オヤジがやって来た。
一通り語ったあとに鈴原さんが不安げな表情で聞いてきた。
「亮平……お前でも分かっていたのか?」
「分かるわけないでしょう……そんな事」
と僕は首を振って全力で否定した。
「そうやんなぁ……。それに、なんで俺が亮平の将来の嫁さんの家族の事まで考なあかんのや?」
と鈴原さんは安心したように笑いながら言ってきた。
「考えなくていいです。そもそも将来の嫁さんでもないし、家族でもありません」
僕は躊躇なく反論した。
「まあ、フローラのブランド力と知名度は案外まだあるし、倒産という傷もつけずに済む方がええからなぁ。そのブランド力と知名度を高嶋珈琲の珈琲専門店に卸す事が出来そうやったから……。
うちと高嶋珈琲は商売上色々と付き合いもあるからちょうどいい機会やった」
「でも一平に言われるまでは全然考えもしてなかったわ。それにしてもあいつは上田の息子が高嶋の下で働いているって良く知っていたな……感心するわ」
と鈴原さんは本当に感心したように言った。
「そうですよねえ」
と僕は頷きながらも鈴原さんが、感心を通り越して呆れかえっている様にも見えていた。
「本当に将来を嘱望されていた優秀な社員らしい、高嶋の社長も『抜かれるのは痛い』って言っていたけど、一平が『関連会社の社長になるねんから、またいつか本社に戻したら良いでしょう』とか適当な事言うとったわ」
と今度は間違いなく呆れて鈴原さんは言った。
「相変わらずの軽さやな。一平は」
安藤さんが頷いた。
「いや、あの息子は案外良い経営者になるかもな。もしかしたら高嶋珈琲が一番おいしい財産を手に入れるかもしれん」
「なるほどねえ…トンビが鷹を生んだわけか…」
と安藤さんは何度が軽く頷きながら納得していた。
「でもなあ、こういう交渉事の仕切りは流石やで……絶妙のタイミングで話を持っていきよる。いつの間にかなんか話が纏まとまっているから笑うわ」
「ホンマに流石やな一平は……No.1営業マンは伊達ではないな」
鈴原さんはそう言うとビールを飲んだ。
「No.1営業マン?」
僕は鈴原さんに聞き返した。オヤジがサラリーマンだったなんて話は初めて聞いた。
「ああ、あいつはサラリーマン時代はTOPセールスで何回も表彰されていたからな。それも全社の業績のトップな」
「あいつのおった会社って全国に数百人ぐらい営業マンがおるんとちゃうんか?」
安藤さんが鈴原さんに聞いた。
「そこまでは知らんけど、規模から言うたらおったかもしれんなぁ……」
鈴原さんも詳しくは知らないようだった。
僕はオヤジがネクタイ姿で真面目に仕事をしている姿が浮かばずに、まるで他人の話を聞いているような気がした。
今のオヤジの風貌からは想像もできない。
「ところで、なんで父は鈴原さんの元で働かないんですか? やっぱり同級生の下は嫌なんですかねえ?」
僕はずっと思っていた事を鈴原さんに聞いてみた。今のオヤジは仕事をしているのか、遊んでいるのか僕にはよく分からない。
秀幸兄ちゃんは『優秀なコンサルタントだ』と教えてくれたが、それが僕にはピンとこない。具体的にどんな仕事をしてるのか全く思い浮かんでいなかった。
ただ生活するのは困らない程度の収入はあるようだが、限りなくフリーターに近いイメージしかなかった。そんな認識だった。
「ああ見えてもあいつはクライアントも結構持っている優秀はコンサルタントやからなぁ。金と仕事には困ってないしな……でも、実は何度か誘ってはみた事はあるんや。その都度一平から断られたわ。『手伝いはしたるがお前の右腕にはなれん』って」
鈴原さんはひと呼吸おいてから話を続けた。
「うちの父親……つまり今の会長も言っていたんやけど『一平を入れるとお前は毎日寝れなくなるぞ』って」
「なんでですか?」
僕は聞き返した。
「それは、いつ会社が一平に乗っ取られるかと心配で眠れなくなると」
鈴原さんは真顔で言った。
「そんな事は……」
ええ加減なオヤジではあるが、流石にそんな事は無いだろうと僕は思った。
鈴原さんは僕の表情を見て頷きながら
「そう、間違っても一平はそんな事はせんよ。それは信じているが問題は、本人にその気がなくても周りがその気になる事や」
と言った。
「周りが……ですか……敵に回したくないが味方にもしたくないっていう事ですか?」
僕は先日安藤さんに聞いた話を思い出していた。
「そういう事や。あいつは気づいているかどうか知らんが、結構カリスマ性も高くてあいつが社長をやっても全然いけるんや。だからあいつの周りに人が寄ってくるんや。一平の上に立つ奴はそれ以上の人間か何も考えないアホかしかできんわ。
ま、俺のオヤジに言わしたら、『そもそもお前じゃ一平を使いこなせん』っていう事やねんけどな」
と鈴原さんの言葉から少し悔しさにも似たニュアンスを僕は感じた。
「じゃあ、オヤジはなんで自分で会社を興さないんですか? 今は個人事務所ですよね?」
「その通りやけど、本人に全然その気がないみたいやな……それに一平は、それを一度経験している」
と鈴原さんは即座に否定した。
「え?」
僕は思わず聞き返した。
「あいつはサラリーマンを辞めて元居た会社の上司と新しく会社を立ち上げたんや」
「そうなんですか……」
オヤジが独立して会社を立ち上げたという話は初めて聞いた。
「でもなぁ……あれはちょうど5年前やな。一平が裏切られたのは……」
「え…」
思わぬひとことにまた僕は聞き返してしまった。
「あかん……安ちゃん……俺飲み過ぎたわ。今日は帰るわ」
と鈴原さんは慌てたように席を立とうとした。
「そうか…そうやな。口がとっても滑らかになっているわ」
安藤さんは苦笑いしながらそう言った。
「亮平。今の話は内緒やで。一平に怒られるから」
「ちょっとそこまで言っておいて、その先も教えてくださいよ」
と僕が言ったその時に扉のカウベルが鳴った。
振り向くと扉が開いてオヤジが入ってきた。
僕は思わず鈴原さんと顔を見合わせてしまった。
「なんや?俺の息子まで入れて悪口でもいうとったか?」
オヤジは僕達を見てそう言いながら、僕の隣に座った。
「なんで分かる……」
すかさず安藤さんが応えた。
「分からいでか……。お前らの顔に書いてあるわ」
「いや、例の亮平ちゃんの彼女のお父さんの会社の話をしていたんや」
少しうろたえながら応える鈴原さん。
すかさず
「だから……彼女ではないですから……」
と否定する僕。
変な空気が漂う中、僕は
――う~ん。宏美彼女説が定着しつつあるなぁ…いつかこれが本人の耳に入るんじゃないか――
とそっちの方が心配になっていた。
オヤジはそんな変な空気を気に留める事も気が付くこともなく
「ああ……あれかぁ……何とかなったな。でもこの話があと一年……いや半年遅かったら、ここまでまとまらんかったなぁ」
と言った。
「そうなん?」
僕は思わず聞き返してしまった。そして鈴原さんも椅子から上がりかけた腰を下ろして、僕と同じようにオヤジの次の言葉を待っていた。
「まあ、売り上げが低迷していると言っても、単年度で見たら収支はまだ何とか支えられる程度の赤字や。だから銀行以外の債務はそれほどなかった。その上、給料も何とか出せているのでそれほど社員も辞めていなかった。こういう場合は優秀な社員から辞めていくからな」
とオヤジは語りだした。
安藤さんがオヤジの前に冷えたビールが注がれたグラスを置いた。
オヤジはそれを手に取ると、一気に飲んだ。
「う~ん。仕事が終わった後のビールは美味い!!」
本当にオヤジは美味そうにビールを飲む。
「お前、今日仕事しとったんか?」
と鈴原さんが聞いた。
「おお、大事な仕事をしとったわ。鈴原家のご令嬢を駅までお迎えに上がってましたわ」
「あ、冴子の奴、またお前に電話したな。アッシーなんかせんでええって言うただろうが…」
と鈴原さんが少し憤りながら言った。
「まあ、ええがな。ついでや。それよりもあの会社な。割と優秀なパティシエが辞めずにおってくれたから良かった。まだ味を維持できる。社員のやる気も消えていない……これがあと一年遅かったら、不良債務も増えるし人も辞めていっただろうから難しかったやろうな。そういう意味ではラッキーやったわ」
オヤジは空になったグラスを持ち上げて、「お代わり」と安藤さんに振って見せた。
本当に一気に飲んでしまった。よほど喉が渇いていたんだろう。
「あの社長もな。最初の頃は酒も煙草もやらん人やった。『ケーキの味が分からんようになる』ってな。
それが銀行との付き合いで飲みに行くようになって酒と煙草とついでも麻雀も覚えてな。本人はパティシエから経営者になるためには人付き合いも大事な事だと言うとったけど、言い訳や……あんなん。勘違いという堕落やな」
「よう知っとるなそんな事」
鈴原さんが感心したように聞いた。
「昔、その麻雀やっていた相手が俺や。あの社長はカモやったわ。安ちゃんも一緒にカモってたで……なあ?」
「まあな、客でも何でもないのに、接待や言いながら容赦なかったからなお前」
と安藤さんは笑いながら応えた。
「当たり前や。授業料や」
とオヤジも笑った。
「え? なんなん? それ?」
鈴原さんは驚いたように聞き返した。
「大したことや無い。あの社長な、銀行員との接待麻雀でも負けるほど弱かったんやけど、こっそり練習して強くなりたかったんやろうな。飛び込みで俺と安藤がいつも遊んでいる雀荘に来るようになったんで、麻雀の極意を懇切丁寧に身をもって教えてあげたんや」
「そうそう。まだ俺たちが相手で良かったで。ある程度で止めてあげるから。ホンマに怖いもん知らずなおっさんや」
安藤さんも一緒にやっていたのか…この二人は一体何者なんだ?
鈴原さんが口を開いた。
「大したことないって……なあ、あの社長をどんどん堕落させたんお前らとちゃうんか? そんな気がするんですけど…」
安藤さんとオヤジは口をそろえて
「それは気のせいや」
と力強く否定した。
「あの社長と会った時に俺の顔見て、な~んにも言わんかったやろ? 全然覚えとらんで、あの社長。
それだけ人に関心ないんや。そんな奴がTOPにおったっかて、たかがしれてるわ。そう思ったわ。落ちるべくして落ちたと……。
まあ、そういう事であの社長の事は良く知っていたんや。まあケーキ職人としてはええ腕してんねんから、顧問になった事で職人の気持ちを思い出してくれたらええねんけどな。息子もそれを期待していると思うわ」
とオヤジは一気にまくしたてる様に言った。
「今、なんか上手くまとめたやろう?」
鈴原さんが顔をしかめながら聞いた。
「そんな事無いわ。ま、鈴原は金持ちのボンボンで生まれながらに堕落した男やけどな……あ、鈴原、社員新たに二人採用したからな」
それにしもオヤジの話はコロコロ変わる。話しながら、頭の中では同時に次に話す事も考えているんだろうな。ついていくのが大変だ。そして絶妙のタイミングで話題を変える。
「え?そうなん?」
既に鈴原さんはさっきの話を忘れて、もうこの話に乗り始めた。
「ああ、昔あの店の立ち上げからおったおばちゃんね。店員のマナー研修からみんなやっていた人や。それとチーフパティシエに一名。これも昔居た奴ね」
「社長が狂うと社内の歯車も狂う。ホンマに居て欲しい人を辞めさしよるからな。だからお願いして帰ってきてもろたわ。明日面接頼むわ」
「分かった。時間作るわ。でも一平……なんでそんな事まで知っているねん。それも麻雀情報か?」
鈴原さんが本当に不思議そうに聞いてきた。
「ちゃうわ。だからお前はあかんってオヤジ…いや会長に言われんのや。お手伝いの富樫さん、娘がおるん知っているか?」
とオヤジは本当に呆れたような表情で鈴原さんを見下して言った。
「知っている」
上目づかいで鈴原さんが応えた。
「だったらその娘がどこで働いているか知っとうか?」
オヤジは見下したまま言った。
「いや、知らん……けど……まさか…」
「そうや。あのケーキ屋や。もう十五年以上も働いているで。これなぁ……会長も知っていたぞ。知らんかったんお前だけや」
「え? そうなん……」
「ほんまになぁ……お前は余裕がないからな。ごはん食べる時に新聞ばっかり読んどらんと、お手伝いさん達とか家族とかと話をせえよ。それの方がよっぽどええ話聞けるで」
とオヤジは呆れ果てたように言った。
鈴原さんは論破されて落ち込んでいるように見えた。
「情報っていうのはどこにでも転がってんのや。それを見つける事が出来るか出来ひんかは本人の心がけしだいやな。
亮平、お前もな、大人になったら働くようになると思うけど、情報の大切さを覚えときや。特に人の情報はな」
と最後は僕に話を振って来た。
「え? うん……」
と応えたが実はよく分かっていなかった。雰囲気にのまれたというのが事実だ。
落ち込んでいた鈴原さんだったが
「そうかぁ…一平色々最後までありがとう。助かったわ」
と感謝の言葉を述べたが、オヤジは更にたたみかけるように話を続けた。
「あほ、終わってへんぞ。これからやぞ。大事な事はあのケーキ屋の経営を立て直して、あの息子を一人前の経営者にしてやらんとな。それは鈴原……お前の仕事や」
「分かった。それはやる」
と鈴原さんは今度は意を決したように応えた。
なんとなくこの二人の関係は、今までこういう力関係でやって来たんだろうなぁと思ってしまった。
「ホンマにまた安く、こき使われたわ……。今日はお前の驕りな」
とオヤジは笑って言った。
「ああ、今日は驕りでええわ」
鈴原さんがそう応えるとオヤジは
「亮平。オカンに電話したれ! ただ酒飲めるぞって……飛んできよるで。あのうわばみ女は」
と叫んだ。
「一平ちゃん、それだけは勘弁したってえな」
と言いながら鈴原さんも笑っていた。多分一緒に飲みたいのだろう。
「いや、勘弁せえへん……このしみったれた店の売り上げを上げたらな、あかんからな」
「しみったれただけは余計や。あほ」
と笑いながら安藤さんは突っ込んだ。
ここで一番冷静なのは安藤さんかもしれない……。
そして、今日もただでは帰れない予感がする……。
これで第1話終了です。
2話目も書き始めていますが、それよりも先に3話目が出来そうです^^;
2話目も何とか近々アップしたいですが…
2016.11.03 文章加筆修正。
2020.09.13 文章加筆修正。
2021.11.20 誤字修正。
2023.06.27 文章加筆修正。