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偏愛イデオロギー  作者: 真木
第四編 極悪プリンセス
40/68

<遥花>8

 兄の怪我は幸いにも脇腹を掠めただけだったらしく、二週間もすれば完治すると聞いて胸を撫で下ろした。


 元々鍛え上げられた若い体だ。医師も傷の治り具合に舌を巻いていた。


「遥花と一緒に過ごせるなら怪我をするのもいいな」


 さすがに三日間は家で休んでいた兄だったが、側についている私に笑い返すくらいの余裕があった。


「にいさま、私にできることはないかしら」


 楓さんは兄に代わって昼夜を問わず仕事をこなしている。重要な案件は兄に指示を仰ぐようだが、立派に姐としての役目を果たしている。


「そうだな。兄の代わりに、うちの系列で最近リニューアルした店に行って来てくれるか」


 少しは役に立てるかと思って顔を上げた私に、兄は優しく微笑む。


「遥花の好きなイタリアンだ。遥花はここのところ少し食欲がないだろう? 気分が変わっていいかもしれない」


 結局私のための提案なのだとわかって、私は兄に申し訳なくなる。


「遥花が元気なことが兄には一番の薬なんだ。それにまた怖い思いをさせてしまったからな。くつろいでくるといい」


 パーティの日、涙の跡を消せないままに兄の元に戻った私を、彼は自分の傷のことさえ忘れたように心配してくれた。


 兄がそう言うならと、私はその夜イタリアンレストランに出かけることにした。


 郊外の閑静な住宅街の中にある洒落た洋館は完全予約制で、私が行ったら当然のように貸し切ってあった。


 静かな夜を過ごせるように兄が配慮してくれたのか、一緒にテーブルにつくのは操さん一人で、家の者たちも外に出ていた。


 操さんと時折言葉を交わしながら、私はゆっくりとしたペースで出される料理を口に運ぶ。


 会話の邪魔にならない程度にバイオリンの生演奏が響いていた。しっとりとした、ロマンチックな音色だった。


 ロシアの民謡やクラシックは美しいなと、私はぼんやりと思う。


「いかがでしたでしょうか、お嬢様」


「大変結構でした。ありがとうございます」


 食べ終わるとシェフが出て来たので、私は礼を述べる。


 料理もおいしかったが、静かにかかるバイオリンの音が心地よかった。兄の怪我で波立っていた心をほっと楽にしてくれた。


「失礼」


 食後のカプチーノを飲み終えたところで、私はお手洗いに立つ。


 廊下を渡って席に戻る途中のことだった。


「……あなたは」


 ベランダから降りてきた金髪の青年は、私の姿をみとめるなりぺこりと会釈した。


「確か、アレクセイさん? レオの従兄弟の」


「記憶に留めておいて頂いてありがとうございます」


 流暢な日本語で告げて、青年は深く頭を下げる。


「先日は主人が失礼をいたしました。心よりおわび申し上げます」


「あなたが謝ることはありませんよ」


 私が苦い笑みを刻むと、彼はそっと私にカードを差し出す。


「これは主人からです」


 二つ折りになったそれを開くと、そこには拙い日本語で文章がつづられていた。


『ハルカへ


この間はごめんなさい。ハルカを傷つけるつもりじゃありませんでした。


僕には泣くほど大切な人も、怒るほど愛している人もいないので、わかりませんでした。


でもハルカに悪いことをしたということはわかります。ごめんなさい。


ハルカの好きなものが何か知らないので、僕の好きなものをあげます。


ハルカが喜んでくれると嬉しいです。 レオニード』


 私はメッセージカードに目を通してふと気付く。


「もしかしてこのバイオリン……レオが弾いているのですか?」


 レオのおわびとはこの店に入ってからずっと奏でられている静かな音楽ではないだろうか。


「はい」


 アレクセイさんは頷く。それに、私は心の奥が熱くなる。


「……レオはあなたに会って変わったと思います」


 信じられない思いで黙ってしまった私に、アレクセイさんは感慨深げに呟く。


「彼が『僕だけ楽しくても駄目だ』と言うのを聞いて耳を疑いました。昔から、自分が楽しければそれでいいという人だったのに。でもあなたと会ってから、あなたと一緒に楽しみたいと言うようになりました」


 私は遊園地に行った日のことを思い返す。


――ハルカもやろうよ。


 レオは自分勝手に過ごしているように見えながら、必ず私を振り返った。ジェットコースターもゲームも一緒に楽しんだし、ホットドッグもぬいぐるみも私に買ってくれた。


「時間がありませんので私はこれで失礼します」


「あ、あの」


 何か言おうとした私に、アレクセイさんは穏やかに告げる。


「あなたがまた会いたいと思えば、レオは必ず会いに来ますよ。一緒に楽しめる機会を彼は逃したりしません」


 ではまた、と囁くように言って、アレクセイさんはベランダから夜の闇に消える。


 私は夢の中にいるような心地で、静かに奏でられるバイオリンの音に耳を傾けていた。

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