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偏愛イデオロギー  作者: 真木
第三編 片恋リフレイン
21/68

前編<レオニード> 2

 帰宅すると、エプロンをつけたミハルが私と父を迎えてくれた。


「おかえり。あすちゃん、父さん。ごはんできてるよ。今日はね、ボルシチと肉じゃが」


「ああ、いつものだね」


 父が帰ってくる最初の日はいつもこのメニューなのだ。


 二人でにっこりと笑い合うと、ミハルは私を連れてリビングに入る。


 するとリビングで皿を並べていた割烹着姿の男性が振り返って微笑みかけた。


「おかえりなさい、安樹」


 耳に心地よいテノールの声で柔らかく名前を呼んで目を細めると、彼は自然に私の頬にキスした。


「お茶を飲みに行っただけなのにこんな遅くまでレオに付き合わされて。困ったものですね」


「全然遅くないよ。アレクは私を子供扱いしすぎなんだ」


 淡い金髪と青い目の彼は、細身で男性にしてはごつごつした感じがない。少し苦労の跡の滲む白い頬に、目尻の下がった細目でおっとりと私をみつめてくる。


 ……その髪が年々薄くなっていくのは私とミハルと父が苦労をかけているからであって、決して触れてはいけないことだ。


「レオもおかえりなさい。いつも言うことですが、帰ってくるならせめて三日前には連絡をくださいね」


「面倒じゃん。家に帰ってくるのに連絡なんて」


「食事の準備とかいろいろあるんですよ」


 アレクセイ・カルナコフは父の従兄弟で、同い年ということもあって幼い頃から一緒に育ったらしい。けれど父にも私たちにも敬語を使うのは、彼の性分だそうだ。


「このボルシチはミハイルが作ったね?」


「なんでわかった?」


「そりゃあわかるよ」


 父は食卓を一瞥するなりミハルに言う。それに怪訝な顔をした息子に、彼はくすりと笑ってミハルの頬にキスした。


「いい子」


「ちょ、何すんの。やめてよね」


 むっとして離れるミハルがかわいい。キスくらい幼い頃からたくさんしてもらっただろうに、最近のミハルは父に対してちょっと反抗期だ。


「あすちゃんで消毒―」


 ミハルは私に抱きついてほっぺをくっつける。私はそれにくすくす笑って、しょうがないなぁと呟いた。


「いただきます」


 四人でそれぞれの席について夕食を始める。私の家は全員クリスチャンだけどお祈りとかはしない。なぜなら父が信仰心の薄い人で、面倒なことと判断したことは基本的に無視するからだ。アレクに言わせると、昔母にたしなめられていただきますを言うようになっただけましなのだそうだ。


 ロシア人で日本語のあまりうまくない父のために、四人での食卓は自然とロシア語になる。


「今回は何日いるわけ?」


「明後日には経つよ。公演がミラノであるから」


 父が嫌そうな顔をするので、私はごくんとじゃがいもを飲みこんで言う。


「父さんの恋敵がいるんだっけ」


「そうなんだよ。恋敵は世界中にいるけど、イタリアのあいつは一番嫌い。どうしてか妙に鉢合わせるし」


 そこで父はぷすっとむくれて日本語で呟いた。


『ハチに刺されちゃえ』


 その言葉にミハルとアレクは一瞬だけ目配せして、私はなぜそこだけ日本語でダジャレを言うのだろうと不思議に思った。


「父さんもどうしてそのイタリア人にだけはやたらこだわるの?」


「そりゃミハイル。初恋の彼にくっついて離れなかった嫌な奴だからだよ」


「父さん、アレクの前だよ」


 奥さん同然のアレクの前で昔の恋話なんてするものじゃない。そう思って私がたしなめると、アレクは優しく私に微笑みかけた。


「別に私もよく知ってますからいいんですよ。彼のことも、昔のレオの恋愛事情も」


「でも、アレク」


「安樹、私がその程度のことを気にすると思いますか?」


 テーブルの向い側から手を伸ばして、アレクは私の頭をそっと撫でる。


「いつも気にかけてくれてありがとう。あなたは本当に優しい子ですね」


 私はアレクに頭を撫でられると照れて黙ってしまう。彼は幼い頃から声を荒げることなんてほとんどないくらいに優しくて、本当のお母さんのように温かかったから私もつい甘えてしまうのだ。


「……」


「おや、なんですか二人とも」


 ふと目を上げると、父とミハルが揃ってじぃっとアレクを見ているところだった。


「ずるい。アレクばっかりべたべたして」


「そうだよ。ずるいよ」


 父とミハルは揃って子供っぽく言葉を紡いだ。


 何だか子供が二人いるみたいだな、と私は苦笑する。


「それで、父さんは明日その初恋の彼に会いに行くんだよね」


 とりあえず父の関心を逸らそうと思ったら、彼はあっさり乗って来た。


「うん。彼は僕が日本に留学した時に初めて会ったんだけど……」


 その辺りの経緯はもう何度も聞いて知っている。


 父レオニード・カルナコフは十八の時に日本の音大に留学したのはいいが、言葉もほとんどわからず途方に暮れていたらしい。


 友達も知り合いすらもおらず、目に映る風景もことごとく馴染みのない全くの異国。今の明るい父からは想像もつかないが当時は内気な性格だったらしく、自分から話しかけることもできなかったそうだ。


 その日、若き日の父は移動教室の場所もわからないまま構内をさまよった挙句、楽譜を派手に落としてそれを拾い集めていた。


――なんでこんな国に来ちゃったんだろう。


 頼りになるものもない心細さに、半泣きになっていたそうだ。


――あれ? 君、留学生?


 そんな父に話しかけて、一緒に楽譜を拾ってくれた男の子がいた。


――専攻はバイオリン、だっけ。聞いたこと、ある。君の音色、とても幻想的、だね。


 彼は片言ながらもロシア語を話してくれたそうだ。


 彼の姿を、父はあらゆる修飾語を使って私に教えてくれた。その辺をすべて私が口に出すのは恥ずかしいのでかいつまんで表現するが、細くつやのある黒髪、切れ長の澄んだ瞳、雪のような白い肌で、つまり父がせっかく拾ってもらった楽譜をもう一度取り落としたような美少年だったということだ。


――名前は何というの?


――……レオニード。君は?


――僕? 僕は、よし……。


 彼は少し考えて、照れたように言った。


――ゆき、でいいよ。次の教室、近く、だから。一緒に行こう。


 その時の彼の微笑みには後光が差していたという。


「天使が舞い降りたと思ったね」


 父はうっとりしながらため息をついてウォッカを喉に流し込んだ。


「ユキは見た目も心も美しい人だった。その後も影から様子は見てたけど、綺麗に年を取って、気品も備わっていってね」


「影ってどこで見てたの?」


「新聞とかテレビだよ」


「へぇ、有名な人なんだ」


 ミハルがどうでもよさそうに相槌を打つ。


「会いに行くのは父さんの好きにすればいいんじゃない。僕は行かないけど」


 父が母のことを忘れたような言い方をするのが気にいらなかったのだろうか。ミハルは最近とみに父に距離を置いた話し方をする気がする。


「本当はあすちゃんを付き合わせるのもどうかと思うけどな。せっかくの休日なんだし」


「まあいいじゃありませんか。彼は音楽をやっている安樹なら一度は会ってみたいような人ですし」


「うん。本当はミハイルも会ってみるといいと思うけどね。しょうがない。ミハイルはお留守番」


 父はくすっと笑ってミハルに言った。


「パパの留守中はアレクと遊んでもらってなさい、ミハイル」


 子供扱いした言葉にミハルがむっとして、私はそのかわいさに思わずぷっと吹き出していた。

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