0 猫と幸福論と
僕は幼い頃から笑顔が得意な子どもだった。
僕が笑っていれば周囲の大人達はいい子だと可愛がってくれた。
僕が笑っていれば先生もよくしてくれた。
僕が笑っていれば友達も増えた。
気付けば僕はいつだって笑っていなくちゃと自分に言い聞かせるようになっていた。
笑ってさえいれば何もかもが上手くいく。
みんなも幸せになる。
「…おいで」
笑顔で電柱の陰から顔を覗かせる黒猫におもむろに手を伸ばす。
猫は踵を返して視界から消えた。
いくら上手に笑っても、近付いてきてはくれなかった。
野良猫も、友達の家の犬も学校の飼育小屋のうさぎも。
きっと僕の笑顔の向こうの醜い部分が彼等には見えているのだろう。
行き場のない手の平を眺めながら、煤けたアパートの高い階段を上る。
顔を上げると狭い踊り場の先に雲一つない眩しい青が四角く切り取られていて、その空があんまり眩しいものだから僕は思わず俯いた。
足が動きたくないと泣いていた。
俯いて足元に目を落として笑った。
室外機の上に乗って泣き疲れた足をブラブラと揺らす。
あんなに青かった空は日が傾いてオレンジ色に染まっていた。
手を伸ばせば届きそうなくらい大きな夕日を見ているとどうしようもない感情が溢れそうになって、僕は笑顔になった。
笑っていればそれだけで幸せだ。
ふと鼻孔をくすぐったのは美味しそうな匂いだった。
きっとお隣さんだ。
僕の部屋は建物の端っこだから左の部屋の人。
いつも夕飯時になると美味しそうな匂いが風に運ばれてくる。
どんな人かは知らないけどきっと料理が上手な女の人だろう。
隣のベランダを見ると、タオルと柵に布団が干してあった。
うちのベランダとは違い、余計な物も置かれていないし綺麗にされている。
唐突にお腹が鳴った。
きっと隣から流れてくる匂いの所為だ。
ズボンのポケットに手を突っ込むと固い感触がして、それを掴んで出す。
大きめの飴玉が一個。
今日友達に貰ったものだ。
他にも貰ったが帰りに食べてしまっていた。
大切に食べなければ。
包み紙を外して半透明な球体を手の平に出したとき。
「……っ」
手に鋭い痛みが走った。
空っぽの手の平には赤い引っかき傷が滴っていた。
白猫は僕の手からコンクリートの床にはたき落した飴玉と戯れながら首の鈴を転がす。
「それはオモチャじゃないよ、僕のだから返して」
近付いて気付いた。
猫の瞳は吸い込まれるような青と鋭い金色。
オッドアイというのだろうか。
初めて見た。
猫は床に背を擦り付けたり、跳んだりしてとても楽しんでいるようだ。
飴玉に噛み付こうとするがすぐに逃げられるのが歯痒いらしく懲りる様子もなく追いかける。
「そんなにしたら毛が汚れちゃうよ、せっかく綺麗な白なのに…」
猫に手を伸ばしかけたそのとき。
布のはためく音がした。
「琥珀?」
それはとても透き通った綺麗な声だった。
その声につられるように顔を上げると。
「ごめんね、うちの猫が」
真っ白なシャツに赤いストライプのネクタイが揺れていた。
長めの黒髪の毛先は風に弄ばれる。
その左目を隠す眼帯から目が離せなかった。
「…い、いや僕の方こそすみません」
あれだけ言い聞かせていたのに、笑顔を作るのを忘れてしまっていた。
眼帯のお兄さんはカメラがシャッターを切るように瞬きを一つしてから、ふっと口元を緩めた。
「そこで謝るんだね、不思議な子だ」
その言葉にハッと我に帰った。
すぐさま作り慣れた笑顔を顔に貼り付ける。
「お兄さんの猫だったんですね、いつの間にかこっちに来てて」
眼帯のお兄さんは隣のベランダからこっちを見ていた。
ベランダ同士はそんなに距離がないとはいえ、よくこっちまで来れたものだ。
「琥珀は脱走の常習犯でね、よく人様の家にお邪魔してしまうんだ」
お兄さんは困るどころかどこか楽しげにそう話す。
その笑顔があまりに自然過ぎて逆に不自然で、どうしても目を離せない。
「ところでさっき返してって言ってたけど、何か琥珀がしでかしたのかな?」
「大丈夫です、飴玉一つなので」
足元で白猫に遊ばれ削れていく飴玉を一瞥して、慣れた笑顔を浮かべる。
そうだ、飴玉一つどうってことない。
それで腹が膨れるわけでもあるまいし。
でも、お兄さんは表情を曇らせた。
「それは申し訳ないな、ただの飴玉とはいえ君にとっては返してほしいくらいのものなんだろう?」
少し雲行きが怪しくなってきた気がして、思いっきり得意の笑顔を見せた。
「まだ他にたくさんあるので大丈夫ですよ、それよりこの子はどうしたら…」
この笑顔を見せれば彼も安心して引くだろうと思ったが、お兄さんは少し空中に視線を漂わせて何か考える素振りしてから口を開いた。
「じゃあ君が琥珀を抱きかかえてこっちに飛び移ってくれ」
にっこりと爽やかな笑顔を浮かべながら、両手を広げる。
危うく笑顔を崩しそうになった。
この人は一体何を言っているのだろう。
「飴玉の代わりに何か出すよ、あんまりお菓子とかは無いけどそっちの方が琥珀も安全に帰って来れるし、ね?」
何が安全だ、と悪態をつきたくなった。
ここは四階だ。
足を滑らせば呆気なく落ちて即死だ。
そうなれば僕だけでなく猫だって勿論。
「僕、猫アレルギーで触れないんですよ、部屋に来てもらえればすぐに…」
「笑うの疲れない?」
心臓が止まるかと思った。
思考が一瞬停止した。
僕の笑顔に誰だって騙された。
誰も違和感すら抱かなかった。
なのに。
目の前のお兄さんの瞳は笑っていた。
僕を嗤っていた。
「無理しなくていいと思うよ?」
どこかで自分が自分を嘲笑った気がした。
「………っ」
下唇を強くつよく噛む。
足元で飴玉と戯れていた白猫を両手で抱え上げて、足を踏み出した。
室外機を左足で踏みつけ、白い塗料も剥がれかけたベランダの手摺に右足を掛ける。
オレンジ色の空に飛び込んだような感覚だった。
無我夢中で足を開く。
もう少しで届く。
笑顔なんてものはとっくに消えていた。
無理なんてしてない。
してないしてないと訴えるともう一人の自分が僕を指差して嗤った。
五月蝿い。
じゃあどうすればいいんだよ。
僕はただの無力な子どもで。
生き方も死に方も知らない。
他に無かったんだよ。
誰か助けてよ。
「おいで」
お兄さんがすぐ目の前で手を広げてくれていた。
すごく綺麗な笑顔で。
その右目は夕日のオレンジ色を映していて。
黒い影はきっと僕だ。
「」
僕の左足の先は隣の柵に届いた。
もう少し、というところで身体がぐらりと傾いたのがわかった。
落ちる。
そう思った瞬間、咄嗟に猫を腕の中から投げ出した。
目の前のお兄さんの腕の方へ。
猫は無事なんだ。
このまま無力に落ちても構わない。
消える前にいいことが出来たんだ。
もういいだろう。
自然と笑みが零れた。
目を閉じる。
瞼が透けて真っ赤だった。
「おっと」
身体の後ろに手が回されて、腕をぐいっと引かれた気がした。
足に地がついて、おもむろに目を開いたとき一番最初に見たのは足元に擦り寄ってくる白猫だった。
手を伸ばしても猫は逃げなかった。
「君が死ぬ理由にはなりたくないんだって」
上から降ってきた声につられて顔を上げると、やっぱり自然で綺麗な笑顔があった。
「なんで助けてくれたんですか?」
「理由なんか必要?」
本当に怖いくらいに綺麗な笑顔だ。
この笑顔の前では何もかもが無意味と化すのだろう。
こんなのに比べたら僕なんてきっと初めて写真に映るときの子どものようにぎこちない笑顔だ。
「そんなことより早く入りなよ、丁度クリームシチューを作ったところだったんだ」
お兄さんは何も無かったかのように、タオルや柵に干した布団を取り込み始めた。
と同時に足元の猫が半開きの戸へと入っていく。
それについていくように靴を脱いで中へ片足を踏み入れたとき、唐突に背後から呼びとめられた。
「笑うんならさっきみたいに笑いなよ、俺はそっちの方が好きだよ」
「僕、笑いましたっけ…」
頬を伝った何かを手の甲で拭った。
それからも僕は何度となく眼帯のお兄さんの部屋を訪れた。
ベランダから飛び移って訪れては夕食をご馳走になった。
両親が共働きでいつも家に一人で、食事も満足に摂っていない。
初めて会ったとき彼の作ったクリームシチューを食べながらそう話すと、じゃあ遠慮なく来るといいと彼は笑顔で言ってくれた。
聞けば高校生の彼も一人暮らしで、丁度退屈していたらしい。
彼の部屋にはたくさんの本やゲームがあって退屈しなかった。
彼もそんな僕をと話すのは嫌いじゃないと楽しげに笑みを浮かべた。
彼と居るときだけは笑顔を作らないで済んだ。
いつしか隣の部屋は僕にとって一番居心地のいい場所になっていた。
夕食の後は二人で他愛ない話をした。
僕が学校のことを話すと彼は楽しそうに相槌を打っていた。
彼はというと、よく本の話をしていた。
そこで彼の出す一つの事柄について二人で議論し合ったりした。
まだ大した考え方も語彙力も無い僕にとって、彼の話は新鮮でとても面白かった。
「綺麗な目…」
あるとき彼の飼い猫、琥珀の瞳を見て零した僕に彼はだろう?と笑って説明してくれた。
「彼の左目の色が好きでね、だから名前も琥珀にしたんだ」
「オッドアイ、ですよね…」
どこかで聞いたことがあるその単語を口にすると彼は笑顔で僕の頭を優しく撫でてくれた。
「ヘテロクロミア」
「へてろ?」
「虹彩異色症といってね、人間でもあるんだよ、まあ確率は一万分の一で滅多に無いんだけどね」
頭から手はすぐに離れて、彼は隣に積み上げられた一番上の本を手にとって開いて読み始めた。
僕はそんな彼を横目で見てから、膝に乗った琥珀の喉元をそっと撫でる。
「でもなってみたかったかもですね」
恍惚とした表情を浮かべる琥珀の瞳は透き通った宝石のようだ。
左目が琥珀色だとしたら、右目は何だろう。
「猫だから愛されるんだ、人間がなったって特にメリットは無いと思うけどね」
彼の無機質な声。
琥珀の右目は深い吸い込まれそうな青。
青い石があったはずだ。
ラピスラズリ、日本語は確か。
「でも、綺麗じゃないですか」
そうだ、瑠璃。
色鮮やかな琥珀色と瑠璃色。
「君は本当に不思議だね」
僕は心の底から隣の名前も知らない眼帯の彼を尊敬し、信じていた。
それはもう疑いようもないくらいに。
心を開けるとまではいかないが信じられる人ができて、笑顔に縛られ俯いて歩いていた僕の生活は変わった。
笑顔は勿論やめられないが、それでも胸を張って歩けるようになった。
いつだって独りじゃないという気がした。
世界が鮮やかに色づいた。
でも。
そんな世界もそう長くは続かなかった。
ある日、いつも通り隣の部屋で夕食を食べた後、僕は自分の部屋に戻った。
ベランダから中に入ると足の踏み場もないくらいのゴミを避けながらトイレへと向かおうとしたそのとき。
「」
目が合った。
確かに目が合ったのだ。
玄関の辺りに居た見知らぬ黒い影と。
僕は声も出せなかった。
影は僕を見てにっと目だけで笑った。
お兄さんとは全く比べ物にならないくらいの汚い笑顔だった。
「………」
僕は無意識に笑い返していた。
何も考えてはいなかったのに、自然と顔が笑っていた。
笑いたくなんてなかったのに。
僕の笑顔を見た影は安心したのか、それともどうでもいいと判断したのか静かに踵を返して向こうの部屋へと歩いて行った。
「いやああぁぁぁぁあああ…っ」
すぐに甲高い叫び声が耳を突き破って頭の中に直接響いてきた。
嫌という程聞き慣れたその声に、耳を塞ぐ。
頭が痛くて痛くて堪らなかった。
声が消えても痛みは治らず、一心不乱に頭を爪で掻き毟る。
信じられなかった。
いや今まで僕は何も信じたことがなかった。
自分でさえも信じられるに値しない。
信じられるのは彼だけだった。
僕の笑顔に価値すら与えなかった彼。
足音がしてハッと顔を上げると、さっきの影がまたこっちを見ていた。
いやらしい笑みを浮かべるそいつはいつの間にか赤く染まっていた。
あんなに赤いのは見たことがない。
まるで瞼を閉じたときのような。
「…あ、れ?」
本当に信じられない。
自分の顔に触れて可笑しいことに気付く。
そんなはずが。
本当に可笑しいことばかりだ。
可笑しくってしょうがない。
涙すら出ない。
どころか僕は。
影は笑って消えていった。
僕一人になった世界で瞼を閉じる。
赤くなくてすごくほっとした。
きっと目を開けば何もかも元通りだ。
きっとこれはいつもの僕の夢だ。
悪い夢だ。
悪趣味過ぎて笑える。
本当に笑える。
「そんな笑顔じゃなくて前したみたいに笑ってよ」
僕だけの世界に突然綺麗な半透明な声が降ってきた。
透明に近い青だ。
瑠璃色の氷の結晶のような、無機質で儚い声。
「…なん、で……?」
瞼を開くと、まるで僕が世界を見るのを拒むように手で目隠しされた。
少しひんやりと冷たい大きな手。
知ってる、知らないはずがない。
「赤い部屋…高瀬舟でもいいな、今度貸してあげようか?」
「…なんで、ここに」
「君が来れるんだから俺が来れないはずない、だろ?」
隠された双眸から熱いものが溢れ出した。
それでも顔を覆う面は消えない。
「随分と嬉しそうだね」
そうじゃない。
嬉しくなんてないのは、彼が一番わかっているはずなのに。
「泣く程嬉しかったのかい?自分の母親が殺されたのが」
「」
「そうだよね、殺されるって分かっててあんなに笑顔だったんだからね」
頬を伝う悲しみが彼には伝わらない。
見られたくなかった。
僕の不器用な笑顔なんて。
貴方には見られたくなかった。
貴方だけには。
「…違う……」
「あれ、違うの?喜びなよ、君をずっと苦しめていた母親が居なくなったんだよ?」
ああ、なんで。
もうこのまま消え失せてしまいたい。
「…知ってたんですか……」
「俺、君のこと嫌いじゃないって言ったでしょ?」
もう本当に、彼にはなんでも見透かされてしまう。
僕なんて足元にも及ばない。
猫に弄ばれる飴玉みたいだ。
「…僕の所為…ですよね…」
「彼女が死んだのが?君の所為じゃないだろう、殺したのはさっきの男だ」
「…でも、僕があの時止めていれば…そうじゃなくても何か…あの男に立ち向かっていれば……っ」
なんであの時笑ってしまったんだろう。
「…母さんは…死ななくて済んだのに…っ」
とめどなく溢れてくる液体が重力に従って。
僕の足元に水溜りでもできたらいいのに。
そうしたら今すぐにでもそこで溺れて。
母さんの所に行けるのに。
「それでも君は笑うんだね」
僕はずっと笑っていれば幸せになれる気がしていた。
僕が笑っていれば周囲の大人達はいい子だと可愛がってくれた。
僕が笑っていれば先生もよくしてくれた。
僕が笑っていれば友達も増えた。
でも。
僕がいくら笑っても母さんは笑顔の一つさえ見せてくれなかった。
僕は母さんが大好きで、母さんにも笑ってほしかった。
学校の友達みたいに家族で出かけたり、授業参観にも来て欲しかった。
『母さん、またテストで100点とったんだよ』
僕が笑うと母さんは怒った。
気持ち悪いから笑うなと何度も言われた。
五月蝿いと何度も殴られた。
それでも。
僕は笑顔を作った。
………僕が泣いたら母さんも泣くから。
「アランの《幸福論》は知っているかい?」
ふと目を覆っていた手が離れた。
振り返ると、彼が笑って居た。
後ろでカーテンが揺れていた。
「」
息を飲んだ。
「《小さい子供がはじめて笑うとき、その笑いは全然何を表現しているのでもない。》」
あんまり彼が悲しそうに笑っているから。
「《幸福だから笑うわけではない。》」
そして彼の左目は琥珀と同じ。
吸い込まれるような深い瑠璃色だった。
「《むしろ、笑うから幸福なのだと言いたい。》」
本当に綺麗な笑顔。
悲しいくらいに儚げで綺麗な。
その輝く瑠璃色の宝石は今にも崩れて欠片が零れ落ちてきそうだった。
「君は本当にお母さんが好きだったんだね」
彼は初めて会ったあの日のように穏やかな笑みを浮かべて両手を広げた。
「おいで……」
僕は必死に手を伸ばした。
指先は虚しく空を切った。
それでももう一度、もう一度と伸ばし続ける。
夢中で立ち上がろうとした。
何かで滑って転んだ。
床に散らばった教科書やプリントを鷲掴んで背後に投げ捨てながら、再び不安定な足場で立ち上がろうとする。
大粒の涙で視界はぐちゃぐちゃに歪んでいて、それこそ失明しそうなくらいに双眸が痛かった。
拭っても拭っても、拭いきれなかった涙が目に沁みた。
それでも僕は笑っていた。
僕は確かに笑っていたのだった。
書きたいことがたくさんあるのに思い通りに表現出来ない歯痒さに苦しみました。
お見苦しい文章で…。
純文学の意味も理解しきれていないような高校生ですが、数年前に書いたものをリメイクしていきたいと思います。