前編<レオニード> 3
初恋の彼には午後に会いに行くということで、私とミハル、父とアレクの四人は午前中の間一緒に遊ぶことにした。
遊ぶ、といっても、父の大好きなゲームセンターで好き勝手にいろいろプレイするということだから私たちはまだ健全といえる。
ちなみに父の遊び方は、財布に入っている持ち金すべてを使ってゲームセンターのあらゆるゲームを片っ端から制覇するという、アバウトかつ絨毯爆撃的なものだ。
「エンジェル、シューティングやろーよ」
「いいよ」
ハンドガン型の機械を構えて射的をするゲームの前で、父が私にこいこいと手招きした。
この都内でも有数のゲームセンターのゲームはほとんど全制覇しているから、私はどんなゲームでも気楽に参加できる。
「あすちゃんがんばれー」
「レオになんて負けないんですよ」
向かってくる敵を次々と撃ち落としていくゲームで、私はミハルとアレクに応援されながら意識を集中させた。
「……ふう。終わり」
「えー、待って待って。僕まだだよぉ」
先にクリアしたのは私の方で、父はまだ半分ほどのところでつっかえていた。
父も射的ゲームは何度となくやっているが、あまり得意ではない。狙う位置がいつもずれているのだ。
「父さん、もうちょっと下だよ」
「あ、もうっ。この敵がいやなの」
「なんで?」
「怖いんだもん。ゾンビってどろどろしてて」
その言葉に私は思わず笑った。ミハルも以前同じことを言ったからだ。
横を見るとミハルも手を口にやってくすりと笑っていた。
「こらミハル。ミハルだって怖いって言ってたじゃないか」
「僕はまだ子供だからいいんだよ。父さんなんて四十過ぎだよ?」
それはそうかもしれないと、私は同意を求めてアレクを見た。
「アレク?」
アレクはこちらを見ていなかった。私たちに背を向けて別の方向に視線を走らせている。けれどすぐに私の視線に気づいて振り向いた。
「どうしました、安樹」
「何かあったのか?」
私が少し首を傾げると、アレクは微笑んで財布を取り出した。
「いいえ。そろそろコインが足らなくなってきたでしょう? 換金してらっしゃい」
「お小遣いがあるから大丈夫だよ」
「まあまあ。言いだしたのはレオですし、ミハルだってレオの財布に頼ってるんですから。私は安樹の分を出しますよ」
アレクは私たちに甘すぎる。いくら父の恋人というか奥さんであるとはいえ、何も私とミハルを母親以上に甘やかしてくれる必要はないと思うのに、彼はいつも優しい。
「アレクが毎日頑張って働いて稼いだお金じゃないか。もらえないよ」
彼は日本で会社員をやっているが、私たちの面倒をみるためにいつも早めに帰ってくる。仕事をしていながら家事全般をこなすなんて、共働きのお母さん並みに大変なはずなのだ。
「いいんですよ」
だけどアレクは微笑んで押し返した私の手に千円札を握らせた。
「たっぷりあげておかないと。お小遣いが足らないからと、夜のアルバイトなんてし始めるくらいなら」
「うー。アレク、まだ怒ってる?」
「怒ってますよ」
にこにことしながら、アレクの青い目は私から決して逸らされることがない。
二ケ月ほど前、私はミハルへのプレゼントを買うために夜のお仕事をしていた。その時に凄く苦手な人に会ったりミハルに彼女疑惑があったりひと悶着あったりして少し……いや、かなり大変だったけど、一番の問題はその後に控えていた。
――安樹、ミハル。そこに座りなさい。
バイトが終わったその日に家に帰ったら、アレクが正座して待ち構えていた。つまりお説教体勢万端だった。
――アルバイトをするなとはいいませんよ。でも私に嘘をついていたのはいけません。
決して声を荒げることはないが一度怒るとなかなかその怒りを収めてくれない持続タイプのアレクに、たっぷり朝までお説教された。
まあ、私とミハルが完全に悪かった。私もミハルもしおらしく頭を垂れて、もうしませんと繰り返し誓った。
それに、アレクに部活だと嘘をついていたのは実際心苦しくもあったのだ。
――安樹。私には本当のことを言ってもいいんですよ。
幼い頃から、繰り返しそう言ってもらっていたからだ。
私はミハルのことをいつだって守らなければいけないと気を張っていたけど、母は幼い頃に失ったし、父も留守がちだった。誰かに弱音を吐きたかった。
――私の前でがんばることなんてありません。ほら、また口の端が苦しそうにしてる。
私の弱い内面を一番察してくれて、守ってくれたのがアレクだったのだ。
――寝るまでアレクがお話してあげます。
母を亡くしたことをいつまでも理解できずに寂しがっていた私に、ロシアの民話をたくさん聞かせてくれたアレク。その大きな手と優しい声が私は大好きで、ゆりかごの中に揺られているような安息に包まれて眠りについていた日々が今でも心に残っている。
ほとんど記憶が薄れてしまっている母より私の中で「お母さん」になっているアレクには、なるべく心配をかけてはいけないし嘘もついてはいけない。それを再確認する。
「これで最後だよ」
仕方なく千円札を受け取って換金機まで向かう。
休日のゲームセンターは小さな子供から大人までごった煮で、あちこちで笑い声やちょっとした悲鳴なんかも聞こえたりする。みんな楽しそうで、私も自然と心が浮き立つのを感じた。
だけど一番近くの換金機は並んでいていっぱいだったから、裏手にある少し離れた所まで向かうことにした。
「ん。やっぱり」
小さい機械だから見つかりにくく、数度しか来たことのない人だと見落としてしまいそうな奥まった場所にある。予想通り、そこには誰もいなかった。
千円札を投入口に入れようとして、ふと顔を上げる。くぐもった声がUFOキャッチャーの向こうから聞こえたのだ。
「ちょっと借りるだけじゃねぇか」
「いいだろ?」
私は柄の悪い声に眉を寄せて、千円札をポケットに仕舞った。
足早にUFOキャッチャーの横まで歩いて行くと、そこに三人の大学生くらいの男たちと、それに絡まれているカップルの姿をみつけた。
「財布出せよ」
楽しい遊びの場のはずなのだが、こういう輩がいるのがゲームセンターのお約束だ。全く腹が立って仕方ないのと同時に悲しい。
「人の金を奪うなんて最低だと思わないか」
私が歩み寄ると、三人の男たちは同時に振り返って私を舐めるような目つきで見た。
「女じゃねぇか。今取り込み中なんだよ」
「カツアゲ中の間違いだろう。いいから二人を解放しろ」
たぶん年は私と同じくらいだろう。絡まれていたカップルの驚いた視線を横に受け流しながら、私は腕組みをして睨みつける。
「お前が代わりに金を払ってくれるってのか?」
「まさか。人から金を奪おうとするような低俗な奴にやる金なんてない」
こちらに男たちが近づいてくるのを見計らって、私はカップルに目配せする。今の内に早く逃げるようにと合図する。
「大体な、自分の小遣いの範囲で遊ぶから楽しいんだろ?」
三人が完全にカップルに背を向けた時、カップルはさっと奥のゲーム機の後ろに姿を隠す。それでいいと、私は口の端に笑みを刻んだ。
「何笑ってんだよ」
どん、と肩を突き飛ばされたけど、力を受け流して私は斜めに方向を変えただけだった。
さて、多少痛い目に遭ってもらっても構わないかな?
「この喧嘩、買った」
構えを取ろうとした所で、私の目の前に割り込んできた影があった。
短い黒髪に飾り気のない格好、同年代でもがっしりしている体格。しかし何より幼い頃から見慣れたその輪郭に、私は一瞬で誰かを察してその肩を掴んだ。
「竜之介っ。なんでここにいる?」
「友達と来た。とりあえずお前はどこか行ってろ」
「いや、そんなことはどうでもいい。なに人の喧嘩を勝手に買ってるんだ」
肩を揺さぶると、竜之介は黒々とした目を不機嫌そうに細めて言い放つ。
「お前こそ自分が女だってことをいい加減自覚したらどうだ。自分から厄介事に手を突っ込むのはやめろ」
「お前は女、女とうるさいんだ。これくらい私一人で何とかなる。お前こそどこか行ってろ」
どうしてこいつとはいつも行く先々で会わなければいけないのだ。信仰心が薄い私が言うのも何だが、神様は私によほど意地悪がしたいのか。
「おい、お前ら……」
「黙ってろ」
「取り込み中だ」
私と竜之介は睨みあったまま、男たちに適当に声を放り投げた。天敵を目の前にして、他の用事に構っている暇はない。
「俺は怪我する前に止めてやってるんだろうが。感謝されこそすれ、なんで恨まれるんだ」
「怪我なんかするもんか。竜之介は私の邪魔がしたいだけだろ」
いつもだったら、この私と全く相いれない価値観の持ち主と対峙するのはいい加減面倒になってきて、一言二言文句を言って通り過ぎるくらいのことはしたかもしれない。
――おい、やめろっ。
ただ、私の忘れられない記憶がどうしても竜之介に「守られる」ことを拒むのだ。
――あすちゃん。ちょっと待って。
私は今まで数えきれないほど喧嘩に巻き込まれたけど、殴り合いになったことは実はほとんどない。いつも側にいたミハルが、私が手を出しそうになると自ら割って入って相手を無理やり説得してくれたからだ。
ミハルの説得技術は侮れず、今まさに喧嘩に突入しそうな瞬間でも、ミハルが寄って行って耳元で一言二言話しかけるだけで相手は拳を収めてくれることが多かった。
――あんじゅはおんなだぞ。てなんてあげるなっ。
……ただ、たった一度だけ。ミハルがいない時に私は喧嘩に負けて、あろうことか竜之介に庇われてしまったことがあった。
――おれがけんかかってやるっ。
確か幼稚園の頃だったが、竜之介は私では手も足も出なかった相手を一人でノックダウンさせてしまった。
――あれく。きょう、りゅうのすけにまけた。
ふてくされながら家に帰って、割烹着を着て夕食の準備をしていたアレクに私はしがみついた。
――またまけた……っ。
――おやおや。それはくやしかったですね。
頭を撫でてくれるアレクの割烹着に顔を埋めて、ぐすぐす泣いたことを覚えている。
――大丈夫、大丈夫。いつか勝てるようになりますよ……。
「お前にだけは邪魔されたくないんだ」
私にはその記憶が悔しくて悔しくて、それ以後絶対に竜之介にだけは守られないと心に決めたのだ。
「このっ」
私と竜之介が睨みあったまま動かないのを見て、三人の内一人が掴みかかって来た。それを、私と竜之介は同時に手を掴んで後ろにひねり上げる。
「黙ってろって」
「言ったろ」
手に力をこめて男を投げ飛ばすと、他の二人の方に向き直る。
「どっちからだ」
「面倒だ。まとめてかかってこい」
正当防衛にしなければいけないから、自分から殴りかかったりはしない。それがルールだ。
掴みかかろうとする男たちに、私と竜之介が構えた時だった。
「もしもし。少々お聞きしたいことが」
いつの間に来ていたのだろう。アレクが、男たちの真後ろに立って首根っこを掴んでいた。
「ほら、あなたも立って。こっちこっち。安樹、竜之介君はここで待っててください」
アレクは半ば引きずるようにして床に倒れていた男もまとめてUFOキャッチャーの向こうまで連れて行くと、そこで何か話しかけているぼそぼそとした声がした。
数十分くらいは、そこで話し込んでいたように思う。
そしていきなり三人の影が消える。私が驚いてUFOキャッチャーの向こうに駆け寄ると、そこでは三人が尻持ちをついて目を閉じていた。
そんな彼らの横には、なぜか缶ビールが転がっている。
「え?」
「彼ら、酔っ払ってたんですよ」
そんな風には見えなかったと思ったけど、確かに彼らから酒気が立ち上っているのを感じて私は眉を寄せる。
「手を出さずに済むならそれに越したことはないでしょう? ちょっと宥めて飲ませればこの通りですよ」
「アレク、すごい……」
アレクの身の安全を心配していた自分が少し恥ずかしかった。
彼はおっとりと微笑んで言う。
「私はさえないおじさんですから。『説得』するくらいしか保身術がないんですよ」
叩いたら折れそうなほど細くて優雅な物腰のアレクが、なんだかとても頼もしく思えた。




