向を見た。


「十年くらい前、バルセロナでバカンスしてた時だったかなぁ。東洋系のかわいい男の子が、僕の声真似してみたいっていうから本気でレクチャーしたんだ。あれだね」


『レオ……』


 アレクは呆れたように呟く。


「し、しょうがないじゃんっ。かわいければ何でもいいんだよっ」


 アレクの白けた視線に耐えかねたように、父は墓穴を掘るような言葉を返した。


「まあいい。その子、みつけて捕まえといて」


 父はアレクに向かって何気なく指示を出す。


「どう殺るかは僕が決めるから」


 俺は思わず父を見た。父は表情を消して画面を見ていた。


「正体なんてわからなくていい。エンジェルとミハイルを傷つけた。許しはしない」


 声を荒げることもなく、表情に出すこともない。ただ酷く冷静に最小限のことを告げる。


「龍二も消そう。決めた」


 ……それが父の本気の怒り方だと、俺は知っていた。


 俺は咎めるように父の肩を押さえる。


「あ、待って」


 父はちら、と俺を見上げて、アレクに目を戻す。


「エンジェルに、お土産は何がいいか訊いといて」


 今人を殺すと言った口で、父はそう付け加えた。


 通話を切った父に何か言おうとしたが、喉が詰まって声が出なかった。


 父は一瞬だけ悲しそうに俺を見て、立ち上がる。


「愛してるよ、ミハイル」


 そして俺の頬にキスして、父は部屋を出て行った。

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