別れ
2024.02.13 加筆修正
「最初、先生から話を聞いた時は驚いたわ。まだピアノを続けていると思ってもいなかったから」
「え? そうなん?……て驚いたのはそこなんか!?」
僕は少し肩透かしを食らったような気持ちになった。
「だってぇ。亮平はピアノ弾くよりゲームする方が忙しかったやん」
渚さんはそう言ってまた悪戯っぽく笑った。
「え、そうやったっけ?」
僕が反論しようとすると
「そうやん。あんたぁ、ピアノ弾かんでゲームばかりしてたやん」
と、ここぞとばかりに冴子も参戦してきた。
「お前まで言うな!」
ハッキリ言ってそんな記憶は無い。
僕は今まで割と真面目にピアノを弾いていたように思っていたが、冴子にもそう言われると自信をもって反論できない自分を自覚した。
「先生はね『あの子は自由に弾かせてきたから、全然手を付けていないの。でもあの子の音はそれで良いと思っている』って言っていたけど、なんで先生がそんな事を言うのか良く分からなかったわ」
渚さんは笑いながら言っていたが、目は笑っているように見えなかった。
「これまでの亮平が参加したコンクールの音もCDで聞かせてもらったけど、あの最後のコンクールの音を聞いた時は『上手いし正確だ』と思ったわ。見事なぐらいミスタッチも無かったし。何も教えられなくてできるのは凄いなってね。だから私が教える事は無いなとも思っていたのよ」
僕は黙って渚さんの話を聞いていた。
渚さんは僕の顔をじっと見て
「で、今日の音よ。何あれ? 全く違う音やないの? 一年間近くここに来なかったていうけど、あんなに音が変わるなんて普通じゃあり得んわ。誰かに教わったん?」
「いや……誰にも……強いて言えば父親にちょこっと聞いてもらった程度かな」
「お父さんはまだピアノ弾いてんの?」
渚さんは少し驚いたような表情をした。
「いや、全然弾いていないと思う」
――なんでオヤジがピアノを弾いていたことを知っているんや? というか辞めたのがベースの聞き方やな?――
「そう、弾いていないんや……」
残念そうにそう言うと渚さんは少し何かを考えているようだった。……が、直ぐに話を続けた。
「で、この音……どうやったらこんなに変われるのか聞きたいぐらいやわ。一体亮平のの人生に何があったの? この一年間で……」
「なんもないと思うけど……」
僕はちょっと渚さんの声の勢いに押され気味だった。
強いて言えば『何があったのか?』と問われれば『オヤジに生まれて初めて会った位です』と答えても良いかもしれないと思ったが、ここでそれを言ったら冴子に『ファザコン』と一生言われそうな気がしたので止めた。
「こんな音を聞いたのは人生で久しぶり。いや、二度目かな……この音、この音の連なり。これを触るのは結構気合と根性が必要だと思ったわ。でも、私がやってみたいとも思った。そう思わせる音よ。亮平の音は」
そう言うと渚さんはピアノから離れて僕の方に近寄って来た。
僕は渚さんを見上げてポカーンと口を開けていた。それに気がついて慌てて口を閉じた。
見事な間抜け面をさらけ出していたような気がする。
「これからピアノを弾く目標を大学受験にはしぃひんからね。コンクールは視野に入れるけど、藝大合格を最終目標にはしぃひんからね。そでれもええ?」
と渚さんは僕の目をじっと見て聞いた。
僕も本音では受験のためのピアノは嫌だと思っていたので、渚さんの言葉はありがたかった。
「はい。それで良いです」
そう言って僕は伊能先生を見た。
先生は微笑を返してくれた。
そして
「今日の亮平君のピアノの音を聞いて、やっはり私では教える事がないと思ったのよ。もう技術的に教える事は本当にないわね。後はもっと奥の深いところ。亮平君の心で感じる音というかそういう世界の音ね。今十六歳の亮平君に必要な物を教えられるのは渚だけだと思うわ。これは本当よ」
とゆっくりと僕を諭すように話してくれた。
「そしてこれからは亮平君が自分自身の手で掴まないとダメな世界なのよ。普通の人よりはちょっと早いかもしれないけど……」
先生はそこで言葉を一度切った。
「そう、亮平君の音を手に入れるためには、渚が一番だと思うの」
先生は優しい目をして言った。
先生のこんな優しい目を見たのは初めてだった。
「ああ、これで僕は伊能先生から卒業するんだな」
と思ったら少し寂しかった。先生とのこれまでの事が一気に走馬灯のように駆け巡った。
一年前この教室を離れる時はそれほど思っていなかったのに、今日はとても寂しい気持ちになった。
――いう事を聞かない生徒でごめんなさい――
と、同時に渚さんなら僕の音を一緒に探してくれそうな気もしていた。
「これからよろしくね」
そう言って渚さんは右手を差し出した。
僕はそれに釣られるように右手を出すと、渚さんは力強く僕の手を握ってきた。
暖かくて柔らかい手だった。今までの人生のほとんどをピアノに捧げた手だった。
「二年後までにどうするか決めればいいのよ。まだなんとでもなるわ。選択肢はいくらでもあるから」
渚さんは笑いながらそう言った。
その言葉を聞いて僕は少しホッとした。
――そうか、選択肢は沢山あるのか――
思い付きで決めた訳ではないが、昨年の今頃はピアニストになりたいと言い出すなんて想像もしていなかった。だから、本当にどうすれば良いのか分からなかった。そう具体的に何をどうすれば良いのかなんて今でも全然分からない。
そんな僕の気持ちを見透かしたように渚さんは
「亮平は何も考えずに今一番弾きたい音だけを考えなさい」
と言った。
「はい」
僕はそう答えると宏美と冴子の顔を見た。
二人とも黙って聞いていたが、冴子が笑って
「頑張りな」
と言ってくれた。宏美はそれを聞いて笑って頷いていた。
僕はまた少し気持ちが軽くなったような気がした。
そして今日、僕はやっとスタートラインに立ったような気がした。
オヤジがいうように鍵盤というパレットからどんな色が飛び出すのか見てみたい。いや自分がどんな色の音を出せるのか見てみたい。
先生の顔を見たら、いつものように優しく笑っていた。
その笑顔に僕は心の中で呟いた。
――伊能先生、本当に今までありがとうございました――
と。
一度ここで終わりましたが、加筆する事にしました。
最終章は次の章になります。
更に図に乗って2年生になった亮平の話を書くと決めました。
ということで、次の話は1年生の最終章ということになります^^;
勝手言って済みません。
でも、読んでもらえれば嬉しいです。




