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偏愛イデオロギー  作者: 真木
第四編 極悪プリンセス
38/68

<遥花>6

 それから二日ほどして、私のところに訪ねてきた女性がいた。


「遥花。龍二と口利かないんだって?」


 兄の婚約者で、私と兄の幼馴染である楓さんは、会うなり苦笑を浮かべて言った。


「一体どうしたの?」


「にいさまがぬいぐるみを取ったの」


「あらあら、困ったわねぇ。どうしたら機嫌を直してくれるのかしら」


 楓さんは兄と同い年である二十七で、世話焼きで優しい人だったから、小さい頃から私のお姉さんのような存在だった。


 今日は本来、十日後に控えた兄と楓さんの祝言の時、私がつける帯を一緒に選んでくれることになっていた。


「帯だって、もうとっくに決めてあったのに。にいさまが気に入らないって言うから」


 兄があちこちの店から選ばせた帯を部屋いっぱいに広げながら、私はむっとする。


「遥花には一番いい帯を付けさせたいのよ、龍二は」


「一番いい帯をつけるのは姐さんよ。私じゃないの」


 早くからこの組の姐になることが決まっていた楓さんだったから、私は彼女のことを姐さんと呼んでいた。


「これなんてどうかしら? ちょっとつけてみて、遥花」


 楓さんは自ら私の腰に帯を巻き始める。


「まあ許してあげなさい。龍二は遥花がかわいくて仕方ないの」


 頭を撫でるように、楓さんは優しく言葉を紡ぐ。


「遥花は龍二にとってお姫様だもの。大切に慈しんで守りたいのよ」


 私は目を伏せて黙る。


 大切にされていることはわかっている。それに私も甘えてしまっている。


「どうかした?」


「姐さんは、もっと私を叱るべきだと思うの」


 彼女に叱られたなら、私も兄と距離を置こうとすることができるはずだ。


「姐さんはにいさまと並び立つ人なんだから、いつまでもにいさまの足を引っ張ってる私を怒っていいはずなの」


「遥花。どうしてあたしが姐になるかわかる?」


 楓さんは穏やかに告げる。


「あたしの組のため、ここの組のため、他にもいろいろな利害関係があるけれど。一番の理由は龍二とあたしの利害が一致したからよ」


「にいさまと姐さんの利害?」


「そう。あたしは一番いい男と結婚したいという願望で」


 苦笑しながら、彼女は続ける。


「龍二は自分の次点を任せる者を得られる」


「それはにいさまと姐さんが一緒に組を守っていくということではないの?」


「龍二はね、自分一人で組くらい守れるわ」


 あっさりと言いきって、彼女は静かに告げる。


「ただ、『姐』が要るのよ。あたしがいれば、敵の矛先は遥花でなくてまずあたしに向かうでしょう?」


「え?」


「そして自分に何かあった時に、あたしが遥花を守れるでしょう」


 私は慌てて振り向く。


「姐さん。にいさまは姐さんを大事に思ってる。私よりも」


 楓さんはゆっくりと首を横に振る。


「龍二が一番大切に思っているのは遥花よ。幼い頃から見てきたのだから、それくらいわかってるわ」


「そんなこと」


「龍二は強い男だけど、遥花をなくしたら倒れる。あなたは龍二の心臓だもの」


 楓さんは手際良く、綺麗に帯を締め終える。


「脅しみたいなことを言ってごめんね。あたし自身もあなたのことを愛してるし、守りたいと思ってるわ」


 ついと私を見上げて、楓さんは真っ直ぐに私をみつめる。


「でもお願い、遥花。龍二は誰よりあなたを大切にするから、彼の側にいてあげてほしいの」


「……」


「甘い言葉に惑わされないで。龍二以上にあなたのことを思ってくれる男は他にいないはずよ」


 楓さんが誰のことを言おうとしているのか、私は訊かなくてもわかった。


 私が黙っていると、廊下の方が騒がしくなる。


「帯選びの最中か。気にいったものはあったか?」


 兄は部屋に入って来てそっと尋ねる。


 ぷいと顔を背ける私に苦笑して、楓さんが帯を示す。


「これなんていいと思うの」


「遥花、どうだ?」


 ここで何も答えないのは、選んでくれた楓さんに悪い。


「……姐さんが選んでくれたものでいい」


 私がようやく口を利いたからか、兄はほっと顔を綻ばせて笑う。


「そうか。よかった」


 兄は優しく頷いて告げる。


「他の帯は操に管理させるからな。思い出したら出させるといい」


「他の帯?」


「この部屋の帯は全部遥花のものよ。龍二が買ってあるの」


 一本百万は下らないはずだ。なんて無駄遣いと、私は顔をしかめる。


「どうしてそんなことするの」


「遥花に怖い思いをさせた詫びだ。もちろん遥花の成人式には別のもっといい品を用意させる」


 絶句した私に少し屈みこんで、兄は困ったように首を傾ける。


「だから兄を許してくれないか。遥花に口も利いてもらえないと、兄はどうしていいかわからない」


 私は頷いて、許すわ、と呟くしかなかった。


「それから遥花をさらった男の身元はわかった。もう来ないはずだ」


 兄の言葉に、私は血の気が引くような思いがした。


「もう来ないって……まさか」


 暴力的なことをしたのではないかと私は青ざめる。


「大丈夫よ、遥花。それなりの金品を渡して遠ざけたっていうだけ」


「そう……」


 楓さんが横から言葉を挟むので、私は曖昧に頷く。


「かわいい女の子ならあたしがみつくろうわ。遥花の周りを飾ってあげる」


「よして、姐さん」


「あら、どうして?」


 私は少し俯いてぼそりと言う。


「かわいい子がいっぱいいたら、にいさまが浮気するかもしれない」


「あら、ふふ」


 楓さんは兄と顔を見合わせてくすくすと笑う。


「誤解だ、遥花。兄はそんなことはしない」


 兄は甘やかすように私の頭を撫でて笑っていた。


 二人が去った後、私は部屋を抜け出して離れに置いてある電話の元に向かった。


 人がいないのを見計らって、大急ぎでレオの言った番号に電話をかける。


『はい?』


「レオ、逃げてくださいっ」


 私はレオの声を耳で聞き取った途端、早口でまくしたてる。


「あなたの素性が兄に知れました。もうそこに留まっていてはいけませんっ」


 楓さんは遠ざけただけと言っていた。


「兄は必ずあなたに報復します。お願い、逃げて……っ」


 ……けれどそれを本当と信じるほど、私は子どもでも兄の怖さを知らないわけでもない。


『あはっ』


 必死で告げた私に、レオは楽しそうに笑い返した。


『ハルカから電話がもらえた。嬉しいや』


「そんな呑気なことを言ってないで……」


『僕の素性、本当にわかったのかな?』


 レオは電話口で悪戯っぽく笑う。


『わかったなら報復なんてできないはずなのにね。まあいいや』


 私が首を傾げると、レオはそれが見えているように続ける。


『ねえハルカ。僕は考えてみたんだ。君が僕にとって何なのか』


 レオは神妙に言葉を重ねる。


『けど、まだわからない。だから決めた。もう一度君に会いに行く』


「なっ……いけません」


『ハルカは僕のこと好きって言った。それは嘘なの?』


 慌てた私に、レオは無邪気な子どものように問う。


「いえ、嘘ではありません」


『僕も君のこと好きだよ。好き同士が会って悪いことなんかないよね?』


 レオは声を弾ませて言った。


『じゃあまたね。楽しみにしてるよ』


 一方的に電話が切れる。


 私は嵐が通り過ぎたような気分がして立ち竦む。


 ……けれどおそらく、本物の嵐はこれから来るのだろうと思った。

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