当日 その2
そして冴子は少し考えてから
「ホンマはね、この第一楽章を全部弾きたかったん……でもね、ふぅ。これって十五分で全部弾ききるのは無理やろうねえ」
とため息交じりに言った。
――やっぱり全部弾き切るつもりやったんや――
そう思いながら僕は楽譜に視線を落とした。
「なるほどねぇ……これは*アウアー版やんなぁ……もともとカットは多いとはいえ、このままでは絶対に無理やなぁ……」
「うん」
流石に冴子もここは素直に頷いた。
――オーケストラのパートは確かに削られているけど……それだけでは時間内に収まらんよなぁ――
と思いつつ
「……それでも、まともにやれば十七~八分はかかる曲やからなぁ……ギリギリアウトやな。でも最初のピアノパートを端折れば一分は短縮できるでぇ」
と冴子に提案した。
「それは分かっとう。でもそんなん面白ないやん。亮ちゃんのピアノをじっくり聞いてから感情を乗せて入りたいやん」
「はぁ?」
――何を言うとんや? こいつは? 正気か?――
と僕は唖然としていたが、その気持ちも分からないでは無かった。
序奏に導かれるように始まるあの有名な第一主題。**ニ長調の主音を呼び込むための重奏低音の長い属音の連なり。そしてチャイコフスキーの企み。このドラマティックなイントロを端折るのは勿体ないという冴子の気持ちはよく分かる……分かるが『これはコンクール』である。冴子の気持ちは理解できても応えることはできない。
「そこをぶった切って中途半端な入り方は、私は好きやない」
と冴子は愚図った。
「でも無理なんやろ? 十五分では?」
「そうやねん」
「序奏を削ったら一分は削れるで」
「あの出だしを削るのは嫌やなぁ……」
と冴子は首を振った。堂々巡りである。しかし結論は見えている。
「なるほどねぇ……期待が膨れ上がったところで、冴子の華麗なるヴァイオリンの音色が登場するという魂胆やな」
と言いながら僕は
――コンクールでそんな事考えるか? 普通? そういうのはオーケストラと共演できる規模のコンクールの時に考えてくれ!――
と僕は既に気持ちを割り切っていた。
「細切れのチャイコンなんか演奏りたぁない」
あくまでも冴子は曲の完成度に拘る。とことん意味不明である。
「何回もいうけど、これコンクールやで。分かっとう?」
「分かっとうわ。そんなもん言われなくても」
とイラついたように冴子は吠えた。
結局、僕と冴子は細切れにならず十五分間を目いっぱい使って、それなりに完成度の高い第一楽章を考えることにした。ここまで来たらコンクールに出る当の本人がやりたいようにやらせるしかない。
カデンツァも弾き切りたいという冴子の希望を叶えるには、序奏と他のオーケストラの演奏をカットした上にカデンツァの後の再現部も思い切って削って、一気に終奏に向かうしかないという結論で話は落ち着いた。
本当に冴子にはコンクールのファイナルに選ばれた、という自覚があるのかさえ僕には疑わしく思えてきた。
チャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲は通常なら再現部の後に来るはずのカデンツァが、展開部の後に来るという変則的な曲である。なので再現部を大胆にカットして、カデンツァから一気にピアノと共に一気に駆け上がって終奏を迎えても違和感はない。実際そうやって演奏する場合もある。
冴子は再現部のカットはそれほど反対しなかったが、オーケストラだけの演奏部分、つまり僕のピアノ独奏を削るのを嫌がっていた。
これは『ヴァイオリンコンクールだ』という自覚が、冴子にどこまであるのか僕は何度も確認したくなった。いや実際に何度も確認した。しかしこれは冴子のコンクールである。結局最後は彼女の言う通りやるしかない。
そんな事を思い出しながら僕は冴子の調弦が終わるのを待っていた。
――あそこまで冴子のやりたいように一緒に考えたんやから、なんぼなんでももう余計な事をこの本番に仕掛けてくることは無いやろう。ほんまに俺もようやったわ――
とまだ演奏も始まってもいないのに自画自賛の満足感と達成感も感じながら、僕は冴子の調弦の音を聞いていた。
調弦はいつもの冴子で、それほど時間もかからずに終わった。
全く焦りも緊張も感じられない、いつもの冴子だった。朝から僕が感じていた緊張感はステージに上がった彼女は見事に消化していた。
*アウアー版……ヴァイオリニスト、レオポルド・アウアーが手直しした楽譜。チャイコフスキーも公認していた。特に第三楽章が多くカットされている。実はチャイコフスキーはヴァイオリンに関しては造詣が深くなかったともいわれている。
**主音ニ長調の属音はラ。属音は主音を呼び込むと落ち着くという性格を持つ。チャイコフスキーはその上主題の断片をちりばめて期待感を煽っている。




