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偏愛イデオロギー  作者: 真木
第五編 アンビバレント・マリッジ
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後編<りょう> 5

 外はだいぶ朝日で明るくなっていた。その眩しさから顔を背けるように、俺は暗い方、人のいない方へと逃げる。


「うう……ああ」


 涙腺が壊れたように両目からとめどなく涙が落ちる。


 安樹が見せた顔が頭に焼き付いて離れない。


 俺は太陽から隠れるように、光の届かない路地でうずくまって泣いた。今光に当たったら、俺は骨まで溶けてなくなってしまう気がした。


 ただひたすら太陽に目を背けて、自分を小さくすることしかできなかった。


「美晴」


 ふいに低い声が俺を呼んだ。顔も上げたつもりはなかったが、俺の視界に黒い輪郭の男が入り込んでくる。


「来るんだ、美晴。こんなところにいてはいけない」


 竜之介が、俺の肩を揺さぶって立たせようとする。


「立て」


 俺はどこも動かそうとしなかったから、竜之介は一度首を横に振って屈みこんだ。


「何もしたくないならそれでいい。俺も勝手にさせてもらう」


竜之介は俺を無理やりに背負って歩き出した。


「重いな、お前。でもそれでいいんだよ」


 一歩一歩、光の差す方向に向かって足を進める。


 まもなく大通りに出て、竜之介は俺を車に乗せてどこかに向かった。しばらく走って、郊外のマンションの駐車場に入る。


 竜之介は再び俺を背負ってエレベーターに乗って、マンションの一室に連れて行った。


 見慣れない所だった。だが竜之介は慣れた様子で、カーテンを開けたりヒーターをつけたりてきぱきと動いていた。


 絨毯の上で呆然自失の俺に上着を羽織らせる。


キッチンでお茶を入れてきて俺の前に置いてから、竜之介はようやく俺の斜め前に腰を下ろした。


「美晴、何があったかは大体知ってる。アレクセイから電話で聞いた」


 竜之介は眉を寄せて、俺に話しかけてきた。


「お前の気持ちまではわからないが、お前と安樹のことはよく知ってるつもりだ」


 安樹、と名前が出た時、俺はびくりとする。それに気付いたのか、竜之介はこの男にしては珍しく気遣わしげな声を出した。


「今は何を聞いても辛いだろう。それを飲んで寝ろ。よく眠れる」


 俺が目を伏せていると、竜之介は深く息をついた。


「わかってる。……俺は頼りないよな」


 竜之介が奥歯を噛みしめたのがわかった。


「この家は母さんのものだし、お前をみつけられたのも母さんの情報網を使ってのことだ。親父がその気になれば、俺の持っているものなど一瞬ですべて奪われる」


 目を逸らし続ける俺を、竜之介はそれでもじっとみつめて言った。


「だがそれでも俺はお前たちの従兄弟だ。誰がお前たちを傷つけても、俺はお前たちを庇う。それは、忘れないでくれ」


 竜之介は俺の肩を叩いて立ち上がる。


「少し休む。隣の部屋の布団は好きに使っていい。とりあえずお前も休め」


 目の前を通り過ぎる竜之介のコートの裾が汚れていた。いつも隙のない清潔な格好をしている竜之介だ。だいぶ探していてくれたのはそれでわかった。


 そう思って、何気なく自分の格好を見下ろした。


 俺の服装はちょっとどころではなくぐしゃぐしゃだった。


 だからどうということもないが、俺は呆けたようにしばらく座っていて、ふと気付いた。


――ミハル、かわいい。


「いつも……きれいにしていないと」


 俺の片割れは、綺麗な俺が好きだった。それを唐突に思い出す。


 のろのろと起き上がって、俺は洗面所に向かう。とりあえず汚れた髪を何とかしたかった。


「……」


 俺は鏡の前に立って、そして凍りつく。


 鏡の前に立っていた俺は醜かった。髪はぼさぼさで、目は充血して、肌も汚れてよく見るとひげも少し生えていた。


 俺の長い銀髪を、碧の目を、白い肌を、飽きることなく褒めた君。


 陽だまりの色の髪と琥珀の瞳、透明な肌を持っていた君。


 ……君の方がずっと綺麗だったのに、どうして俺なんかが好きだったんだい?


 教えてくれよ、安樹。君が好きな俺はどんなミハルだ?


 もう俺にはわからないんだ。君に否定された俺は変えなければいけない。でも俺は、君が教えてくれる以外の自分の形を知らない。


 ああ、でもそんなことはもういい。


 一刻も早く、消さなければ。君が嫌いな、君の憎む、醜い俺はいてはいけない。


 早く、早く。


 ぱらりと、俺の肩から竜之介が被せた上着が落ちた。


 俺は憑かれたように何かを探す。


 ふいに視界に女性用のカミソリが映った。俺はそれを手に取った。


 手首に当てて引く。ちくりとした痛みとともに、血が一筋流れた。


「これじゃあ全然駄目だね」


 顔を上げると、いつ来たのかりょうが立っていた。


 座りこんだ俺の手首をつかんで、ひょいと指さす。


「切るならこの辺だよ。それと、ちょっとこれじゃキレが悪いね」


 俺が黙って見上げていると、りょうは懐から折りたたみナイフを取りだす。


「こんな感じ、ちょうどいいんじゃない?」


 手の上でナイフを弄びながら、りょうはあどけないような声で言う。


 俺は何も答えなかった。言葉が思い浮かばなかった。


「怖いならりょうが代わりにやってあげようか?」


 じっと俺を見据えて告げた言葉が、どこか遠い世界で響いているようだった。


「……何をしてるっ」


 低い怒声が響いたのと同時に、りょうが突き飛ばされた。


「美晴、こんな……っ」


 俺の手首の傷に目を走らせて、竜之介は急いでタオルを巻きつける。


「大丈夫だよぉ、そのくらい」


「……出ていけ」


 りょうは壁に背中をもたれさせてのんびりと言った。竜之介はタオルで強く傷口を押さえたまま、りょうを睨む。


「ちょっとセンチになっただけだって。本気で死ぬつもりなんてなかったよ」


「美晴が本気で悩んでることくらい俺にだってわかる」


「えー、こんなちっちゃいことで?」


「美晴は傷ついてるんだ」


 笑いながら首を傾げたりょうに、竜之介は声を荒げる。


「今、美晴は、傷ついてるっ。それもわからないような奴は出ていけっ」


 りょうは肩を竦めた。


「はいはい。坊っちゃんに冗談は通じないね」


 ふいと踵を返して出ていく。


 パタン、と玄関の戸が閉まる音が聞こえた。


 竜之介は俺の血が止まったかを何度も確認していた。そして血が止まった後も俺の手首を取ってみつめていた。


「美晴。自分を……否定するんじゃない」


 ふいに、竜之介はぽつぽつと話し始める。


「お前は男だ。それは悪いことでも何でもないはずだ」


 俺と一緒に床に座り込んだまま、竜之介は静かに諭す。


「安樹の望む姿だけが、お前の姿じゃないはずだ。きれいでもかわいくもないお前だって、お前のはずだ」


 俺を睨むように見て、竜之介は顔をくしゃりと歪める。


「お前だけができる生き方が、ちゃんとあるはずだ」


 竜之介の片目から、雫が零れた。初めて見る顔だった。


「だから、死ぬんじゃない……っ」


 喉を詰まらせて泣きだした竜之介に、俺の中の何かの感情が蘇る気がした。

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