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羽衣天女

作者: マルタ

 ある6月の日。

 白亜のチャペルで私は素敵なドレスを着て、髪を華やかにセットし、胸が一杯になり顔を涙でぐちゃぐちゃにしながらマイクを握っていた。

 この結婚式のために集まった学生時代の友人や親友が仕方ないなぁという風に、困ったようにほほえんで私のスピーチを待っている。

 新郎新婦の両親も私の方を注目している。


 私は意を決して、用意してきた原稿を読み上げ始めた。

 「ご結婚、おめでとうございます……!」

 そう、新婦の友人代表の挨拶を。



 今日は私の高校時代からの親友、まゆみの結婚式だった。美男美女で誰もが憧れるジューンブライド。完璧無比な結婚式。

 まゆみは私の大親友だ。私にとってもまゆみにとってもこれ以上仲のよい友だちはいないだろう。

 互いに青春時代のほぼすべての思い出を共有していると言っていい。

 そんな親友の結婚式。祝福しないはずがない。

 けど、私の心中は大荒れだった。大荒れどころじゃない。鳴門海峡の渦潮に飲まれたと思ったら大嵐に見舞われ、ついでに竜巻に巻き込まれたくらいの荒れようだ。

 なぜなら、まゆみは私の初恋で、高校時代から24歳の今に至る十年弱の片想いの相手だったから。


 初恋こじらせて十年って、自分でもドン引きだ。相手が同性とか抜きにしてもドン引きだ。

 ちょっと尋常じゃないくらいの馬鹿。勝ち目のない戦はさっさと降参して割り切るのがセオリー。それができない私は真性のアホ。


 片想いし続けた人の結婚式で友人代表のスピーチ。もうね、なんの罰かと思う。ちょっと神さま、残酷すぎませんか?と問いたくなる。

 いや、まゆみの親友は私だと自他共に認めているから、結婚式に呼ばれなかったり他の人に友人代表のスピーチ任されても複雑なんだけど。


 やっぱりね、大好きな人が幸せになるのはうれしいです。もう目一杯幸せになってほしい。友人として祝いたい。お願いされたら断れない。お願いされなくても断わらない。いや、本当に、心から。嘘じゃなくて。

 ただ、ちょっと、ほんのすこしだけ、悔しくて悔しくてさびしくて堪らないだけですとも。

 顔で笑って心で泣いて……って、顔面もガッツリ泣いていたっけ。


 そんなわけで私は結婚式の二次会のあと、ひとりではしごしてやけ酒をくらい、大いに酔っぱらっていた。

 右にふらふら、左にふらふら、なんとか歩いていたけど、飲みすぎて現在地も曖昧だ。自宅に向かっているのか遠ざかっているのかすらよくわからない。それでも歩くのは、ただ歩みを止めたらそれっきり動けなくなるのが怖かっただけだ。


 「もし、お嬢さん。ちょっと占いしていかない?」


 そんなとき、声をかけられた。

 みると、道端に小さなテーブルに、手相の絵と「占い」と書かれた灯籠を置き、黒いショールを頭からかぶって低い椅子に腰かけた、いかにもな街占がいた。

 ショールを目深に被っているので顔はよく見えないけど、手に皺もないし、声も中性的で、若いのか年寄りなのか男なのか女なのかもよくわからない。

 繁華街でも駅前でもないところにいるのは珍しい……と思いつつも、正常な判断能力を失った私はそのまま占い師の向かいに座ってしまう。


 「お嬢さん、失恋したね」

 「うえっ、どうしてわかるの?」

 「占ったから……って言いたいけれど、その顔を見れば誰でもわかるさ。よかったら話を聞かせてくれるかい? 今のお嬢さんはちょっと放っておけないよ。お代は無料(タダ)でいいからさ」


 私は洗いざらい話した。まゆみのこと。出会いから好きになったきっかけ、二人の思い出。花嫁衣装がとてもとても綺麗で涙が出たこと。

 私はまゆみに告白したことはなかった。

 一回くらい告白すればよかったかもしれないけれど、「親友」へ向けるまゆみの無邪気な信頼を裏切れなかったし、そもそもまゆみはシュワちゃんみたいなむきむきマッチョメンがタイプだったのだ。

 まゆみは逞しい男性にお姫さま抱っこされるのが夢だと常々語っていた。

 それは私がいくら努力したところで、叶えられない願いだった。女の私じゃ筋トレしたところで身長は伸びないし、腹筋バキバキ、力こぶむきむきにもならない。

 私の初恋は始まる前に終わっていたのだ。まゆみ、おめでとう。花婿さん、理想通りの力強くてかっこよくて優しい人だね。


 占い師は余計な口を挟まず、私の支離滅裂でろれつの回らない愚痴を親身になって聴いてくれた。


 「それでお嬢さん、これからどうしたい?」

 「どーしたいって?」

 「これからもそのお友だちに片想いし続けるのかい?」

 「ううん、もう終わりにしらい。不毛な片想いなんてーすっきりさっぱり卒業してー、次に行きたい。私を愛してくれる人を好きになりらいっ」

 「そうかい。じゃあ、これを特別にあげよう。これは特別な羽衣。満月の晩にこれを羽織ると、お嬢さんの求めている人に会えるよ。今日はもう遅い。お家にお帰り」


 予想しなかった展開に驚いて顔をあげると、ふ、と占い師の口許が弛んだ。

 えっ、と思う間に、薄桃色の薄衣(うすぎぬ)の衣を渡され、意識が飛んだ。



◇◇◇



 目が覚めると、自分の借りてるアパートの部屋の中だった。ベッドにパーティー用ドレスのまま倒れていたらしい。ドレスは皺だらけ、髪もぐちゃぐちゃ。まだ外は暗かった。

 どうやって帰ってきたのか記憶がないけど、ひとまず自宅にたどり着けたので良しとしよう。まだ酒が抜けてないのか頭がふわふわする。

 私はドレスを脱いで、ささっと化粧を落としシャワーを浴びた。


 風呂からあがると、見慣れないものがあった。床に投げ出されたバッグの横に、なにやら白っぽい布のかたまりがある。

 拾い上げると、さらりとした透き通るような羽織だった。衿は白だけど、裾にかけてほんのり桃色に変化し染まっている。厳密に言うと和服の羽織とは違うのかもしれないけれど、お祭りの法被よりは長く着物の長着よりは短い。

 どこで手に入れたのだったかよく思い出せない。

 私はまだ酔っていたので深く考えず、 風呂上がりのパンツとキャミソールという下着姿の上に羽織ってみた。すると衣は、すばらしく軽く肌触りがよく、少しうれしくなる。


 今日は疲れたし、まだ暗いし、もう少し寝よう


 急に眠気がぶり返した私は、その衣をパジャマ代わりにそのまま寝入ってしまった。



◇◇◇



 そこはとても綺麗な泉だった。いや、泉と表現するのはおかしいかもしれない。

 水底までおそろしいほどの透明度だけど、手を浸してみると温かく、温泉だった。

 広さはテニスコート二枚分くらい。所々岩がつきだしそこにささやかな草木が茂って、適度に視界を遮っている。全体を見通すのは少し難しいが、おそらく楕円形をしているのだろう。泉のまわりには松らしい木が生えていて、外からも目隠しになっていた。

 空には満月が出ていて、白い光がさえざえと辺りを照らしている。うっすらと靄がかかり、聞こえるのは涼やかな虫の声と、さやさやと静かな葉擦れの音。それは幻想的な風景だった。


 私は誰もいないひそやかな温泉に心が浮き立った。温泉は本当に久しぶりだ。私がまゆみに片想いをして、自分が女性を好きな人間だってことに気づいてから、私は一度も公共浴場に行ったことはなかった。

 温泉や銭湯に行ったところで、他人の裸をよこしまな気持ちでじろじろ見たりなんかしないけれど、どうしても悪いことをしているようで、居たたまれなかったのだ。

 広いお風呂も温泉も大好きな私にとっては、それがとても無念だった。


 寝る前と同じ下着のうえに衣を羽織っていたので、ぱぱっと脱いで温泉に入ることにする。

 服は近くの木の枝にかけた。


 肩までつかるとため息が出た。お湯にじわじわと疲れが溶けていくようだ。

 はあ、いい夢だなあ。

 水底は、川にあるようなつるりとした丸い石が敷き詰められていて、裸足で歩いても腰をおろしても痛くなかった。

 ぼーっとしていると、暗い水面(みなも)に月の光が宝石を砕いたようにキラキラ反射して綺麗だった。

 落ち着いてくると、親友の結婚式の様子が思い出されて、鼻の奥がつんとして涙が滲む。

 決定的な失恋の痛手と、親友と愛しあい喜びを分かち合う人が現れたことの安堵の涙だ。


 私もあんなふうになりたい。前向きになって、愛しえる人を見つけたい。

 まゆみの結婚相手が自分でないのは、くやしいけどしょうがないと思う。

 ただ、とてもさびしい。まゆみはパートナーを得て新しい人生の一歩を踏み出したけど、私は一生このままかもしれない。片想いはほろ苦い喜びだった。けれど、やはり愛を告白したかった。


 私は女性が好きな女性だと思う。まゆみに限らず、恋愛という意味で惹かれるのは女性。でも、自分と同じ女性が好きな女性と出会い、恋をするにはどうしたらいいのかさっぱりわからない。

 なにせ、日常生活を送っているだけでは永遠に出会いがないのだ。女が彼女を作るには、ネットのあらゆるツールを駆使し出会いを求め、当事者イベントで手当たり次第にナンパする超肉食系女子にならなければ望みはない。

 そんなことできるの? わたしに? 片想いひとつをあんなにこじらせて引きずるのに? できなかったら、一生一人ぼっちで終わるの?

 そんなことを考えると情けなくて仕方なかった。


 そのとき、音がした。ぱしゃっとなにかが水に入る音がして、その後にザバザバと水をかき分けて歩くような音が続く。


 えっ、なに? 動物? あ、人だ!


 温泉に入ってきたのは、二十歳前後の女の子だった。肩甲骨のあたりまで伸びたゆるやかにウェーブした茶髪。日に焼けた健康的な肌色。めりはりのあるふんわりとしてやわらかそうな肉付きのよい身体。その女の子はこちらに気づくとくりくりとした丸い瞳を見開いた。

 墨を流したように黒く強くてまっすぐな髪、どちらかというとやせ形で手足ばかりが長く、古風といえば聞えがいいけど一重まぶたの地味顔の私とは正反対のタイプの女の子だった。


 ああ、私はやはり夢を見ているのだなぁとぼんやり思う。こんなにかわいらしく綺麗な女の子は見たことがない。


 「どうしてここに……? 誰?」


 と、その見知らぬ少女のつぶやきが漏れる。

 そこではっとする。貸し切りだと思っていたけど、ここはこの女の子の場所なのかもしれない。私有地だったらどうしよう……。勝手に入ってしまったのは不味かったかも。それに裸を見てしまった……!


 「あのっ、ごめんなさい。ここ、人が来るって知らなくて。ごめんなさい、すぐ出ていくから」

 「あ、待って!」


 慌てて温泉から出ようとすると制止の声がかかる。出ていくだけでは許してくれないかもしれない。なにか罰を受けるのかも。


 「ごめんなさい、本当に知らなくて。入っちゃいけない場所かもしれないのに、勝手に入ってしまって……。なんてお詫びしたらいいのか」

 「違うの、ここは誰かの持ち物じゃない。自由に使えばいい。ただ、ここのこと知っている人ってあんまりいなくて。それにこんな真夜中に使う人なんているとは思わなくて、あたし驚いただけなの。それより、あなたーー」

 「そうですか、よかった。でも、私はもう上がりますね」


 少女がなにか言いかけていたけど、遮って退場を宣言する。自分以外の女性。しかも服を着ていない。気まずい。故意ではないけどとても申し訳ない。再び少女から距離を取って、ざばざばと歩き出そうとする。


 「待って!」


 再び制止の声。驚いて振り向く。


 「なにか……?」

 「いや、あの、少し気になって。あなたどうして泣いてたの?」


 ぐっと息がつまる。泣いてなんか……と言おうとしたところで、泣き腫らした目元のせいで無意味だと思い至った。


 「ねぇ、大丈夫? なにかつらいことがあったの?」

 「ただ……さびしくて」

 「さびしい?」

 「うん」

 「それで、そんな顔をしているの? 大人なのに迷子みたいな顔……」


 少女は私にそっと近寄って下から顔を見上げるように覗きこむ。

 目の前の女の子は眉根を下げて、大きな瞳には訝しむ色とこちらを気遣う色が浮かんでいた。


 あ、ダメだ、と思う。私が落ち込むと、まゆみもよくこんな目をしていた。私はまゆみの親友だけど必要以上に触れないようにしていた。落ち込んだ私を慰めようとするまゆみのスキンシップを避けた。だって、手が触れたところから火のような歓びと罪悪感が私の身を焼いたから。そんなときはいつも、まゆみは同じ色の目をしていた。

 いつも私は「なんでもないよ」と微笑んで誤魔化していた。


 でも、今日だけは。今夜だけは、ダメだった。笑えなかった。愛しい人の結婚式で精一杯の見栄を動員して「親友」に徹した今日だけは。目の前にいるのはまゆみじゃない、見知らぬ人。

 だけど、その瞳が愛しい人に重なって見えた。それにこれは夢。こんなに綺麗な人もこんなに綺麗な場所も知らない。少女からはほんのり甘いハーブのような不思議な香りがした。いい加減のぼせてきたのか、しこたま飲んだアルコールと甘やかな香りに頭がくらくらした。


 理性が働いてなかったのだろう、たぶん。だから、思わぬことを言ってしまった。


 「あのよかったら……少しだけ、そばにいてくれませんか?」


 少女は目をぱちくりさせると、ふっとやわらかく微笑んで「いいよ」と言った。


 「名前を聞いてもいい? あたしは、サヨって言うの」

 「私は天音(あまね)

 「アマネ、手を繋いでいい? あたしが不安なとき、かかさまは、よくこうしてくれたの。こうしてもらうと、いつも安心した」


 少女の手は指先が少し荒れていたけどやわらかくて、私は胸の奥底がじんわりあたたまった。


 「ありがとう」

 「どういたしまして」

 

 その夜の夢は幸せだった。しばらくして真っ暗だった空が東の端から濃紺へ姿を変え、日の出が近づいたころ、私は少女にお礼を言って服を着た。

 あの衣を羽織ると夢は掻き消えて目が覚めた。

 目覚めたあとも、繋いだ手の感触とあたたまった胸の熱は消えていなかった。




◇◇◇




 その日から私は例の羽衣を着て寝るようになった。そうすると、たまにあの幸せな夢の続きが見られるのだった。それは決まって満月の夜だった。

 サヨと素っ裸で会ったのは最初だけで、2回目以降はお互い服を着て語り合った。

 といっても、私は夢の世界に行っても羽衣を着たままだとすぐに目覚めてしまうので、夢の世界に着いたらまず私は羽衣を脱いで木に引っかけることにした。

 毎回、朝が近づくと、私は自然に目が覚めた。着ても着なくても羽衣が近くにあるだけで、朝には目覚めてしまうようだった。

 サヨの普段着は、木綿の袖丈の短い着物で、甚平に似ていた。けれど、衿や袖口、裾に細かくて不思議な幾何学的模様が入っていて、それをサヨは「おまじない」と言った。



 サヨとは色々な話をした。

 サヨはふんわりおっとりして見えるけど、芯のある女性だった。

 サヨの両親は他界していて、サヨは一人で薬師をしながら生計を立てているようだった。客以外とはあまり人付き合いをしてないらしい。

 基本は物々交換だけど、足りないものは市に行って薬や山菜を売り金銭を得て賄っているようだった。


 私にも両親は居なかった。母は未婚のまま私を産み、私の物心つく前に亡くなってしまった。私は母方の祖父母に引き取られ、育ててもらった。祖父母は私を愛してくれたし、母も私を望んで産んだことを教えてくれた。

 けれど、祖父母も亡くなってしまって、母の兄だという人が私に祖父母の家から出ていってほしいと言った。祖父母の家は持ち家で思い出が沢山詰まっていた。

 叔父は高校を卒業したばかりの私に


 「親父やお袋にさんざん世話になったんだろう? もう十分じゃないか。俺たちには子どもが三人もいるし、狭い賃貸で窮屈な思いをさせるより、実家の一軒家でのびのび育ててやりたい。お前は一人立ちする歳だし、どうか俺に譲ってくれ」


 と言った。

 私は黙って慣れ親しんだ家を明け渡し、1Kのアパートに引っ越した。高卒で入った会社の雀の涙の給料で家賃を捻出するのは、正直きつかったけれど、それも仕方ないと思った。


 お互いの身の上話をすると、サヨをとても身近に感じた。まゆみの話はあまりしなかった。もう未練がましいことを言いたくなかったのだ。ただ、失恋したとだけ伝えた。


 夢だと思っていても、サヨとの時間は楽しかった。夢が覚めなければいいと何度も思った。しかし、無情にも必ず朝が着て私はベッドで目覚めるのだった。


 サヨは段々私にスキンシップが激しくなった。肩がくっつきそうなほど近くに腰かけたり、頭を撫でたり、手を繋いだり。

 いやらしさは感じなかった。慈しみと親しみがこもっていた。

 サヨに触れられると、私は火が出るほど顔が熱くなって固まった。嫌なわけじゃない、ただどうしたらいいのかわからなくて、戸惑った。

 私が固まると、サヨは楽しげに微笑んで「大丈夫、大丈夫、安心して」と私を撫でてくれた。

 なんだかそれが馴れない子猫に対するような態度で、無性に悔しくて私はぷいっと顔を背けるのだった。私が子猫なら、サヨはそれを宥めるしなやかな親猫だった。



 いつしか、私はサヨに恋をしていた。サヨも気づいていたと思う。

 東の空が白くなり始めると、離れがたく感じて私はサヨの服の裾をきゅっと握った。サヨはそんな私を黙って抱き締めてくれた。

 私を抱き締めるサヨの瞳の奥には迷いの色が見え隠れした。

 そんなときは、サヨも同じ気持ちなんじゃ……と錯覚しそうになる。



◇◇◇



 その晩はいつもと違った。

 サヨが現れなかったのだ。

 私はがっかりしながら気持ちを切り替えて、久しぶりに温泉を楽しむことにした。

 あの羽衣を含め、服を全部脱いで木に引っかけておく。

 はじめてこの場所に来たのは初夏だったが、今は秋に差し掛かっていた。すこし肌寒いけれど、温泉はやっぱりうれしい。


 しばらくして、私は愕然とした。

 朝が来たのだ。

 夢の世界で一度として浴びたことのない朝日。

 そのなかで私は例の羽衣を探した。でも、どこにもなかった。他の下着やTシャツなんかはあるのに。

 

 仕方ないので、残された服を着て周囲を探索することにする。下着にTシャツとショートパンツ。そろそろ秋だし、薄着で寒くて心細い。靴はないので、松林の針のような落ち葉が、足裏につき刺さって涙がでるほど痛い。

 あれ? 痛い? 痛いってことは夢じゃないのかもしれない。

 一抹の疑問がよぎったけれど、深く考えないようにして、そろりそろりと慎重に歩を進める。


 ふいにサクリ、と草を踏む音がした。

 サヨだった。

 はじめて明るいところで見るサヨは、色素の薄いやわらかい茶髪が朝日に透き通って黄金に輝いている。大きな黒い瞳は澄んでいて、まぶしいくらいにかわいい。


 「あ! サヨ! 朝もここに来ることがあるの?」


 驚きと安堵でなんだか間抜けな質問をしてしまう。


 「えっ、ああ、うん。アマネと会うようになってからは夜に来てたけど、朝に来ることもあるの。……それより、朝だけど、帰らなくていいの?」

 「実は、帰らないというか、帰り方がわからないんだ。ねぇ、あの羽衣を知らない? アレがあれば帰れると思うのだけど」


 サヨの肩がビクッと跳ねる。なんだろう?


 「ごめんなさい。知らない。……それより、行くところがないならあたしのウチに来る?」


 なぜかサヨはとても怯えているように見えた。遠慮がちに私を家に誘う。


 「それなら、お邪魔させてもらっていい?」

 「本当にいいの? 大丈夫?」

 「サヨがいいなら……」

 「もちろんだよ! ずっといてくれていいのよ!」


 しつこい念押しに首を傾げつつ答えると、サヨはパッと顔に喜色を浮かべた。花がほころんだようだ。

 上気した頬が子どもっぽくてかわいい。思わず私の頬も弛む。

 もとより私はこの世界のことをなにも知らない。知り合いはサヨしかいないのだから、サヨを頼る他ないし、一人ぼっちや知らない人に頼るより親しいサヨのそばにいる方がずっとよかった。



 サヨの家は山のなかにぽつんと建っていた。といっても、山深くの世捨て人のような立地ではない。単に一番近い集落から少し距離があるだけ。一時間も歩けば、人里に降りることができた。あの温泉からも近い。

 木造茅葺きの鄙びた家だった。茅が若干古くなって、ところどころぴょんぴょんと雑草が飛び出し苔が生えている。

 母屋から少し離れたところに、人一人入れるかどうかという掘っ立て小屋があって、それが廁らしい。

 家の裏手には、薬草園とも菜園ともつかない慎ましい畑があって、片隅に花が咲いていた。畑の脇にすすきがわしゃわしゃと生えているのが、ちょっと鬱陶しい。


 屋内の三分の一は土間で、様々な道具や水瓶、沢山の薬草壺が置かれ、薬草が干してある。

 十畳ほどの板の間があり、真ん中に囲炉裏が切ってあって、囲炉裏の上に鉤が吊ってある。隅には布団らしきものが丁寧に畳まれていた。他に一畳ほどの長持が一つ。それで大体全部。一目で家全体が見渡せる広さだった。

 家のなかは、サヨの匂いがした。薬草の青くてスパイシーでほんのり甘さのある香り。


 家に着いたら、サヨは丁寧に私の足を洗ってくれた。靴のかわりにサヨの手拭いを裂いて足に巻きつけてくれたけど、やはり足は傷だらけになってしまった。

 そこにサヨは黒い軟膏を塗る。細い指先が冷たくて熱くてヒリヒリした。




◇◇◇




 一日、二日、三日、一週間、1ヶ月……半年経っても私は夢から覚めなかった。

 いや、もうこの世界が夢ではないと知っていた。


 穏やかなサヨとの暮らし。近くの農村の人々は、のんびりとして気さくな人柄で、誰も突然現れた私を不信がらなかった。私とサヨはそんな村人と、つかず離れずの距離を保って日々を過ごした。


 不思議な場所だった。昔の日本にタイムスリップしたのかと思ったけれど、非常によく似ているのにところどころ日本と違うところがあった。


 まず、誰も仏教の存在を知らない。お寺も仏像もどこにもなかった。信仰の対象は、祖霊や古代からあるような巨木、苔むした巨岩の精霊だった。仏教が伝来する前のもっと古い時代にしては、鉄器がありふれ、畑に肥料を撒き、近代の技術が普及していて妙である。

 着るものも私の知っている和服と違う。似ているけれど、丈の長さや袖の太さ、帯の種類が違う。それに、男性も女性も着物のような長い上着の下に、ズボンをはいていた。夏は甚平みたいな形の服を着ることも多い。それくらいなら私が無知なだけかもしれないけれど、みんながそれぞれ服に見たことのない図柄の刺繍をしていた。首飾りや耳飾り、腕輪なんかも普通で、装飾品といえば簪くらいしかなかったはずの昔の日本ではあり得なかった。それらはすべてお守りらしい。

 みんな顔立ちは和風で髪を結っている人は少なかった。みんな短く刈るか、伸ばして垂らすか、一つにくくるだけ。


 それだけなら、アジアのどこかかもしれないけれど、私の知ってる世界史や、アメリカなどの超有名な国名、テレビや車なども誰も知らなかった。なにより、日本以外のアジアのどこかなら、日本語しか話せない私と言葉が通じるのはおかしい。

 文化レベルは、ざっと日本の戦国時代から江戸初期くらい。でも、鉄砲や火薬は普及しておらず、戦争もなさそう。

 主食は米だ。食文化は和食とほとんど一緒だ。斜面に連なる棚田は日本の田舎を思い出して心がなごむ。


 私はサヨに薬草の種類や薬の作り方を教えてもらいながら暮らした。紙が貴重品なので、メモ書きができずすべて暗記するのは苦労したけれど、新鮮で楽しかった。

 右も左もわからない私は四六時中サヨのあとを、ひよこのように着いてまわって新しい世界のことを学んだ。


 村や市に行くと、ときたま似たような服を着ている二人連れとすれ違った。男女二人だったり、男性二人だったり、女性二人だったり。二人組の服の刺繍は必ず模様が似かよっていて、とても親しげにしているのだった。

 たぶん、家族は揃いの服を着るのが習わしなのだろう。男性同士や女性同士の二人組は兄弟なのかもしれない。



◇◇◇



 春が近づいて、薬と食料を村に物々交換しに行くと、村の仲でも特に親しいおばさんが話しかけてきた。


 「そういや、あんた。今年は祭りに来るのかい? あんたらなら、うちらは歓迎だよ。言ってくれればあんたらの分の札も用意するしさ!」

 「いえ、あたしはいつも通り一人で祈ろうかと」

 「えっ、なんで? お祭り行こうよ! 私お祭り大好き。それに私は? 今年は一人じゃないでしょ」

 「ほら、あんたも遠慮ばっかりしないで! この子もこう言ってるんだしさあ。今年は一人じゃないんだし、いいから来なさい。精霊とご先祖様にきちんと報告しておやり。うちはあんたらが来るつもりで用意するからね。わかったね?」

 「……はい」


 サヨはなぜか辞退しようとしたけれど、私は祭りという単語にわくわくした。こちらのお祭りってどんなだろう?見てみたい。私が弾んだ声をあげると、おばさんはガハハと豪快に笑って、少々強引に話をまとめた。

 おばさんの勢いに押しきられた形になったサヨは、小声で「違……そういうんじゃないのに」と、もごもご言っていたけれど、嫌そうというより口許がわずかにゆるんで嬉しそうだった。

 やっぱりお祭りが楽しみなんだ!



 祭りは春分の日だった。

 厳しい冬の終わりを祝い、普段見守ってくれる祖霊と精霊に祈りを捧げ、一年の安寧と豊饒を祈願する意味があるらしい。


 この日のために、サヨと私は揃いの晴れ着を仕立てた。二人お揃いなのは、例のおばさんが強硬に主張して、布まで私たちに用意してくれたからだった。サヨはかなり激しく抵抗していたけれど、おばさんも一歩も引かず、布も勿体ないのでしぶしぶ受け取ったのだった。

 サヨはいつも藍染めか茶渋のような地味な色合いしか着ないのに、雪のように白い衣と細いズボンの上に、膝丈まである緋色の上着を着て、漆黒の帯を占めた姿は堂々として美しかった。衿には二人で刺した金糸の刺繍もある。

 私も同じ着物を着ると、サヨは「素敵だよ」と褒めてくれた。

 

 祭りは昼間から夕方にかけて行われる。まず、村の長が参加者全員に紙でできた札を配る。紙は貴重品なので、私はこちらの世界ではじめて見た。札には流麗な筆致で私には読めない文句が書いてある。

 それをみんなで持って、行列を作り、先頭集団のしゃんしゃんという鈴の音に合わせて、村のあちこちにある祠をまわる。この祠は木や岩の精霊を祀るものだ。色とりどりの鮮やかな衣装を着た人々が、ようやく緑が芽吹き始めた里を歩くのは、春を感じて目に楽しかった。

 すべてまわり終えると、村外れの川の畔に行き、札を舟の形に折って流す。このときに、祖霊と精霊に祈りを捧げる。札を舟の形にして流すのは、祖霊と精霊の国に祈りを届ける意味があるらしい。

 それで祭りは終わりだ。

 そのあとは、宴に参加したり、帰ったり、人それぞれだ。

 流れていく舟をとても真剣な目で眺めているサヨの姿は、声をかけるのが憚られた。


 祭りが終わって私とサヨが連れ立って歩いていると、揃いの服を着た男性二人組に声をかけられた。

 祭りの宵に男性二人組が女性二人組に声をかける。これはアレだ。世に言うナンパだ。サヨはかわいいからモテるに違いない。

 私は警戒する。どうしよう、しつこい人だったら……。面倒なことになった。


 「お似合いですね」


 と、二人組の背の高い方の男性が話しかけてくる。三十代半ばの柔和な顔立ちの人で、とてもナンパするようなタイプには見えない。しかし、女性を誉めるにはまず身につけているものを誉めるのがセオリー。たぶん今のは服を誉めたに違いない。

 こいつ、なかなか手慣れておるな。人は見かけによらない。サヨは私が守る。


 「ええ、この服は彼女が仕立ててくれたのです。それで、なにか用ですか?」

 「それはよかったですね。いや、とても可愛らしくて、微笑ましいと思ったものですから。僕らの若い頃を思い出します」


 どこか懐かしむように目を細める男性。

 

 「そりゃサヨは可愛いですよ。でも、男性はお呼びじゃありません!」

 「もちろんですよ。僕には愛する伴侶がいますから安心してください」


 そう言って男性は隣のもう一人の男性を見て微笑む。えっ? 愛する伴侶? どういうこと? この人、奥さんがいるのにアプローチかけてきたの? 信じられない!


 「ふ、不倫ですか! なんということを!」

「ちょっと、アマネ! 恥ずかしいからやめて! ごめんなさい、この子ちょっと勘違いしているみたいで……気を悪くしないでください」


 私がサヨを不倫男の魔の手から守ろうと息巻いてると、顔をリンゴみたいに真っ赤にしたサヨが慌てて会話に割り込んできた。

 男性は目をぱちくりしていたが、「サヨさんはとても愛されているのですね。お邪魔虫はこれで失礼しますね」と片目をお茶目につぶって去っていった。相方の男性も私たちをみて、おかしくてしょうがないというふうだった。わけがわからない。

 サヨは耳まで赤く染めて俯いている。


 「サヨ? どうしたの? あの人たちはもう行ったから大丈夫だよ」

 「大丈夫じゃない!」

 

 サヨが大声を出す。なんで? 怒ってる? どうしよう、私は居候で迷惑ばかりかけているのに、なにか地雷を踏んでしまったのかもしれない。それで真っ赤になって震えるほど怒っているのかも。


 「怒ってる? ごめん、私がサヨを守ろうなんておこがましかったよね。居候の分際ででしゃばりだったよね」

 「怒ってなんか……あたしは……」


 サヨがなにか小声で言いかけて、途切れる。


 「サヨ?」

 「とにかく、怒ってないから。アマネにちゃんと教えてなかった私が悪いの。アマネはとても……遠くから来たのに」

 

 やっと顔をあげてサヨは私を安心させるように言う。いつもの笑顔だったけど、語尾に苦いものが混じっているのを私は聞き逃さなかった。

 

 「それでさっきの男の人たちはなんだったの?」

 「ないしょ」

 「さっきは教えなかった自分が悪いって言ってたのに。教えてよ」

「私の口からは言えない。他の人に訊いて」

 「えー、意地悪しないで。けち」

 「あたしはけちじゃないわ」


 なぜかさっきのことを教えるのを渋るサヨは、ぷいっとそっぽを向いてしまう。


 「うん、知ってる。さっきのはうそ。サヨはけちじゃない。すごく懐が深い人だよ」


 そう言うと、サヨはカッと赤くなって叫ぶ。


 「そういう言い方って……ずるいわ! とにかく、あたしは帰るから」

 「えっ、ちょっと待って、サヨ!」


 すごい勢いで去っていく緋色の背中に戸惑っていると、近くで一部始終を見ていたあのおばちゃんに声をかけられる。


 「なんだい、痴話喧嘩かい? 呆れたねぇ。あの子もいい加減素直になればいいのに。それに祭りの意味をきちんと説明してなかったなんて、世話のやけること。うちはてっきり、とっくに知っているものだと思っていたよ」

 「どういうことですか?」


 おばちゃんによると、揃いの服は恋人や夫婦の証らしい。こちらじゃ、同性同士のカップルは珍しくないという。

 この祭りは、祖霊と精霊に安寧と豊饒を祈るだけじゃなく、子宝を願ったり、夫婦円満、末長く仲睦まじくいられるように祈る意味もあるらしい。

 つまり、あの男の人の愛する伴侶とは、かたわらにいた男性のことだったのだ。

 私とサヨも結婚していると見なされていたわけだ。 え、つまりどういうこと? サヨは私とそういう風に見られていたことを知っていたのかな? サヨはどういうつもりなんだろう?



◇◇◇



 その夜はなかなか眠れなかった。女二人の余裕のない暮らしでは二組の布団を揃えることなんて出来なくて、私とサヨは狭い一つの布団に二人で寝るのが常だった。

 サヨとは清い関係だ。現状では、家主と居候の関係以上でも以下でもない。私の気持ちに気づいているらしいサヨがなんでもない風に装うため、私もなんでもない風にしている。

 毎晩、ぴったり寄り添う体温を、努めて気にしないようにして眠るのに、今日祭りであの話を聞いたあとでは意識してしようがない。

 私は背中を向けているから見えないけれど、サヨも眠れないようだった。いつものすぅすぅという、子どものような寝息が聞こえてこない。


 今晩、ずっと気になっていたことを聞いたら、場合によって私はこの家を出ていかなければならないかもしれない。

 それに、もし、もしサヨが私と同じ気持ちで、私がサヨの妻になるとしたら、それはずっとここで生きていくということだ。ここで。この世界で。ただの居候はいずれ出ていく。しかし、結婚となるとそうはいかない。確認したら、ぬるま湯のような曖昧で居心地がよく、それでいて蛇の生殺しのようなこの関係には戻れない。

 私は覚悟を決めた。口のなかに酸っぱい唾がわくのを飲み込んで、言葉を絞り出す。


「ねえ、起きてるでしょ? あのね、聞きたいことがあるの」

「改まっちゃって、なに、」


 台詞は茶化すようなのに、掠れて小さい声。


「とっくに気づいていると思うけど、あえて言うね。私、サヨが好き。できれば、ずっと一緒にいたい」

「うん……」

「サヨはさ、私のことどう思ってる?」


 私はくるりと寝返りを打って、サヨの顔を見つめた。胸が早鐘のように鳴っている。サヨはぱっちりと目を開いて、私をまっすぐ見返してきた。冬の湖面のように、どこまでも静かで深い、深い黒。その表面に私の顔が映っている。

 サヨが息を吸う。


「私もアマネが好き。はじめて会ったときから、胸がどきどきした。すらりとして、目許がすっと通って涼しくて、なんて綺麗な人なんだろうって。水浴びするすがたが幻想的で、天女さまみたいだって」


 ため息のようなささやき声の告白だった。心臓がどくん、と波打つ。耳の奥で血潮の音がする。うれしい。けど、気になることもある。


 「どうして――」


 ――今まで言ってくれなかったの? 私の気持ちに気づいていたのに。

 と続けようとして、私は口をつぐんだ。

 サヨがぽろぽろと大粒の涙を静かに流していたから。


 「だって、アマネは別の世界の人だから。必ず帰ってしまう。それに、あたしは罪を犯した。そのことを知ったら、アマネはあたしを嫌いになる。あたしから離れていってしまう」

 「私はどこにもいかないよ。サヨが好きだよ。好きな人に想ってもらえるなんて、こんなに幸せなことはないよ。私、今うれしくてたまらない。どうして泣くの? 泣かないで。安心して、どんなサヨも好き。ほら、手を繋ぐから」


 私ははじめて会ったとき、私にサヨがしてくれたように、サヨの手を握ってゆっくり語りかけた。片手で手を握り、もう片方の手でぽんぽんとなだめるようにサヨの背中をそっと叩いた。少しでもサヨが安心してくれたら良いと思いながら。

 サヨは「アマネが好き。大好き。ごめんなさい」と言いながら幼子のように泣いた。


 サヨの告白に身体中の血液が沸騰するくらい浮かれているのに、なぜサヨが泣くのかわからなくて、喉の奥に小骨が刺さったみたいだった。



◇◇◇



 その日から、サヨと私は恋人以上、婦婦(ふうふ)未満になった。キスもするし、手を繋いで外出もする。

 「素敵な奥さんね」とか「お似合いだね」とか言われたら、はにかんでありがとうと言う。明確な意図をもってお揃いにした着物を見せびらかす。

 私が笑いかけると、サヨもふふっとくすぐったそうに微笑み返してくれる。

 あの人懐っこい丸い目でサヨが微笑んでくれると、さびしくて泣いていたときが嘘みたいに、身体中がぽかぽかした。


 だけど、相変わらず清い関係だった。毎晩、キスをして抱き合って眠る。それだけ。

 1回、私がキス以上のことをしようとしたら、やんわりと腕をとられて拒否されてしまった。私を拒絶するサヨの目は隠しきれない期待と欲望に濡れているのに、なぜかとても傷ついていて、そんな目をされたら私はなにも出来なくなってしまう。


 そんなことがあってから、私はときどき夜にあの温泉に一人で行って、ぼんやり月を眺めるようになった。

 私が一人で外出するのに、サヨはなにも言わない。

 

 私はサヨがなにを考えているのかわからなかった。こんなに近くにいるのに、毎晩抱き合って眠るのに、両想いなのに、どんどんすれ違ってわからないことの方が増えていくみたいだった。

 お伽噺は、両想いになったらそこで物語は終わりだった。てっきり「二人は愛し合っていつまでもいつまでも幸せに暮らしましたとさ」で終わるんだと思っていたのに、現実はもっと複雑だった。

 

 私は帰れない日本のことを思い出す。まゆみはどうしているだろう? 結婚はまゆみにとって最高の幸せだと思っていたけれど、本当は大変だったり苦しかったりする?

 まゆみに会って、相談したい。報告もしたい。

 私にもこんなに素敵な恋人が出来たんだよ。ねぇ、両想いって思ったのと違うね。楽しいばかりじゃないんだね。私、そんな当たり前のことを初めて知ったんだよ。

 

 いきなり私はこっちに来てしまったけれど、日本じゃ私はどういう扱いになっているのだろう? まゆみは急にいなくなった私を心配してるかもしれない。心配かけてごめんね。私は元気だよ。幸せだよ。

 私をここに連れてきた羽衣はどこに行ってしまったのだろう? 結局あの日から羽衣の行方はわからないままだった。


 夢の中でサヨとなんでも語り合った日々のように、月光に照らされた松林の温泉の風景は変わらず幻想的で、自然と頬が濡れた。



◇◇◇



 「帰りたい?」

 

 ある日、家の裏の菜園を二人で手入れしているとき、唐突にサヨは言った。

 声が固くて石のように無表情だった。

 どこに?と聞かなくてもわかった。もとの世界に帰りたいかどうかということだろう。


 「どうして? 聞いても仕方ないじゃない。どうせ帰れないし。ほら、無駄話してないで、さっさと雑草を抜こっ!」


 咄嗟に私は話を反らす。不自然に明るい声でまぜっ返すように言うと、サヨも「そうだね、馬鹿なこと聞いたね」と言って黙々と作業を続けた。


 帰りたくないと言えば嘘になる。まゆみに会って話したいことがたくさんあるから。だけど、それ以上に私はサヨと一緒に居たかった。帰りたいと言って、サヨを傷つけたくなかった。

 帰りたくないと言っても、帰りたいと言っても、どちらも正しい答えじゃない。



◇◇◇



 サヨはとてもしっかりした性格だったのに、段々不安定になっていった。

 家事をしていると突然私に背後から抱きついて甘えた声を出す。夜寝る前、私の髪を丁寧に丁寧にくしけずいてくれる。

 かと思えば、突然無表情になり、私を突き放すようにする。それでも私がやんわり抱き締めて、背中をぽんぽんすると、小さく震えてすがりつく。抱き締めると、サヨの髪からはいつも不思議な薬草のほんのり甘い匂いがして、私の肺を刺す。


 実のところ、私はサヨの「罪」について察しがついていた。

 最初はわからなかった。

 けれど、なにかの拍子で私があちらの話題を出すたび、サヨは身体を強ばらせた。

 サヨはいつも一瞬で緊張を解いて自然体を取り繕うので、私は誤解していた。

 サヨは私が帰るのを怖れているんだと思っていた。

 けど、違う。サヨのあの顔は恐怖じゃない。懺悔だ。


 思えば、あの羽衣がなくなった朝、サヨの態度はおかしかった。 怯えるような顔。しつこいくらいの確認。なにかを隠していた。

 もし、羽衣がなくなったのがサヨのせいだったとしたら……?

 私が湯浴みをしているとき、本当はサヨはあの場所に来ていて、こっそり羽衣を隠したんだとしたら……?

 

 私が帰れなくなったのは、サヨのせいだ。



◇◇◇



 こちらに来て、そろそろ一年が経とうとしていた。サヨと初めて会ったのは初夏だったけれど、帰れなくなったのはそろそろ秋になろうかという頃だった。

 初めて来たときと同じように、家のまわりにすすきが咲いて、もう秋なんだと思った。このままではいけない。

 決着をつけなければ。


 朝食にサヨが得意のきのこ汁を用意してくれる。囲炉裏に鍋をかけて、具に火が通ったころ、味噌を溶いて出来上がりだ。出汁が効いていて美味しい。心に染みる。


 「やっぱりサヨは料理上手だ、すごいね。薬草のこともなんでも知っているし」

 「やめてよ。これくらい普通だよ。ほめてもなにも出ないよ」


 照れて目尻を下げるサヨ。謙遜してるけど口許がにやけている。かわいい。出来ればずっと一緒に居たい。

 

 「あのね、サヨ。私、サヨに頼みたいことがあるの」

 「なあに?」


 私は穏やかな空気を壊さないように、できるだけさりげなく切り出す。サヨは小首を傾げる。かわいい。

 

 「あの羽衣、返してほしいの」

 「えっ……なに言って……」


 一瞬で凍り付く表情。サヨの手から落ちた箸が派手な音を立てて散らばる。


 「私に、サヨが隠してる、あの羽衣を、返してほしいの」


 一節一節を区切って、ゆっくり言い直した。


 「なん……知って……いつ、から?」


 ザッと音を立てそうなほど青ざめたサヨは、緊張で短く浅い息をしながら聞き返す。


 「サヨが『帰りたい?』って聞いてきたときから、そうじゃないかと思ってた。やっぱり、あの羽衣、サヨが持っているんだね……」

 「帰るの?」

 「うん、お互いもう限界でしょ」


 私は苦笑する。本当はサヨと離れたくない。だけど、このままだとサヨは罪悪感で押し潰されてしまう。

 サヨは捨てられた子犬のようにこちらを見つめていたけど、やがてぐっと唇を噛んで堪え、毅然として顔を上げた。


 「わかった。……こっちよ」


 言い訳一つしないサヨの横顔は凛としていて、彼女のしなやかな芯は失われていなかったんだとわかった。


 サヨに着いてしばらく歩くと、山中の巨大な樹の前に出た。大人の男性六人が幹のまわりをぐるっと囲って精いっぱい腕を伸ばして、やっと全員の指先がつくかつかないかくらい幹が太い。

 当てずっぽうだけど、樹齢三千年くらいありそう。土から浮き上がって捻れた根や、ところどころに出っ張った瘤に歴史を感じる。とても立派で威厳すら感じる巨木に、ここが神聖な場所だとわかる。


 樹の裏手にまわると、小さな祠があった。この樹を祀るものなのだろう。

 サヨはその祠の扉を開ける。中には約四十センチ四方の木箱が入っていて、蓋をあけると油紙の包みが見えた。

 サヨはその油紙の包みを私に渡した。開くと予想通り、あの羽衣だった。


 「帰るのね。……元気で。今まで本当にごめんなさい。ありがとう」

 「うん、帰るよ。私にはやらなくちゃいけないことがあるから」


 捨て子のように切なげに瞳を揺らしているのに、サヨの表情は覚悟を決めて凪いでいた。


 「だからサヨ、私に着いてきて」


 ぽかんとするサヨ。かわいい。私は羽衣をふわりと広げて、私とサヨ両方に羽衣を被せるようにした。

 私はサヨの背中に両手をまわして強く祈る。私はサヨと一緒に帰る。あの場所に。そして決着をつけてもう一度二人でここにくる!


 目蓋の裏で白い光がスパークした。よく覚えてないけど、いつかどこかで出会った怪しい占い師がにやけ面がちらついた気がした。



◇◇◇



 目を開けると、私の借りてたあの小さいアパートの一室だった。

 私の腕の中にサヨは居た。見慣れないチマチマとした物の多い部屋に呆然としている。


 こうしてみると、私たちの服装は平均的な若い現代日本人女性の部屋の中で浮いていて、とてもちぐはぐだった。草履を履いたまま、室内の真ん中に立ってしまっている。床が泥で汚れちゃうな……とか、どうでも良いことを考える。


 さて、今はいったいいつだろう?あれからどれくらい時が経ったのか。部屋が解約されていないみたいだから、私が居なくなってからそれほど時間は経っていないと思う。さすがに一年も行方不明で、部屋がそのままとは考えにくい。私の口座にそんなに貯金はないし、私の不在に誰かが気づくだろう。

 外は明るかった。今は昼間らしい。


 まだ唖然として固まってるサヨの顔を下から覗きこむ。

 ゆるゆると視線が動いて私を捉える。そして、キッと眦を吊り上げると、バッチーンっと私の頬を張った。


 「いきなりなにするのよ!」

 「それはこっちの台詞だよ!」


 いきなりビンタされた私は訳がわからない。


 「だって、アマネが……! アマネが帰るって言うから、覚悟したのにっ。『着いてきて』ってどういうことっ!? 聞いてないよっ、ビックリするじゃない! 帰るんじゃなかったのっ?」

 「こうして帰ってきたじゃん」

 「あたしも一緒じゃんっ」

 「それは、その、私がサヨと一緒に居たかったから。嫌だった?」

 「……嫌じゃない。そういう言い方って、ずるいわ」


 上目遣いで見ると、きゃんきゃん怒っていたサヨが、ぐっと怯む。うーん、サヨって目が丸いから猫っぽいって思ってきたけど、意外と犬系かも。


 私は今機嫌がいい。賭けに半分成功したから。賭けに半分も成功したのだから、きっと残りの半分も成功する。

 

 私はサヨの両頬をそっと手のひらで挟んで、視線を合わせて語りかける。


 「あのね、サヨをここに連れてきたのは私のことを知ってほしいからだよ。

  私、あっちに行ってからサヨの前ではなるべくこちらの話をしないようにしていた。こちらの話をすると、サヨがとても不安そうにするから。

 でもね、それ間違ってた。私はこちらの世界で育ったから、私のほとんどはこちらの世界のもので出来てる。こちらの世界のことを避けて私とサヨは向き合えない。ほんとにずっと一緒にいるためには、必要なことなんだよ」

 「アマネの育った世界……?」

 「そう、サヨに私のことを知ってほしい」


 言い終えて、互いの額をこつんと合わせる。目を閉じるとサヨの息づかいが聞こえて、額からサヨの体温が伝わって、サヨの匂いがする。


 「これからもずっと一緒にいてほしい。サヨ」


 それは数秒後だったかもしれないし、数分後だったかもしれないけれど、しばらくして「うん」と小さく返ってきた。



◇◇◇



 とりあえずサヨにシャワーの使い方を教えて、お風呂に入ってもらうと、部屋に放置されていたスマホを見た。今は朝の10時。会社やまゆみから着信がたくさん入っている。意外なことに叔父からも連絡が入っていた。私がこちらの世界から消えてから一か月が経っていた。時間の流れはやっぱり違うらしい。


 まずは会社に連絡を入れる。上司にはたくさん怒鳴られた。当たり前だ。連続無断欠勤なんて問答無用で首にされていてもおかしくない。でも、心配もしてくれていた。なにか事情があるのかもしれないと、無断欠勤分を使っていなかった有休扱いにしてくれていた。ありがたくて、電話越しだけど自然に頭が下がった。会社には明日改めて伺うと説明して電話を切る。


 次は叔父だ。入っていた留守電によると会社から無断欠勤の連絡が入ったということだった。

 「どこにいる?これを聞いたら早く連絡しろ」

 ぶっきらぼうで厳しい声だった。

 折り返しかけると、留守電に繋がったので、心配いらない旨と会社には連絡を入れた旨を吹き込んでおく。


 最後はまゆみだ。深呼吸する。なかなか決心がつかない。まゆみに電話したら、十中八九今までどうしていたのか詳しく説明を求められるだろう。電話で説明できる気がしないし、まゆみにウソを吐きたくない。

 覚悟を決めてはスマホを手に取る。結局メールで会いに行っていいか聞くことにする。

 間髪いれずに返信がきた。メールを送ってから一分も経っていないんじゃないかな。


 『今、家? 心配した。すぐ会いに行く。そこを絶対動くな!』


 メールに返信しようとぽちぽち打ってると、けたたましく着信音が鳴る。メールの意味がない。


 「もしもし――」

 『あーちゃん! 生きてる? どこ行ってたの? いきなり連絡つかなくなって、会社にも行っていないって言うし、ばかばかばかっ』

 「まゆみ、仕事は?」

 『店なら臨時休業よ! フリーの仕事の方は〆切大丈夫だし。友だちの一大事にそんなことどうでもいいわよ』


 いいのかなぁ、と苦笑しつつ申し訳ない気持ちがする。まゆみは家業の雑貨屋と、フリーのイラストレーターを兼業していた。雑貨屋といっても、おしゃれ生活雑貨ではなく、商店街に古くからある化石のような店だ。店内は、ほうきやら金物やら野菜の肥料やら駄菓子やら、節操のない品揃えでごちゃごちゃしている。なかには何十年も陳列したままとおぼしき商品もちらほらあり、儲かっているのかは非常に怪しい。夫は普通の地方公務員で共働きだ。


 結局、まゆみには直接会って詳しい話をすると説明して、家まで来てもらうことになった。正直、こちらの世界に不馴れなサヨ連れての外出は不安だし、一人で置いて行くのもできるだけ避けたいので助かった。


 まゆみが来るのは昼過ぎになるので、昼食をどうするのか悩む。一か月放置されていた冷蔵庫のなかのものはダメになっているし、仕方ないのでストックしていたカップ麺に決める。


 「アマネ……」


 電話が一段落したところで、いつの間にか風呂から上がっていたサヨが声をかけてくる。どうやら、待っていてくれたみたいだ。

 

 サヨは今私の服を着ている。Tシャツにパーカー、太めのズボン。太めのズボンなのは、サヨに下の下着を貸すのが流石に躊躇われたからだ。上はブラトップを渡したはずだけど、窮屈だったのか着ていないようだ。

 なんてことない服装だけど、こちらの世界の服を着たサヨは垢抜けてみえて、とても不思議な気がした。身長は私の方が若干高めだから、少しゆるっとしている。

 ハッ、もしかしてこれって彼シャツってやつなんじゃない? サヨが私の服を着ている! 彼シャツじゃなくて、彼女シャツ? 風呂上がりのしっとりと濡れた髪に、ほんのり桃色に染まった肌。張りつくTシャツの衿。あぁ、煩悩!


 「アマネ、なに考えているの?」


 気がつくとサヨが胡乱な目でこちらを見ていた。ハッ、いけない、いけない。まだ私は浮かれているようだ。賭けの残り半分、きっちり成功させるまで気を引き締めないと。あれだよ。遠足は帰るまでが遠足ってやつだよ。


 「えーっと、私も急いでお風呂入るから、少しの間だけ待っててくれる? そしたら、お昼ご飯にしよう。大したものじゃないけど 」

 「わかった」


 釈然としないみたいだけどサヨが頷いたので、私はすぐにシャワー浴びにいく。可能な限り早く身体と髪を洗って、身体を拭くのもそこそこにバサッと服を被り、15分で支度完了。


 話をしながら、はじめてのカップ麺をサヨはおそるおそるといった感じでつつく。味噌味だ。サヨの感想は「これは蕎麦?それにしては、変わってる。しょっぱい」。うん、未知の食べ物に関する感想なんて、そんなものだ。


 私はこれから私の友人が訪ねてくること、私たちの関係を説明することを話した。サヨは黙って聞いていたけど、俯いていてどこか元気がなかった。


 「アマネは私にこれからどうしてほしいの?」

 「私の世界を知ってほしい」


 サヨはふるふると左右に首を振る。


 「それって、これからここで一緒に暮らしていきたってこと?」


 真剣だけど、不安に揺れる目。


 「違うよ。私はこの世界にけじめをつけていない。私はけじめをつけてきちんとここからお別れをしたい。そのために、サヨに私の大切なものを知ってほしい。そして、あちらの二人の家に戻る」


 「あちらの二人の家」という言葉にサヨの肩がピクッと反応する。


 「勝手に決めて……」

 「勝手なのはお互い様」

 「あたし……本当にごめんなさい。アマネから色んなものをあたしは奪った」

 「それは言わないで。私も勝手に決めたし、もうおあいこにしよ?」


 「ねっ」と笑いかけると、サヨの目尻が赤く染まって、控えめに微笑み返してくれた。



◇◇◇



 久しぶりに会ったまゆみは強烈だった。玄関を開けるなり、「私に心配かけてなにしてたのよ!このばかーっ」とビンタしてきたのだ。バッチーンと乾いたいい音が響き渡る。

 熱を持ってジンジンする頬を抑えながら、私はひとまずサヨを紹介した。そういえば本日ビンタ二回目だな。私のタイプって、気の強い女性なんだろうか……。ああ、サヨ、怯えないで。まゆみは悪い人じゃないから。

 まゆみは身長が170cm近くあり、髪の毛をショートカットにして、掘りが深めの顔をしたモデルのような迫力系美人だ。サヨとは別ベクトルで私とは全然違ったタイプの見た目だ。


 「こちらはサヨ。私の、恋人だよ」


 まゆみが目を剥く。眦がキリキリとつり上がり、剣呑な空気を醸し出す。


 「えっ? はっ?」


 氷点下の低い声と、お前はこの状況でなに言ってんだ?という意図の込められたおそろしい視線。知ってたけど、迫力がすごい。サヨが私の服の裾を掴みながらじりじりと下がる。


 「サヨ、こちらはまゆみ。私の親友だよ」


 めげずに私は双方の紹介を続ける。サヨはペコリと頭を下げた。


 「あーちゃんさぁ、今の状況わかってる? 行方不明から帰ってきたと思ったら彼女紹介? ふざけてるの?」

 「ふざけてないよ。真剣だよ」


 私はぐっと顔をあげ、まゆみをまっすぐ見つめ返す。サヨのことを恋人として紹介するとき、緊張した。これは初カミングアウトでもある。身体が面白いようにガクガクと震えた。

 しばらく私を睨んだあと、まゆみはやれやれと首を振った。


 「わかった。真剣なんだね。それでどういうことか説明してくれる?」


 私は一つ一つ説明した。不思議な羽衣を手にいれてから、ときどき夢を見るようになったこと。そこでサヨに出会ったこと。それが夢ではなかったこと。あちらの世界のこと。そこでの暮らし。向こうでは一年過ごしたこと。私はサヨと共に居たいこと。そのためにけじめをつけに戻ってきたこと。

 荒唐無稽でとても信じられる話ではない。でも、まゆみは途中で口を挟まず全て聴いてくれた。

 女のサヨを「恋人」として紹介したことも。不思議な世界のことも。私がそこで暮らしたいということも。頭から否定しないでくれた。


 話終わると、まゆみはギッと心の奥底まで刺し貫くような目で見た。


 「嘘……ではないようね」

 「嘘じゃないよ」

 「心の病気とか、騙されてる……ってわけでもなさそう。あーちゃんとは付き合い長いから、それくらいはわかるよ」


 はぁーと疲れたようなため息を吐いて、まゆみは肩の力を抜いた。


 「本気なんだね」

 「うん」

 「行っちゃうんだね」

 「うん」

 「そっか。そっかぁ、じゃあしょうがないね」


 まゆみはただ頷いた。


 その晩、まゆみは家に泊まっていった。例の羽衣は箪笥の奥にしまっておいたけど、翌朝まゆみは夢を見たといっていた。それもあの温泉の夢ではなく、私とサヨがお揃いの緋色の服を着て寄り添って歩く姿の夢だ。私たちは仲睦まじく初々しいカップルに見えたらしい。

 あのお祭りの衣装のことまでまゆみに言っていなかったので、私とサヨはとても驚いた。まゆみはそんな私たちに何度も頷いて、一人納得した様子だった。そして、できるだけ私たちを手伝ってくれると約束してくれた。


 翌日、私はまゆみにサヨを頼んで、一人会社に向かった。世話になった上司に頭を下げて、これまでの非礼をわび、感謝を述べた。

 事情があって、一身上の都合で退職すると申し出ると、やはり心配された。しかし、私の決意がなんとしても揺らがないと知ると、しぶしぶ折れてくれた。本来、引き継ぎなどで退職までに時間がかかるが、私の居なくなっていた間に必要な業務の引き継ぎはあらかた終わっていたので、退職手続きは呆気ないほどスムーズだった。



 夕方になって、部屋に帰ると、ぐでんぐでんになって酔いつぶれたサヨとへらへら笑うまゆみが居た。

 あまりのことに脱力してしまう。部屋の床には、日本酒のビンや酎ハイ、ビールの缶が転がり、むわっと酒くさい。

 

 「あーら、あーちゃんおかえりー」

 「……なんでお酒?」

 「いやー、ねえ。こう、女同士の話し合いというか、人妻同士の愚痴り合いというか、ちょっとあーちゃんが居ない隙にガッツリ腹割ってお話ししておこうかと!」

 「それを言うなら、私も女で人妻ですけど?」


 まゆみには呆れてるけど、自分で「人妻」と口に出してちょっと照れる。


 「あーちゃんが居たら意味ないじゃない! あーちゃんが居るところでは出来ない話をするんだからっ。居たらむしろ邪魔よ! 邪魔!」


 今のはちょっと傷つく。私はガックリ肩を落とした。


 「仲間はずれ……」

 「うふふ、たまには良いじゃないの。最初で最後よ、こんなことも。ほら、あーちゃんも飲みなって」


 「最初で最後」という言葉に心臓を掴まれたようにドキッとする。そうか、サヨとあちらでずっと一緒に暮らすって、たぶんそういうことなんだ。


 「私も一杯もらうよ。ありがと」


 まゆみと話したいことがたくさんあったことを思い出した。静かな温泉に散る冷えた月光を眺めてたときには色々思い浮かんだのに、いざ機会が巡ってくると何を言えばいいのか迷う。注いでもらったコップのなかのビールを見る。


 「サヨさん、かわいい人だね。あーちゃん、いい人見つけたよ」

 「うん」


 私はサヨを見る。慣れない場所で慣れない酒に疲れが出たのだろうか。子どものように無邪気な顔でよく眠っている。ゆるく波打つやわらかい茶髪をそっと撫でる。


 「私さあ、思えば嫌なやつだったよ。実は、知ってたの。あーちゃんの気持ち。知ってて、あーちゃんが告白してこないヘタレなことに甘えていた。私には親友にはなれても、恋人になれないことがわかっていたから」

 「……なんとなく、そんな気はしてた。必死で隠してたのに、ひどいよ。しかも、ヘタレって。知ってて結婚式のスピーチ頼むなんて、ひどすぎ。あのとき、めっちゃ泣いたのに。小悪魔にもほどがあるよ」

 「はは、あのとき、もう顔面からあらゆる汁が出てたね。まじごめん。でも、ちゃんと祝福してくれてうれしかったよ」

 

 まゆみは相変わらずへらへらしているようで、ひどく真剣な顔をしていた。

 もっと怒ったり驚く場面なのに、そんな気力がわかなくて、なんとなくしんみりしてしまう。


 「あーちゃんはヘタレだからさ、自分で踏み込むことをあまりしない人だと思ってた。私にはそうだったから。でも、サヨさんには一歩踏み込んだんだね。あーちゃんにそうしたいって思わせるような人なんだね。だからね、あのね、私が言いたいのは、二人はとってもお似合いってこと。おめでと」


 その言葉はすとんと私のなかに落ちた。凪いだ水面に波紋が広がるように、じわじわと私のなかで込み上げるものがある。身体の中心から温かいものが満ちていき、鼻の奥がつんとした。

 私は、ずっと誰かにこう言って欲しかったんだ。いや、「誰か」じゃなくて、他の誰でもないまゆみに「おめでとう」って言われたかった。今、言われてはじめて気がついた。

 

 「うん、うん。ありがとう」


 私が鼻声になると、まゆみは「もう、泣き虫なんだから」と苦笑して、あやすように軽く頭を撫でてくれた。



◇◇◇



 それから次の満月までの一か月余り、私はこちらの世界を引き払うために奔走した。まゆみは何日も家を留守に出来ないので飲んだ日の翌日に帰ったけれど、暇をみては少しずつ手伝ってくれた。

 部屋の荷物はどうしようもないので、すべて業者に処分してもらう。手元に残したのは、小さなアルバムだけ。それはまゆみに預かってもらうことにする。


 叔父さんのところへ、一度サヨと一緒に訪問した。黒い綺麗めのワンピースを着たサヨと、スーツを着た私。その日は、叔父さんの子どもたち、つまり私の従兄弟たちは母親と出掛けていて、家には叔父さんしかいなかった。

 玄関先で挨拶も早々に、叔父さんにはサヨは海外の人で結婚するため遠くに行くと告げた。叔父さんは目を剥いて驚き、口をぱくぱくさせて言葉を探していたが、やがてむっつりと黙った。重苦しい沈黙が続いたあと、叔父さんは割れ鐘のような声で怒鳴った。


 「お前、そういうもんは筋を通すもんだ。いきなりは、感心しない。会社にも迷惑をかけやがって」

 

 予想通り厳しい言葉に私とサヨは首をすくませる。


 「おい、いつまでそこに立っている。親父とお袋とお前の母親にも挨拶しろ」

 「え?」

 「だから、仏壇に線香あげて、報告しろって言ってんだよ。さっさとしろ」

 「いいんですか? 叔父さん、私すごい自分勝手だって自覚はありますし、その……相手は同性ですし」

 「そんなことは俺が決めることじゃない。お前を生んだのも、育てたのも俺じゃないしな。俺は関係ない」


 私が躊躇っていると、叔父さんは有無を言わせず、ずんずんと家のなかに入っていく。それでもなお尻込みする私に、サヨはさっと目を向けて先に家にあがる。


 「お邪魔します」


 私は靴を脱ぐのにもたつき二人に少し遅れて、焦って後を追う。私が家のなかに入ると、すでに仏壇の前で叔父さんとサヨは待っていた。


 「お祈りはどうしたらいいの?」


 仏間で正座しているサヨは背筋が伸び堂々として見えた。私は仏壇に向かって線香を上げて、鐘を鳴らし、手を合わせる作法を一通り教える。合掌するサヨの横顔は、山百合の花のように力強く凛として見えた。

 私も祖父母と母に心のなかでサヨを紹介する。私も一緒に生きたい人ができたんだよ。自慢の妻だよ。薬草のこととか全部知ってて、すごいんだよ。どうか遠くから見守ってください。


 「終わったか。ちゃんと報告したか」

 「はい」

 「そちらさんも」

 「はい。娘さんと幸せになります、と申しあげました」


 サヨはパッと見ふわふわしているのに、一歩も退かなかった。


 「その言葉に、嘘はないんだな」

 「はい」

 「なら、いい」


 私とサヨが声を揃えて返事をすると、それで叔父さんはこれで自分の責任を果たしたとばかりに重々しく頷いて、それで訪問はお開きになった。


 帰り道私はひとつひとつ、私は思い出の場所をまわって語って聞かせた。毎日通った小学校、お気に入りだった小川の橋、景色が好きだった小高い丘にある公園、よく買い食いしたパン屋、そして最後に祖父母と母のお墓。

 仏壇にも参ったけれど、お墓にも来なければ気がすまなくて。途中で買った菊の花束を供える。


 「お仏壇とか、お墓とか、こちらには亡くなった人を悼む場所がたくさんあるんだね。なんかいいね。こういうの。あちらではなくなったらみんな精霊の国に行って、一緒になるから。写真っていうのもすごいね。ずっと思い出せる」

 「そっか、あっちにはそういうのなかったね」

 「あたし、さっき言ったこと。必ず本当にする」


 サヨが私の後ろから肩口こつんと額をつけて宣言する。「だから」とくぐもった声で続く。


 「改めて言うね。あたし、アマネが好き。私のことろに来て。ずっと一緒に居てください。後悔させないようにするから」

 「だめ」

 「そんなっ」

 「ちゃんと目を見て言って」


 くるっと振り向いてサヨの目を覗きこむと、黒い瞳が濡れて光っていた。


 「これからずっとあの家で私と暮らして」

 「よろこんで」


 顔を寄せるとふわりとサヨの香りがして、触れるだけのキスはとても優しくてくすぐったかった。



◇◇◇



次の満月の日、私たちは部屋を引き払って、まゆみにお別れをした。

 まゆみは「元気で。幸せになれ」となぜか偉そうに命令する。私はそれにただ「ありがとう。まゆみも幸せになって」と返し、サヨは頭を下げて「必ず」と言った。

 夜になって、あの羽衣を二人で被る。立ちながら抱き合って目をつぶると、もう私の育った世界ではなかった。賭けの残りの半分も成功した。私たちは戻ってきた。


 そこははじめて出会ったあの夜の温泉だった。まんまるい月の光は明るく、お互いの表情がよく見えた。


 「ようこそ、私の奥さん」


 おどけて言うサヨの頬は濡れて光っていて、私も視界が滲んだ。


 「よろしくね、サヨ」


 自分で決めたことだけど、生まれてからずっと慣れ親しんだ世界と離れて暮らすのはやっぱり少しさみしかった。こちらの常識とあちらの常識は違う。私の知っている歴史や、小さい頃好きだったキャラクター、一世を風靡した音楽。そういうものを知っている人は誰もいない。思い出話をできる人がどこにもいないのは、世界のどこにも繋がれていないようで、なんとも言えない不安定な気持ちになる。

 でも私は一人ぼっちじゃなかった。サヨがいた。サヨと過ごした一年間があった。サヨはあちらを見聞きしてくれた。だから、大丈夫だと思えた。


 片手を引かれたと思うと、ぎゅっと抱きしめられる。サヨの腕のなかは、ふんわりとやわらかくて、あたたかい。

 唇が合わさって、吐息が漏れた。

 私はずっとほしかったものを手に入れた。

 もう一人じゃない。私の愛を受け入れて、私を愛してくれる人。私を求めてくれる人。

 だから、どこだって平気。


 「サヨ、愛してる」

 「あたしも」


 私はサヨによってここに繋がれている。これからもずっと。あのぼろい茅葺の家で暮らそう。

 手をつないで歩く帰り道、私はそんなことを考えて、私とサヨを引き合わせた誰かに感謝を捧げた。

 サヨは私をたびたび見つめてニコニコしている。かわいい。

 

 そんな私とサヨを月はいつまでもいつまでも明るく照らしていた。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 和風だけどちょっと違う異世界の描写が個人的に好みです。後、幸せそうな彼女たちの様子が良いですね。 [気になる点] 「サヨに触れられると、私は赤面して固まった」と書いてあるのですが、「赤面」…
2017/12/04 00:24 退会済み
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