上の巻
1/
豪雨が深編笠を打ち付ける。濡れた道中合羽が着物に張り付く。
草鞋が泥を跳ね、黒い脚袢を茶色に染め上げる。
視界を塞ぐ雨の中、かろうじて見える街路を弥十郎は歩む。
目的地は近い。それならば樹の下で雨を凌ぐよりはマシと考えた末だ。
弥十郎の足が止まる。視界の先には横転した荷馬車が一台。
腰に帯びた刀の鯉口を切りながら用心して忍び寄る。
荷は荒され、御者の姿はなく、血を流し絶命した馬が横たわっている。
傷口を検める。首の真下から突き上げる刺し傷、恐らくは槍によるものか。
何者かと争ったのだろうが、その痕跡は雨によって洗い流されていた。
しかし、その何者かは容易に知れた。道の端に倒れた死骸が1つ。
四尺(120cm)ほどの背丈、肌に毛はなく緑がかり、動物の毛皮を腰に巻きつけている。
小鬼か。
最も数が多く、最も弱く、最も知られた魔物の名を口にする。
粗末な武器を手に、集団で人を襲う小型の魔物。
駆け出しの冒険者でも油断をすれば命を落とす相手だが、
この先にある開拓地では珍しいものではないだろう。
周辺の魔物を討伐したと言っても、その残党は未だに残っている。
弥十郎は本差を確かめるように鞘を握り締めた。
町に辿り着いたのは、そこから一刻(二時間)も過ぎた頃。
村の周囲は柵で覆われ、その入り口には篝火が焚かれていた。
傍らには、陣笠に具足を備えた槍兵が二人並ぶ。
二枚胴の鎧には、この地に居を構える道場“不動一念流”の紋。
馬肉の山を担いだ冒険者を訝しげに見る二人に会釈し弥十郎は門をくぐる。
開拓地の町と言えば魔物の襲来を恐れて身を寄せ合う村の集合体と聞いていたが、
町には宿場まであり、近隣と比較しても見劣りする物ではない。
冒険者預かりの道場“不動一念流”は人に訊ねるまでもなく見つかった。
町の中央。大きな塀に囲まれた、辺境とは思えぬ立派な道場であった。
門構えを見上げた弥十郎は故郷の道場とその姿を重ねる。
2/
弥十郎が“士道館”に入門したのは十にも満たぬ歳の頃。
それでも農家の三男坊であった自分をここまで育ててくれた親には感謝すべきだ。
限られた農地では養える家族はそう多くない。後は己の身一つで生きていかねばならぬ。
開拓地で農奴か、街で丁稚の仕事を探すか、傭兵や冒険者となるかだ。
だが、身一つで冒険者となった者の末路など考えるまでもない。
そうした者達を見かねた先達により彼等を鍛える道場が立ち上げられた。
その対価として道場の清掃や兄弟子の世話や荷物持ちを命じ、
冒険者や兵となってからは、その報酬の一部を道場に収める。
やがて、この制度は冒険者組合に取って代わり、彼等の管理を行うようになった。
『まずは見よ』と入門者たちは道場の下働きと体力づくり、
そして、その休憩の合間で兄弟子達の稽古を見る事となる。
その間、武器を振るうことも許されず、多くの者が道場を去っていった。
『俺は丁稚に成りに来たんじゃねえ!冒険者に成りに来たんだ!』
共に道場の門を叩いた友人も、その言葉を最後に姿を消した。
ある日、急ぎの出立の為に兄弟子が道具を手入れするのを見、
その手際の良さに思わず見惚れてしまった。今にして思えば当然の事。
独り立ちをするならば料理も道具の手入れも自分でやらねばならぬ。
兄弟子達はそれを完璧にこなせるようになったからこそ次の段階に進めたのだ。
そうして身を入れてみると気付くことがある。
食料の鮮度、食べられる野草の判別、稽古の負担にならない献立と食事量。
そうした事にも自然と気を配れるようになっていた。
道具の手入れにしてもそうだ、柄の減り具合から剣の握り方、刃毀れの位置と血の跡、
衣服の解れと返り血から、どこにどのような力が掛かったのか、どう動いて何処で受けたのか、
1つ1つが技術の断片として残されているのだ。
兄弟子の背中を流す際にも、筋肉の付き方や古傷を注視した。
そうして下働きに熱中していると、師範代よりお声が掛かった。
『観て覚える稽古は終わりだ。これより体に覚える稽古を始める』
まずは観るより始めよ。これは冒険者となった今でも最大の教訓である。
3/
頼もう、と玄関先で声を上げると、やって来たのは小袖に羽織の門弟と思しき若者。
門弟に“士道館”中目録の弥十郎と名乗ると用向きを伝え、行李より免状と師範からの紹介状を手渡す。
道場出の冒険者は、こうして他の道場の軒を借り、門弟達と共に村人や諸侯からの依頼を受けるのだ。
「拝見いたす」
“士道館”の名を耳にした門弟の声が震える。それも無理からぬ事。
系列含めて門下生8000人の大道場。だが真に恐るべきは、その苛烈さにあった。
この地がまだ魔物の支配下にあった未開拓区域であった頃の話だ。
王国の第一次討伐遠征が失敗に終わり、魔物の追撃を受ける中、
“士道館”門下10名が死兵となって殿を勤め、本隊を無事に帰還させる功績を挙げた。
話はそこで終わりではない。その報せを聞いた“士道館”は門下生達の骸を捨て置けぬと、
ただちに高弟7人から成る一党で敵地に潜入、魔物の頭目であった鬼の首級を挙げた。
それによって第二次遠征は成功し、この地は開拓地として王国の領土となったのだ。
名誉の為ならば命を惜しまず。それが、かの道場が信頼と畏怖の象徴とされる所以である。
しかし、それは己のものではなく、先人が血道を切り開いて得てきたもの。
この道場を巣立ったばかりの青二才は、道場の名に恥じぬ功を挙げたわけではない。
ずしりと両肩に重しが乗ったような気分だ。看板に泥を塗る真似は決して許されない。
「中目録、兜割りか」
不意に差した影の方へと視線を振る。
そこには身の丈八尺はあろうかという虎の頭を持つ大男。
全身は白と黒の毛で覆われた縞模様で、その上に見慣れぬ着物を纏っている。
なるほど。これが獣人の一種である、虎人か。
直立した虎が胡坐をかく様は、知らぬ者が見れば思わず声を上げただろう。
この大陸には唯人の他にも、彼等のような獣人、森守や洞守といった、
魔物と戦う種族が数多く存在する。もっとも互いに交流を持つのは稀であり、
恐らくは逸れの一人が冒険者として道場に逗留していたのだろう。
かような根無し草の冒険者であっても道場は監視も兼ねて宿泊を許すのが世の習いだ。
「兜を割る程度ならば俺にも出来るぞ」
グルルと喉を鳴らしながら、その虎人は牙を剥いて笑った。
「名にし負う“士道館”の腕前。一つ、ご指南願えるか?」
「何を」
虎人の思わぬ言葉に門弟は驚きを隠せない。
しかし止めようとはしなかった。力が及ばぬからではない。
“士道館”の者が風来の冒険者にやられたとなれば格好の笑い者。
他の道場の名声が失墜すれば、自身の道場が成り上がる機会も生まれる。
ならばたっぷりと馳走してやろう、と虎人に応えて門弟を見やる。
少し借りるぞ、と了承を得るが早いか道場へと足を踏み入れた。
4/
では堪能されるがいい、と弥十郎は客間にて料理を差し出す。
並べられた馬肉の汁物と串焼きを前に虎人は目を丸くした。
しかし立ち上る香りが鼻腔を刺激し、生唾を呑み込むと共に器に食らいついた。
「旨い!」
歓喜の声を上げながら虎人は貪るように肉を噛み千切る。
筋ばかりの肉であったが虎人の牙には程よい噛み応えであろう。
汁も十分に冷ました。この寒さの中で熱い茶に手を付けなかったのは猫舌の為。
むしゃぶりつくように器を空にすると、今度は虎人は馬肉の串焼きに手を伸ばす。
その様子に満足しながら、別に取り置いた馬肉のつみれ汁を啜る。
丹念に叩いて潰しただけあって固い馬肉が完全に解れている。
日に何千何万と繰り返した素振りの成果がここにも発揮されているのだ。
「しかし何故に料理を?」
持ち込んだ馬肉を粗方喰らい尽くした後で虎人が問うた。
足を崩して満ち足りた腹を撫でながらゴロゴロと喉を鳴らす。
その様に、昔道場に住み着いた猫を思い出して思わず笑みが浮かんだ。
一瞥した際、その毛並みと筋肉に些かの陰りが見えたのだ。
その体格では並の食事量では満たされまいが、道場とて慈善事業ではない。
よくて一汁一菜。かといって門外漢には碌な仕事は回ってこない。
大方腹が減って気が立っているのであろうと考えての事であった。
腹を空かせて弱った者を打ち倒したとて“士道館”の名を汚すばかり。
であれば度量を示して力を振るうことなく場を収めるのが最善。
敵を作らず、味方を増やした。なれば敵を打ち倒すよりもなお良し。
これも武の1つである、と告げると虎人は再び目を丸くした後、大きく笑った。
そして居住まいを正すなり虎人は一礼する。
「御無礼を仕った。某、陳西の李趙と申す者、弥十郎殿のお手前感服致した」
見慣れぬ着物と思っていたが得心がいった。王国の領土には無い地名である。
遥か西方、砂漠の向こうに獣人たちは多く住むと伝え聞くが、そこの出であろう。
こちらも居住まいを正して一礼で応えた。どうやら何処でも礼儀は変わらぬらしい。
5/
「弥十郎殿。先生がお呼びです」
李趙と共に火鉢で暖を取っていると先程の門弟が客間へとやって来た。
頷いて門弟の後に付いて廊下を歩む。そうして案内された先は稽古場であった。
上座には裃姿の道場主と思しき壮年の男。その隣には白い装束とヴェールを纏った神官の少女。
そして左右には威圧するように多数の門下生達が居並んでいる。
「行商人の馬車が小鬼に襲撃を受けた」
挨拶もそこそこに道場主は本題を切り出す。
そこの神官の少女、護衛の冒険者、そして行商人の三者がここに向かう途中で襲われた。
そして護衛が殿を買って出、かろうじて、この少女だけが逃げおおせたのだと言う。
横転した馬車はそれかと得心しつつも弥十郎は違和感を覚えた。
しかし、その思考を少女の一言が遮った。
「その護衛の方は“士道館”の門下生と名乗っていました」
弥十郎は心臓が飛び出す思いであったが、必死にそれを押し殺した。
群れとはいえ小鬼に“士道館”の者が討たれたなど有ってはならない。
それは騙りでしょう、と感情を出さずに弥十郎は反論した。
「偽者と?」
道場主の問いに頷いて返す。1つに小鬼の死体が一体しかなかった事。
その傷も闇雲に刀を振り回したと見え、とても門下生の太刀筋とは思えぬ。
“士道館”の者であれば神官殿が逃げる時間を稼いだ上で、自身も逃げおおせたであろう。
満足に敵も倒せず、逃げられぬ未熟者は道場には居りませんと断言する。
「ですが、あの方は! 逃げろと、必死になって……」
少女の悲痛な声が上がった。恩人を冒涜するような発言が許せなかったのだろう。
弥十郎も心苦しい思いは同じであった。腕こそ未熟なれど、その冒険者の志は本物だ。
しかし、ここで同情を見せれば、そこを邪推する輩も出てくるだろう。
行商人と護衛の亡骸は見つからなかった事を伝えると、俯いていた少女は顔を上げる。
「では、今も生きているかも」
村へ行かずに街路脇の森へと逃げたならば、あるいは。
その返答に少女は僅かな光明を見出したかのように肩を震わせる。
生死はともあれ、何よりも事の真偽を確かめねばならない。
門弟たちと共に調査に向かわせてもらいたいと願い出る。
しかし道場主は首を左右に振り、その申し出を拒否した。
「雨が上がったとはいえ間もなく日も暮れよう。奴等は夜目が利く。
それに探索には人手が多く必要だ。村の守りをおろそかには出来ぬ」
ならば具足と武具を貸していただきたい、と声を上げるが、それにも道場主は拒否を示す。
「見ての通り、門下生が多く、具足の数が足りてない有様。それもご遠慮する」
冒険者への具足の貸し出しは世の習いではあるが、そこに規則はない。
道場主が貸せぬと言えば、それまでの話。握った拳に力が篭る。
時を置けば、ここの門下生達は“士道館”の者が討たれたと噂を立てるだろう。
それでは遅すぎる。少女の請願も道場主には届かない。
もはや人の助けは借りられぬ。少女へと向き直ると、自分一人で行くと訴え出る。
彼女が依頼を出せば、これは正式な冒険者への依頼だ。もう表立って妨害は出来まい。
6/
「行くのか?」
玄関で問いかける李趙に無言で頷く。
着物の下には鎖帷子、篭手に脛当ての小具足。額には紋入りの半首。
鎧兜を借り受ける事を前提とした最小限の防具だ。
甲冑を着込んで練り歩き町人を威圧するのは卑しき傭兵のやる事。
大小二本の打刀、小刀と棒手裏剣を懐に仕込み、
鉤縄や松明、目潰し、干飯などの保存食を確かめる。
そうして、あの日の兄弟子の手際に追いついた事を実感した。
小鬼の巣となれば、その総数は二十から三十匹。
討伐ならばともかく偵察だけならば己一人で事足りる。
生きて戻らなかったら“士道館”に届けるようにと手紙も残した。
不安こそあれ、これは己が成し遂げねばならぬ事だ。
「俺も一緒に行こう」
フンと鼻を鳴らして李趙が帯を締め直す。
何故、との問いかけに虎人は豪快な笑い声で返した。
「俺は武侠だ。物乞いでも盗人でもない。受けた礼は返すが道理よ」
その武侠とは如何なるものかは知らないが飯一つで命を懸ける義理はない。
それに対して李趙はゴロゴロと顎を掻きながら笑う。
「俺の気が済まん、ただそれだけだ。俺の武は我が儘を押し通す為のもの。
明日をも知れん生き方ならば尚の事、悔いなく楽しく生きて死にたいのだ」
獣人の一生は、長命な森守や洞守どころか、
唯人のそれよりも遥かに短いと伝え聞いたことがある。
己にとって道場の名誉が大事なように、それは彼にとっても譲れぬものと悟った。
忝い、と無頼の好漢に礼を述べると振り分け荷物を手に立ち上がる。
「あの」
恐る恐る掛けられた声に振り向く。
そこには長尺の杖を手にした神官の少女がおずおずと立っていた。
その背には背嚢。冒険者の見送りに来た訳ではなさそうだ。
「私も行きます。行かせてください」
決意を帯びた眼差しがこちらを見上げる。
杖を握る手に力が入りすぎて指先が白くなっている。
彼女は依頼主である。それに逆らえば依頼を取り下げないとも限らない。
覚悟はあるのか、と問おうとする前に少女はヴェールを外した。
「誰かの力になりたくて出てきて、でも私は、怖くて、何も出来ずに逃げ出した」
長く尖った耳。白磁のような白い肌。それは森守に見られる特徴だった。
森守は同族の住む森に生まれ、その大半は森を出ぬ生涯を終える。
そして一度でも森を離れた者は二度と戻ることは許されない。
自身の全てである“士道館”の道場を後にした己には理解できる。
彼女がどれほど重い覚悟を背負っているのか。
「だから、今度こそ……」
ゆこう、ただ一言それだけを告げて彼女の言葉を遮る。
そして戸を力強く開け放って外へ歩みだす。
二人を背にして前を行く弥十郎は己の後ろめたさを感じていた。
いくさに絶対は存在しない。それは幾度も思い知らされてきた。
万に一つ、討たれたのが真に“士道館”の者であったならば、
その時は“士道館”に繋がる証拠を全て焼き捨て、騙りとして葬らねばならぬ。
骸は道場にて弔うことも許されず、汚名と共に無名の墓標の下で眠るのだ。
同じ志を持つ同門の骸に鞭打ち、それを誠実な二人に隠せねばならぬ苦痛。
そして1つ間違えば己もそうなるのだという恐怖が心を押し潰さんとする。
それでも足は止まらない。これは己が成し遂げねばならぬ事だ。