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偏愛イデオロギー  作者: 真木
第四編 極悪プリンセス
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<遥花>9

 兄たちの祝言が三日後に迫り、毎日が早回しで進んでいくようだった。


 兄が怪我をしてまだ一週間も経っていない。せめて祝言を延期することを勧めたかったけれど、様々な組の幹部や会社の者たちが集まる中でそれは難しいようだった。


 私は祝言の準備や兄の看病をして過ごした。そうは言っても、組関係も会社関係も私はほとんど部外者だったから、悲しいけどできることは少なかった。


 そんな折、真夜中にふと目を覚ました。そうしたら寝付けなくなって、私は数度寝返りを打ってから起き上がる。


 障子を開けると窓越しに月が浮いているのが見えた。冴え冴えとした月明かりが部屋に入り込んでくる。


 肩に羽織をかけて縁側に出る。少しの間、丸い月を仰いでいた。


 幼い頃の私は、夜中に目を覚ますと決まって兄の部屋を覗いた。


 兄はたいてい起きていて、勉強や時には仕事をしていた。


――遥花。


けれどいつも鍵は開けておいてくれて、私がそうっと扉を開くと彼は微笑んで振り返った。


 それでぐずる私を自分の布団に寝かせて、眠るまで話を聞かせてくれたり静かな音楽をかけてくれたりした。


 そしてそんな子どもっぽいことをした私が父に叱られないように、私が眠りにつくと起こさないようにそっと私を自室の布団に戻しておいてくれた。


 だから私は真夜中に目を覚ますと、自然と兄の優しい話し声と綺麗な旋律の音楽を思い出す。


 そういえばレオを最初に好きになったのも音楽だった。彼はその身にいつも水晶細工のように繊細なメロディをまとっている気がする。


 目を伏せて私は思う。


 兄の声とレオの音楽、二つは共存できないものなのだろうか?


 兄が望むなら、私は一生結婚もせずこの家で命を終えてもいい。


 けれど、私はレオのことが好きで、一緒にいると幸せな気持ちになれる。そのことを正直に兄に話して、理解してもらうことはできないだろうか。


 ……他の誰にわかってもらえなくともいい。大切な兄にだけは知っていてもらいたかった。


 私は廊下を歩いて母屋の方に来る。兄の部屋の明かりはまだついていた。


「少しだけ」


 見張りの家の者にそっと告げると、彼は一瞬迷いながらも道を空けてくれた。


 祝言が間近に迫っていて私のことなど構っている時ではないだろうけど、このことだけは伝えておきたかった。


 そっと襖に手をかけて、私は手を止める。


「いっそ殺してほしいと言っていますが、どうしますか」


「そう簡単に楽にしてやるか。そこまで甘く見られているとは心外だ」


 側近と小声で会話している低い声は兄のものだった。


「酒は一滴も飲ますなよ。肝臓が売れなくなる」


「しかしあんなヤク漬けの体が売れますかね」


「遥花の草履代の足しくらいにはなるだろう」


 兄と側近は愉快そうに小さく笑った。


「あれの姿を一目見たなら、親父殿もあいつを今更後継者になど考えんだろうに」


「本当に何を血迷ったんでしょうかね。龍二様も刺されてやることはありませんでしたのに」


「親父殿を完全に隠居させる口実が必要だったのさ。古参の奴らの手前、親父殿をあいつと同じに扱うことはさすがに出来んからな」


 私は凍りついたように立ち竦む。


 兄を狙ったのは父だったと、彼らは言っている。そしてあいつとは……と、私は息を飲む。


「五年か。まだ足らないな」


 兄は暗い笑い声を漏らす。


「遥花を娼婦の子と嗤った身の程知らずが。この世の地獄に沈むがいい」


 私は思わず襖を開いていた。


「……お嬢様」


 控えていた側近の者たちに動揺が走る。


 しかし兄は私に向けるいつも通りの優しい微笑みを浮かべて問いかけた。


「どうした、遥花。眠れないのか?」


 兄は軽く側近たちを手で追いやる。


「お前たち、今日はもういい。下がれ」


 彼らは慌てて礼を取って退出していった。


 二人だけになった部屋で、私は喉を詰まらせながら言う。


「にいさま……龍一兄様にひどいことをしたの?」


 兄は穏やかに私を見やっただけで答えなかった。


 けれど答えなどなくても、兄たちが話していたのは間違いなく長兄のことだとわかってしまった。


「私が娼婦の子なのは本当よ。お母様は体を売って生活していらっしゃったわ」


「遥花は高貴の子だ。龍一より父より、もちろん兄より尊い」


 兄は立ち上がって歩み寄ると、そっと私の頬に手を触れる。


「何者も遥花を嗤うことは許されないんだ。罰を受けなければならない」


「龍一兄様を助けて、にいさま」


 私は兄の袖を掴んで顔を上げる。


「あの方だって私たちと血のつながった兄様よ。お願い……っ」


 長兄は兄と違って私を軽蔑の目で見る以外のことをしなかった。けれど憎んでいるわけではない。


 足から力が抜けてその場に座り込む。ぽた、と膝の上に涙が落ちた。


「遥花。泣かないでくれ」


 兄は膝をついて私の前に屈みこむ。


「元の生活に戻して差し上げて……」


「遥花が泣きやんでくれるならそうしてやりたい。だがおそらく無理だ」


 薬とか臓器とかの話が耳に入ってきた。もう元の生活に戻れる体と精神状態ではないのかもしれない。


「だったらせめて……楽に……」


 胸がつぶれるような思いで呟いた私の口を、兄は手で覆った。


「それを言うと遥花が苦しむ。言わない方がいい」


 兄は私の頭を撫でて、ひょいと抱き上げる。


「大丈夫。悪いようにはしない」


 隣室に敷いてあった自分の布団に寝かせて、兄は掛け布団を肩まで引き上げる。


「いい子だから今日はもうお休み。遥花」


 兄は私には惜しげもなく優しさをくれるのに、その優しさの半分も長兄には向けられないものなのだろうか。


 その夜、私の目から雫がつたうたび、兄はそっとそれを拭っていた。

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