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偏愛イデオロギー  作者: 真木
第三編 片恋リフレイン
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後編<アレクセイ> 7

 ビルを脱出して地下鉄に乗った後、俺たちは堤防沿いに歩いて帰った。


「父さん、よくハッタリだけで誤魔化したね」


「ん? なんでハッタリだと思うの?」


「アレクが安樹の側を離れるわけないじゃないか」


 そう言うと、父はくすりと笑った。


「ばれちゃった? そっかぁ、アレク以外の誰かにしとけばよかった。失敗失敗」


 悪びれずに言ってのける父の顔はあっけらかんと明るくて、とても先ほどまでの傲岸不遜な男と同一人物だとは思えなかった。


「しかも俺たちが父さんといるのが一番幸せだって……。父さん、母さんの時も同じこと言ったらしいね」


「ああ。リュウジが言ったの?」


「二月にね。『遥花は自分といるのが一番幸せ』だと言いきったって」


 父はふいに立ち止まった。


ふう、と息をついて、道の脇のコンクリートのブロックに腰を下ろす。


「ちょっと、話さない?」


「歩きながらでいいじゃないか」


「ちゃんと話しておきたいんだ。ミハイルにも」


 俺が首を傾げながら父の隣に座ると、彼は苦い顔をして切りだす。


「今日のコンサートの帰りに、エンジェルに言われたんだ。最近ミハイルが僕に突っかかるような態度を取るのは、僕がハルカのことを忘れたようなことを言うからだって」


 それはあながち間違っているわけでもなかったので、俺は口をつぐむ。


 父は俺の沈黙で内心を察したのだろう。少しの間黙って、空を仰ぎながら話しだした。


「ミハイル。僕が純粋な興味でハルカをロシアに連れて行ったのは本当なんだ」


 ここは街中だから、遠くでは車が行きかっているだろうに、堤防の上はその喧騒の気配程度しか感じられなかった。


「リュウジの元からハルカを連れていく時に言ったその言葉も、ほとんどハッタリだった。幸せにできるような自信、なかったよ。僕はその頃からゲイだったし、ハルカのこともちょっと面白い友達くらいにしか思ってなかったんだ」


 けれど周りの草木がざわめく音は俺たちを取り囲むようで、やむことがなかった。


「ロシアで一緒に暮らしてる日々は楽しかったけど、彼女への思いはあくまで好意だったと思う。子どもができたらますます仲良くなったし君たちはかわいく思ったけど、僕はハルカが僕に向ける無心の愛情に、ただ戸惑うばかりだった」


 すう、と父は息を吸う。


「変わったのは、ハルカが死んだ時からだ」


「……やっぱり母さんは、抗争で死んだの?」


 そっと問いかけると、父は首を横に振る。


「わからない。その頃抗争が激化したのは本当だけど、ハルカを襲った事故が関係していたか、真相は今でも調べてる」


 父は冷えた空気を吸い込んで俯く。


「ハルカの遺体を見た瞬間、僕は倒れたんだ。目が覚めたら、今度は兄弟やアレクの前でみっともなく泣いた」


 唇を噛んで、父は一つ一つ確かめるように言う。


「その時ようやく気づいたんだ。僕はハルカを愛してた」


 父は星を仰ぐように顎を上向ける。


「いつからかわからない時に恋をして、気づかない内に思いが募って、失くしたら生きられなくなってた」


 そして、と父は俺を振り返る。


「怖く、なった。誰かを失うことが。僕はそれまで怖いものなどなかった。銃も脅しも何も僕の感情に触れなかった。だけど父が連れてきたお前たちを見て……どうしようもなく怖くなったんだ」


 俺の肩に手を触れる。それは壊れ物を扱うように、優しい手つきだった。


「知っている? ミハイル。本当に大切な恋はね、繰り返すんだ。愛しさが巡ってくるたび想いは降り積もる。僕は気づかない時からハルカに恋をしていて、ハルカがいなくなっても恋し続けた。何度でも」


 父は碧玉の双眸でじっと俺を見据える。


「ハルカが生きている内に、もっと愛してるって言っておけばよかった。君が僕のすべてだと伝えたかった。その後悔だけで後を追いたいと願った弱い僕だけど……ハルカはお前たちを残していてくれたんだ」


 感謝してる、と呟いて、父は俺に微笑みかけた。


「だからお前たちだけは守るよ。僕はこの世で、ミハイルとエンジェル以上に愛しい人はいないんだから」


「……ふん。余所に恋人ばっか作っててよく言うよ」


 意地悪心を出して軽蔑したように言ってやると、父は真顔で頷く。


「ハルカとお前たちには敵うはずもないよ。ユキでさえね。……愛してるよ、ミハイル。どこにいても、お前たちを想ってる」


 そこには幼い日から降り注ぐように俺たちに与えられた父の愛情が見えて、俺はほんの少しでも父の俺たちへの想いを疑ったことを恥じた。


 少しの間、俺は黙って頭を撫でられていた。


「クラスメイトにでも見られたらどうするんだ。ただでさえ父さんはそっちの人なのに」


しかしやがて大学生であるという自覚が戻って来て、うっとうしげに手を払う。


「それに俺たちもいつまでも守られるだけの子どもじゃない。今回はアレクに負けたけど、何度でも俺は挑戦するからな」


「いいよ」


 父はあっさりと頷いて、見ているこっちが恥ずかしくなるような甘い笑顔を浮かべた。


「エンジェルが一番幸せで、ミハイルが一番幸せなのが二人でいることなら、僕は何も反対しない。それが証明される日まで、僕は見守り続けるだけだから」


 でも、と父は指を立てて言う。


「まだアレクを引き離すわけにはいかないからね。アレクが仕事だけでお前たちを守ってるわけじゃないことは、わかってるんだろう?」


「……」


 俺はぷいと横を向いて黙った。


 わかりきったことほど、認めることが難しいこともある。


 幼い日の光景が自然と目の前に浮かぶのを、悔しさとともに受け入れながら俺は目を閉じた。

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