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偏愛イデオロギー  作者: 真木
第二編 フェロモン星人の逆襲
15/68

後編<楓> 3

 帰りに安樹がバイトしている店を教えてもらうために、その近所で車から下ろしてもらった。


「なんだ。俺がバイトしてるところのすぐ近くじゃないですか」


「安樹ちゃんの友達の母親の、鈴子がママをやってるところみたいよ」


「ああ、なるほど。由衣ちゃんのお母さんですね。何度かお会いしたことがあります」


 バイト先を知った言い訳はこれでいこう。そう決めて、俺は頷く。


「あれ、待てよ。鈴子さんが龍二さんの愛人ってことは、由衣ちゃんは龍二さんの子?」


「ううん。その子は前夫の子だって鈴子が言ってたわよ。それに龍二は、子どもは竜之介しか作らないことに決めてたみたいだし」


「そうなんですか。それにしても楓さんは詳しいですね」


「鈴子は仲がいいしね。よく一緒にお茶してるわ」


 楓さんは微笑みながらクラブの方を見やる。


「いざって時に頼りになるのは女同士のネットワークよ。他にも何人か定期的に連絡取ってるの。子どもはいないけど、愛人の数は半端じゃないから」


 ふと目を伏せて、彼女は呟く。


「それでも、遥花一人には敵わないでしょうけどね。龍二は特定の愛人には入れ込まないって決めてるみたいだけど、遥花は別格。あいつ、遥花が熱出したからって出張先から飛行機でとんぼ帰りしたことあるのよ」


 呆れ調子で楓さんは続ける。


「とにかくかわいくて仕方なかったんでしょうね。遥花が時々嫌がるくらい構いとおしてたわ」


「俺は母のことはうっすらとしか覚えていないんですが、どんな人だったんでしょうか」


 俺が問いかけると、楓さんは少し考えてから答える。


「そうね……外面的には、理想的な大和撫子だったわ。綺麗で、儚げで、優しいけど芯が強くて」


 うっとりとして息をついてから、楓さんは目じりをデレデレと下げる。


「でも私や龍二が夢中になったのは、身内だけに見せた子どもっぽさかしらねぇ。高校生になっても小さい子どもたちと泥だらけになって遊んでたりとか、朝顔の観察記録を毎年つけたりとか」


「ああ。確かにそんなこともあった気がします」


「ほんと、もう、きゅーって抱きしめたくなるかわいさだったのよ。怒っても全然迫力なくってつい笑っちゃう感じ」


 楓さんは笑み崩れたまま肩を竦める。


「まあ確かに安樹ちゃんはそっくりだわ。家に引き込みたがる龍二の気持ちは痛いくらいわかる」


 ふいに肩を落として、楓さんは口元を歪める。


「どうしてあんな早くに亡くなっちゃったのかしらね……はるか」


 龍二と同じで楓さんも、まだ「はるか」に囚われたままなのだ。それを痛切に感じた。


 ふいに俺は道路の向こうを見やって頷く。


「戻ってきた。楓さん、少しいいですか」


「うん?」


 龍二の車がクラブの前につけられたのを見届けて、俺は楓さんの腕を掴むと俺の腕に通した。


 そのまま何食わぬ顔で道を歩いていく。深夜でも、夜の街に人通りは絶えない。ちらちらとこちらを窺う通行人に対するのと同じで、俺は安樹に見せつけるように楓さんを引き寄せながら道を曲がった。


「どうしたの、ミハル。龍二はともかく、安樹ちゃんは絶対誤解するわよ」


「そうですね」


 俺は安樹から見えない場所まで来たのを確認すると、腕を解いて振り返る。


「安樹へ、俺に内緒でバイトなんてしてた罰です」


「あなたって子は」


 楓さんは苦笑気味に言ってくる。


「妹をいじめちゃ駄目じゃないの」


「悪い子にはおしおきです」


 くすりと笑うと、楓さんは目で叱る。


「悪いお兄ちゃんね」


 まったくその通りだと思いながら、俺は楓さんにお礼を言って別れた。



***




 それから三日後の週明け、俺は鈴子ママのクラブ、「初音」でボーイとして働き始めた。


「み、ミハル。どうしてここに」


 安樹は俺を見て大きな目がこぼれそうになるほど驚いた。俺はあらかじめ考えておいた言い訳をして、自分も今日からここで働くのだと伝える。


「駄目だ、ミハル。変な奴に目をつけられたらどうするんだ」


 安樹こそ目をつけられたじゃないかと内心で苦笑しながら、俺はわざと拗ねたような顔を作る。


「やだ。僕もやる。あすちゃん、僕に黙ってバイトなんてしてたもんね。僕もあすちゃんの言うこと聞いてあげない」


 困り果てたように安樹は立ち竦む。


 それにしても、俺の妹は黒服を着てもまた似合う。背の高さと均整の取れた体つきがスマートで、対して大きな琥珀色の目とピンクの花びらのような唇がとてもかわいらしい。短く緩やかなウェーブのかかった髪は長い髪よりも逆に艶やかで、ミステリアスな雰囲気が人の目をひきつける。


 龍二でなくてもこれでは目をつけられてしまう。もう数週間夜の仕事をしていたと思うと歯噛みしたいくらいだ。


「ねえ」


 俺はついと身を屈めて、安樹の顔を覗きこむ。そこには青ざめた顔色と力のない目があった。


「今日はあすちゃん、帰りなよ。調子悪いんでしょ? 夕ご飯も残してたし」


 そうなのだ。安樹は三日前から様子がおかしい。暗い顔で食事の量も減って、大好きな裁縫も手を止めてしまっている。


「ミハルを残して帰れるわけないだろ」


 その原因はたぶん、俺が楓さんと腕を組んで歩いていたことだろう。二日前の朝食の席に現れた安樹の目は明らかに腫れていて、昨夜泣いていたことが簡単にわかった。


「あすちゃん。無理しちゃ駄目だってば」


「私のことなんてどっちでもいいだろ」


 やりすぎた、と俺は眉を寄せながら後悔する。安樹の心は子どもみたいに純粋で傷つきやすいのを失念していた。


「何で怒ってるの? 僕がバイトするの、そんなに気に入らない?」


 だから安樹に不満をぶつけさせようとした。俺が唐突に楓さんのことを言うのは不自然だし、龍二のことも話さなければいけなくなる。しかし安樹が追求してくれば俺が彼女を作ったわけではないと伝えることができる。


「何でもない」


 けれど安樹は悲しそうな顔をして通り過ぎてしまった。俺は咄嗟に言葉が浮かばず、弁解するチャンスを失った。


「……馬鹿か、俺は」


 片割れの心の痛みが伝わってきた気がして、俺は胸を押さえる。


 営業時間が始まってからも、安樹と会う機会はほとんどなかった。意図的に避けられているのはすぐにわかった。


「安樹……」


 俺はたいていのことがそつなくこなせる自信がある。けど安樹にそっぽを向かれると俺は途端に無力になる。頭の中が真っ白になって、とるべき方法が一つも思い浮かばない。


「安樹ちゃん。浅井さんいらっしゃったよ」


「はい。行ってきます」


 厨房に戻る途中で安樹がボーイと話しているのが聞こえた。


「ちょっと待って、あすちゃん」


「ごめん。急いでるから」


 いつもなら俺が声をかけさえすれば必ず立ち止まってくれる安樹だけど、今日は俺の方を見ようともしない。


「緊張するな。浅井さんってアレなんだろ。粗相があったらやばいよ」


 ボーイ仲間が厨房からお盆を持ってきてぼやいているので、俺はにっこり笑って進路を塞いだ。


「それなら僕が代わりに行くよ。奥でいいんだよね?」


 有無を言わせずお盆を奪い取って、俺は足早にその場を歩き去る。


「失礼します」


 ノックをして中に入ると、俺の目に飛び込んできたのは想像していなかった光景だった。


「あすちゃん……っ」


 龍二の膝に頭を乗せてソファーに寝そべり、安樹は荒い息をついていた。


「だから無理はいけないって。熱があるの?」


 俺はお盆ごとテーブルに置いて安樹の側にしゃがみこむと、安樹の額に自分の額を合わせようとした。それを、龍二が手を伸ばして押しのける。


「車を回した。着き次第医者に連れて行く」


「僕も一緒に」


「ミハルは仕事」


 安樹が俺の頬に触れる。


「龍二さんも……このくらいで医者は大げさです。家に帰って寝ればよくなりますから」


「駄目だ」


「駄目」


 不本意ながら、龍二と声が被った。龍二がこちらを睨んだのがわかった。


 結局押し切る形で、俺は龍二の車に同乗させてもらうことにした。安樹が体調の悪い時は絶対に側を離れないと決めているから、ここは譲れなかった。


「すみません。来て頂いたのに何もできない上、医者まで連れて行って頂いて」


 病院でストレスによる睡眠不足と風邪だと判断された安樹は、龍二によって家の前まで送られてくると、申し訳なさそうに頭を下げた。


「頼られるのは嬉しいが、体を壊してはいけない。ゆっくり休むように」


「はい……」


「お世話になりました。あすちゃん、入ろ」


 俺は安樹を抱きかかえるように支えながらマンションに入ると、着替えさせてすぐにベッドに押し込んだ。


「あすちゃん、心配事があるなら僕に言って」


 ベッドの脇に座って、俺はそっと尋ねた。


「こんなことしてたら風邪で済まなくなっちゃうよ。バイトで何かあったの? それとも別のこと?」


 しばらく待っていると、ぽつりとした言葉が返ってくる。


「……あの人」


 安樹は迷いながら続ける。


「龍二さん。苦手なんだ。親切にされてるのに、悪寒がしたり得体の知れない怖さがあって。思い出すと寝付けなくて」


「そうなの」


 彼のことも安樹の不安材料にあったのだと気づいて、俺は頷きながら諭す。


「誰だって苦手な人はいるよ。あすちゃんは悪くない。鈴子ママに頼んで担当から外してもらったら? それができないなら……店をやめた方が」


「やめるもんかっ」


 ふいに安樹は俺を睨みつけて声を荒げる。


「み、ミハルの指図は受けないっ。大体、ミハルだって……っ」


「うん」


 俺は安樹が詰るのを待ったが、安樹は途端に口を閉ざして口元まで布団に埋もれる。


「何でもない」


「そんなことないでしょ? あすちゃん」


「ないったらない。ミハル、寝るから出てって」


 安樹は寝返りを打って俺に背を向ける。


「……あすちゃん」


「体が辛いんだ。出てって」


 たぶん今辛いのは、体以上に心だろう。


「わかった。でも一つだけ聞いて」


 俺は壁の方を向いてしまった安樹に、ゆっくりと言う。


「僕、あすちゃんが一番好き。他の女の子なんて目に入らないくらい。だからずっとずっとあすちゃんの味方でいる」


 ぴくり、と安樹の肩が震える。


「もし、まだあすちゃんが悩んでることがあるとしたら。気が向いた時でいいから、最初に僕に教えてね」


 俺の誰より大切な妹だから。何に替えても守ってあげる。


「隣の部屋にいるからね。ゆっくり眠って」


 俺は立ち上がって部屋の電気を消すと、廊下に出た。


「……ごめん、安樹」


 手で顔を覆って俯く。自己嫌悪に俺まで調子を狂わせそうだった。

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