中の巻・二
1/
「どういう事だ。王国の冒険者の目は節穴揃いか」
茂みの中から虎さながらに顔を突き出していた李趙が呟く。
その視線の先にあったのは切り立った岩場に空いた大きな空洞。
そして、そこを見張るのは槍と盾で武装した小鬼二匹。
小鬼の傍らには番犬めいて二頭の狼が控えている。
「こんな洞窟を見落とすとは。まさか奴等が穴を掘ったとは言うまいな」
恐らく入り口に岩を積み上げて塞いでいたのだろう、と弥十郎は返す。
小鬼には無理でも亜小鬼の膂力なら可能だ。
「しかし、それでは外に出れんぞ。調査が終わるまで飯も食わずに穴蔵にか?」
「あの、もしかしたら、ここって昔は洞守の石切り場だったんじゃないでしょうか」
おずおずとオリヴィエが手を上げて推論を口に出す。
洞守は鍛冶や石工を生業とし、巨大な坑道を掘ってそこを住処とする一族だ。
成程、と弥十郎は得心した。不自然に切り立った岩は石材を切り出した跡か。
「多分、ここで薪や石材を坑道を通じて何処かに運んでいたのかもしれません」
オリヴィエの表情が曇る。製鉄には大量の薪が必要となる。
森に住まう森守と洞守が相容れないのは、その一点に尽きる。
「そうして廃棄したか占領されたかは知らんが魔物の住処となった訳か。厄介だな」
ゴロゴロと喉を鳴らしながら李趙は顎を掻いた。弥十郎も同意して頷く。
これが他の未開拓領域にも繋がっているとすれば、敵の数は三十程度では済まない。
下手をすれば幾つもの巣で形成された集合体である可能性もある。
そして弥十郎の頬を冷たい汗が伝った。小鬼を指揮する者は相当の知恵者であろう。
目にした“不動一念流”の門下生の具足は傷一つ無い新品だった。
それならば金銭に余裕があるだけとも思えたが、居並ぶ門下生にも戦いの生傷がなかった。
そして開拓地の盛況を見るに、恐らくは襲撃らしい襲撃は一度としてなかったのだろう。
坑道を通じてか、あるいは遠征か、ここの位置を知られぬよう目立つ動きを避け続けてきた。
今になって荷馬車を襲撃したのが、開拓地との連絡を断つ為だとすれば一刻の猶予もない。
だが、引き返して防衛を固めるよう進言した所で、外様に過ぎない己の声は届くだろうか?
恐らくは信じまい。確たる証拠もなく、これまで襲撃を受けなかった事実が耳を塞いでしまう。
これが“士道館”であれば直ちに狼煙を上げ、敵に準備させる間も与えず悉く討ち取れたものを。
弥十郎は口惜しげに歯を食いしばった。だが、それは己の恥ずべき甘え、童の無いものねだりだ。
今出来る最善の策は、この一党で潜入して敵情を探り、可能であれば頭目の暗殺、
あるいは井戸に件の毒を放り込んでも良い。少しでも時間を稼がねばならない。
やれるか、と弥十郎は李趙に問いかけた。
「難しいな、ちと距離がある。脚には自信があるが、こちらは風上だ」
そう言って李趙は目を細め、親指を立てて彼我の距離を目算する。
森の端から坑道までは隠れる場所はなく、狼の鼻は虎人の接近に気付くだろう。
狼に吠え立てられれば、たちまち坑道内の小鬼に気付かれてしまう。
<沈黙>の“奇蹟”は使えるか、と今度はオリヴィエを見やる。
「はい、使えます。問題はありません」
力強く森守の神官は応えた。
奇蹟や魔術を行使するには幾つかの条件がある。
射程距離。これは本人を中心とするか、あるいは対象を目視するかの二種類。
続いて杖を手にしている事。これは神々や祖霊が目印にする為と言われている。
力を持続させるには、どちらの条件も満たし続けていなければならない。
最後に、力を使える回数が限られている事。オリヴィエは万全であれば日に二度程だと言う。
これは“啓示”を受けた者でも優秀な部類だ。神官を管理する神殿も、さぞや困惑しただろう。
弥十郎は弓を構える。小鬼の武器といえど手入れをすればまだ十分使える。
だが、これだけでは一手及ばない。李趙に迂回して風下の方から向かうよう伝える。
「風下と言うが凹凸一つ無い垂直な岩場だぞ。どうやって回りこめというのだ」
こうやってだ、と弥十郎は己の荷物を開けて中の道具を手渡した。
2/
見張りの小鬼は大きな欠伸をした。
馬の死骸を取りに出て行った一団はまだ戻らない。
持ち帰れないほどの肉だ。きっと連中はつまみ食いをしているに違いない。
サボりたい気持ちを抑えて小鬼は振り返った。
そこに片割れは居なかった。あったのは矢が頭に突き刺さった骸だけ。
狼が吼えている。しかし、その声は全く自分には聞こえない。
次の瞬間には、飛来してきた矢に貫かれてその狼も同じ末路を辿った。
状況がまるで分からない。だが本能に従って彼は逃げようとした。
だが上空から降って来た虎人の踵がそれを希望ごと蹴り砕いた。
小鬼を呼ぶのか、それとも逃げ出したのか、狼が坑道内へとひた走る。
着地した李趙は地を這う姿勢で駆け、狼の背に飛びついてそのまま首を捻じ切る。
「ざっとこんなものか」
フンと鼻を鳴らすと俊敏なる虎人は狼の骸を興味なさげに放り捨てて坑道の外に出た。
坑道の入り口、その頭上には登攀に用いた鉤縄が掛かっている。
さて、どう回収したらいいものかと思案している所に二人が合流する。
即席とは思えぬ連携に李趙も牙を剥いて笑みを浮かべる。
その足元には見事に頭部を射抜かれた骸が二つばかり転がっている。
「見事なものだ。“士道館”では剣ばかりでなく弓も教えているのか?」
弥十郎は頷く。“士道館”が剣に重きを置くのは、入手しやすく戦う場所を選ばないからだ。
弓や槍などの武芸、野営や追跡術、およそ冒険に役立つであろう全てを道場で学んだ。
そうまでする必要があるのか、と問われた事もある。必要だからだ、と己は答えた。
唯人の百姓の子に過ぎない己には、そうする以外に天賦の才との差を縮める手段は無かったのだ。
しかし、それを口には出さず、弥十郎は前へと向き直った。
坑道の奥を見やる。そこには、どこまでも続くかのような闇が広がる。
「どうやら誰もおらんようだな」
李趙の言葉に同意するようにオリヴィエも頷く。
己では見渡せぬ闇も二人は見通しているのだろう。
弥十郎は松明に火を点して李趙の後へと続いて坑道に踏み込む。
坑道内は木材と金具で補強されており一直線に奥へと続いている。
その左右には幾つもの横穴が点在し、ここが輸送以外にも使われていた事を物語る。
予想を上回る大空洞を目の当たりにして三人は周囲を見回す。
だが好機だ。これほど広大な空間を全て監視するには兵が足るまい。
そして守りは強固なほど破られた時の対処が困難であると“士道館”は教えている。
音も立てず厳重な警戒を抜けたなど小鬼は想像さえしていないだろう。
李趙、オリヴィエ、弥十郎の順に並んで探索を続行する中、不意に足を止めた。
「死臭がする」
鼻をひくつかせて呟いた虎人の言葉に、森守の少女は震えた。
まだそうと決まった訳ではない、と弥十郎はオリヴィエの背に声をかけて励ます。
小鬼は人や獣の死肉を食らう。別人か、あるいは獣の可能性も十分にある。
「行くか?」
死臭がすると言った横穴を李趙が顎で示す。
二人は同時に顔を見合わせ、そして同時に頷いて歩み出した。
3/
幾つもの分岐を抜けた先にあったのは大広間であった。
岩より直接削り出した長机と椅子が並び、そこが洞守達の食堂だった事を示す。
それは皮肉な事に主が代わってからも同じのようであった。
深く掘られた竪穴からは死臭が漂い、繰り返し流れた血の跡が岩肌に黒く染み付いている。
真新しい解体の痕跡を見つけて声を上げようとしたオリヴィエの口を李趙の手が塞ぐ。
壁には一人の男が吊るされていた。着ている羽織には“士道館”を示す、丸に十字の紋。
既に事切れており、尋問の跡が生々しい。弥十郎は手の震えを抑えて男の体に触れる。
そして、その口から安堵の息が洩れた。この者は“士道館”の門下生ではない。
“士道館”の厳しい稽古の痕跡が、男にはまるで見当たらないのだ。
杞憂であったか、と弥十郎は眼を閉ざしてやろうと顔に手を伸ばして気付いた。
弥十郎の手が今度こそどうしようもなく震えた。
「どうした?」
それに気付いた李趙が声をかける。弥十郎はそれに応えない。
ようやく落ち着きを取り戻したオリヴィエは辺りを見渡していた。
そして、男を吊るす縄の結び先を見つけると悲痛な面持ちでそれを解いた。
縄が外れて男の身体が解放されると同時に、鐘の音が周囲に盛大に響き渡った。
三人の視線が頭上に向く。巨大な金属製の鐘が吊るされ、舌が激しく打ち鳴らされていた。
恐らくは食事の時間を坑道中に知らせる為の物なのだろう、鐘の周囲は吹き抜けとなっている。
舌の先には黒く塗られた一本の紐が結び付けられており、その先は縄に繋がっていた。
己が仕出かした事に気付いたオリヴィエの身体が小刻みに震える。
「退くぞ!」
激しい声でオリヴィエを正気づかせ、同意を得ぬまま李趙は獣の如く飛び出した。
その勢いのまま食堂に入り込んできた小鬼を一蹴、石壁と爪先で内臓を押し潰す。
オリヴィエを先に行かせて弥十郎は背後に振り返る。小鬼が数匹、後を追ってきている。
坑道の中を小鬼の足音が海鳴りの如く反響し、あたかも大軍が迫ってきているかのようだ。
弥十郎は首を振った。錯覚ではない。どれほどかは分からないが敵は数十は下るまい。
“士道館”にあるまじき失態だ、呆けて仲間の事を忘れるなどと。弥十郎は唇を噛み締めた。
二人は頼れる仲間だが、歴戦の“士道館”の冒険者とは違う。思わぬ失敗もあるだろう。
その可能性を忘れて仲間への支えを怠った己の落ち度だ。
弥十郎は振り返り、追撃してくる小鬼二匹に続けざまに矢を放った。
先頭を行く小鬼が倒れ、後ろにいた者たちが怯えて足を止める。
謝罪も弁明も後回しだ。ここから逃げ延びる、今はそれだけだ。
「邪魔だ」
それぞれの手で小鬼二匹の頭を掴み上げながら李趙は駆け、
突き当たりの石壁に勢いのままに叩きつけて殺すと振り返って声を上げた。
「もうすぐ入り口だ。急げ」
最初の通路に戻ってきた李趙が威嚇するように辺りを見渡す。
丸太めいた棍棒で武装した亜小鬼一匹、それと小鬼が十匹ばかり。
李趙は不敵な笑みを浮かべて己が拳を握り固める。
「楽勝だな」
雄叫びを上げて振り下ろされた棍棒が虎人の横を掠めて地面を叩く。
半身の姿勢のまま流れるように李趙の肘と拳打が亜小鬼に叩き込まれる。
見上げような巨躯を誇る亜小鬼はこの程度では倒れない。
休む暇を与えず連打を浴びせて叩き殺す、これまで李趙はそうしてきた。
力強く踏み込んだ瞬間、李趙の全身の毛が逆立った。
身体が竦みあがり、手足が震え、拳を握る気力も萎えていく。
そして李趙は見た。亜小鬼の背後で蠢く小さな影を。
襤褸布を体に巻きつけ、獣の頭蓋骨を頭に被った小鬼。
その手には骨で装飾を施された、黒く鈍い輝きを放つ杖が握られている。
「き、さま、が」
声を上げようとした李趙の頭部に鉄槌めいた棍棒が振り下ろされた。
4/
通路に踏み込んだ弥十郎とオリヴィエは己が目を疑った。
李趙が亀のように身を丸め、亜小鬼の殴打を受けていたからだ。
その頭から血が滴り落ち、棍棒が振り下ろされる度に苦悶を響かせる。
「<恐怖>。小鬼呪術師がいます」
動揺を押し殺してオリヴィエは弥十郎に告げる。
それを受けて弥十郎は、残しておいた最後の一矢を番えて目を配らせる。
そして異様な雰囲気を纏った小鬼を捉えると、すかさず矢を放った。
断末魔が上がった。されど、それは小鬼呪術師の物にあらず。
小鬼呪術師の手前、杖で首を抑えられた小鬼が絶命する。
呪術師は矢を放たれる直前、手近にいた者を捕らえて己の盾としたのだ。
弥十郎が弓を投げ捨てて刀を抜く。両者の視線が交錯した。
その間に割って入るように十を超える小鬼の群れがにじり寄る。
そして来た道からも次々と小鬼の追っ手が迫ってきている。
<聖域>だ、と弥十郎は叫びながら横一線に薙ぎ払って接近を阻む。
オリヴィエは頷くと腰の小物入れから聖水の入った小瓶を取り出し、周囲に振りかける。
「いと慈悲深き母なる神よ、その御力によりて、この地の不浄を払いたまえ」
祈祷が終わるのを確認して弥十郎は背を向けてオリヴィエの方へと走る。
逃げた敵を追って前後から小鬼が殺到する刹那、オリヴィエの杖が掲げられた。
「<聖域>」
オリヴィエを中心にして慈母神の力が光と共に周囲を満たしていく。
直後、<聖域>の中にいた小鬼達の皮膚が白い煙を上げて焼け爛れる。
金切り声のような悲鳴を上げてのた打ち回り、やがて小鬼達は動きを止めた。
そうして畳八畳ほどの<聖域>が展開し、残りの小鬼達がその外を取り巻く。
今の光景を目の当たりにして飛び込んでくる無謀者はいないだろう。
「い、け、俺に、かまう、な」
身体を打たれながら、恐怖で震える喉から李趙は声を絞り出す。
<聖域>の中に李趙を入れる事は叶わなかった。
分厚い毛皮と柔軟な筋肉は亜小鬼の打撃の威力を吸収している。
だが、それもいつまで持つか。刀を持つ弥十郎の手に汗が滲む。
そして弥十郎は再び小鬼呪術師を見据える。
呪術師の眼には怒り、そして確かな恐怖が映っている。
視線の先にあるのは呪術に捉えた李趙と己のみ。
弥十郎は確かめるように己の半首を親指で指し示す。
小鬼呪術師がそれに反応して身体を震わせる。
丸に十字、“士道館”の紋である。
弥十郎は理解した。
何故、潜伏を止めてまで荷馬車を襲ったのか。
何故、唯人の捕虜を取って尋問などしたのか。
何故、死体に罠を仕掛けるような策に思い至ったのか。
全ては小鬼呪術師の根底に刻まれた恐怖ゆえだ。
鬼の軍勢その残党か、と弥十郎は静かに呟いた。